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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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熟れた果実

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 熟れた果実というのはそのうち堕ちる。ということで正月のお年賀用に売っているイチゴを買った。
1粒が5センチもある巨大な紅ほっぺという品種で15粒で1600円だ。一粒100円ぐらいだから高級品である。それが残したのだろう500円の叩き売り。2箱買って食べたが実に美味しい。これぐらい大きくて粒のそろった物は100粒のうちに1、2しかないから、15粒集めるには1500ぐらいの中から一番良いのを選ぶ。だから4倍の値がつくわけだ。値とはつまり希少性という幻想であると言える。

5301東海カーボンをチビッと純空で売っているのは昨年書いた。あのままほったらかしていたら、今日は指数に連れて崩れてきたようだ。売りの平均は (363.25)4− だから340円だと10万ぐらいの評価益に現在はなっている。べつに100枚売ってもよいのだが、試しなので少なめにしている。
日柄は 12/10 、11、 19、22、と2週かけてゆっくりと売ったが、高値は 12/24 381がザラバ高値、寄りだと378同日となっているが、ヒゲの高値の5%以内に売り玉の平均が入っているのから、まあまあ高く売れたんだろうと思う。
安さんの言う「売っちゃ踏み」を一度もしないで、トントンと4枚建てるのは邪道だが、まあ「感じで建てる」というやり方にいつの間にか慣れてしまったし、この前に6675で2−3回練習していたので、上手く乗り換えが出来たのだろうと思う。
同時に6445も崩れ始めたようであと3円で全玉に利が乗りそうだ。
 折れ線グラフを書いているから、3ヶ月とか6ヶ月とか期日が来ると(変動周期という意味で)売るか?買うか?持続するか?無視するか?というような4択を無意識にきっといつもしているんだろう。
買いでも売りでも、すべて分割で売買するのだし、少ないと2枚、多ければ50枚ぐらいは玉が建つことが多いのだが、現在は細かいつなぎ売りはしたくないので(面倒だから)その替わりに値動きにこちらの手が合っているか?という感覚のチェックをするために、10枚程度を純空で売って様子を見る。
これは10年ぐらい前にバカラさんというプロが「頼むから死んでくれ!」という試しの売り玉なのだが、こういう風に思う時というのは経験上「なかなか死なない玉」になって、利食いで終わるということが多いのだ。
引っ張って(3−6ヶ月)底から立ち上がって急騰したものは、買い方は誰だって利食いで終わりたいから、直近の買いの参加者は全体が崩れそうになれば急いで利食いに走る。すると売りが増えて、買いは引っ込むから値がダレるということが起きる。
よく崩れる前に「前兆があるのか?」という質問が来るのだが、個人的には「ある」と思う。というか「イッパイで伸びない感じがしたら崩れるかな?」と感じるのだ。きわめて個人的な感じで、数値的な根拠は一切無いし、当たるかどうかは時間が来ればわかる。ちょうど熟れ過ぎた果実のような感じや匂いが場帳からするのだと書くと「はあ?なんですかそれ。」と言われる。感じというのは感じだからそれ以外に言いようが無いことである。だからそういう感じが自分でするようになるまで場帳をたくさん書くとわかると思う。どれぐらい僕が書いているかというのは、年間3000枚程度の4本値を書いている。20年で6万枚だ。すると匂いとか感じとか速度とか強度とかがよく感じるようになると思う。
大きく取るには売りでも買いでも「長っパリ」で値幅を取らないと実現しない。引かれ腰は弱く、利食いが強いという仕切りに自分を持ち込むには相当の時間と練習が必要だと思うが、それにはまずとにかく決まった同じ銘柄の場帳を長い期間書き続けることが前提であると個人的には思う。5年では少ない。最低10年は同じ銘柄を続ける必要があると思う。そうしないと煮詰まった感じなんて出ないんじゃないかなと思う。「慣れ」こそが全てだろう。
