ここから本文です
猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

記事検索
検索
格差の頂点に立つ猫
イメージ 1



イメージ 2


梅干と角煮と味玉
作るのに4時間
イメージ 3


オランダから輸入された紫陽花

『階層化日本と教育危機』で苅谷剛彦さんが述べているとおり、学力低下は自身の学力の低下に満足感や達成感を覚える社会集団の出現の帰結である。学力の不足はひさしく自己評価を下げる要因であったけれど、学力の不足を「無意味なことをしない、合理的な生き方をする私」としてプラス評価としてカウントする社会集団が統計的には90年代末に出現したことが知られている。この集団は現在すでに学齢期の子供たちの相当数に達している。
 同じ理路は「うまく働けない若者たち」にも当てはまる。この場合は、就労していないことを直接的に「合理的な生き方」としてプラス評価することはいささか無理がある。社会評価が低いし、金も入ってこない。そこで彼らはちょっと変わったカードを切ってくる。それは「格差社会の本質と構造についての洞察は、格差社会の最底辺にいる人間がもっとも深い」というロジックである。
 私が格差社会論とかニート、フリーター論を書くと、自称「格差の底辺」にいる人々から罵倒に近い言葉がどっと寄せられる。それらのすべてに共通するのは、「お前は格差社会の実情を知らないが、私は知っている」という「知的優越」のポジションを検証抜きで前提にしていることである。このロジックは、古くはマルクス主義者が、近年ではフェミニストが愛用したものである。差別されている人間は差別社会の構造を熟知しているが、差別する側の人間は差別社会がどう構造化されているかを知らない。マルクス主義者や第三世界論者やフェミニストたちの知的な明晰性が運動の過程でどのように劣化していったのか、私は40年ほど前から注意深く見守ってきたが、その主因のひとつが、この「被迫害者は当該社会における『神の視点』を先取しうる」という仮説にある、というのが経験的に得られた教訓のひとつである。
 あるゲームでつねに勝つ人間とつねに負ける人間がいた場合に、そのゲームが「アンフェアなルール」で行われていると推論することは間違っていない。しかし、負け続けている人間は勝ち続けている人間よりもゲームのルールを熟知していると推論することは間違っている。通常、ゲームのルールを熟知している人間はそうでない人間よりもゲームに勝つ可能性が高いからである。
 それゆえ、格差社会において下位階層に釘付けされている人間は、格差社会における階層の力学について、あまりよく理解していないと私は推論している。それがよくわかっていれば、階層上位に上昇する方法についても熟知しているはずであり、当然その方法をすでに試しているはずだからである。
 さて「階層上位に上昇する方法を熟知していながら、それを試さない」理由として合理的なものは一つしかない。それは「階層上位に上昇する方法は、階層上位のものにしかアクセスできない方法である」という説明である。現に、ほとんどの格差論者はその説明を採用している。しかし、これはよく考えればわかるとおり、何も説明していない。「世界が今のようにあるのは、世界が今のようであるからだ」という命題はたしかに無謬ではあるが、世界の成り立ちについては何一つ情報をもたらさない。
 それよりは「階層社会の下位に釘付けされている人々は『階層上位に上昇する方法』は自分たちには構造的に与えられない、という説明を鵜呑みにすることによって階層社会下位におのれ自身を釘付けにしている」という解釈の方が吟味に値するのではないか。「被害者は全能である」というのは今私たちの社会にひろく流布している「ドクサ」の一つである。それゆえ、誰もが「被害者」の立場を先取しようと、必死に競い合っている。だが被害者の立場からの出来事の記述は、そうでない人間の記述よりも正確であり、被害者の立場から提示されるソリューションは、そうでない人間が提示するソリューションより合理的であるという判断には論理的には根拠がない。むしろ、「被害者の全能性」を言い募ったせいで、人々は、自分がこのままずっと「被害者」のままであり続けられるような社会を希求するようになる。おそらく「凡庸な加害者」と「明敏な被害者」のどちらがいいと訊かれたら、なんとなく後者の方がよさそうに思えるからであろう。
 ともあれ、格差社会の場合、格差社会の被害者である階層下位のものが、その劣悪な社会的地位ゆえに、「私はこの社会構造を私以外のものよりも深く理解している」という「全知」の視座を請求した場合、階層上昇のチャンスを彼らは永遠に手放すことになる。というのは、もし階層上昇のチャンスが彼らにも与えられていたにもかかわらずそれを試さなかったのだとしたら、階層下位に今あることはあげて彼らの自己責任になってしまうからである。だから、「階層上昇のチャンスは階層下位者には構造的に与えられていない」ということが自動的に真理となる。
 その命題の真理性は、「現に階層上昇ができていない」という事実によってのみ証明されるのであるから、この理説を採用した人々は全力を尽くして階層下位に踏みとどまろうとする。社会改革を語るすべての理説はこれと同じアポリアに陥る。社会改革の緊急であることを主張する人は論拠として、「目を覆わんばかりに悲惨な事実」を列挙しようとする。被迫害者の悲惨だけが彼の理説の喫緊であることを主張する人々は、彼が救おうとしている当の被迫害者たちができる限り悲惨な状況のうちにとどまることを無意識のうちに願うようになる。格差論も同じアポリアに落ち込んでいる。
 「社会格差に対する知的、批評的な構えは、格差社会の下位にとどまることによって担保される」という考えはメディアの格差論を通じて若者たちに大量に投与された。しかし、このイデオロギーが社会全体にではなく、社会の一部、それも階層下位にピンポイントに投与されていることを人々は忘れがちである。繰り返し言うように、今の私たちの社会は「アンフェアなルール」でゲームが進められている。その「アンフェアネス」の最たるものは、「このゲームは『ゲームのルールをいちばんよく理解している人間』が負けるゲームなのだ」という偽りのアナウンスが一部のプレーヤーだけ選択的になされているということである。階層化の力学は「格差論」者たちが考えているほど単純なものではない。階層化は「このゲームのルールはどういうふうになっているんですか?」と訊いたら負けというルールで行われていると、多くの人々は信じており、それゆえ先を争って「私はこのゲームのルールを誰よりもよく知っている」と主張しようとする。だが、残念ながら、すべてのゲームがそうであるように、誰かに訊かなければゲームのルールはわからない。
 そして、ゲームのルールがわからない人はたいてい負けるのである。
 もし、階層化社会をラディカルに審問しようと思うのなら、「『このゲームのルールはどういうふうになっているんですか?』と訊いたら負けというルールは、誰を負けさせるために作られているんですか?」と問わなければならない。
          「階層上位に上昇する方法」 内田 樹 より転載

