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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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革命への匍匐前進

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  愛しのLILY 様

「詐欺師としての」哲学者は、現実に対する人間の振舞いを変えるということを口実にして、このシュミラークルの放縦さを、科学の諸方法に従いつつ、思考と経験のあらゆる分野で実験しようと試みる。いわゆる現実なるものの原則を廃棄するためには、「生理学」から最大限の帰結を引き出すだけで十分である。もちろんそうしたら、知性の欺瞞的な専制を告発し、知性による検閲が科学の諸方法をいまだに現実原則の限界のなかにひきとめて事態を告発することになるのかもしれないが。
 ファンタスムが「理解不可能な」記号として生まれるのであるとして、その顕現がなぜ不毛であるかという原因は、何らかの道徳的検閲に有るのではなくて、その検閲が現実原則と一致しているということにある。芸術そのものも、検閲の固有の圏域の中で動くことしかしないのだから、やはり検閲の共犯者である。科学のほうも、宇宙と生を探求しながらも、現実原則に関する人間の振舞いについてはいかなる結論も引き出すことはない。この現実原則が、安全と生の連続(集団的な)のために作り上げられた、本質的に制度的なる原則であるということ。繰り返しになるが、こうした考えこそが、この哲学的詐欺の計画の背景をなすものである。
 ひとつの目標を定めること、ひとつの意味を与える事ーーたんに生気に満ちた力の数々に方向を与えるばかりではなく、あらたな力の中心(複数の)を生じさせるためにーーつまりこれがシュミラークルのテーマである。目標の、意味の、シュミラークルを捏造する!だが何から出発してなのか。欲動の生の諸々のファンタスムからであるーー「力への意志」としての衝動は、すでにその最初の翻訳者なのだ。
 しかしーーーと反論することもできるだろうーーー、もし衝動という強度の波が、知性によって、集団的安全の保証人たる目標と意味とにしたがって、必然的に逆倒されるものであるとするならば、いうまでもなく群れへの「力の意志」は他のあらゆる衝動よりも優位に立つ。知性とその諸カテゴリーがこの原初的欲動(種の保存の)の組織的産物であることは明らかではないか。そして、他と同様、ここにもファンタスムが存在するとしたら、そのファンタスムは自分自身のシュミラークルを、人類の歴史のなかで最も有効なシュミラークルを作り出すことに成功したファンタスムであることも明らかではないか。そのシュミラークルから出発して、人間の行動はみずからのためにさまざまな活動圏域の全体を作りだしたのであり、それら活動圏域はそのまま現実原則の諸様態をあらわしているのであるーーつまり活動と非活動の区分の諸様態を。ところで認識は最初は観照的、理論的であり、次第次第に経験的なものとなるのだが、その認識もまた一つの解釈する「力への意志」であり、その意志は、自らの対象をいかに理解し、いかに操作するかのやりかたに従って、そのつど現実を再創造するのである。まさにここで二つの力への意志が衝突する。すなはち集団的な力への意志と、個人のイニシアティブを通じて集団性を破壊する力への意志とが。

 介入し再創造しようとする認識の衝動にとって、現実とはどこで始まり、どこで終わるものなのか。科学が探求を深めれば深めるほど、認識は、自分が何を認識しているから出発して、自分がどれほど無知であるかを知るようになる。現実であると「仮定された」ものは、『X(未知なるもの)』として認識に抵抗するようになるのである。しかしながらニーチェにとって、科学のなかで現実原則として彼に抵抗したものは集団的衝動にほかならなかったーーそれは言わば臨界点であり、そこから出発して認識は、種の没しさる場所である「カオス」に向かって開かれていくのである。ニーチェは幾度となくこう繰り返したではないか。「真理」としてのこの「空隙」の概念は生の機能には同化されえず、「真理」という名称は、ある種の生物にとっての存続するための必要不可欠な錯誤でしかないと。しかし種の安泰などどうでもいいことではないか?