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  だが、「幸福」の繁栄は新しい支配において起きたいろいろな軋みを考慮に入れてなかった。17−8世紀には、営利と市場への思考が強まっていった。 最初は(相続不動産に基づいた)農業の形で、続いて(可譲渡資本に基づいた)生産の形で。19世紀にはフーリエに始まりデュルケームに至るまで、合い言葉は「文化」ではなく「連帯」になった。産業革命と新しいブルジョワ階級への権力の移行は、社会的身分という古い「自然的」秩序を、社会階級という新しい構造にすげ替えた。もはや血筋などどうでもよく、履歴、職歴が重要となる。そしてそれは血筋とは違って誰にでもそれと分かる後天的属性である。連帯の概念はある種の道徳的義務として、あるいは少なくとも拘束的な集合意識として、案出されている。だが、その背後には依然として成層化原理が前提として潜んでいる。ただ以前とは違って今度は、階級社会が労働の分業によって富を増進し、それが垂直的にも水平的にも差異を増大させる、という形をとった。このとき社会の概念は命令的な要素を以下のような意味において含んでいる。すなはち、「社会というまさにその名は、それがたんなる血族であってはならず、全体の公共的利益を提供するものであることを含意している」。同時にわれわれは、一般的な知識として、「熱死」が避けられないことを予言した熱力学のエントロピー増大の理論を思い起こすが、これに依拠するとき、その当時の道徳規範(連帯と生存)や、資本制と産業の組織化は単に一時的で偶発的な結晶化の所産であるようにも思える。
 グローバルシステムの境界の内側で多様化が甚だしく進行し、また機能的分化とテクノロジーの発展によって可能性の増大への箍が外れたことで、社会はその自己記述に際してゼマンティークの水準で反応することになる。相対主義が正当化を求め始めるのである。社会は、「可能的なもの」という枠組みの内部に、「許容できるもの」というより狭い枠組みを必要とする。社会は有意義とされる期待を囲い込むための様々な装置を創り出すが、「可能なもの」の枠組み内部の枠組み、がこれに当たる。この内部の枠組みは、例えば倫理、文化、規範、公認された英雄的行為、傑作、古典といった制度として記述されるだろう。現代社会についての代表的言説、すなはち、現代社会とは「未完のプロジェクト」だとする理論は(ハーバマス1981)、人間という枠組みを使用している。よく調べてみると「現代社会」というプロジェクトは自由「と」平等、自己実現「と」連帯といったスローガンにみられるように、パラドキシカルな相貌を呈する。だが、このパラドックスは「理性」と称され、プロジェクトは、18世紀のキャッチフレーズを使って、「未来を孕んでいる」とされる。だが、未来はどこまで行っても未来であって、それが現実になることは決してない。未来が含んでいるのは、パラドックスを構成する両極の間で振幅が起きるという予測だけである。だが、今日われわれが直面している多くの喫緊の課題に鑑みるとき、上に述べた現代の自己包含的なパラドックスがこのままずっとわれわれのパラドックスであり続け、未来がこうしたパラドックスの解決を待っている永遠の水平線であり続ける、といった保証は果たしてあるのだろうか?
 20世紀は幸福も連帯ももたらしはしなかった。実際、連帯は、社会運動や増税や地方における公共投資のデモンストレーションの別名にそれぞれなってしまっているのが現状である。社会はいまや「活力ある社会」と称し、各国が世界規模で「平等な生活条件」の実現に向けて邁進しているとされる。何人といえども他人より多くを望むべきではない一方で、少なくとも、適切な水準をはるかに下回る生活を、境遇によって強いられてはならない。こうした願望がマスメディアとマスマーケットによって再生産されるーーーだがこれは所詮願望でしかない。現実の兆候はどこにも見られない。社会が約束に応えるはずがないのは明らかである。連帯や人類の幸福の実現よりも、生活条件の平等化の方が、約束が守られないのははっきりしている。そして再度言うが、統一が分化に対立しているのと丁度見合う形で、平等な生活条件は階層化と対立している。まるでそれこそが人間の条件に関わる問題であるかのように、階層の平準化が目指されるわけである。
 20世紀の終わる今、われわれはこれまでの経験から学ぶ必要がある。社会の統一を、あるいは、社会の本質までをも定義しようとする野心の伝統に属する語彙の出涸らしを使って同じ仕事を続行しようとしても詮無いことである。われわれが取り組むべき問題は、差異を定義し、秩序と無秩序の出現を観察できるように虚空に分割線を引くことである。