死者は生物学的には死んでも、私たちのまわりにどどまる。
 私たちは、死者の使った道具にその「魂魄」が残っているのを感じ、死者のいた部屋に入ると、その気配を感じ、死者に祈ると、その声がきこえる。私たちは死者の祟りで苦しめられ、死者の気づかいで護られる。
 人間というのはほんらいそういうふうに「死者の切迫を感知できる」生物なのである。
 旧石器時代に、私たちの祖先は死者と生者のあいだに境界線を引くために葬礼の制度をつくった。それは死者が「不潔」だから棄てるという衛生的配慮によるのではない。そうではなくて、死者とはuntouchable なものであるという仕方で、「新しいカテゴリー」を創出するためである。
 私たちには直接触れることができず、理解しあったり、共感しあったりすることもできない「何か」がそこに「存在」する(厳密には「存在するとは別の仕方で」)。
 死者は「存在しない」。だから私たちは死者と「対話する」ことも「理解しあう」こともできない。
 けれども、にもかかわらず「死者たち」は私たちの生き方に深く強く関与し、私たちのなかに「私たちは何のためにいきているのか?」という存在論的な問いを起動させる。ヘーゲル的にいえば、「死者」という概念をもつことによって、人間ははじめて「自己意識」を有したのである。
 「死者」という概念を私たちの祖先がつくりだしたのは、死んだ人間は「モノ」ではないという人間特有の幽かな感覚を基盤にして、「他者」という概念に導出するためである。私はそう考えている。
 「他者」という概念をもつものだけが共同体を構築することができ、「他者」を感知できるものだけが交換や分業や欲望や言語を創出することができるからである。
 「他者」は、私たちと「同じカテゴリー」に属さず、言葉も通じず、共感の基盤もなく、私たちの糧でも道具でもなく、「存在しないのだけれど、存在する」というねじれたかたちでしか私たちにかかわることがない。
 人間はそのような「他者」を感知し、欲望する能力を賦与されている。
 葬礼はその「他者」という概念を創出するための制度的な迂回である。
 そして「すでに死んだもの」を「死者」としてuntouchableにしたのと同じロジックが「これから生まれてくるもの」に対しても適用され、葬礼の「隔離」の制度に準拠して、生殖にかかわる隔離の儀礼が成立した、というのが「穢れ」にかかわることの順序ではないかと私は想像する。
 「人間である」とは「生まれる前」と「死んだ後」の中間の領域に暫定的にいるということであり、言い換えれば、死と誕生の「むこうがわ」には決して触れることができないという断念を通じて、死と誕生の「むこうがわ」を「その他者性を毀損しないままに概念化する」能力を賦与されてあることである。
 分節し、切断することの目的は、「分節より以前」「境界線の向こう側」を欠性的に指示するためである。
 女性の産穢や月経についての「穢れ」の感覚は「これから生まれてくるもの」の本源的他者性への畏敬を映し出すものであり、それは「すでに死んだ者」に対する畏怖の思いと鏡像的な関係になっているのではないか、私はそんなふうに考えている。
 そのような起源的な「穢れ」が社会的な差別や排除の装置に「頽落」したのは、そのあとの人間たちが、そのときどきの「いま、ここ、わたし」の憶断に基づいて、葬礼や生殖を恣意的に「解釈」した結果であって、起源における「穢れ」の概念に差別や排除の意図があったからではないと私には思われる(いったいそれによって誰がどのような利益を得るというのか)。
 以上の思弁の半分ほどは私のデタラメ人類学であるが、あとの半分は老師の教えである。死者と繁殖性について、現代の哲学者でいちばん遠くまで進んだのはレヴィナス老師だろう。『全体性と無限』は繁殖性についての謎めいた議論で終わり、『存在するとは別の仕方で』死者の鎮魂について謎めいたエピグラフから始まる。
 レヴィナスの人間論は「死んだ後の人間」と「生まれる前の人間」と人間はどうかかわるのかという問題を中心的な論件にしている。
   内田 樹 『ひとはなぜ葬礼を行うか」より  転載

