「総菜と弁当は買わない」という禁止事項を勝手に自分に課してここ10年ほど暮らしてみた。東京にいる時には、伊勢丹と高島屋が近かったので夕飯の食材調達にデパ地下に週に1、2回はお買い物によく行っていた。料理がいつの間にかマダムのご命令に変って、夕飯を作るのが僕の主たるお仕事(他にもお洗濯とかお掃除とかも)にいつの間にかなってしまって、生まれて初めて50歳ごろから「主夫」を押し付けられたという不本意な状況に追い込まれる。寄り切りでズルズルとそうなった。別にお金は僕が稼いで普段通りに渡しているのだが、「お花屋さんが忙しい」ので「暇そうな貴方が全部しなさい。」という無言の圧力である。効率論から言うとまるで算盤に合わないことぐらいは誰にでも分かる事だが、家族の権力分布というのは効率論では解けない事がきっと多いと思う。子育てが終わり孫が生まれて、マダムは「自分のしたい暮らし」の中で「花屋のお仕事」をまず優先するのが素敵と思ったに違いない。熱の入れようを見ればそれ以外「眼中に無い」状態なのは30年も一緒にいれば空気でわかるから、逆らうと棄てられるなあと直感したし、別段上手にできる自信なんてなかったが、シェフとかクリーニング屋とか男性のプロがいる職業なのだから、出産のように男が出来ないはずもなかろうと思ったのでしてみたのだ。アメフトで攻守が交替するゲームのルールがあるが、たぶん我が家はチェンジで交替の時間なんだろうなあと思ったのである。誰だって自分が好きなように自分の人生の時間を使いたいだろうから、「今度は私の番」とそんな眼をしていたように思う。自分だけで分業の役割を勝手に男が決めているのは確かに不公平であるし、別に手の空いた方がやれば良いだけの事だという考えは合理的だ。独身だったら誰も他にする人はいないはずである。結婚しない男女が増えているのだから、特に男子は母親がちゃんとそれをガキのうちから教えておいたほうが良いだろう。三角関数や過去分詞の使い道よりよぼどその後に役に立つ。
家事をした事が無いのだから最初は大失敗の連続で、案の上無能の限りを尽くすのだが、どんな馬鹿でも何回が同じ失敗をすれば「懲りる」。別にこれは人間♂に限らず、飼い猫も同じだから、繰り返すことで修正、改善というものは美意識が少しある生き物(快不快を感じる生物なら)なら自然に感じるものなんだろうと思う。家事は限りが無い。いくらでもやろうと思えば細かく丁寧には出来るし、手を抜こうとすれば便利なものが開発されているから手抜きでも廻ることは廻る。その中で食事というのは家族が一緒に同じものを食べるという習慣で一番一般性が有る事柄であるから、それをどう実行していくのかが基本の基本だと思ったから、それを作り手が変っても同じように実行すれば何かが変るはずだ。
その結果で変化したのが「メニュー」という事になる。僕が作るということは、基本的に自分の食べたいものしか作らない。食欲が強いほうではないが、料理本を30冊ぐらい買って、1ページずつ潰していくように作って行くと、100種類ぐらいのメニューを作ると「知らない味」とか「知らない組み合わせ」に出会って、「ほう、これはいけるな!」とか「やっぱりマズいね。」とかマダムの手料理とは異なったメニューが食卓に並ぶようになる。柴田書店の料理本はプロ的な凝ったものが多く、友人にテストで喰わせてみると反応が良いという統計となっている。1冊2000−3000円程度の投資で「人が変わった」というお言葉が出るほど驚くからきっと余興には面白いと思う。白バイ貝のハーブロースト、桜えびのガレット、スッキーニとベーコンのパニーノ、マグロのカマのロースト、短角牛のレアステーキ、魚介とキャベツソースのパンタッチェとかご家庭で食べたことありますか?でかいメルセデスでデートするよりよほど女子ウケすること間違い無しで「こんな♂もいるんだね。」と大抵喜ばれると思う。火加減とさじ加減というのも、最初はきっちり小さじ(5グラム)大さじ(15グラム)とレシピを正確になぞっていたものが、つまんでこんなもんというほうが「味が決まる」ようになってくるもので、「なんだ相場と同じか」と思うようになった。自分で作って食べてを反復すると他人様が作った料理の評価は当然厳しいものになる。だから有名料理店でも「ダメ出し」が当然増えて来る。火の入れ過ぎとか下処理が未熟とか鮮度が足りないとかすぐに人様のアラがたくさん見えるようになる。つまりお利口な舌と頭が徐々に用意されるという事である。感覚というものは、そのままでは発芽しない種のようなものなのか?自動的な刺激を与えると自然に変化するレセプターのようなものか?速度とか頻度とか加速度によって変化する程度の逃走線?
