2015年の年頭予言
あけましておめでとうございます。
年末には「十大ニュース」、年頭には「今年の予測」をすることにしている(ような気がする)。ときどき忘れているかもしれないが、今年はやります。
今年の日本はどうなるのか。
「いいこと」はたぶん何も起こらない。「悪いこと」はたくさん起こる。
だから、私たちが願うべきは、「悪いこと」がもたらす災禍を最少化することである。
平田オリザさんから大晦日に届いたメールにこう書いてあった。
「私は大学の卒業生たちには、『日本は滅びつつあるが、今回の滅びに関しては、できる限り他国に迷惑をかけずに滅んで欲しい』と毎年伝えています。来年一年が、少しでも豊かな後退戦になるように祈るばかりです。」
これから私たちが長期にわたる後退戦を戦うことになるという見通しを私は平田さんはじめ多くの友人たちと共有している。私たちの国はいま「滅びる」方向に向かっている。国が滅びることまでは望んでいないが、国民資源を個人資産に付け替えることに夢中な人たちが国政の決定機構に蟠踞している以上、彼らがこのまま国を支配し続ける以上、この先わが国が「栄える」可能性はない。多くの国民がそれを拱手傍観しているのは、彼らもまた無意識のうちに「こんな国、一度滅びてしまえばいい」と思っているからである。私はどちらに対しても同意しない。
国破れて山河あり。
統治システムが瓦解しようと、経済恐慌が来ようと、通貨が暴落しようと、天変地異やパンデミックに襲われようと、「国破れて」も、山河さえ残っていれば、私たちは国を再興することができる。私たちたちがいますべき最優先の仕事は「日本の山河」を守ることである。私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。
日本語の語彙や音韻から、「当たり前のように定時に電車が来る」ことまで含めて、私たち日本人の身体のうちに内面化した文化資源と制度資本の全体を含めて私は「山河」と呼んでいる。外形的なものが崩れ去っても、「山河」さえ残っていれば、国は生き延びることができる。山河が失われれば、統治システムや経済システムだけが瓦礫の中に存続しても、そんなものには何の意味もない。今私たちの国は滅びのプロセスをしだいに加速しながら転がり落ちている。
滅びを加速しようとしている人たちがこの国の「エリート」であり、その人たちの導きによってとにかく「何かが大きく変わるかもしれない」と期待して、あまり気のない喝采を送っている人たちがこの国の「大衆」である。上から下までが、あるものは意識的に、あるものは無意識的に、あるものは積極的に、あるものは勢いに負けて、「滅びる」ことを願っている。
そうである以上、蟷螂の斧を以てはこの趨勢は止められない。
自分の手元にあって「守れる限りの山河」を守る。
それがこれからの「後退戦」で私たちがまずしなければならないことである。
それが「できることのすべて」だとは思わない。統治機構や経済界の要路にも「目先の権力や威信や財貨よりも百年先の『民の安寧』」を優先的に配慮しなければならないと考えている人が少しはいるだろう。彼らがつよい危機感をもって動いてくれれば、この「後退戦」を別の流れに転轍を切り替えることはあるいは可能かも知れない。けれども、今の日本のプロモーションシステムは「イエスマンしか出世できない」仕組みになっているから、現在の統治機構やビジネスのトップに「長期にわたる後退戦を戦う覚悟」のある人間が残っている可能性は限りなくゼロに近い。
だから、期待しない方がいい。とりあえず私は期待しない。
この後退戦に「起死回生」や「捲土重来」の秘策はない。
私たちにできるとりあえず最良のことは、「滅びる速度」を緩和させることだけである。
多くの人たちは「加速」を望んでいる。それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかはどうでもいいのだ。早く今のプロセスの最終結果を見たいのである。その結果を見て、「ダメ」だとわかったら、「リセット」してまた「リプレイ」できると思っているのである。でも、今のような調子ではリセットも、リプレイもできないだろう。リプレイのためには、その上に立つべき「足場」が要る。その足場のことを私は「山河」と呼んでいるのである。
せめて、「ゲームオーバー」の後にも、「リプレイ」できるだけのものを残しておきたい。
それが今年の願いである。===================================================================
内田 樹 先生の今年の念頭予言を全文掲載してみた。既に読まれた人も多いだろうと思う。
とても警告的に厳しいことだけを書いておられるようだが、年末28日に聴いた「辺境ラジオ」のトーンとは少し趣が異なるようでもある。まああまり楽観して今後の日本を見ていないし、現在の政権が継続すればするほど事態は悪化して「山河が根底から崩れ去る」という危機感に迫られているような文体でもある。大衆を説得、訓育するための言説であるのだから当然だろうが、阿部政権は遠からず崩れるという予言もラジオでは言っていたようだ。まだ4年任期が残るから、しばらく交替は起きないと思うが、ボスの変更は起きると見ているようでもある。
日本で「リベラル」はちっとも人気がないのだが理由は民主党の失敗が直接的な理由だが、その失敗を引き起こしたのは日本人われわれ自身の「見識の甘さ」と「根拠無き幻想的期待」だったという他は無い。無い袖は長くは振れないのはどんな政権でも同じ事だが、「上げない」という消費税を自分で上げている民主党はオウンゴールだったわけであり、まあ自業自得であるとも言える。
別に積極的には現政権を強く指示するわけではないものの、他よりはマシという消極的支持という人も多いし、投票しないという拒否の人も半分いるわけであるから政治にも社会にも多分関心が薄いのである。
ラジオで彼は「今年こそ仕事はしない!!」そう宣言していたが仕事中毒は依然として変らないようで、年間に20冊もの新刊を昨年は出していたようだ。大半はブログの焼き直しと自分で書いている。今年はそれでも絞って仕事をするらしいが、特筆すべき2点を強調していた。
2 日本文学全集『徒然草』現代語訳 池澤夏樹監修
1に関して以下を転載する。
空間的には、今ここでは救済も支援も理解もない場にあるときに、人は時間のうちに身を持すことによってはじめて立ち上がることができる。信仰はこの「到来すべきもの(à venir)」への全面的な信頼なしには存立しない。レヴィナスはそのことを彼個人の霊的確信として知っていた。だが、それを哲学的に展開し、非ユダヤ人を含めた普遍的な人類の知へ登録することの緊急性を、ホロコースト経験を通じて痛感したのである。レヴィナスが『時間と他者』から戦後の思索を開始したのはそれゆえである。空間的に見ると絶望的な隔絶と未決にしか見えないもののうちにこそ、最も豊かなものが時間的に観取される。その直感を彼は彼個人の霊的感受性や彼の民族の運命ともかかわりのない価値中立的な哲学の言葉で述べようとした。その迂回が強いる言葉への屈曲が、この時期のレヴィナスの言葉を「ほとんど意味不明のもの」にしていた。これが私の仮説である。
そう書く内田サンのレヴィナスの時間と他者への知ということがおそらく現在の日本人に最も喫緊に必要とされうるものだろうという身体的な直感こそ金などではきっと買えないものだと言えるのかもしれない。だからこそ僕は彼の『徒然草』現代語訳に期待したい。身体性を通じて、普遍的な日本人の知へ登録するべき僕たちの『山河』として。そうだとすれば逆説的には2015年はきっとそんなに悪い未来ではないのかもしれない。
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