ここから本文です
猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

記事検索
検索

事後的な身体感覚

イメージ 1
身体性と反射
グラフを大量に長期間手書きする事とか場帳を毎日かかさず書く事とか、時間と手間のかかる作業を古の相場師はたいていする。なぜそんな面倒な事をするのか?市販のチャートを売っているし、現在ならweb上でいくらでも複雑で詳細なものがあるのは承知した上で、だからこそ自分の手で書くことの効用が益々大きくなるのではないかと個人的には思う。同じゲームをする時に同じ資金なら競争条件が有利なほうが必ず時間軸が長くなると結果が良いのは当然で、その競争条件とは何かとは”変動感覚と売買技術”以外は何も無い。平たく言えば値動きの身体的な受け止め方と玉相場の分割技術、そして失敗した時の投げと踏み、この3つにつきる。これさえ出来ればいくらでも金は稼ぐことが出来るのが相場というものである。それが身体的に納得できるようになるのにひどく普通の人は時間がかかるし、おそらく95%以上の相場参加者はわからないまま一生を終わると思われる。
なぜそうした事を専業の相場師たちはするのかという理由が納得できるようになるまではほとんどの人はあまり儲からないと思う。まぐれで1−2億お金を作ることが出来ても、すぐに負けて元の木阿弥になってしまう。小さな資金で相場を始めて(普通のリーマンなら1000万とか2000万とかだろうが、、)10倍ぐらいに資金が増加するのはそれこそ波に少し乗れれば馬鹿でもすぐに実現すると経験から思うのだが、それだけで飯を食おうとすると勝ちは中々続かない。だから相場師はたくさんグラフや場帳を書いているのかとわかるようになったのは、18歳から相場を始めて30歳にならないうちに億を超えた資産額になった経験から思う。そこから安定して毎年生活が可能な金額、僕の場合は2000万ぐらいだったが、それを安定しては取れないのである。取れるようになったのは専業になって3年目43歳ぐらいからだった。
 今考えれば当たり前の事で、その頃は相場のどこをどう取れるのか、自分の取れる場所というものがよくわかっていなかったからなのだろう。闇雲に仕掛ければ取れることもあるが、曲がることがどうしても増えてしまう。だから仕掛けは慎重に少量でという勝ちの定石を守れない。がむしゃらにやって取れるほど相場は甘くないのである。しかも1990年からはずっと下げ相場が長く続いたのだから売りが出来ない相場師には取れる場所は限られた時間軸しかなかったのである。一般に、戻り相場の上げを取るのはなかなか難しい玉操作を必要とする。戻りは短く急激であるという波の特徴があるから戻ったところを一気に売り立てしないとなかなか大きなお金は稼げない。空売りが上手になるのは相当の期間、基礎の分割操作を練習しないと無理だしそういう事を教える人も全くいないからである。相場で最も容易な玉操作はむろん押し目買いだ。上げ相場の押した所を分割で拾うという操作で昨年8月ぐらいからは、それだけしていると資金は何も考えないでも2−3倍になっているはずだ。銘柄なんてなんでも散らしておけば同じ事になると思う。年末に丸にしてみて計算したが158回仕掛けて(買いの現物の5分割ぐらいが多かった)利食いは154回、損切りは4回だった。100発100中とは言えないが、ほぼそれに近い。すべて300円以下の低位株だけの結果である。化けたのは154円で買ったのが798円になった東京ドームみたいなのもあった。まあ平均しても意味は無いが、大抵は100円ぐらいは上がったものが多いし、同じ銘柄を3回も4回もくるくる回転させたものも30銘柄ぐらいはあったようだ。こういう簡単で誰でも目をつぶっていても取れる相場、月足で目先の天井から2−3本、上げの半値押しぐらいの値動きが固まった小動きを拾うのを押し目買いと言って、酒田の場帳で陰線新値3−5本から分割でぽつぽつ拾って平均値を下げるような局面はそれこそ100発100中に近い確率で利食いになるのである。それがわかるようになって出来るようになるということがアマチュアを一歩脱して相場だけで楽々稼ぐようになるということだが、たどり着く人は多くない。生徒の1割もいないのだ。すぐに億のお金になることなのにしようとする人は実に少ない。後は5月の連休前後と年末に仕切って玉を丸にするか減らせば仕事は完了である。林先生の相場の本には同じ事が何度もくどいぜというぐらいに書いてあるが、誰もそういう風にやらないのはなぜだろう。やはり相場がわかるという身体性を伴った観察、反射、動作という一連のこちらの動きが相手(波)に奇麗に合っているという全能感が体感できるようになるのは、事後的な体験なのである。その事後的体験とは、つまらない場帳とグラフの筆記の継続と分割の玉操作の事後的な体験である。はしょれば全能感は生まれない。相場の変動感覚とはそういう事なのである。と書いてみてもやった人にしかわからないし、やった人には書く必要は無論ないのだから、僕のブログを読んでもいっこうに上手くはならないのである。そんな暇があるのなら、こつこつグラフを書きなさい。(笑い)

