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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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さあ、夏が来る

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 お引っ越しで「お役御免」になったものが二つ出来た。メルセデスのワゴンを息子に1万円で売ったのと42型のテレビがついに画面が固まって動かなくなる時が増えたので買い替えた。寿命というのが物にはあるが、いずれも物事に飽きるのよりは数段長いようで、製品寿命という意味では日本製品は短く、ドイツ製品は長いというのが経験値である。高度に先進化された技術的製品ほど陳腐化しやすいし、壊れやすいという事もあるし、実際の使用に際しての不都合が起きれば、棄てて新しいものに置き換える。これを買い替え需要という言葉で定義すると、一つ棄てて一つ買うということで我が家に存在する物の数は増えない。単価の変化はあるにしろ欲求の総量は不変なので需要の総量も同じである。こういう状態を「定常」といって成長しない世界であるから、経済全体は拡大しない事になる。
 棄てたパナソニックのプラズマテレビは42型で厚みが10センチほどあってかなり重い。2005年製と書いてあるから猫が鳥が出て来る「ダーウィンが来た」という番組でパンチをして楽しんで、画面は爪痕で無数の引っ掻き傷の勲章が残る。記憶では新宿のドンキホーテの「雨の日セール」で23万円で売っていたものを洗剤や豆腐を買うついでに買ったものである。新型のテレビはコストコで52型のシャープの液晶を95000円で買った。随分と薄く軽くなったし大きくなったが半値以下である。テレビを作って売っても儲からんだろうなあというぐらいはどんな馬鹿でも想像がつく。事実この10年ソニーはテレビで一度も黒字が出なかったので現在少し戻った所を空売りしているぐらいだから、、。
先進国の大半は合計特殊出生率が2.1を切ったから、このような将来需要が伸びない(人口数が増えない)世界が定着しているから。物が売れない、景気が悪い、値段が下がるからさらに景気が悪くなるという悪循環をこの20年ほどの日本は続けてきたわけである。
今後も人口動態に大きな変化が無い限り、経済の数量的な部分は似たような傾向をたどる事になると見ておくほうが無難だろう。かといってお先真っ暗ということではないし、少なくとも全体は別として、個人レベルではチャンスはいくらでもあると思うから、将来を悲観しても仕方が無いと個人的には思う。
 3年前の不景気のどん底付近でメルセデスCL55を買ったのは、ドライヴィングインプレッションでカーグラという雑誌記事のコピーに「格差社会の勝ち組」というコピーにつられて買ったのだが、それは自分がどう思うかよりも自分がどう思われることが多いかという他人様の評価を重用視したからであり、そのような「誤解」を他人様が勝手にしてくれるのなら「世の中をおちょくってるみたいで良いんじゃね?」と思ったからである。ノマドライフに勝ちも負けもない。そもそもそんな格差社会そのものを「小馬鹿」にしてヒラヒラ、グータラ冷やかすのがスタイルであるから「懸命に努力して格差社会を勝ち抜く事」自体が馬鹿らしいと感じているから小馬鹿にするのである。「全ての労働価値を愚弄する」ためには、「労働によって勝ち取ることの可能な最高レベルの価値」を何の労働をするでもなくまんまとちゃっかり頂戴している猫がいますよね、、という挑発でありからかいである。「意味を無化する」にはそれが簡単だと思うからでもある。
価値や価格の体系自体を幻想であると無化するためには、最高と最低は同義であるという意味の反転を受容するようなライフスタイルの実現が好ましい、そう考える猫が一匹ぐらいはいても良いんじゃね?という問いでもあって、メタフィジカルな構想はメタフォリカルな構想よりもさらに有効であるという猫の知恵なのかもしれない。

 素敵な紫陽花をマダムが仕入れて来た。日本で最高の紫陽花で25センチほどの塊は圧倒的に豪華だ!
一輪2000円の値札がつくそうだが、海鮮丼3食分ととっちがお得か?とう野暮な設問をマダムは即座に否定する女である。さあ夏が来る。
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 12日は60歳の還暦だった。マダムが東京からケーキを買ってくるまで自分の誕生日なのを忘れていた。それでシコシコまたチキンカレーを作っていた。月に3回は最低作るが、4時間ほどかけて本格的に作るので僕のカレーのファンは多い。安い料理だが、外で食べるどんなカレーよりも人気があるのだ。大阪漬けという大根の漬け物を「サラダのようなお漬け物」という本で始めて知ったが、コレが凄い。大根を400グラムいちょう切りにして塩小さじ1で揉んで、重しをして3時間待つだけ。水分の大半が飛んで大根のこりこり感が出る。安いコストで旨い料理の見本のようなもので、流石関西人はケチで旨いものを作るなと関心した!

