五木寛之の「孤独のすすめ」という文庫を読んだ。この本で彼は「嫌老社会をどう生きるか」というテーマで、老人が嫌われる風潮を指摘して、社会との折り合いを説く。おそらく作家の感性として毎日そういう感じを強く受けて生活しているんだろう。80歳を超えた彼のような成功した老人に対する社会の目が以前とは具体的に大きく変化してきたということだろうかと思う。
1990年のバブル崩壊とその後の長い不況による日本社会の停滞で、世代間の貧富のギャップが顕在化して、豊かな老人と貧乏な中年や若者という構図が一般的に定着したのだろうと彼は指摘する。
所有の差異化とは具体性として例えば以下のようなものか?
老人は総てを持っている。(時間、年金、貯蓄、不動産、動産、健康、自由、贅沢な生活習慣など)
若者と一部の中年はほとんど何も持っていない(過労死すれすれの雇用、年金未納、貯蓄ゼロで借金返済、鬱病、 貧乏なコンビニ生活、家も車も買えない、結婚できない、子供を産めない、相手もいない)
豊かな老人に対する貧しい中年や若者の怒りや嫉妬が常態化していき、ギスギスした感情が社会に蔓延してきたという指摘だが、世代間闘争=つまり階級闘争が起きていると指摘する。マルクス主義ではないが、老人はブルジョワジー、中年以下の世代はプロレタリアートという区分だ。確かに労働しないで裕福に暮らす老人が資本家のようで、厳しい労働条件で搾取される若者は貧民プロレタリアートに見た目は似ているような気もする。無意識に意図しないで資本性社会の日本だけがそういう結果になったのは何故だろう・福祉予算の配分のせいなのか?
所有の差異化を年代や世代のせいにするのは少し極論化しすぎていないかなあという疑念がある。老人全員がすべてを持っているわけではないし、中年と若者が総てを持っていないわけでもない。僕の周囲でも老人でも無年金で清掃の仕事をしている高齢者や生活保護の人もいるし、僕の息子のように青年でも裕福な人も一部にはいる。個人差という部分もすごく大きいのだから、それを年齢だけで分類化するのはどうだろうか?資本主義社会は競争社会を前提に成立するのだから、どうしても結果に差異が出るのはしかたない。その差異をどの程度まで認めるのかという社会の暗黙のルールが形骸化したという面は恐らくはあるのだろうが、それは「資本家が労働者を搾取する19世紀ルール」が21世紀になっても一向に変化していないという面でもある。
「チコちゃんに叱られる」という国営放送のクイズバラエティーがあるが、「ボヤーっと生きている馬鹿な労働者が多い」からきっとそういうことになるんだろうと思う。例えばカボチャの馬車と駿河銀行に騙された年収1000万の安サラリーマンはこの種の馬鹿の典型である。自分の属性にあぐらをかいて何も考えないで大金を借りた馬鹿という構図。ボヤーっと生きている典型だろう。同様の例が年収の数倍のマイホームローンを30年も借りるという馬鹿の典型。一生を棒に振る選択を自分からしてしまう金融常識の無さ。これでは何ももっていない(大きな借金と不自由だけは持っている)状態になるのは必然である。単に個体としての頭が悪いだけの事だが、その自覚が無い。つまりもともと救いようが無い。
「通貨は幻想である」という金融常識さえあれば、通貨の使用価値はかならず「伸び縮み」するのだから、商売するにはコツがある。「縮んだ時に仕込み、伸びきった時に売り逃げる」この反復を適宜に行うというのが豊かに生活するコツでもあるのだが、そういう事を全く貧乏人は知らない。100%ピュアに無知なんだな。
通貨は幻想なのだから、あるうちに(時間と値打ち)使用しないとゼロになるクーポン券だと思えば良いが、あるというのは自分の欲望がある時間(最大で身体的な寿命)とインフレ率と金利の関係性が基礎になる。こんな事は近代経済学の基礎中の基礎なんだから、彼らは大学で何を学んできたんだろうと思うな。鴨の大半が大卒ってもの笑えるわ。
インドのウパニシャッド哲学では、人生を4つの時間軸に区切って生活せよと説く。1−25歳の学生期、25−50歳の家住期、50−75歳の林住期、75−? 遊業期となる。例えば僕の現在は林住期だから、都会を捨てて熱海の山頂でリゾートライフの林住期で解脱のお勉強をしているわけだ。都会の忙しい生活から離脱して逃走線にそってトンズラする。アホな鴨がゴロゴロいるマーケットで5年に1回ぐらいゴソッと浚ってあとは遊んで優雅に暮らすという生活をもう20年以上もずっとやっている。一番でかいメルセデスとAUDIに乗って掛け流しの源泉のフラットに住みごちそうを作るのと読書が毎日のお仕事の17歳の猫と暮らす一見は豪華絢爛な老人なわけだ。およそ贅沢品はなんでも持っているし、欲しいモノは値札を見ないでなんでもいくつでも買えるがもう欲しくもないな。贅沢には正直もう飽きたよ。
経済不況だろうが、雇用不安だろうが、消費増税だろうが何が起きても大丈夫で無関係、無関心だから社会が今後どうなるかなんて僕個人にはどうでも宜しい。経済なんて酷くて悪いほうが実は僕にはいいんだよ
。空売りすれば儲かるからさ。所詮は経済など脳内幻想なのだから、払えば良いだけのことである。モノと通貨を交換するだけのことであると思う。その交換比率の巧拙の問題にすぎず、基本はみんな一緒だね。
こういう老人と、ニートの引きこもりで新幹線で無差別殺人をする貧しい終わった若者に架橋する価値観が果たしてあるんだろうか?僕は無いと思うな。終わった醜い青年よりも、裕福でカッコいい青年のほうが僕は断然好きだな。 散歩すると、立派な紫陽花が沢山ある。 今夜は、バンバンジー冷やし中華 激辛です。 |
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