 ニクラス ルーマン「現代社会をどう概念化するか」 大黒岳彦 訳 より転載

年に数回東京に行くと一つだけ良い事がある。BOOK OFFという古本屋で好きな本を漁る楽しみがあるということだ。元旦の東中野で唯一開いている店が古本屋であるというもの僕がついている証拠かな?
1冊100円の10冊の書籍と4冊の雑誌を買って2070円だったと思う。重いが安い。タダ同然なのが嬉しくて哀しい。現代思想はもう40年来のお友達だから、気に入った特集を見ると反射的に買うのだが定価が現在1300円だが古本だと500円ぐらいだ。1冊ざっと読むのにも10時間はかかる。多分数回(3−4回)は読むからきっと数日は暇が潰れる。
ニクラス ルーマン「現代社会をどう概念化するか」を一部引用してみたが、実に正確に現実を切り取る視点が優れている.
「僕は上手に分割線を引き続けることが今後もずっとできるのかな?」正月にグラフの更新をしながらそんなことを少し考えてみた。
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 相場では「天底一致」という現象がたまに起きる。適当に選んだ低位株を80枚柄ぐらい折れ線グラフを書いていると、年に数回は偶然そういうタイミングに出会うから、興味があるのなら、とにかく沢山書く以外に巡り会いのチャンスは見えない。(基礎と道具の重要性ということね。)
これは軟派のコツと同じで、定点である地点にこちらは留まり、向こうからやってくる単独の女子に必ず声をかける。10人でも50人でも100人でも300人でもとにかく女なら誰でも良いから「声をかける」のである。すると10%ぐらいは口を利いてくれるし、好運なら暇を持て余している娘が1人位はお茶ぐらいはご一緒してくれるかもしれない。とにかくコツは「数」である。なんでもそうだが、数というのは例外が生まれるという前提で物事を見る場合重要な要素で、これを数学では「大数の法則」というが理屈は理解できても日常生活に反映させて「現実的なメリット」を享受できるようなスマートな頭脳は実に稀だと思う。周りにそんな頭の良い人は誰もいない。ベトナムさんぐらいだろう。
さて、先日ひよこさんに6440の売りと(純空)6773の現物買いのうねり取りの説明で折れ線グラフをアップした。6440を売って、6773を買って4−2というポジションを僕は現在作って見ている。

6440
12/16  416  1−
  /17  416  1−
  /18  448  1−
  /19  456  1−   (434)4−  と売り

6773
 12/12 235  −1
   /18 227  −1      −2(231)と買って「売り長」のスクエア手前である。

1000枚近く現物買いが他にあるから別段、買いポジションを増す必然性はゼロだが、時間軸の関係から短いリズムの練習譜をひよこさんに見せるにはこんなポジションを見せれば、彼女なりに深く時間ということを考えてみるだろうし、資金量から無理なく真似ることも出来るかな?という僕の過剰なおせっかいである。
彼女は6440を落として5301に乗り換えたが、別段何でも宜しい。僕は5301も同時に売っていて現在(363.25)4− というポジションだ。

場帳と折れ線から6440,5301は半年とか3ヶ月のタームで天井かな?と感じ、一方6773は底かな?と感じて、近々「逆転」が起きないと「変かも?」と感じたから、上記のような仕掛けと増しと乗り換えが起きたわけだ。いずれも量とインターバルと速度は、「猫の感じ」であり、売買の平均値を意識して天井や底の1割前後にハマるように建てている。
コツは「売るのも買うのもゆっくりと」だが「買いのほうが売りよりも更にゆっくりと」やるのが僕の癖とコツだ。
「イッパイな感じ」がしたらもうシメタものである。このシメタものという感じが出るまでは、必ず買い玉はひかされ、売り玉は担がれる。だからその時間を最小にするには「ゆっくり」が最善であるというのは「当然」だろ? ド下手は急いで自滅するから「ゆっくりが上手い」という事なんだね。しかも少なめのほうが成功しやすいのね。だって平均値の操作が楽だからよ。団子を作ると不利でしょ?

 さて本日前場引けで6440は443(ー12)、6773は245(+11)とシメシメとなった。天底一致ということにどうやらなりそうである。6440は売りで6773は買いでリズムやうねりを同時に取っている。指数とかNYとか為替とかは玉操作には関係ないだろ?値動きと鞘だけ見ていれば良いということだろ?つまり「基礎」以外のノイズが入るから感覚がダメになるという証拠をこうして僕は実験してひよこさんに証明しようという事なんだね。
 そんな意味で今月の場帳を載せて置く。よかったら参考にして「ゆっくり売買」してご覧なさい。