 海鮮丼という定番メニューが観光地には多い。熱海や伊豆のように海の付近の昼飯の定番で、安い店なら1000円ぐらい、高い寿司屋でも3000円ぐらいだから、庶民のドライブがてら気楽に食べるランチメニューとして人気があるのだろう。リーマンの普段のランチが1コインになってから久しいとは言え、その数倍の値段の休日のランチというのは「観光地プライス」という事で割高だが、せっかく来たのだからという旅行気分でそんなプライスを受け入れざるを得ないのだろうし、旅行に来てまでコンビニ弁当も無いというのも人情なんだろうと思う。
 50過ぎまで料理を作るのはマダムのお仕事と分業していたせいか、一端男が台所に立つと新たな人生の発見というほど驚くことが結構あるから楽しいなと思うのだが、人気の料理を凝って作ってみたら一体1食当たりいくら原価がかかるのか?というかっては商品企画をお仕事にしていた手前、変な原価管理意識が残っているのか、いろいろプロの料理人のレシピ本を参考にして作ってみると、売っている弁当よりははるかに美味でお得なメニューが食卓に並ぶ。数回作ると材料の選択と組合せ、火加減などで同じメニューでも出来が随分異なるのが体感できる。ポテトサラダ一つ取ってもイモはメイクイーンが一番旨いなあと思ったり、海鮮丼なら胡麻油の使いかたがポイントだとか、発見すると作るのが更に楽しくなる。
 海鮮丼を作ろうかと思って、湯河原にあるスーパーの魚貝売り場で1220円の6種盛りの良いのがあったので買った。中トロ、真鯛、金目、モンゴイカ、ブリ、赤味の6点がそれぞれ4−5切れ入った特売だったが昨日は売れていない。二人分として一人610円の原価だ。コメは2合炊いても余るからせいぜい50円だろう。他に紫蘇98円、胡麻、ミカンの皮、ネギ、胡麻油はゼロに近い。従ってトータル原価は材料費は700円前後だろうと思う。海鮮丼の原価率が一般店舗で30%だとすると23333円が標準上代ということで、事実、赤出しのみそ汁付きで2000−2500円程度の店がこの付近ではこのレベルの魚では多いのだ。1500円ぐらいの安い店は冷凍の赤味ズケのマズい丼なんて「猫またぎ」ぐらいしか喰えない。コンビニレベルである。
米は水を少し少なくして土鍋で炊くのがミソである。シャリがマズくては台無しだから、昆布を入れて固めに炊いて、蒸らしたら胡麻油を小さじ1ぐらい垂らした飯台にシャリを入れて軽くまぶす。そこに紫蘇、胡麻、ミカンの皮、ネギのみじん切りを入れてまぶす。冷えたら出来上がり。シャリに少し手を入れると「洗練される」世界になる。この方法は分けとくやまの野崎さんの「美味しい方程式」にすし飯の作り方として書いている。ここですし酢を使っても良いが、僕は酢の替わりに塩を少量振って食べる。そのほうが魚の味が分かりやすいからだ。
1 米は土鍋で炊く 酢でなく今回は塩がポイント(塩は赤いヒマラヤの岩塩)
2 すし飯は塩、胡麻油、紫蘇、ミカンの皮(ゆずでも良いね)ネギ,海苔がポイント
3 魚は厚切りを わさび醤油で 戴く