イメージ 1


 世界中ほとんどすべての社会集団で、服葬、産穢、月経などが「穢れ」に類別され、untochableとされる。
 これはいずれも「死と性」にかかわる人間的事象である。
 こういう問題について、軽々に「女性は人類発生以来、あらゆる社会で差別されてきた。それが女性の進出を妨げてきた」というふうにくくって済ませる思考の硬直性を私は評価しない。そもそも「社会進出」というような概念は近代(ほとんど現代)になってはじめて出現してきたものである。いまの私たちを共軛している「ドクサ」を基準にして、人類史全体を俯瞰できると思うのは愚かなことだ。それは「いま、ここ、わたし」が人類史の知的最高到達点であるというエゴサントリックなイデオロギーを表白しているにすぎない。私たちは私たちの社会を基礎づけているさまざまな制度の「起源」を知らない。どうして言語があるのか、どうして交換するのか、どうして生殖につながらない性的欲望をいだくのか、どうして親族を形成するのか、、、、私たちはそのどれにも「人間はそういうものだから」という以外にこたえる言葉を持たない。
 人類史の暗闇のなかにその起源が消失している制度について、いまの価値観(高い賃金や大きな権力や豊かな情報を占有することは「善」であるというイデオロギー)を適用して、説明しようとするひとは、原因と結果を取り違えている。
 賃金や権力や情報に「価値がある」と信じ込むひとびとがいるのは、これらの人間的諸制度の「結果」であって「原因」ではない。
 賃金は貨幣の発明以後にできた概念である。権力は階級の発生以後にできた概念である。情報は遠距離交易の発生以後に出来た概念である。
「穢れ」は貨幣よりも階級よりも交換よりも古い。「穢れ」という概念をほかの動物は持たない。ならば「穢れ」という概念をもつことによって人類はほかの霊長類と分岐したのだと考えるほうが論理的だろう。それは「すでに死んだ者」と「これから生まれてくる者」はuntochableであるということを私たちに教える。少なくとも「穢れ」に関して、有史以来あらゆる社会集団に共通して言えるのはそのこと「だけ」である。
 untochable という概念をおそらくほとんどの人類は誤解している。「何か」が存在し、それがある社会の実定的な価値基準に照らして「劣位」であったり、「ネガティブ」であったりするから、「触れないところに遠ざける」というふうにふつうの人は考える。
 死体は汚らわしい。だから埋める。
 そんなふうに考える人間は、ここでも原因と結果を取り違えている。
 死体を埋葬する習慣をもつ生物は人間だけである。
 なぜ、死体を埋葬するのか?
 汚いから?
 そんなことはありえない。
 生物の死骸なんか、それこそ「枯葉」から「バクテリアの死体」まで、地上にゴロゴロしているのに、どうして人間の死体だけが「汚い」とされるのか?
 それはあえて逆説を弄するならば、「人間の死体は生きている」からである。
 人類は葬礼という習慣をもつことによって他の霊長類と分かれた。
 なぜ葬礼を行うのか?
 理由はひとつしかない。
 それは葬礼をしないと死者が「死なない」からだ。      (続く)
      ひとはなぜ葬礼を行うか   
      内田 樹「こんな日本でよかったね」より転載

Eat Narikura’s and soon die.

イメージ 1

成蔵 ヒレ

イメージ 2

黒豚ロース


4人で12000円の成蔵トンカツを食べました。これは、すでに神話の世界です!
24000店のナンバーワンです。
110度から160度で20分かけて低温の油で揚げます。
九十分並んで、やっと食べることができました。
デザートは、表参道ヒルズのHigo and vectorのパフェを食べました。激ウマ❗

イメージ 3

友だち
白猫次郎
白猫次郎
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(16)
  • key09.hatenablog.com
  • Mr.Blank
  • ひよこ
  • pka
  • hir*5*321*7
  • まっちゃん
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

開​設日​: ​20​13​/1​2/​21​(土​)

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン

みんなの更新記事