ますます経済的な傾向を強める人間存在と人類の消費に対し、ますます密接に絡み合う実行(生産)と利益の機械仕掛けに対し、逆の運動をおこさなければならないと証明することの必要性。その逆の運動とは、人類の過剰分の豪奢を排除することであると、わたしは言いたい。人類のなかからは、平均的人間とはちがった形成と保存の条件を持った、より力の強い種が、より高次の類型が、光に浮かび上がってこなければならないのだ。この人間の類型についてのわたしの概念、わたしの比喩は周知のように「超人」という用語である。
今や完全に予見可能となったこの第一のみちの上に、適応が、平均化が、高次の「中国趣味」が、矮小化のなかの満足が、ーー人間存在の水準の一種の停滞がーー形成される。地球経済全体のこの管理、それは必ずや介入するはずなのだが、その管理をわれわれが一旦手中に収めたら、人類はみずからの最良の意味を見いだすことができるだろう。つまり、そうした経済のために動く機械仕掛けとしての意味を。ますます小さくなり、ますます巧妙に「組み合わされた」歯車の巨大な装置としての意味を。支配し命令するあらゆる要素の、ますます強くなる剰余的性格としての意味を。最小の力と価値をあらわす個々のファクターを集めた巨大な集合としての意味を。この衰退、細分化された有用性への人間存在のこの適応、それに対しては逆の運動をおこす必要がある。つまり総合化し、全体化し、正当化するような人間存在の創造という運動を。そうした人間存在にとって、人類のこの機械化は、存在の高次の形態を発明するための基盤としての限りにおいて、彼の存在の前提条件なのである。
それだけにいっそう、彼にとっては「均一化した人間たち」の群衆からの敵意が必要であり、その群衆に対する距離の感情が必要である。彼はそれらの群衆のうえに立つのであり、それらの群衆によって生きるのである。貴族主義のこの高次の形態は、未来の形態である。ーーー道徳的な次元で言えば、この全体の機械仕掛け、あらゆる歯車の連帯は、人間存在の搾取における最大限度をあらわしている。しかし同時にその機械仕掛けは、搾取に一つの意味を持たせてくれるような、何らかの人間存在をも前提にしているのである。もしそうでなかったら、その機械仕掛けは実際には、人間の類型の堕落、ーー最も大がかりな退行現象ーー以外のなにものでもないということになるだろう。
わかってもらえるだろうが、わたしが攻撃しているのは経済楽観主義である。その楽観主義にしたがえば、あらゆる人間の経費の増大につれて、あらゆる人間の利益もまた必然的に増大しなければならないかのようなのだ。われわれのケースはむしろ逆であるように思われる。あらゆる人間の経費の決算は、最後には完全な赤字で終わるのだ。つまり人間存在は堕落する。だからこの巨大なプロセスはいったい何の役にたったのか、それすらもわからなくなってしまう。何の役にたつ?新たなる「何の役にたつ」ーーこれが人類に必要なものだ、、、。
部分的には必然性が、部分的には偶然が、あちらこちらで作り出すことに成功したもの、すなはちより強い種の生産のための前提となる諸条件。それをいまやわれわれは理解し、意識的に意志することができる。つまりわれわれは、そのような上昇が可能となる諸条件を作り出すことができるのだ。
これまでは教育は社会の利益だけを念頭においていた。将来可能であるはずの最大の利益をではなく、まさに現存の社会の利益をである。社会のためには「道具」だけが必要とされてきた。力の豊かさがいまより大きいと仮定すれば、社会のではなく、将来の利益を目的とするような、そうした力の温存を考えてみることも出来るだろう。
このような責務を果たすためには、人々が次のことの理解を深めていくことが必要だろう。社会の現在の形態は力強い変容の過程のなかに巻き込まれていること、その結果、いつの日か社会は自分自身のためのものとしては存在できなくなるだろう、より強力な種族の手に握られた手段としてしか、存在できなくなるだろうということ。