審級を通底するもの

久しぶりに山の手通りを歩いた。早稲田通りと山の手通りの交差点の横断歩道をわたると右手に日産のディーラーがある。元日は無論休業だがスカイラインのポスターが貼ってある。相変わらずどこかの売れ筋のドイツ車のライトを真似たようなデザインで誠に情けなくなるが、この国の一流(?)企業の役員会は恥という言葉を知っているのだろうかと思う。ゴーンお前もついに日本人になったのか?車のデザインは表象価値そのものであるとすれば、何かに似せるデザインがあっても構わないが、それがどうその企業にとって咀嚼され改変され再度可能な新たな表象を生み出しているのかという最低のプライドぐらいは守られなければならないとおもうが、この国の大手自動車メーカーのグリルデザインはすべて出所がわかる程ひどい猿真似であり、しかもそれがことごとく失敗していることである。
スカイラインにしろレクサスにしろ、これが高級車という部類に分類される表象性を持つとは客を小馬鹿にしているとしか思えない。政治家の程度は国民の程度を反映すると言われるが、車と顧客の程度もどうやら同じことであると言えるのだろう。格差社会などど言われているが日本の格差など目くそ鼻くその格差でしかないだろう。正社員にしろアルバイトにしろ同じようなものを食って、兎小屋に住んでコマネズミのように働く点ではほとんど差など無い貧しい生活実態である。そして消費はさらに貧しく有り余るほど大量の物に囲まれ消化しきれないで次々に捨てて行く。これではデザインが熟成する時間が生まれない。デザインが使い捨てになっているのだろう。
食物だって同じことである。本当にうまいステーキは新鮮な肉では絶対に作れない。20日程度熟成してぎりぎりに攻めていった肉は最高のステーキに変わる。温度、湿度の管理が鍵になる。手間がかかるしロスが多いから供給に限界があるが、上等というのはそういう犠牲を経て初めて生まれる価値であるということを高級な食い手は理解して余計な金を支払うのだ。アラガワの肉はそういう肉だが、元素記号が同じでもファミレスの肉とは全く異なる物体であると言えるだろう。そういう世界を知らない人ということは、高級とか奢侈という意味がどういう事かを知らないで生きている。知らない人が高級とはこういう事だろうと考えて何かを作ろうとしてもそれがわかるはずが無い。物事の審級とは経験が通底するからである。空間と時間の連関性をこの国はいつの間にか忘れてしまったのか?
そういう高級とは何かを審級の体験に通底しない人が経済を語り政治を語るから変な事が起きる。物事を市場化するのが解決法だと間の抜けたことを言う元弁護士のアホを知事や市長に選んで、本来市場化することに弊害が多い教育、医療、介護、行政まで今まさに市場化しようとしている。こういう馬鹿を選ぶ関西人というのもまあ三流を通り越して痴呆に近いのではないかと思うが、まあだから関西はだめなんだろう。大阪の生活保護の実態はそれを表象しているといえるのだろう。全国から掃き溜めにゴキブリが集まるように保護を求めて人が集まるのかもしれない。腐臭がするということを本能が知っているのだろう。
 東京の町並みは整備されて昔よりずいぶん綺麗になった。ここ中野付近は地下に高速を通して山の手通りを整備して電線を埋めただけで景観はずいぶんマシになっている。あとはひどいネオンや看板、建物に色彩をなんとかしてほしいものだ。東京に限らず地方都市もひどい景観が目立つ国道沿いが多く、静岡の富士や富士宮はグロテスクの極地である。富士山が世界遺産になったのを機会に、そろそろなんとかできないものだろうか。パチンコ店に車の安売りと焼き肉とラーメン店に雪を冠った富士山がマッチするのだろうか?広重に江戸趣味を日本人は忘れたのか?観光に来た外国人がアジアの混沌を誤解にしないうちに、、。それでも伊豆は景観に配慮してコンビニの看板の色彩を抑制的なものに変えたり少し動きが出てきているようである。たぶん車のデザインが欧州なみに優れて日本的なものが生まれるようになるのは、日本の都市の景観がマシな物に変化していかない限り無理なのかもしれない。長い長い熟成の時間が必要なのだろう。スマホや携帯でそれができるとも思えない。