 ニーチェ読みのリリーさんに、クロソウスキーが1976年にドルーズに当てた「ニーチェと悪循環」からのディスクールから僕が一番大好きな部分をひとつお伝えしたいと思う。無論インテリの君の事だから、すでにお読みになっているかもしれないのだが、僕が特筆したいのはシュミラークル(幻想)とファンタスム(欲動の熱情)、およびそれらの集団と個人との反対方向の力の衝突について現実原則に関して僕が感じている事は実は今こういう事なんだということなのだ。
 君の当時の生活とは全く無関係だと思われる哲学や経済の言語群を僕が以前写経のようにして数百枚に及ぶレポート用紙に書き続けて君に送った理由とは、明らかに同じ地平で交わされる発話と受話の対象に君が最も適していると感じたせいでもあるし、きっとそのうち君にとってもとても重大な認識の言語基体が必要になる時間がやってくるだろうと僕が予想していたせいもでもある。君が僕の追っかけを始めたのは(才色兼備に追いかけられるのは実に光栄だね!)単純な人間的興味という事だったが、それは実は「個人のイニシアティブを通じて集団性を破壊する力への意志」ということでも無論あったのだろうと僕は感じていたし、君がニーチェを5年ほど前から読み込み始めた時に「やっぱりね」と苦笑してもいたのだった。続くのか立ち止まるのか、それが問題だ。
このブログを書き始めた時にサブタイトルという項目があって、さて何にしようかなという決定項の選択に「集団と個の対峙」が浮かんだのは、「鴨を喰う猫」という神話世界の言葉が君にいつかは届くと良いのになあと無意識に感じてもいたのだろう。念を送っていたら1年ちょっとで届いたようだが、君のアンテナは現在少し壊れかけていて電波を上手く受信できる状態ではどうやら無いらしい。おせっかいだが、お休みが必要な時が誰にでもあるのだから、お金と生活は後回しにして少しゆっくりと良い本でも読んでみたら新しい発見が君の想像力と勇気に新たな羽を植え付けるかもしれないと思うのね。チェ二ジアでテロが起きたり、フランクフルトのECBのビルの新設に抗議した大規模なデモで暴動が起きたりと、「資本主義」は予定調和の進みゆきで破滅に向かって匍匐前進という様なのだろうかと思う。バレンタインデーに君が贈ってくれた立派なゲバラの革命本の中にカードが挟んである。なつかしいので一部引用する。

 猫次郎 様
VALENTINEにはとても似つかわしくないカードでとても似つかわしく無い革命家の本をお贈りします。
がんばってこじつけてみると、愛と革命は似ている、、、かな?

きっと君にも個人的な革命の時間が迫りつつあるのかもしれない。武運を祈る!
                                                                貴女の猫















































































































































































































































































































起承転結

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ミュルザンヌはさすがにデカクて立派です。こんな車の路上生活が出来たらジャックケルヤックも多分びっくりするだろうなあ、、、。

