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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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女子ウケする暮らし

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「総菜と弁当は買わない」という禁止事項を勝手に自分に課してここ10年ほど暮らしてみた。東京にいる時には、伊勢丹と高島屋が近かったので夕飯の食材調達にデパ地下に週に1、2回はお買い物によく行っていた。料理がいつの間にかマダムのご命令に変って、夕飯を作るのが僕の主たるお仕事(他にもお洗濯とかお掃除とかも)にいつの間にかなってしまって、生まれて初めて50歳ごろから「主夫」を押し付けられたという不本意な状況に追い込まれる。寄り切りでズルズルとそうなった。別にお金は僕が稼いで普段通りに渡しているのだが、「お花屋さんが忙しい」ので「暇そうな貴方が全部しなさい。」という無言の圧力である。効率論から言うとまるで算盤に合わないことぐらいは誰にでも分かる事だが、家族の権力分布というのは効率論では解けない事がきっと多いと思う。子育てが終わり孫が生まれて、マダムは「自分のしたい暮らし」の中で「花屋のお仕事」をまず優先するのが素敵と思ったに違いない。熱の入れようを見ればそれ以外「眼中に無い」状態なのは30年も一緒にいれば空気でわかるから、逆らうと棄てられるなあと直感したし、別段上手にできる自信なんてなかったが、シェフとかクリーニング屋とか男性のプロがいる職業なのだから、出産のように男が出来ないはずもなかろうと思ったのでしてみたのだ。アメフトで攻守が交替するゲームのルールがあるが、たぶん我が家はチェンジで交替の時間なんだろうなあと思ったのである。誰だって自分が好きなように自分の人生の時間を使いたいだろうから、「今度は私の番」とそんな眼をしていたように思う。自分だけで分業の役割を勝手に男が決めているのは確かに不公平であるし、別に手の空いた方がやれば良いだけの事だという考えは合理的だ。独身だったら誰も他にする人はいないはずである。結婚しない男女が増えているのだから、特に男子は母親がちゃんとそれをガキのうちから教えておいたほうが良いだろう。三角関数や過去分詞の使い道よりよぼどその後に役に立つ。
 家事をした事が無いのだから最初は大失敗の連続で、案の上無能の限りを尽くすのだが、どんな馬鹿でも何回が同じ失敗をすれば「懲りる」。別にこれは人間♂に限らず、飼い猫も同じだから、繰り返すことで修正、改善というものは美意識が少しある生き物(快不快を感じる生物なら)なら自然に感じるものなんだろうと思う。家事は限りが無い。いくらでもやろうと思えば細かく丁寧には出来るし、手を抜こうとすれば便利なものが開発されているから手抜きでも廻ることは廻る。その中で食事というのは家族が一緒に同じものを食べるという習慣で一番一般性が有る事柄であるから、それをどう実行していくのかが基本の基本だと思ったから、それを作り手が変っても同じように実行すれば何かが変るはずだ。
 その結果で変化したのが「メニュー」という事になる。僕が作るということは、基本的に自分の食べたいものしか作らない。食欲が強いほうではないが、料理本を30冊ぐらい買って、1ページずつ潰していくように作って行くと、100種類ぐらいのメニューを作ると「知らない味」とか「知らない組み合わせ」に出会って、「ほう、これはいけるな!」とか「やっぱりマズいね。」とかマダムの手料理とは異なったメニューが食卓に並ぶようになる。柴田書店の料理本はプロ的な凝ったものが多く、友人にテストで喰わせてみると反応が良いという統計となっている。1冊2000−3000円程度の投資で「人が変わった」というお言葉が出るほど驚くからきっと余興には面白いと思う。白バイ貝のハーブロースト、桜えびのガレット、スッキーニとベーコンのパニーノ、マグロのカマのロースト、短角牛のレアステーキ、魚介とキャベツソースのパンタッチェとかご家庭で食べたことありますか?でかいメルセデスでデートするよりよほど女子ウケすること間違い無しで「こんな♂もいるんだね。」と大抵喜ばれると思う。火加減とさじ加減というのも、最初はきっちり小さじ(5グラム)大さじ(15グラム)とレシピを正確になぞっていたものが、つまんでこんなもんというほうが「味が決まる」ようになってくるもので、「なんだ相場と同じか」と思うようになった。自分で作って食べてを反復すると他人様が作った料理の評価は当然厳しいものになる。だから有名料理店でも「ダメ出し」が当然増えて来る。火の入れ過ぎとか下処理が未熟とか鮮度が足りないとかすぐに人様のアラがたくさん見えるようになる。つまりお利口な舌と頭が徐々に用意されるという事である。感覚というものは、そのままでは発芽しない種のようなものなのか?自動的な刺激を与えると自然に変化するレセプターのようなものか?速度とか頻度とか加速度によって変化する程度の逃走線?