TURN ME ON

イメージ 1
女流作家という言い方を許してもらおう。あえて作家を女流と性的な区別をするのは、自らが男根主義者であることの証左であると上野千鶴子なら批判するだろうし、まあそれが当たらないでもないのだが、主義はどうあれ僕は女性にはかなり親切なほうだと思う。最近の女流作家は元気がよい。三浦しおん、窪美澄、彩瀬まるなどなかなかよい。メルセデスの大きなドアを開けるのが大変な事を知っているから少なくともクーペに美女が乗るときはドアを開けるようにしている。(ブスはほとんどのせないから)食事をする時はできる限り代金を女性に払わせたくない。デート代を支払うのは男の仕事の一部であると本気で思っている。デートいうのは供儀の儀式である。つまりお供え物であるからそれを誰が誰に払うのかは明白であり、等価交換経済には全くなじまない。それが嫌な女性とはデートをするべきでないと本気で思っている。だから妻が支払いをすることは我が家ではない。年に一度だけ僕の誕生日のディナーだけは彼女が支払う事を僕は許している。支払いとは権利であって義務でない、そういう基本姿勢は多分家族構成と家族の習慣によって僕は植え付けれられた。4人兄弟で男は僕一人、姉が2人に妹、母と祖母の5人3世代の女の中で外で働く父をのぞけば男は僕だけであった。つまり家を代表するものが男であるということは、父の不在は即、僕が家を代表するということであった。全く割に合わない名誉であった。幼年期の刷り込みは心の中心にどかんと居座ってほとんど一生変わる事が無い。教育の重要性とはつまりその点にあるのだろう。習慣を身体化させることである。おとなになって何かを学ぶという時に、この身体化という事を理解できる人はほぼいない。300名いて数名が理解し、それを永続できるのはほぼゼロと言ってよいだろう。継続は10年単位のことで、なんでもものになるには10年かかるという普通の仕事(コック、左官、大工、絵描きなど)と同じである。相場師に弟子入りするとまず場帳を書けと言われる。その次が月足の罫線を書けと言われるだろう。しかも大量に書けと言われる。後は玉帳の書き方を教えられるだろう。すべて小学生の知能で理解できる作業である。まさにアホでもできる。このアホでもできる作業を相場が立つ限り休み無く行うのが相場師の仕事である。考える要素はほとんどない。というか考えてはいけないのであるがその事がわかるようになるのには10年はかかるぜというのがアマチュアへのアドバイスである。考えないでスムースな玉操作が出来るようになるまで(つまりスムースな分割売買が流れるように出来るという意味である。)ただ単純な事務作業を正確に淡々とやることにつきる。これを10年続けるということが1000人いて数名が出来るか出来ないかという所だろう。ほとんどすべての人が途中で断念してしまう。理由はそれぞれあろうが、結果的に続かない。だから相場師になれない。専業になるというのはそういうことである。相場師の商売道具は変動感覚と売買技術であるのだから、その元となる作業が出来ないのでは飯が食える訳が無い。野球選手がバットを振れなくなれば引退するしかないのと同じ事なのだがそういう風に相場師を職業として考える人はまずいない。そもそも周囲にそういう仕事の人がいないというせいもあるんだろう。昼間からプラプラして高い外車に何台も乗って、広い豪勢な家に住んで、美女を助手席に載せて上手いものをいつも食って、良い身なりをしている。彼(あるいは彼女)が大金持ちの子供でないとすればおそらく相場で食ってるのだろう。他に金の使い道がないからである。彼はしかたなくいやいや無駄な奢侈をしているのだろうと思う。資本主義が幻想であると彼は知っているのだろう。
このような出来るか出来ないかわからないことに取り組んでいる時が実は相場師の最も楽しい時代なのであるが、何かをしながら(安全のためにリーマンをしながらとか)これをしてもまずモノにはならない。人間はそんなに器用には出来ていないからだ。何かを選ぶということは他の可能性を捨てるということと同義であるという常識をすべての人が忘れてしまうのだ。
 相場師は弟子をとらない人がほとんどだ。理屈を言って仕事をしない輩が多いからだと思うが、何を学んだかというのは事後的にしかわからないのが身体的な仕事の特徴である。
納会が終わった。月足も年足も高値引けの強い相場が出た一年だった。また肩が凝るグラフの更新が始まった。壮大な上げ相場がまたやってくる。グラフがそんなことを言っているような気がする。