調理時間はせいぜい40分という所だ。車で寿司屋に往復するより多分早いだろうと思う。
料理や食事ひとつとっても、他者に依存して製品買いをするという一番安易な選択を取るとありきたりの市場商品を市場価格で買う以外に方法論がないのだが、少し選択と加工と工夫が出来れば、どんな馬鹿でも安くて美味しい高級な味を楽しめるという当然の事が起きる。銀座の久兵衛や世田谷のアラキで毎日鮨を喰う時間とゆとりのある人(経験のためには是非一度はしたほうが良いと僕は思うが)は別として、普段の暮らしを高級に変えるには手間と暇が金より数段重要な要素である例であると思う。それには自分で作るという動作の質が重要である。僕がコンビニをタバコの購入と公共料金の支払い以外にはほとんど使用しない理由はそこにある。
 手間を数工程増やす事で、出来上がりが全く異なる印象と味になるのが料理ということだから、それには既存の商品を買うという選択を一旦排除する必要がある。善し悪しの判断には、味覚を受け入れる健康な身体の状態と空腹を待つ忍耐、更に一流のプロの作った味をいろいろ経験する必要もあると思う。だから贅沢を無駄と考えていたら、人生の楽しみは大きく減ってしまうだろう。海鮮丼はあまりに旨いので写真を取り忘れてしまった!
 古い話だが、ギリシャ時代にセネカという哲学者がいたが、彼は「生活の技術(テクネー)」こそが重大な人生の命題であると看過した。その一番の命題とは「いかに食べるか」と「いかに寝るか」であった。高級とか高邁とか質の差異とはつまり技術と感覚の個人的な問題であるというふうに考えたのである。
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 会社を30歳の時に始めて少し当たった時にマダムとマイアミに豪華旅行をした事がある。マイアミ空港からレンタカーを借りてキーウエストまで海の上の路を爆走するロングドライヴでおよそ200キロぐらいをゆったりとビーチボーイズをならして走った。マイアミは風光明媚で温暖だからアメリカの高齢者の引退後の居住地で人気の有名な場所で、成功したビジネスマンたちが優雅に老後を過ごす街である。ジョンアービングの小説に出てくるような豊かな白人の引退する世界がそこにはあった。そんな場所を30歳の時に見たのだが、ドライブの途中でお腹が減ったのでデニーズで朝食を取った。ウエイトレスは70歳を過ぎた少し腰の曲がったオバーちゃんで、僕の母親よりも高齢だったと思う。それでも元気にジョークを飛ばしながら配膳をしていたのを思い出す。自由な国アメリカでも、いろいろな老人がいていろいろな老人の暮らしがあるという見本を見た思いだった。
 国営放送で日本の高齢化率が27%を越えたという報道があったが、これは2005年に14%だったものがたったの10年で27%に跳ね上がったという事で世界一高齢化が進んたダントツの老人の国に既になったという事である。おそらくあと10年で40%を軽く越えて行く事になるんだろう。
 理由は少子高齢化が極端に進んで、医療の発達で老人がなかなか死なない反面、子供が生まれにくい人口構造が定着しているという現実がある。ご存知、熱海とか函南のような老人が引退して住む街は現在でも高齢化率は高い。熱海はなんと43%とダントツに高齢化が進み、日本中から金持ち老人が集まってくる。人口の半分が老人(60歳以上ならそうなるはず)だから、どこを歩いても爺さんと婆さんばかりが目立つ。自分もその一人なのだから、日本の近未来の縮図と言えるのだろう。
 同じ高齢者でもその暮らしは様々で、僕のフラットの管理人は夫婦だが、旦那は80歳、妻は67歳と高齢である。月給は夫婦で27万の住み込みだが、旦那が博打好きらしくいつもピーピー言っているという噂で、そこいら中から金を借りまくってなんとか生きているというから、ある意味でご立派ではある。ほとんど仕事らしい仕事はしないようだが、それでも宅配便を不在中に受け取って、台車で玄関まで持ってきてくれたりはするからあと何年生きるか知らないが、そうやってきっと身体が持つ限りは彼は働くという事になるんだろう。一方でフラットの住民は30戸のうち、定住はおそらく6軒ぐらいしかいない。僕が一番若く、平均は75歳ぐらいだろうと思う。居住者平均でたぶんあと10年ぐらいは死ぬまであるから、大半は年金と資産で生活する人たちという事だ。男は先に死ぬのが普通だから女性の単身世帯が半分ぐらいだろうと思う。8台ほど車が止まっているから、そのうち2台持ちが2世帯だから、ここに住むにはやはり車は便利だ。坂が急だから登山のつもりで歩かないと駅から家まではつかない。1キロをゆっくり歩いても標高差250mで30分はかかるのだ。車がないと全部タクシーという事になる。
 65歳から80歳まで生きたとしてさて熱海でいくらお金がかかるだろう?消費が年間1000万なら15年で1.5億。これぐらいキャッシュがあれば熱海では普通の豊かな暮らしが夫婦で出来ると思う。住宅があるのなら住居費が少ないから(それでも年間100万ぐらいの管理費や税はかかるが)半分ぐらいでも可能だと思う。年金が月に20万ぐらいある普通のリーマンなら5000万ぐらいキャッシュがあれば、極端なインフレが無ければという前提ならなんとか人並みの暮らしが出来るかもしれない。それ以下の人は、働くか、生活を切り詰めるかしか方法が無いという事になるが、仕事はあまり老人向けのものはないから、熱海には住めないという事にきっとなるんだろう。