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マダムが狙ってるセットはステンレス

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水銓のデザインが美しい

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LILYさん、こんな夕焼けを見においで!元気になるよ。


「猫の素敵な生活」というのをなるべくiphoneの写真を加えてテキストを書くというのを今回の一応の主題にしている。前回10年ほど前の僕のテキストは猫塾の生徒用に掲示板で書いたり、猫塾通信に相場のことを書いていたので結構硬いことを書いていたが、こんどはグンと砕けて個人的な事ばかりで相場のことはどうでも良いなあと個人的には想う。個別で「自称生徒」はブログを開設しているのだから、必要に応じてヒントを彼らにちょっと書いてやれば、良く読めば文意ぐらいは通じるだろうと思う。リアル感を出すのにはお会いしたことのない人だってちゃんとラングが通じれば双方向のコミュニケーションが十分とは言えないが可能だろうという証拠になる。手段をどう使用できるかは道具の限界もあるが、当人の能力による(言語能力と知能という意味)から、ちゃんとしたご本を精緻に読み込むしかない。哲学書は良い教材で、ドルーズやガタリ、フーコー、ニーチェ、クロソウスキー、バタイユなんて読むと自分の言語理解の程度がよくわかるだろう。それがわからないとすれば「論外」で寸評に値しないので相手にしたくない。あとは御本人様の自助努力以外に方法なんてないんですね。みんなそうやって残る人は残ったというだけの自然淘汰の世界です、最初から。自分の譜を上げるのが苦痛なうちは「上手く見られたい」という一般人の羞恥心が邪魔をして1ミリも上達がないのも事実で、堂々と損切りの譜を上げて自己弁護の言くらいは書けないと心臓に毛が生えている人ばかりのジャングルで残れるはずは元々ないのだろうと思う。
何割かが残る世界ではなくて数%しか残らない世界だという自覚が全員にほとんどないのであるし、まあ10年で3%ぐらいが成功の統計だろうと思う。海図のない船の旅だから遭難しないほうが不思議というものだ。悪天候は突然やって来て、それこそ火山噴火と地震と津波が一気にくるのだから、慎重に行かないとそのうちに時間の問題でやられるというのが常態であると思う。儲かり始めると玉が膨らむのは常だけれど、一番のリスク回避とは取ったお金を欲望の実現にさっさと先に変えてしまうこと、これが猫の秘訣だと思うから「こーんな素敵な暮らしも有るデヨ」とお写真付きなのである。相場をする人は一番にまずお金が欲しいという事だろ?なんで欲しいのか?といえばそれで物とサービスを買って素敵な暮らしをラクチンにしたいのだろ?と思うから、さっさと出来る人から人様より先にすれば良いでしょうに、、というのが言い分なんだが、お金は交換の記号ですというのを大半の人が相場をしているうちに忘れてしまうのだろうと思う。獲得すると身体欲求はその時点で収まる。ゴハンを食べて満腹になれば「もうごちそうは見たく無い」にきっとなるでしょ?そうなればあとは眠くなって寝るだけです。(喰って寝ると肥るけど、、笑)猫の生活はその繰り返しで単純ですね。またお腹が空けば狩りをして食べるの反復だ。狩りが出来なくなってしまえば後は死ぬだけのこと。「貯蔵」なんて概念は無いのよね。だから余計なものがないので身軽でしょ?それでいいじゃないですかと僕は思うよ。
 一応高校の現代国語かなんかで作文の要諦は 起承転結というのを習ったよね?お金を使った僕たちの生活も同じことで、この起承転結の反復で誰もが成り立つわけだから、バランスや順番が変ると失敗するのは当然だろ?と不思議にもあまり感じないらしい。理由はわからないが、お金が記号ということを忘れて、価値そのものだと誤解するせいもあるのだろう。たくさん持っていれば安心安全だという錯覚と幻想だろう。そんなに不安ならこんなヤバイ世界になんて近づかなきゃ良いのにと思うのだが、、。交換価値と使用価値という事を習った人もいるのだろうから復習してみれば良いのにねと思う。
 羊飼いとかジプシーとか、過去の放浪生活をする人たちを僕は良く夢想する。ON THE ROADの路上生活者だ。ホームレスに少し似てはいるが彼らは移動し続ける。まるでマグロの回遊だ。潮に乗って小魚を追いかけて狩りの旅をずっと続ける。目的地を意識もしないし、波まかせ風まかせの自由な旅だ。国境もなく、言語も多分無く、身体だけが頼りの放浪する狩りの旅で、きっと数万年前にアフリカで最初の人類が生まれて世界中に散らばった時は人類全部がきっとそんな危険な旅をずっとしてきたのだろう。温暖とか豊穣とか周囲の状況を理解できるまで一体どれぐらいの命が消えて行ったのだろう?暑さと寒さ、飢えと乾きで僕たちの感覚は自然に醸成されていったのだろう。味覚だって、あれこれ試しながら食べたり飲んだりしているうちにきっと美味しいとはどういう感じなのかが決まっていったのだろう。感覚というこちらの本能は、物質というあちらの有り様に対する遺伝的な反射なんだろう。それには反復と時間と質量が決定因なんだろうが、それを持続的に決定する体幹としての強靭な身体を絶対に要求する。つまり身体が一番大事だということだ。
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アワビはデカ過ぎ!