ONE FLY DOWN

イメージ 1
私は本書において一つの説明モデルを展開していくつもりである。それは形としては逆説となっているが、その核心はかなり単純に次のように要約できる。
 すなはち、世界が民主主義を発見し、政治的にはアメリカなしでやって行くすべを学びつつあるまさにその時、アメリカの方は、その民主主義的性格を失おうとしており、己が経済的に世界なしではやっていけないことを発見しつつある、ということである。
 世界はしたがって、二重の逆転に直面している。
 まず世界とアメリカ合衆国の間の経済依存関係の逆転、そして民主主義の推進力が今後はユーラシアではプラス方向に向かい、アメリカではマイナス方向に向かうという逆転である。                           ”帝国以後”  エマニュエル トッド  2003

およそ10年前に書かれたトッドのテキストを再読しはじめた。対テロ戦争というスローガンで有りもしない大量破壊兵器の除去という名目でブッシュは国連決議を無視しイラクに侵略して多くの人を虐殺し小泉はこれに加担した。サブプライムローンの破綻で証券市場は崩壊して、GMがつぶれてオバマは国家資金を私企業に投下するという資本主義の屈辱を味わった。そして今も無限大の信用供与を無制限の時間軸で行い市場価格を強引に引きずり上げている最中である。倫理もクソもない。なりふりなど構っているわけにはいかないという事情がアメリカと資本主義そのものに胚胎する過剰で呪われた部分なのである。資本主義の呪われた部分を哲学的に指摘したのはニーチェとバタイユであった。だから資本主義の呪われた体制の中で生きんとするならばまず2人を読む事から逆の呪いをかけ始める以外にない。
帝国の崩壊後のイメージを、つまり資本主義崩壊後の呪いの歌を2人の現代アメリカ人の作品イメージとして僕は具体的に受け止めている。一人はコーマックマッカーシーであり、他方はノラジョーンズだ。どちらも壊れてしまった世界で、なんとかたった一人で生きて行くというノーマディっクな個人の物語である。はみ出しものの孤独な個人。道に投げ出された On the road の個人である。マッカーシーならBlood Meridian ,The Road,Child of Godが具体的な呪いの歌なんだろうし、ノラならCome away with meということだろう。だから僕は毎日場帳を書く時間帯は、ノラのコンサートビデオを流しっぱなしにするかアルバムを5−6枚i-tunesでくるくる回しながら聴いている。リリカルなノラの呪いの詩は酒田の逆行によくマッチするから不思議だなあとつくづく思う。あんな奇麗なお顔の美少女がバタイユ顔負けのシニカルな詩を書く。すべの希望から見放されて路頭に迷う零落の男女が聴衆の面前で、競って肌身に受けた傷の深さを誇示しあい、私にこういう傷を負わせた者は誰だかわかるかと、謎をかけてくる。そうそれは資本主義的人間である貴方自身であると。対象との関係性のゲームにそれは違いない。

