愛しのLILY 様
「詐欺師としての」哲学者は、現実に対する人間の振舞いを変えるということを口実にして、このシュミラークルの放縦さを、科学の諸方法に従いつつ、思考と経験のあらゆる分野で実験しようと試みる。いわゆる現実なるものの原則を廃棄するためには、「生理学」から最大限の帰結を引き出すだけで十分である。もちろんそうしたら、知性の欺瞞的な専制を告発し、知性による検閲が科学の諸方法をいまだに現実原則の限界のなかにひきとめて事態を告発することになるのかもしれないが。
ファンタスムが「理解不可能な」記号として生まれるのであるとして、その顕現がなぜ不毛であるかという原因は、何らかの道徳的検閲に有るのではなくて、その検閲が現実原則と一致しているということにある。芸術そのものも、検閲の固有の圏域の中で動くことしかしないのだから、やはり検閲の共犯者である。科学のほうも、宇宙と生を探求しながらも、現実原則に関する人間の振舞いについてはいかなる結論も引き出すことはない。この現実原則が、安全と生の連続(集団的な)のために作り上げられた、本質的に制度的なる原則であるということ。繰り返しになるが、こうした考えこそが、この哲学的詐欺の計画の背景をなすものである。
ひとつの目標を定めること、ひとつの意味を与える事ーーたんに生気に満ちた力の数々に方向を与えるばかりではなく、あらたな力の中心(複数の)を生じさせるためにーーつまりこれがシュミラークルのテーマである。目標の、意味の、シュミラークルを捏造する!だが何から出発してなのか。欲動の生の諸々のファンタスムからであるーー「力への意志」としての衝動は、すでにその最初の翻訳者なのだ。
しかしーーーと反論することもできるだろうーーー、もし衝動という強度の波が、知性によって、集団的安全の保証人たる目標と意味とにしたがって、必然的に逆倒されるものであるとするならば、いうまでもなく群れへの「力の意志」は他のあらゆる衝動よりも優位に立つ。知性とその諸カテゴリーがこの原初的欲動(種の保存の)の組織的産物であることは明らかではないか。そして、他と同様、ここにもファンタスムが存在するとしたら、そのファンタスムは自分自身のシュミラークルを、人類の歴史のなかで最も有効なシュミラークルを作り出すことに成功したファンタスムであることも明らかではないか。そのシュミラークルから出発して、人間の行動はみずからのためにさまざまな活動圏域の全体を作りだしたのであり、それら活動圏域はそのまま現実原則の諸様態をあらわしているのであるーーつまり活動と非活動の区分の諸様態を。ところで認識は最初は観照的、理論的であり、次第次第に経験的なものとなるのだが、その認識もまた一つの解釈する「力への意志」であり、その意志は、自らの対象をいかに理解し、いかに操作するかのやりかたに従って、そのつど現実を再創造するのである。まさにここで二つの力への意志が衝突する。すなはち集団的な力への意志と、個人のイニシアティブを通じて集団性を破壊する力への意志とが。
介入し再創造しようとする認識の衝動にとって、現実とはどこで始まり、どこで終わるものなのか。科学が探求を深めれば深めるほど、認識は、自分が何を認識しているから出発して、自分がどれほど無知であるかを知るようになる。現実であると「仮定された」ものは、『X(未知なるもの)』として認識に抵抗するようになるのである。しかしながらニーチェにとって、科学のなかで現実原則として彼に抵抗したものは集団的衝動にほかならなかったーーそれは言わば臨界点であり、そこから出発して認識は、種の没しさる場所である「カオス」に向かって開かれていくのである。ニーチェは幾度となくこう繰り返したではないか。「真理」としてのこの「空隙」の概念は生の機能には同化されえず、「真理」という名称は、ある種の生物にとっての存続するための必要不可欠な錯誤でしかないと。しかし種の安泰などどうでもいいことではないか?
ニーチェ読みのリリーさんに、クロソウスキーが1976年にドルーズに当てた「ニーチェと悪循環」からのディスクールから僕が一番大好きな部分をひとつお伝えしたいと思う。無論インテリの君の事だから、すでにお読みになっているかもしれないのだが、僕が特筆したいのはシュミラークル(幻想)とファンタスム(欲動の熱情)、およびそれらの集団と個人との反対方向の力の衝突について現実原則に関して僕が感じている事は実は今こういう事なんだということなのだ。
君の当時の生活とは全く無関係だと思われる哲学や経済の言語群を僕が以前写経のようにして数百枚に及ぶレポート用紙に書き続けて君に送った理由とは、明らかに同じ地平で交わされる発話と受話の対象に君が最も適していると感じたせいでもあるし、きっとそのうち君にとってもとても重大な認識の言語基体が必要になる時間がやってくるだろうと僕が予想していたせいもでもある。君が僕の追っかけを始めたのは(才色兼備に追いかけられるのは実に光栄だね!)単純な人間的興味という事だったが、それは実は「個人のイニシアティブを通じて集団性を破壊する力への意志」ということでも無論あったのだろうと僕は感じていたし、君がニーチェを5年ほど前から読み込み始めた時に「やっぱりね」と苦笑してもいたのだった。続くのか立ち止まるのか、それが問題だ。
このブログを書き始めた時にサブタイトルという項目があって、さて何にしようかなという決定項の選択に「集団と個の対峙」が浮かんだのは、「鴨を喰う猫」という神話世界の言葉が君にいつかは届くと良いのになあと無意識に感じてもいたのだろう。念を送っていたら1年ちょっとで届いたようだが、君のアンテナは現在少し壊れかけていて電波を上手く受信できる状態ではどうやら無いらしい。おせっかいだが、お休みが必要な時が誰にでもあるのだから、お金と生活は後回しにして少しゆっくりと良い本でも読んでみたら新しい発見が君の想像力と勇気に新たな羽を植え付けるかもしれないと思うのね。チェ二ジアでテロが起きたり、フランクフルトのECBのビルの新設に抗議した大規模なデモで暴動が起きたりと、「資本主義」は予定調和の進みゆきで破滅に向かって匍匐前進という様なのだろうかと思う。バレンタインデーに君が贈ってくれた立派なゲバラの革命本の中にカードが挟んである。なつかしいので一部引用する。
猫次郎 様
VALENTINEにはとても似つかわしくないカードでとても似つかわしく無い革命家の本をお贈りします。
がんばってこじつけてみると、愛と革命は似ている、、、かな?
きっと君にも個人的な革命の時間が迫りつつあるのかもしれない。武運を祈る!
貴女の猫
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