女性の時代

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 女の時代だと思う。有馬懸念で今日も牝馬のジェンティルドンナが勝って引退レースになったそうだ。エネルギーの弾け方に勢いがあるからだろう。
 男が結果を予想して決断を躊躇している間に、易々と女は実りをさらって行くという光景を、僕は我が家の食卓でもう20年以上も前から目にしていたからだ。長男と長女は年子で、兄ちゃんはおっとり、妹はガッツリという組み合わせ。兄は妻に似てジャニーズ系の美男子でいつも女子にちやほやされて育った。一方妹は僕の生き写しで性格もそっくりだ。母娘で花屋をやっていてもお客さんに母娘と思われた事は一度も無いそうだ。水と油。食卓で兄ちゃんは好きなオカズを最後に残して食べる。妹は好きなものをまず最初に食べる。食欲自体も妹のほうが断然強い。そして兄ちゃんがよそ見をしている間に、その兄の好きなオカズをさっとハシでさらって口に入れてしまう。そんな光景は日常的だったし、その後も彼らの食事の順番に変化はなかったから、いつも妹は兄に頭を叩かれていたように思う。それでも叩くにしても加減というものを兄は考えるから妹にしてみれば、叩かれるマイナスと獲得するオカズのプラスを計算して同じことをずっとしていたんだろうと思う。妹は「損少利大」を教えないでも知っている。
 女性の時代という割には、企業社会での女性の地位は低い。管理職の割合の国際比較でも日本は1.2%、アメリカ13%、スエーデン44%というから、話にならない。まあ儒教国家なんてどこでもそんなもんで、アルカイダと大差ないと言えるだろう。会社をしばらく経営していた時期があったから、女性の働き方ということを少し考えていた時期があるから、能力という意味で男女差が大きいとはあまり感じたことはない。むしろ真面目さという意味では女性はちゃんとしているひとが多い。ものごとの見方が現実的で保守的なのは女性のほうだろうと思う。子供を産んで育てるという肉体機能がそういう行動規範となったと思われる。成人するまでの20年ぐらいをなんとか子供が一人前になるまで我慢強く現実を飲み込む力と粘りがあるんだろうと尊敬しているのだ。だからそのご褒美として「良い思い」というのがないとやっていられないだろうと想像する。だから具体的に(この具体性が無いと意味が無いのだ!)唯物的に、しかも言語的に明白に感謝と愛をもって答える以外に♂の返礼は無いと断言できる。

 記念日にはダイヤモンドの指輪とピアスを、クリスマスには素敵なディナーを、誕生日には美しいドレスと旅行を、ととにかく「唯物的な奢侈」こそ「気持ちの表象」である。とてもわかりやすいが省くと後が恐い。
マダムがクラス会に言った時に、一番素敵なドレスと靴と車で行けるような暮らしが一応の♂の通信簿という事だろうと僕は思ってずっと仕事をしてきたように思う。「贅沢は素敵!」だからどんどん稼いで贅沢をするのが宜しいと感じてきたし、今後もそれで良いだろうと思う。好きなように自由に生きること以外にとりあえずしたい事も見当たらないし、他の事が今更出来るとも思えない。

魔法使いの弟子たち

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  今や私には疑うことはできない。好運とは、知性が、それ固有の領域に、また行動におのれを限るためには恐れなければならぬものなのだ。同様にして、好運は、知識欲への答えの反対物として、人間の恍惚の対象であるのだ。
 恍惚の対象は、外部からの答えの不在である。人間の説明不能の現存は、不可知の夜の空虚の上に宙吊りにされた意志が、みずからに与える答えだ。この夜は、すみからすみまで、一箇の鉤の破廉恥にみたされている。
 意志は、自分が火炎につつまれるのを知る。自分の中に一種の夢の性格があるのを見わける。夜の中の、捉えがたい星の墜落を見わける。
 好運は、死と同じく、あの苦痛にみちた「恋人の愛咬、望まれるものでありながら、なお恐怖をそそる愛咬」だ。好運は、生が死と一致してしまうあの苦痛に満ちた位点だ。性の歓喜の中でも、恍惚の中でも、笑いの中でも、また涙の中でも。
 答えとは、幸福な答えにせよ不幸な答えにせよ、骰の一擲だ。そこに生が賭けられてきたのである。生は、きわめて無邪気におのれを賭けてきたので、偶然の生んだ結果とはみとめられぬほどだった。だが、賭けだけが、答えの真理であったのである。答えは賭けのやりなおしを求め、疑問への、賭けへの投入を持続させてきた。ただ、二次的には、答えは賭けから手をひいてしまう。だが、もし答えとは好運であるのなら、疑問への投入は絶えることなく、賭けはつねに変らず全面的で、答えは疑問への投入そのものであるだろう。
    賭けの魅力  ジョルジュ バタイユ「無神学大全」より転載