間合いというのは難しい。絶対的な尺度なんてものはそもそも存在しないのだから、常に「結果オーライか?」だけが問題視される事象だろうと思う。
複雑な人間関係のマトリックスは、会社、学校、家族なと基本的な生活の場や仕事場で複雑さをどんどんと増していく。民主制が一般的になった近代以降は、接触する密度や頻度が増しているから、周囲360度の接触が常に起きるのがこの世界だから、それだけで神経質な人はぐったりと疲れてしまう。適当にウッチャって放置したり、無視したりすれば良いだけの事であり、お互い様であるから気に入った相手と気に入った時にだけコンタクトすれば良いだけの事だと割り切りが効くようにしたほうがお互い楽だろうと思う。日本で一番多いのは尊属殺人だが、これも家族の距離が近すぎるから起きるという要因も強いだろう。距離が物理的に離れていたら、わざわざ手間隙とリスクを取ってどんなに憎くても家族を殺すなどと普通の人が考えるとは到底思えないのだ。狭い部屋や家にいるからそういう事がフトした拍子に爆発して起きてしまうのだろう。倫理や教育の問題というよりは、面積と経済の問題の要素が強いのかもしれない。双方が幸福だとすれば、わざわざ自分からそれを棄てるリスクと取る人間はほとんどいないだろうと思う。
 これだけ多くの人がいるのだから、意見が一つに纏まることなどまずあり得ないという前提で対処するのが大人の礼儀というもので、それが嫌ならその合議には加わらないという手がある。現在の選挙の投票率の低さとは投票する価値がない、そんな下らない事に時間や興味を取られたくないという反発の現れもあるんだろうと思う。あの予算委員会の答弁を見ていると、「ダメだなこりゃ」と感じるのは僕だけではないだろう。昔は軍部がもっと全面に出ていたから226事件ではないが、「暗殺」というような非合法の手段が実行されたから政治家も少しは考えて政策実現に向けて仕事をしたのだろうが、福島の原発汚染の問題ひとつを取っても、誰が主体でどう処理をしていくのか、今後のエネルギーをどうするのか、どう改善してどう修復するのかちっとも対策や改善が見られない。起きた事は致し方ないかもしれないが、同じミスを何度もする可能性ぐらいなんで直ぐに潰して改善しようとはしないのだろうか?銃刀法規制が緩かったら、自民党議員は果たして夜をぐっすりと眠れるだろうか?想像力が枯渇していると言う他無いような気分である。大河ドラマを毎年国政放送で繰り返すが、「天誅」を主題にしたテロリストの物語でも一度は企画してみれば良いのにと思う。藤原の鎌足と中大兄皇子の起こしたクーデターとか、日本でもそういう政変劇はあったのだ。どこから権力の変質が起きたのかは敗戦を機にしている。アメリカの植民地になってからそういう事が起きなくなったのだろう。中間を変えても何も変化しないという諦めがこの国のルールにいつの間にかなったのだろう。だから浮かばれない政治意識は金に走ったのか?
 あまりに下らないと「無い事」にして扱うという習慣しかこちらは手立てが無い。別にいいもんね、俺には関係ないからと火の粉が及ばない遠い遠いお山の上で関わりを断って行きて行くのはお気楽な生活だ。たまにごちそうが欲しい時だけ山を下りて餌にありつくために麓に降りる。昨日は久しぶりの「分けとく山」だった。
オリジナルの吟醸酒をマダムが戴いた。少し甘いらしい。春になって、華が咲いて、みんなが笑えるようになるといいなと思う。

