>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
日記
-
詳細
12月の月足を書いて玉の8割を利食いで落とした。5月の連休前に丸にしてから、空売りを交えながら6−8月に低位株をコツコツ底値で拾ったものが大半で16万株ほど拾った低位の建設が秋に化けたが面倒なので放置していた。税率改正があるから一旦利食いでバイカイとも思ったが、今年は休みが長いからNYもそろそろ天井くさいし、休みの間に崩れると目も当てられないから買い玉を軽くして越年し、後でゆっくり拾う方が性分に合っている。3ヶ月で3倍になった熊谷組を落とすのもいつもなら無いのだがまあいいや。 |
>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
中野に住んでいたときはたいてい3−4台車を持っていた。ジャガー、メルセデス、ポルシェなどだが今はメルセデス2台で十分な気もする。ハイキング、買い物用のワゴンとデート用のクーペだ。400−500馬力あってもせいぜい2000回転ぐらいしか回す場所がない。欲望の質量が田舎にいると下がるのだろう。そのくせ月に1000キロぐらいは山道を走っているからポテンザがすぐにつるつるになる。ヤナセに言ったらコンチネンタルに変えられた。京都往復をしてみたがソフトで疲れない。250キロも出す区間は京都往復でもせいぜい200キロもないのだから、こんなもんで上等だろうがさてそれならさらに使い切れない金を稼ぐ動機がもう無いのだからどうしても相場に興味があまり湧いてこない。5000万買い建てて5000万取れた。今年は2回転だった。それでもういいかなという気になる。孫が何人も生まれる年になれば2000万も使わないのだから、いくら取ろうが生活が全く変化しないのなら相場は時間の無駄以外の何者でもなくなってしまう。それでも365日24時間まあ何もしないわけにはいかないので、場帳を丁寧に書いてグラフも必ず更新している。グラフは肩が凝るから毎週水曜に2時間三島のマッサージ屋に行く事にしている。都内より人件費が半分ぐらいなせいか実に安いが丁寧なのに感動した。田舎の女性は親切で誠実だなあと思う。チップを渡しても受け取らない。贈与経済が成立しないのである。なんとかならないのか?非正規採用の年収200万とプーの相場師5000万では逆転が起きる可能性はゼロに近い。つまり金が可能性の決定項となり社会が固定化してつまらなくなる。
赤のナンパだが仕事は好きでないし、したくもないし、できれば本でも毎日読んでいるほうが性分に合っている。だがまともな本屋はないからアマゾンと図書館で調達する。
4WDが無いと雪が降ると手も足も出ないが、そういうときはお籠りするほうが安全ではある。ベントレーのコンチネンタルGTCを買おうかどうか考えているが試乗にいくのが面倒で見積もりだけで放置している。道は狭いし路肩はヤワだし2.5トンの5.3mメートルのフルサイズは田舎の暮らしには過剰で扱いにくいことこの上ないが、相場師の消費は常に過剰をもって良しとするから、そろそろ乗っておかないといつお陀仏になるかもしれない。心残りがあるほうが幸せかどうか?なやましいがくだらない問題ではある。
かみさんに運転免許をとらせて何か新しい車でも買えば少しは気分が変わるかもと
期待しているのだが、一向に花屋が楽しいらしく教習所に行く気配もない。酒をたくさん飲む人だからおそらく免許は取りたくないのが本音なのかもしれない。30年間助手席にしか乗ったことがないからものぐさになってるのに違いない。
ノマドロジーは定住しない生活スタイルが彼らの生き方を決定化した。つまり農耕とか定職とか安定や拡大とは無縁の変化ばかりの毎日を生きて来た人々である。騎馬民族は馬の足の早さと航続距離が生き残りの大きな要素となるから、そういう馬を用意しているほうが生存上有利だったということだ。征服するかされるかどちらかしかなかったから、曖昧は許されなかった。その点が機械の本質的な性格によく現れている。だから日本車が農民臭がプンプンするのは当然ということなのだろう。馬に乗るというより動く冷蔵庫かテレビに乗ってるような気分にどうしてもなるから、日本車に乗る気がどうしてもしないのだ。
CL550を3月に買ったのだが、ルックスは食物連鎖の頂点にいるようなツラをしていて実に品がない。相場師はおそらく食物連鎖の頂点を目指す職業なのだろうから(殺るか殺られるかの商売である)ドスの利いたツラの車が正直向いている。あと何台乗り換えるかはわからないが、体が動く限りはショーファーを雇いたいとは思わないだろう。獲物は自分で取りにいくのが相場師のDNAなのだから。
|
>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用
まあブログのタイトルとか書き手の名前とかそんなものはどうでもよろしい。
読んで解る奴は解るし、解らん奴は解らない。言語や構文の解釈や理解というのは
学校の現代国語の解釈とは異なって、正解というような明確なものはそもそも断定できない。それは正解というよりむしろ共感にちかいものなのだろう。だから1000人読んで数名解ればましな確率といってよいのだろう。プリンを食ったことのない人にいくらプリンの味を説明しても伝わらないのと同じことなのだ。
共感を通底するものが経験であるとすれば、いかなる相場師も同様な経験をするだろうが、その経験の土台となるような認識に大きな個人差がある。つまり形式的にいうならば、グラフの枚数だったり場帳の筆記年数だったりするわけで、それをバカラ氏とむかしくどくどアマチュア向けに書いたことがあったが、解るやつは解るし解らんやつは永久にわからないものなのだろう。養老さんが馬鹿の壁といってたな。僕たちと同じように、ある仕事を辞めて相場師専業になる投資家はそれこそ数えきれないほどたくさんいるんだろうが、その中で飯を食えるレベルに到達するものは1%もいないだろう。労働者が6000万人いるとして1割が仮に本気で相場をすれば600万人。税務署統計(ある関西の税務署の署長に話だが)によると年間5000万以上投資で儲けている人は26万人に1人だというから600万人相場の参加者がいてもそれなりにいい暮らしができる奴は23人ほどということになる。プロ野球の選手より少ないということか?スポーツは向き不向きが最初からある程度わかりやすいが、相場師はそれがわからない。だから参加者が多い分だけ確率が下がるということなんだろうと思う。
売買という単純なゲームでそれで食えるようになる人とお遊びで金を捨てる人の決定的な差とは何か?考えてみれば簡単なことで、投じた時間と経験と情熱の差という以外に何も思い浮かばない。その大小が決定的な差となる。変動感覚と売買技術の差と林さんなら言うのだろう。その差は結果的には人生で数億、数十億の差になる。軽自動車やチャリンコとメルセデスやベントレーの差といえば分かりやすい。必要十分な機能と過剰な存在との差がそれなのだ。現実と幻想の差といってもよいのだろう。だから相場師はどうあがいても強欲だし、それを否定してもしかたがない。
金が道具という特徴なので極端な差になるのが相場師の宿命である。ただしどんな熟達した相場師でも最後に生き残るかどうかはわからない。最後の最後で破産する相場師も少なくないからだ。リバモアしかり是銀しかりである。だから幻想の世界で生きる相場師たちは、今日生きている、今日だけは旨く生きている、明日のことはわからないそういう構えで生きるという覚悟がプロという人たちの通底器になっている。”投げと踏み”それが上手くできるかどうか、今日を生きるとはそういう動作の質の差だろう、とフと思う。
|
>
- Yahoo!サービス
>
- Yahoo!ブログ
>
- 練習用