格差の頂点に立つ猫
梅干と角煮と味玉 作るのに4時間 オランダから輸入された紫陽花 『階層化日本と教育危機』で苅谷剛彦さんが述べているとおり、学力低下は自身の学力の低下に満足感や達成感を覚える社会集団の出現の帰結である。学力の不足はひさしく自己評価を下げる要因であったけれど、学力の不足を「無意味なことをしない、合理的な生き方をする私」としてプラス評価としてカウントする社会集団が統計的には90年代末に出現したことが知られている。この集団は現在すでに学齢期の子供たちの相当数に達している。
同じ理路は「うまく働けない若者たち」にも当てはまる。この場合は、就労していないことを直接的に「合理的な生き方」としてプラス評価することはいささか無理がある。社会評価が低いし、金も入ってこない。そこで彼らはちょっと変わったカードを切ってくる。それは「格差社会の本質と構造についての洞察は、格差社会の最底辺にいる人間がもっとも深い」というロジックである。
私が格差社会論とかニート、フリーター論を書くと、自称「格差の底辺」にいる人々から罵倒に近い言葉がどっと寄せられる。それらのすべてに共通するのは、「お前は格差社会の実情を知らないが、私は知っている」という「知的優越」のポジションを検証抜きで前提にしていることである。このロジックは、古くはマルクス主義者が、近年ではフェミニストが愛用したものである。差別されている人間は差別社会の構造を熟知しているが、差別する側の人間は差別社会がどう構造化されているかを知らない。マルクス主義者や第三世界論者やフェミニストたちの知的な明晰性が運動の過程でどのように劣化していったのか、私は40年ほど前から注意深く見守ってきたが、その主因のひとつが、この「被迫害者は当該社会における『神の視点』を先取しうる」という仮説にある、というのが経験的に得られた教訓のひとつである。
あるゲームでつねに勝つ人間とつねに負ける人間がいた場合に、そのゲームが「アンフェアなルール」で行われていると推論することは間違っていない。しかし、負け続けている人間は勝ち続けている人間よりもゲームのルールを熟知していると推論することは間違っている。通常、ゲームのルールを熟知している人間はそうでない人間よりもゲームに勝つ可能性が高いからである。
それゆえ、格差社会において下位階層に釘付けされている人間は、格差社会における階層の力学について、あまりよく理解していないと私は推論している。それがよくわかっていれば、階層上位に上昇する方法についても熟知しているはずであり、当然その方法をすでに試しているはずだからである。
さて「階層上位に上昇する方法を熟知していながら、それを試さない」理由として合理的なものは一つしかない。それは「階層上位に上昇する方法は、階層上位のものにしかアクセスできない方法である」という説明である。現に、ほとんどの格差論者はその説明を採用している。しかし、これはよく考えればわかるとおり、何も説明していない。「世界が今のようにあるのは、世界が今のようであるからだ」という命題はたしかに無謬ではあるが、世界の成り立ちについては何一つ情報をもたらさない。
それよりは「階層社会の下位に釘付けされている人々は『階層上位に上昇する方法』は自分たちには構造的に与えられない、という説明を鵜呑みにすることによって階層社会下位におのれ自身を釘付けにしている」という解釈の方が吟味に値するのではないか。「被害者は全能である」というのは今私たちの社会にひろく流布している「ドクサ」の一つである。それゆえ、誰もが「被害者」の立場を先取しようと、必死に競い合っている。だが被害者の立場からの出来事の記述は、そうでない人間の記述よりも正確であり、被害者の立場から提示されるソリューションは、そうでない人間が提示するソリューションより合理的であるという判断には論理的には根拠がない。むしろ、「被害者の全能性」を言い募ったせいで、人々は、自分がこのままずっと「被害者」のままであり続けられるような社会を希求するようになる。おそらく「凡庸な加害者」と「明敏な被害者」のどちらがいいと訊かれたら、なんとなく後者の方がよさそうに思えるからであろう。
ともあれ、格差社会の場合、格差社会の被害者である階層下位のものが、その劣悪な社会的地位ゆえに、「私はこの社会構造を私以外のものよりも深く理解している」という「全知」の視座を請求した場合、階層上昇のチャンスを彼らは永遠に手放すことになる。というのは、もし階層上昇のチャンスが彼らにも与えられていたにもかかわらずそれを試さなかったのだとしたら、階層下位に今あることはあげて彼らの自己責任になってしまうからである。だから、「階層上昇のチャンスは階層下位者には構造的に与えられていない」ということが自動的に真理となる。
その命題の真理性は、「現に階層上昇ができていない」という事実によってのみ証明されるのであるから、この理説を採用した人々は全力を尽くして階層下位に踏みとどまろうとする。社会改革を語るすべての理説はこれと同じアポリアに陥る。社会改革の緊急であることを主張する人は論拠として、「目を覆わんばかりに悲惨な事実」を列挙しようとする。被迫害者の悲惨だけが彼の理説の喫緊であることを主張する人々は、彼が救おうとしている当の被迫害者たちができる限り悲惨な状況のうちにとどまることを無意識のうちに願うようになる。格差論も同じアポリアに落ち込んでいる。
「社会格差に対する知的、批評的な構えは、格差社会の下位にとどまることによって担保される」という考えはメディアの格差論を通じて若者たちに大量に投与された。しかし、このイデオロギーが社会全体にではなく、社会の一部、それも階層下位にピンポイントに投与されていることを人々は忘れがちである。繰り返し言うように、今の私たちの社会は「アンフェアなルール」でゲームが進められている。その「アンフェアネス」の最たるものは、「このゲームは『ゲームのルールをいちばんよく理解している人間』が負けるゲームなのだ」という偽りのアナウンスが一部のプレーヤーだけ選択的になされているということである。階層化の力学は「格差論」者たちが考えているほど単純なものではない。階層化は「このゲームのルールはどういうふうになっているんですか?」と訊いたら負けというルールで行われていると、多くの人々は信じており、それゆえ先を争って「私はこのゲームのルールを誰よりもよく知っている」と主張しようとする。だが、残念ながら、すべてのゲームがそうであるように、誰かに訊かなければゲームのルールはわからない。
そして、ゲームのルールがわからない人はたいてい負けるのである。
もし、階層化社会をラディカルに審問しようと思うのなら、「『このゲームのルールはどういうふうになっているんですか?』と訊いたら負けというルールは、誰を負けさせるために作られているんですか?」と問わなければならない。
「階層上位に上昇する方法」 内田 樹 より転載
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