人間存在の劣悪さが次第に酷くなっていくことは、まさに、より強力な種族の訓育をわれわれに考えさせるようにする力である。そのより強力な種族は、劣悪な種において一層衰退していくもの(意志、責任感、自身、みずからにさまざまな目標を定めることができること)のなかに、まさしく自分の過剰を見いだすのである。
手段が何であるかは歴史が教えてくれる。つまり、現在平均を形成している人間たちとは逆に、自己保存の利害関係のよって孤立すること、。逆転された諸価値の実行。パトスとしての距離。現在最も低く評価され、最も非難の対象となっているようなものすべてのなかの自由な意識。西欧の平等化は、今日では後戻りできない大いなるプロセスである。むしろその進行をいっそう促進すべきだろう。
それゆえに、溝を穿つことの必要性、距離の、ヒエラルキーの必要性が生じた。そのプロセスの進行を遅くする必要性ではなく。
この平等化された種が実現されるやいなや、それは一つの正当化を要求する。平等化された種は支配権力を持った種に仕えることを本質とするのであり、支配権力の種は平等化された種を基盤とし、それを基盤とすることによってはじめて、自分自身の責務の高見に上昇することができるのだ。
支配することだけで責務が終わるような主人たちの種族だけが問題なのではない。自分固有の生の圏域を持った種族、美や勇気や文化のための、もっとも精神的なことに関してすら正しい態度で振る舞うための、過剰な力を持った種族。大いなる豪奢を持つことの出来る、肯定的なる種族、、、充分な力を有すがゆえに、美徳の命令による圧政も、倹約も、衒学趣味も必要とせず、善と悪の彼岸に立つような種族。それは稀少で珍奇な植物のための温室となるのである。
「未来の強者たち」 フリードリッヒ ニーチェ
相場に「左脳」は使わない。だから少しは何か他のことに使用しないと左右のバランスが崩れてただでさえ変人で言葉が通じない現状はきっとますます悪化するのだろう。べつに悪化しても僕個人が生活上で取り立てて困るというようなことは60年でほとんど起きたことがないのだから何か現実的に経済利得のためにニーチェやドルーズを読むということでもない。
経済利得などもうほとんどどうでも良いと思うから、そういう面倒な雑事は普段はなるべく手を抜いている。興味の無いことに人は情熱や時間を多く裂くということはしないだろう。
r > g とトマ ピケティーは「21世紀の資本」で書いている。その通りだろう。だから何だ?というのか。
相場なら面倒だから低位株をずっと2013年から1000枚1億くらい現物買い持ちして数ヶ月か数年かは知らんが倍加するまでほったらかし。それだけでは飽きるから感覚と操作の練習で、毎日ストレッチの健康体操のようなもんだから純空で30枚1000万ぐらいは控え目に売ってみる。それで50万でも100万でも利食いになればマダムや孫の小遣いにでもなるんだろう。立花さんと同じような比率の操作なんだから、それこそ慣れが出来れば「馬鹿でも出来る」うねり取りなんだが、慣れが必要な事だから初心者はきっと上手くいくのに10年ぐらいはきっとかかるんだろうと思う。
>充分な力を有すがゆえに、美徳の命令による圧政も、倹約も、衒学趣味も必要とせず、善と悪の彼岸に立つような種族。それは稀少で珍奇な植物のための温室となるのである。
100年前にニーチェが予言したそういう新しい種族とは誰だろう?圧倒的に力動的で孤独な個人としての過剰な力を持った種族。きっと「民主制」が破壊された後に生まれる種族なんだろうと僕は思う。先進国で出生率が自然に下がっているという事実は、たぶん本能としての母性が差異化された生殖を恐れている証拠なんだろうと思う。ベランダで雪を受けたクリスマスローズが開花した。旬の時期がいつかを聞き忘れたのだけれども名前からはきっと冬の華なのだろう。厳しい環境にあっても咲く華はきっとあるという事だろう。 |
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