 熱海は地場の人とよそ者がはっきりとわかる街である。地場の人は貧乏で地味、よそ者の一部は金持ちで派手とぱっきり別れるから、すぐに見たらわかる。食事に行っても5000円のアワビや伊勢エビを喰う老人と500円の鯵を喰う老人がいて、その比率は10対1ぐらいだろうと思う。寿司屋の親父に聞いた話だから間違いないと思うが、それぐらいの割合ということで地場の老人5名と他所者4人ぐらいの比率だそうだ。
 だからアワビや伊勢エビを喰わないなら別にあまりお金が無くても生きるだけは可能だろうと思う。高額消費をする老人はメルセデスやアウディーに乗っているし、ナンバーは伊豆か品川が多いようで、社用車だから引退社長か会長さんであると思う。金持ちの老人たちの消費でなんとか持っている地元経済の割には金持ちに対する風当たりは強いようで、やはり貧乏への同質化圧力がここでも強いようだから、貧乏人のフリをするのが日常的には恨まれないお利口なスタイルという事なのだろうが、お山の上に住んでいるから僕は無視して勝手に好きなように暮らしている。貧乏人は金持ちに感謝がないから貧乏なのだが、きっと死ぬまで理解できないと思う。市場経済において、等価交換をするとして金持ちが金を使う以外に貧乏人にはお金は渡らないのだから、お客さんを大事にしない人にお金がくるはずも無いのにねえ、、.(爆)馬鹿は死んでも直らんのかなあ?

 将来年金支給がゼロになって、税金が数倍になっても生きていけるようでないとなかなか快適な老後は今後の日本では難しいのではないか。右肩下がりの国、成長が無くなって減衰する国の経済とはたぶんそういう景色になるだろう。あと50年か100年はそんな右肩下がりの人口と経済がこれから始まるのは確実だと思うが、残った10年(?)ほどを僕は好きな事だけしてせいぜい楽しくやろうと思う。お山の上から鴨を喰いながら、、、、。