「喰う、寝る、遊ぶ」が僕の日常のサイクルで、これに風呂に入ると本を読むで生存自体は一応完成する。これが円滑に回転していくために必要な金(交換の表象)だけあれば何も社会との摩擦は起きない。それぞれの質と量を自分の好みに合うようにすると快適な暮らしということ=快適とは不快を強くは感じない状態 に誰でもなるんだろう。それを自前で出来るには何が自分の能力として不足しているのかという自覚に結論されるだろう。
家事の進め方という点においては、現代という忙しい時代は「常に素早く」という事が第一義的に優先されやすい風潮があるが、「スローライフ」というイデオロギーはコレに反発する。反発とか反抗とか抵抗とかいう言語に著しく好意的に反応する僕の行動特性からして、マスを排除するのにはまずマスの流儀を棄てるという入り方が好ましいという自然な進みゆきということに相成る。例えばポテトサラダを300グラム作るのに調理だけで40分を費やすような朝の生活という事であり、少し上達すると同時に卵とエリンギとベーコンのスープも同時出来るようになったし、ナッツとレーズンのパンを買っておいて軽く炙れば結構洒落たブランチになる。「早く」という要請は、「時間がない」ということの反映であろうが「ない時間」とはおそらく誰かに「売り渡した時間」であり、別に売らない人には「たっぷり余る時間」でも同時にあるのだろう。売り渡す事を要請したのはプロテスタンティズムの労働倫理の所以だろうし、別にマックスウェイバーに義理なんてない日本人がそれに従う理由を見つける事は困難なのだが、「そういう空気」が支配的なのは敗戦後も変らない。「なんでだろう?」きっと「みんながそうするから」だろうと思う。みんな(マス)が正しいのだろうか?でも正しいはずの行動が多くの病気を生むのは何故だろう?一度みんなの正しさを疑ってみることも無駄ではないと思う。民主制というのは一番非効率で多くの間違いを含むシステムでもある。(爆)
お芋をコーヒーを落としながら茹でている時間に友達は朝の会議をしている。11時に風呂にゆっくりと浸かっている時間に友達は販売のためにどこかの会社に訪問している。音楽を聞きながらテラスで火照った身体を富士山を見ながらデッキチェアで休んでいる時に、友達は部下を叱責したり上司に報告書を書いている。彼らが社員食堂でA定食を選んでいる時に、僕はマッサージチェアで本を読みながらうたた寝をしている。彼らも僕も上からの指示で行動している点に変わりはないが、そのスピード、密度、効率と抑圧に大きな強弱が生まれる。僕のほうが多分随分と緩いのだろう。それは社会的期待と責任が一段と少ないせいだろうし、特別に上手に出来なくてもあまり困る人がいないせいである。大きなストレスを感じながら好きでもない事をきちんとするのと、別に何も誰にも期待されないが自分の出来ることをゆっくり自分のペースでハンパにやって毎日を過ごすのと、そんな些細な結果の積み重ねが「毎日の暮らし」という事であり、別段誰もそれを強制しているわけではないし、誰もが自分で選んでしている事なのだ。だから自分の勝手な思い込みというものが無い暮らしというのを一度やってみると、それまでの自分の生活というのは大半が自己幻想だったのねと思うようにもなる。どちらの方法でも人間は普通に生きていけるし、別段違和感も劣等感も疎外感も感じないと思う。
疲れて働き過ぎで病気になったような人には無理に仕事を続けることを僕は薦めない。そんな甲斐の無い事をしてまで自分を虐めても結局後で困るのは自分と周囲なのだから、目の前の自分を労って、まず「具体的な痛み」の除去と緩和に最大限注力するべきだ。「死んだら仕舞い」である。それには身体が望むような身体の自然な時間に現実を合わせる以外にないだろう。自分を治す力がどんな生き物にもあるのだから、それを邪魔するものを取り除く以外に根治する手立てなんて無いだろう。それは自分にしかわからない痛みであるはずだ。
Teach us to care or not to care.
エリオットは100年前にそう書いた。同語反復は現代史の原点だが静かに口ずさんでみるのも良い季節だと思う。
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