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東京へ出張(笑)した。大人4人で車で往復。朝8時半に出て夜10時半に帰宅。きっと毎日普通のお勤め人はこんな行動の時間割かな?朝はもう少し早くて夜も早いのかな?相場は出来ないが、スマホでの売買は可能だがあまりしなかった。暖かくなってウキウキするね。運転が楽しい。なんかエンジンも軽くなったような気がする。天候とエンジンって関係があるのかな?回転が鋭くなっている感じ。
それより前日に、朝の成り行きで3銘柄の利食いを入れておいた。別に喰っても喰わんでも良いのだが、少しは動かすほうがいいかなあ、、と。春になって気分が明るくなったせいか、相場も指数を中心に大型は少し高いが、あとは蚊帳の外という感じ。することもない。途中では5541だけ後場寄りで−1と拾っただけ。
 出張は新居の改装のため、キッチンを見て来ることだった。クッチーナというイタリーのオーダーメイドのシステムキッチンのショールームが代官山のツタヤの側にある。ここのショールームで店長さんが親切に説明してくれた。実にカッコイイキッチンで、「台所のロールスロイス」というだけあって豪華で素敵!まるで映画に出て来るキッチンそのものである。こんなキッチンで猫が料理する絵は想像できない。アルパチーノがカクテルかなんかを作るようなそんな絵なの。美女にも多分似合わない。隙が無さ過ぎて女が美しくきっと見えないだろうと思う。
豪邸向けが中心だから、うちのフラットのような狭い所では本来の良さは出ないだろうが、まあ何事も知らないことはお勉強なので、見て来たのだ。一級建築士の友人夫婦と一緒だったので、専門的な説明を聞けて『ああ、そういうものなのか』と思う事が多かった。自分の知らない世界がたくさんあるんだなあと思う.お値段も素敵でフルセットだと1000万ぐらいはしちゃいそうで、なんだ車と同じだねと思う。キ○○○とか芸能人がお客さんなんだねえ、、。こんな素敵なキッチンでさぞかしすごい料理を作るのかといえば、それが普通のカレーだったり、お握りだったり、鳥の水炊きだったりするのだから、ほとんど意味があるとも思えないが、資本主義とは全て幻想だという仮説は本当だねといつも思う。
本日は春闘の一斉回答日らしい。トヨタが6000円の要求に4500円だというから良いのか悪いのかよく実感がないのだが、1日4500円ではなくて1ヶ月4500円だとすると22日出勤だと1日当たり200円ぐらいということ?クッチーナと逆の意味でこれも幻想かね?そういう交渉に力が入るという意味もよくわからない。どうでも良さそうな誤差なんじゃないかね。
 これで景気がドカーンと良くなるようには常識的には思えないが、まあマイナスでなくプラスが2002年以降では最大だということらしい。そうか、みなさん大変なんだね。
 東京でランチは永福町のマッシモタッヴィオでピッツアを戴いた。ディナーは麻布の「分けとく山」で懐石のコース。あっさりで美味しかった.代官山のショールームの前にはネイビーブルーのミュルザンヌが停まっていた。大きくて立派だね。怠け者だから1日動くとすごく疲れて、深夜に風呂に入ったら11時間も寝てしまった。起きたらお昼です。猫はプンプン怒っている。「僕のゴハンはまだですかあ?」という事です。
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「身体がガタが来る前にしたいことをしろ」そう僕が思ったのは父親が死んだ24歳の時だったと思う。父は小さな書店を3店舗ほど経営していたが、とにかく365日、元旦以外は店を閉めないという頑固一徹の方針で、商売というものは店を開けない限り客は来ないというモットーだった。もう40年も前の商売法だから現代ではきっと通じないが、売上げや利益を極大化することだけが即幸福に直結しているという信念があったのだろうと思う。それでも60歳手前でガクッと体力が落ちて胃がんにかかって61でアッサリ亡くなった。僕が24の時だったから孫の顔を見ていない。野郎の生き方に周囲が四の五の言ってもどうなるものでも所詮無いが、親の死に方を見た子供は当然「反面教師」として親を見る。死んだら稼いだ金も自分では使えない。それで本当に人生楽しいのかよ?というのが僕の若い時の最大の疑問であったし、それに対する反発が僕のその後の学び方、働き方や遊び方に影響したのは間違いない。死んだら仕舞いだ。
 「人の1/5の働きで5倍の実入りなら時間の自由と物の贅沢が存分に可能だろう。そういう商売って無いのかな?」と単純な算数計算を思った。「革命家(最近はテロリストとも言うらしい)山師、相場師、詐欺師」ぐらいは多分そうなんだろうという根拠なき山勘で一番身近な相場師をめざしたのである。するリスクとしないリスクという発想も無論あるのだろうが、もともとゼロで生まれる人間にゼロ以下のリスクは無い。あるのは残されている時間だけ。近代経済学に「パレート最適」という概念があるがこれを現実的に実行しようとしている大人を見た事が無いのは何故だ?ヤバ系のお仕事はこのパレート最適に挑戦するお仕事のように僕には映ったのである。どれをやってもリーマンの数倍は楽しめそうである。「そう思いませんかあ?」と誰かに聞いても「寝ぼけたことを言うな」と一喝されるのが現代資本主義教育の答えなんだろうと思う。なら主義教育そのものをコケにして成立する世界って構想できないのだろうか?アウトサイダーというのは、そもそも「枠組み」自体を疑ってかかるからアウトサイドなのであって、それは一旦インサイドから外に出てみないと意識化することが不可能な世界である。ホームレスとか乞食とか狂人とか罪人とか資本主義の枠組みの外側にいる人たちに多分ヒントがあるのだろう。徹底して遺棄される価値観こそが主義の本質的な陥穽を表象しているというのが僕の山勘である。センスの善し悪しとはそんな所なんじゃないのか?コリンウィルソンやミッシェルフーコーやジョルジュバタイユという人たちは頭のどこかにそんな構想がきっと一部分は確かにあったのだろうと思う。