さぼり癖

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さぼり癖がついて、お引っ越しとグラフ更新と湯当たりが重なって10日ほどブログをご無沙汰しているがまだ生きている。
新居はなんとかかんとか整理が終わりつつあるが、自分の荷物以外にマダムのお洋服とか和服とかわからないものはパッキンのまま放置。この際だからダンシャリ断行でどんどん棄てる。住み替えの度に居住面積が増加すると何も買っていないつもりでも荷物はいつの間にか増えている。一人で40坪の居住面積は、おそらく都市部の日本人の平均の3倍ぐらいらしいから広さと空間という意味では恵まれた暮らしということになるのだろうが、かけ流しの24時間入れる温泉と景観は確かに豪華で快適ではある。ノマドライフはとてもお得であるのにする人が少ない理由がよく理解できないのだが、きっと日本人は惰性と習慣の変更を嫌う国民性があるのかもしれない。
相場師というお仕事(税務署は認めない無職だが)は、勝っても負けても過剰と不足が激しい業界だから、金があれば結構過剰に消費でもしておかないと「やり甲斐がない」ことこの上ないと個人的には思うので、かれこれ40歳から20年、なんとかかんとか子供が成人して孫まで3人出来て、家族全員が飢えもせずに健康に豊かな暮らしが出来て、それで現金で家を2軒買って、店を買って、飽きるほど車を買って好きなものを喰って欲しいものを全部買っても、地味に暮らせばなおかつ死ぬまで多分使い切れなだろう金が残ったという事は、ヘタクソとしてはまあまあ上出来ということなのだろう。別段もう欲しい物などすっと以前からないのだし、欲しいものが自由な時間だけというすでに持っている時間以外にはないのだから、あとはゆっくり緩く残った時間を今まで同様に無為にグータラと生きて行く他に術は無い。仕事にも人生にも意味は無い。ただ無意味という意味があるのみである。
 さて転居の機会に、腕の良い大工に会えたので、懸案だった月足グラフの収納用の棚をオーダーで作らせた。
 サイズは縦1600、横1050、奥行き1200の5段のボックス状で最上段は仕切り無し。大型のストッパー付きの台車を付けて、大型の引手を付けている。このサイズでは通常の住宅のドアの規格では入らないので3つに分けて作って現場で組み立てを行ったので、搬出するのにはまた大工に分解して貰う必要がある。新居は出入り口が2カ所あるので勝手口を潰して、玄関部分をフラットの床を揚げてそこに配置した。事務用のデスクの奥に配置して書く時は引き出して使う。月足は僕は1000番ごとに丸めているので整理も楽になった。50年の長期だと全紙版の用紙を3枚貼付けて書く事になるので、30枚ぐらいが限界という感じである。勝手口を一つ潰してただけで済んだので圧迫感は無かったし使い易くしかも邪魔にならない。
 新居は伊豆山の鉢アラクという場所にある。ちょうど熱海の新幹線のホームから200メートルほど標高が上がった伊豆山の山頂部の7階にあるから、風の通り道という感じで、朝は海風、午後からは山風と方向が逆転する。鳥が多く、ウグイス、ツグミなど野鳥の声がウルサいほどのサエズリだ。右隣の森は熱海カントリークラブというゴルフ場の敷地で緑の中にある。左隣はMOA美術館だからとても静かで空気が綺麗だ。周囲は豪邸ばかりの一等地だからそれでも車で5分、1キロで新幹線の駅まで降りられるから足の便は快適で、まるで都会暮らしのようである。函南は標高が600メートルだったから気温が2度ほど新居のほうが高いようだ。気圧もその分少し高いのかポテチの袋はあまり膨らまない.(笑)山から麓まで降りて来た感じで、海まで2キロしかない急斜面という場所である。(傾斜角度は超きついから2速でないとトルクが不足する。)

駐車場は1戸に付き1台という制約があったのだが、車を使用していない人が貸してくれることになったので、回転式の大型パレットを確保できた。5500、2200ミリまで可能だからベントレーのセダンでも入る。函南のリゾートライフを4年ほど経験して分かった事で改善できる部分は、雪対策、交通の便、広さと温泉の質とバリアフリーかどうかという点だったが、とりあえず全て大きく改善できたので良かったと思う。
 伊豆山の桃山温泉の源泉はナトリウムカルシウムアルカリ単純泉なのだが、けっこうキツい。最初は1日1回でも湯当たりをしてだらけて何もする気が起きない。1週経ったので1日2回のペースに増やしで様子を見ている。バドガシュタイン鉱石を僕は持っているので、浴槽に2キロほど入れっぱなしで使用している。

自業自得

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 ブログを始めて連続で1週間何も書かなかったら「ついに死んだの?」というご心配のメールをベトナムさんから頂戴していた。メールチェックは週に1.2回しかしない事が多いのでメールを戴く人には失礼なのだが、僕は古い男だから、メールというのは切手を貼った「お手紙」と同じ時間的な意味だと思っている。緊急性があるにしても郵便と同じ時間ぐらいのつもりで使用する。だからしばらく反応がないと忙しい現代ではすぐに「死んだか?」と期待(心配)されやすい。
「便りのないのは良い便り」という格言は「死語」にどうやらなった日本で、こういう僕のような鈍くて緩い時間感覚を持った人間は、忙しい事に耐えられないという部分もあってか、田舎に引っ越してちんたらぐーたらライフをしていると他にすることが無いから常に暇である。だから何か書くかと始めたブログだが、暇つぶしがブログの効用で1−2時間かけて結構な長文を書く。書籍からの引用も多いし、間違いが無いほうが良いのでそのために再読することも多い。お陰で無用な左脳の使用も少し増えて、大学時代以来の読書量になっているようだが、それぐらい集中して大量のテキストを読むという贅沢な時間に浸っていると、下手な自分のテキストなど書くほどの意味は無いという事が痛切に感じられもするのだから、義務感とか責任とかお仕事なら嫌でもすることの効用(自己規律)というものの必要性も感じたりする。