 「一切の労働哲学を愚弄壊滅する」という一点において僕はバタイユの末裔を自称する。だって猫は働かないからであるし、貯蓄もしなければ、通勤も会議も販売もしない。(通勤する猫って形容矛盾で想像できないでしょ?)猫という動物は、一日中、日向の暖かい所をみつけて寝ている。寝ていないわずかな時間は食べているか遊んでいる。子猫の時から死ぬまで同じ日課であり、唯一の例外が性交する相手を獲得する闘いだ。岩合さんの猫のテレビを見ているとよくわかる。通勤や販売会議をしている猫は映らない。たまに泳ぐ猫がいてビックリしたけれど、僕も泳ぐから別に人間が泳ぐなら猫だって器用な猫はきっと泳ぐんだろうと思う。
 ある時僕は考えた。猫は僕よりも幸福そうな寝顔をして寝言を言うのだから、飼い主が猫並みに幸福に生きて悪いはずはなかろうにと。それで会社を売って仕事を辞めた。37だったと思う。猫に教わって会社を売る男は多分あまりいないと思う。その意味では変っているかもしれない。贅沢好きの怠け者で、口は達者で手は早い。考える前に身体が動いているほうだろうと思う。働くのは嫌いだが、それでも腹は減るから金がいる。それであれこれ考えて金になりそうなものが相場だったというだけだ。そんな時期に僕はバタイユ、ニーチェ、クロソウスキー、サド、ドルーズ、ガタリ、を読んだ。それこそ毎日何時間も、十何時間も本ばかり読んでいたと思う。小学生の子どもが二人いた。自転車で近所の図書館に出かけてめぼしい著作を借りたり、周辺の文献を探して神田神保町に出かけて古本屋を漁るのが一番の楽しみだった。
 昨日、新潮45という左翼誌(?)を買って斜め読みして今日は過ごしていた。他に湯浅誠君の新書とエンジン1月号とSINRA1月号もパラパラと見ている。目立った言葉に「里山(さとやま)」というのがある。藻谷さんは「里山資本主義」を書いているし、玉村爺さんは今月号で「里山のおくりもの」と題して、田舎暮らしの効用を説く。いずれも「都会」や「都市」に対しての「田舎」「里山」の復讐という意味で都会と地方というのとは少し異なる、地方にも地方都市があるが、都市に対立する空間軸という意味で「里山」ということなのだ。養老先生のいう参勤交代も里山と都市の空間的交替を指して言っている。里山の効用を現代の知性を代表する賢者たちが詠うのは、彼らの感覚的、経験的知見だろうと僕は思う。実際に里山で虫ばかり取ったり、農業をやったり、限界集落の調査をしたりと彼らは里山の体験者であるという点が説得力がある。それなら僕も里山で相場を張ってもよいだろうというだけのことだ。インターネットもあるしさ、、。無論どこにいたって労働なんてしない。するのは自分のためのお料理、お洗濯、お掃除だけである。
 結論として「資本主義は既にもう死んでいる」と僕は思う。だって長期金利がゼロかマイナスなのだから、死んだも同然である。資本主義のお葬式を都市を中心に現在進行中だという認識で僕は相場を張っている。資本主義が死んで次にどんな主義になるのかは見当もつかないし、その死骸がはっきりと目に見える時間を僕が経験するかどうかさえもわからないが、とにかく死臭がプンプンする都市で暮らすのは不愉快だから快適な田舎に逃げて来たという所だ。感覚人間だから、決めたら10分で行動に移す。家族にも理解されないし、そのうちわかるだろうから面倒なんで説明もしない。一生かかっても田舎では使い切れない金がある。だからもう働かないのだ。ブローデルの弟子、ウオーラスティンの描く資本主義が終わった後はひどく醜い。まるで現在の東京のようだ。

 現在、東京23区の出生率は1.1だ。つまりカップルは1人しか子どもを作らない(作れない)。人口減少と高齢化で古い団地は限界集落と同じことになっている。そのうち40年もすると湾岸の高層マンションも同じことに確実になる。東京は日本中から若者を吸い寄せては人口を半減させるブラックホールのようなものだ。どうも日本列島に居住不能地域が増えた方が良いと考える人がいるのだろう。地方が経済的に壊滅して、生活が成り立たない地域が増えれば結果的に人口は首都圏に集中する。労働者も消費者も一極集中すれば、賃金は下がる。ライフスタイルも消費行動も均質化する。それは資本主義には理想的状況だろう。労働力以外に売る物を持たないという人たちが都市部に集中すれば短期的には巨大な利潤が上がる。
 他方、沖縄の出生率は1.94と突出している、本土でも離島や山間過疎地にも2を越えるところがある。一番先に子供の減少に直面した日本の過疎地に一部で、先に再生が始まっている。「里山」と賢者が詠う理由がそこにあると僕は直感するのだ。

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