1952年にジャックケルアックが On the roadを書いた頃がアメリカの絶頂だった。それから長い凋落の坂をズルズルとずり落ちるアメリカは、自身の力量を正確に示すように戦争の対戦国を選び続けてきた。絶対に武力量的に比較の対象にさえならない軍事規模の小国を相手にして政治的に常に敗北を喫した。ベトナムしかりイラクしかりアフガンしかりである。政治的に敗北を繰り返すアメリカと言う資本主義の幻想の帝国がシステムの破綻を明らかにするころに、クリステンスチュワートがメリールー役で踊り出す。沼津から浜松まで5500のV8を駆ってover6500回転で回したのだが、幅員が広く直線が多くカーブのRが緩いから法定速度をもっと柔軟にするべきだろう。法の有効性の限界を馬鹿は考えていない。規制緩和で廃棄の対象となるべきは常に立法府の議員と官僚の頭の中身と構造の問題だろう。速度制限を市場化すればみんな早い車に乗るから景気回復にいいんじゃないか?ドイツなら都市部以外は無制限だ。静岡という土地では、こういう映画を県内でたった一カ所の小さな箱でしか上映しない文化度である。だって農民しかいない。ノマドなんて見た事も無い。まあ資本主義的採算とはそういうもんだ。文化とは対極に位置している(笑)。ウォルターサレスが監督したこの映画はブラジル人のアメリカ、放浪するアメリカである。少し前にチェゲバラの学生時代の旅行記、モーターサイクルダイアリーの監督も彼だった。カメラタッチが革命的に美しい。メリールーは半世紀の時空を駆け抜けノラとなって地上に舞い降りた。
本ばかり毎日読んでいる。7−8時ぐらいに起きて珈琲を飲んで、朝風呂に入る。ここまでは毎日のルーチンワークで晴れれば外出することもたまにあるが、曇りや雨だと読書ばかりしている。図書館で借りた本やブックオフでまとめて買っておいた200冊ぐらいの未読の本と今までに読んだ中から再読したい本1000冊ぐらいの中で気に入ったものを3冊ぐらい併読するというのが習慣化している。ベッドに2冊、デスクに2冊、ソファーに2冊ぐらいは転がっている。途中でもういいいやと放り出すものは10冊にうちに1冊ぐらいはあるが、そういうものは初めて読む作家に多い。それでも毎年20−30人は新たに読む新人作家(というか未読作家)が見つかるのだから文学の懐は深い。そういう新人を見つけたら、図書館ですべての著作を借り、無い物はアマゾンで買う。たいてい10−15冊ぐらいは読む事が多いようだ。するとそれで気が済むのか次の人に行く。そうやって1人の作家の作品と文学世界が僕の中で消費されていく。いくらのお金もかからない。時間はかなりかかるのだけれど、例えば家族のために使う時間の数倍は使うのだろうが、趣味というのはそういう非採算的な物を言うのだし、もともと僕の生き方が趣味的なのだから採算は度外視して楽しく暮らす。逆説的に考えれば、相場師という仕事はあらゆる資本主義的な効率を超克してもなおそろばんがあうほど生産的であるという事実なのかもしれない。ノマドは快適である。レビーストロースに言わせれば
南アメリカのアマゾンにいる非言語未開民族調査で彼らの家族単位(夫婦に子供数名と親の6−8人)を再生産するための労働は毎日2−3時間夫婦が働くことで十分であったということだ。獲物を捕ったり、植物を採取したりというのが仕事である。他は遊んでいる。人形を作ったりお祭りをしたり昼寝やセックスをしたりたまには戦争もする。つまり現代の資本主義はそれに比べればひどく効率的に劣っていることは明白だ。同期生たちは住宅ローンに追われ、教育ローンのために妻がパートに行き、子供はパラサイトや不登校で携帯漬け、両親の介護で睡眠は5時間、多くが単身赴任なんてざらである。年金生活に怯え、再就職をどうしようか悩んでいる。その点でもアマゾンの原住民のほうがよほど快楽的で幸福な人生を送ってるように見える。でもそういう現代の暮らしをずっと続けている人が大半であるのは、他に選択肢を彼らが選べないという理由があるのだろう。僕に言わせれは選ぶ気がないだけだろうと思うが、資本主義という世界をどちらの角度から見ているのかという視点の位置の差に気がつかないというか、気がついても変更しようとはない。群れるという選択習慣が理由の大半である。群れを作らないと生き延びられないというDNAが強いのだ。別段そんなこともないのにね。ホームレスなんでそういうケースだろうと思うが、あれはあれで悪くもないんじゃないかと思うがね。
その点自由業は群れないスタイルだからアマゾン原住民に近い。作家も同じだろう。何を書いているかよりどう書いているかが僕に取っては重要なファクターなんだろう。こいつのこういう書き方が好き嫌いというリリカルな、リズミックなそういう音の並び方が僕の読書にとっての快感の大きな位置をしめている。
久しぶりにブログをあけたら980もアクセスがあった。多分毎日100人ほどがアクセスしているらしいから暇な人が多いなあ、相場戦略研究所の人気はすごいんだなあと関心している。本人確認のために久しぶりに電話が来て、元気そうな声だったからご病気も改善したらしい。めでたい事だ。金なんてあっても無くても生活ができるのなら大した違いは無いと思うのだが、体や心の不調はコタエル。ちょっとどこかが痛いとかだるいだけで物事がどうでも良くなるから、快調に飯が食える状態というのは幸福である必須条件だろうと思う。この年になると結婚式より葬式のほうが多くなるが友人の親が亡くなったりすると次の順番を考えるようになる。すでに僕の場合は両親ともにもういないのだから、いつ自分の番がきても不思議ではない。事実父親の亡くなった年にあと2年でなるのだから死がいつ来ても不思議ではないのだ。だからしたい事を我慢することはほとんどないし、したい、欲しいと思えば即座にするか買う。してしまった後悔よりもしなかった後悔(後悔というより前悔と言うべきか?)はしないほうがよい。
友だち
白猫次郎
白猫次郎
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(16)
  • pka
  • 亜紀
  • key09.hatenablog.com
  • ひよこ
  • kurisan
  • ラブレス
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

開​設日​: ​20​13​/1​2/​21​(土​)

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事