大学時代から相場ものの小説やら伝記を革命本の副読本として読んでいたせいもあるし、法に抵触しない商売なら一番これが硬いかな?と一応は一般市民的なことも考えたのだ。イデオローグなんて左右どちらでも都合の良いほうでよろしい。信仰/倫理など犬に喰わせろとニーチェも言ってるし。(笑)それにはまず種がいるから丁稚のリーマンをやって業界を覚えて顔を売って独立して元手を作るという順等で当然の進みゆきになったのである。林の爺さんと似たようなものだろうと思う。34で1億キャッシュを作って36で身体を壊して会社を売って辞めた。あとはチンタラここまでなんとかグータラ仕事もしないで生きている。「若い時に閃いた山勘は当たった」と思う。勘が良いとか運が良いとか鼻が効くというのは成功の大きな要素だがそれを実現に向けて起動させるために必要な心持ちはきっと楽観と勇気だと思う。それが無いと多分何をやってもアカンことになるのかな?いや何一つ彼の物語は始まらないだろう。クスぶっていてもロクな事は無い。単なる時間の無駄である。思っているほど人生は長くはないのよね。
随分デタラメをしてきたし、それなりに楽しかったがまあそんな事は誰にでもあることだからどうでも宜しい。他人と自分を比較しても何も生まれないから、自分は自分、人は人、自分が気に入った生き方をするのが当人にとって一番自然で大切な事だろうと思う。そういう自由がまだこの国にはあるじゃないかと思うからそんなに棄てたものでもない。やるかやらんかは当人次第ということである。

 中年過ぎて無理をすると心身にガタが来るのは当然で、人間の身体はあまり長期間は無理が利かない。特に加齢が進むと大きくて長い無理は即座に死に直結するから御用心で、毎日仕事は2時間、温泉3回、食事2回、睡眠8時間にお昼寝付きと僕は決めている。残りの人生をとにかく無駄にサボる。何一つ生まない。まるで猫のようにだ。だから名前は猫次郎ということにした。それであとなんとか10年生きられれば、天井売りができるかな?と思ってもいるのだが、、。別段、自分で使い切れないほどの大金が欲しいというような大それた望みはもう無い。クローズド レビーストロースを読んだ以降は「労働ってなんだ?飢えってなんだ?」という生命の根源的な問題についてすこぶる哲学的、実証的、歴史的、民族的考察というのを図書館の本で読み漁っているうちに思考法の「資本主義的陥穽」に行き当たるという偶然に遭遇したのだが、集団を統合する近代国家のイデオローグの排除を実現するには「記号の市場交換=通貨、金利、債券、株式、不動産のからくり」に目をつけた人たちが市場を支配し、その結果人類を支配してきたという近代の事実を前提に「労働と飢えの関係性」についての個人的な答えを見つける必要があるということに考えが立ち至ったというわけである。生産、流通、消費および廃棄というマトリクスによって物質は回転する。どこかの過程に関与しながら個人は飢えを凌ぐという全体と部分という分断の中にあって、切り口とは記号>実体という価値の変質だろう。同じ事をピケティーが書いている。r>gというそれだ。

 老人二人が田舎の温泉に浸かって使える金などたかが知れている。「乗れるか、反れるか」ぐらいしか楽しみが事実もう無いのだ。そんなチンタラライフでなんとか生きることが出来る仕事で十分満足じゃないですかと思えば相場師は必然だったということで、なるべくしてなったと言う他無いのだろう。人ごとのようだがそんなものである。人は自分が望むべくしてなる以外に帰結はないのだろうと思う。
 民主党党首の岡田氏が網膜剥離で演説や答弁も辛そうで62歳で僕と近いし、周囲で眼がダメになる人は4−5名いる。他に癌になった人、鬱病になった人、心筋梗塞になった人、脳溢血やくも膜下出血になった人、歩行困難で車いすになった人、肝硬変になった人と大病をする友人知人が実に多いのだ。みんな真面目で利口で優秀な人ばかりだが、そういう人に限って大病で苦しむか早死するようだ。懸命に人一倍働いて成果も上げてたくさん納税したような人が1円の年金も貰わないでコロっと死ぬというのが人生なんだろうか。御本人が悪いのか?競争原理とは所詮そういうものなのか?原理がそうならそういう原理の支配しない世界で生きれば良いのではないか?つまりアウトサイドというわけである。まあ「教科書に幸福な方法は書いていない」というのが僕の結論である。別に長生きが幸福というわけでは無いと思うが、「自分の好きな事を存分にしてから死ぬ」というのは全ての人の本望という事だろう。それを実現することが唯一のその人にとっての「意味」なのじゃないか?万難を排してという言葉があるように、その為には全ての邪魔を排除して優先する。今までの過去を書き変える事は不可能だが、現在を変えることは本人の意志と決意と行動で可能だ。人は現在以外を生きられないし、仮に未来があるにしてもそれは現在を越えては訪れない。越えるために必要なのは「身体」をおいて他に無い。全ての主義の選民たちにくれぐれもお体をご自愛くださいと言う他ないのである。なんか国民健保のイデオローグみたいですね。仕事嫌いの怠け者で本当に良かった!
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