 還暦に手が届くようになると周囲でもご病気やご不幸が当然増えるのは事実だし、ああまた一人と思うから嫌でも次は俺かな?と思うから、生への欲望が特段と強い自覚の無い僕は当然日常的に「死」を思う事もある。ただしそれが具体的に切実という意味でないから(身体は逆に田舎ライフで快調そのものだから)意識と身体のギャップにある意味戸惑う。
ベトナムさんのようにご子息がまだ中学生ならここで死んだら死に切れないという切実な時間的な未練があって当然だし、事実ご家族は困るのだろうから状況はどうあれ生き残る意志は実に硬いものがあるのだろう。一方でこちらはもう孫が3人だから、まあ死んでも別段誰も困らんぐらいの用無し状態の必要性(金だけではない存在の必要性、社会性という意味だ)だから、欲望の必然性にも「飽きて」しまう。口の悪い奴が多分僕の死因は「退屈」と医者が書くだろうとコメントか以前事実あったぐらいなのだ。だから大地震とか大噴火とか大津波とは具体的な生命の危機のようなことが起きると、「ああ、まだ俺は悪運尽きずに生きている」という事を切実に感じられるという逆説にはまり込む。昨夜の大規模地震は、伊東の街中の喫茶店に友人とパフェなんてナメている時に起きたのだが、30キロ走って少しマシな寿司屋で友人夫婦と夕飯を喰って、パフェを喰って(マダム以外の3名は下戸であるから)まるで不良中学生のような時間割である。例外的であるという意味では特段の例外性が時間的にあるから誤解を生みやすいという事がこのように生じるのだろうと思う.(身から出た錆と言うのだね。イメージをぴったりと英訳するのはかなり困難かな?)

 GQの編集長、鈴木正文さんが二元社に入ってカーグラフィックの編集室に配属された新人の時に伝説の編集長、小林正太郎さんに質問したことがあるらしい。「どうやったら運転が上手になりますか?」という問いに小林さんは「常に全力で運転せよ。(全速ではないよ)」という見事なお答えをされたそうである。
これは音楽を聴くとかナビを見るとか携帯を取るとか運転に支障のあるような外部性を排除して、エンジンとタイアと車体の動きと速度や距離に集中しろという一義的意味があるのだろうということだ。すると自然に人馬一体状態がそのうち生まれて運転が機械と身体とが同期するという体験を知るという事だろうと思う。技芸に上達するというのは理屈ではない。だから身体が覚えるまで反復して同じ動作を叩き込む訓練ということで、身体の拡張が身体と機械(車や馬)の間に起こりえるという経験的な事実ということだろう。科学的に証明不能な事だが、そもそも現代科学の限界性をこのように露呈するという意味で「上手い下手」の差異化の証明と言えるのだろう。だから何でも「(正しい道具と方法を選んで)やってりゃそのうち上手くなる」という事である。
ところが大半の人は「便利である」という表面的な同時性を重要視して、運転とは直接無関係の音楽やナビや携帯を運転中に操作しようとして事故る。全力で集中しないのだから身体性の拡張が同期しないから当然の結果なのだが、たぶん馬鹿だから気がつかないのだろう。
だから営利追求の資本主義社会では常に「便利で良い事」という事の大半は生物の生存本能の感覚的価値とは逆方向に働くという事実に眼を瞑るという事に等しいという仮説を僕は持っている。だから確率5割の予測の当否に対して相場で勝ち残る人の比率が極端に低いという事実が残るんだろ?と仲の良い人なら僕のクドイ話をなるほどと思うという事なんだろう。まあどうでも良い事ではあるが、大衆を組織的に騙すのは「お得で便利」とさえ宣伝すれば良いのだから楽なものではあるなあと思うのだ。
きっと日本人はテキストやラングやパロールを真面目に扱ってこなかったからこんな馬鹿な首相を生んだのだろうし、その意味で自業自得ではある。

 言語の習得には質の良いテキストを大量に読むという習慣は重要である。その意味で読書とは永遠に知性と教養の源泉であるという意味は今後も変らないと思う。
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