 「喰う、寝る、遊ぶ」が僕の日常のサイクルで、これに風呂に入ると本を読むで生存自体は一応完成する。これが円滑に回転していくために必要な金(交換の表象)だけあれば何も社会との摩擦は起きない。それぞれの質と量を自分の好みに合うようにすると快適な暮らしということ=快適とは不快を強くは感じない状態 に誰でもなるんだろう。それを自前で出来るには何が自分の能力として不足しているのかという自覚に結論されるだろう。

 家事の進め方という点においては、現代という忙しい時代は「常に素早く」という事が第一義的に優先されやすい風潮があるが、「スローライフ」というイデオロギーはコレに反発する。反発とか反抗とか抵抗とかいう言語に著しく好意的に反応する僕の行動特性からして、マスを排除するのにはまずマスの流儀を棄てるという入り方が好ましいという自然な進みゆきということに相成る。例えばポテトサラダを300グラム作るのに調理だけで40分を費やすような朝の生活という事であり、少し上達すると同時に卵とエリンギとベーコンのスープも同時出来るようになったし、ナッツとレーズンのパンを買っておいて軽く炙れば結構洒落たブランチになる。「早く」という要請は、「時間がない」ということの反映であろうが「ない時間」とはおそらく誰かに「売り渡した時間」であり、別に売らない人には「たっぷり余る時間」でも同時にあるのだろう。売り渡す事を要請したのはプロテスタンティズムの労働倫理の所以だろうし、別にマックスウェイバーに義理なんてない日本人がそれに従う理由を見つける事は困難なのだが、「そういう空気」が支配的なのは敗戦後も変らない。「なんでだろう?」きっと「みんながそうするから」だろうと思う。みんな(マス)が正しいのだろうか?でも正しいはずの行動が多くの病気を生むのは何故だろう?一度みんなの正しさを疑ってみることも無駄ではないと思う。民主制というのは一番非効率で多くの間違いを含むシステムでもある。(爆)
お芋をコーヒーを落としながら茹でている時間に友達は朝の会議をしている。11時に風呂にゆっくりと浸かっている時間に友達は販売のためにどこかの会社に訪問している。音楽を聞きながらテラスで火照った身体を富士山を見ながらデッキチェアで休んでいる時に、友達は部下を叱責したり上司に報告書を書いている。彼らが社員食堂でA定食を選んでいる時に、僕はマッサージチェアで本を読みながらうたた寝をしている。彼らも僕も上からの指示で行動している点に変わりはないが、そのスピード、密度、効率と抑圧に大きな強弱が生まれる。僕のほうが多分随分と緩いのだろう。それは社会的期待と責任が一段と少ないせいだろうし、特別に上手に出来なくてもあまり困る人がいないせいである。大きなストレスを感じながら好きでもない事をきちんとするのと、別に何も誰にも期待されないが自分の出来ることをゆっくり自分のペースでハンパにやって毎日を過ごすのと、そんな些細な結果の積み重ねが「毎日の暮らし」という事であり、別段誰もそれを強制しているわけではないし、誰もが自分で選んでしている事なのだ。だから自分の勝手な思い込みというものが無い暮らしというのを一度やってみると、それまでの自分の生活というのは大半が自己幻想だったのねと思うようにもなる。どちらの方法でも人間は普通に生きていけるし、別段違和感も劣等感も疎外感も感じないと思う。

 疲れて働き過ぎで病気になったような人には無理に仕事を続けることを僕は薦めない。そんな甲斐の無い事をしてまで自分を虐めても結局後で困るのは自分と周囲なのだから、目の前の自分を労って、まず「具体的な痛み」の除去と緩和に最大限注力するべきだ。「死んだら仕舞い」である。それには身体が望むような身体の自然な時間に現実を合わせる以外にないだろう。自分を治す力がどんな生き物にもあるのだから、それを邪魔するものを取り除く以外に根治する手立てなんて無いだろう。それは自分にしかわからない痛みであるはずだ。

 Teach us to care or not to care.

エリオットは100年前にそう書いた。同語反復は現代史の原点だが静かに口ずさんでみるのも良い季節だと思う。
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「スズキさんの生活と意見」というコラム集がある。これは元NAVI編集長だったスズキマサフミ氏が、当該雑誌の編集長からコラム他で書いたテキストを編集して出版したもので、「すずきさんがどう感じ、どう考え、どう暮らすか」という雑文集である。ブログというインターネット上の書き込みも現代風の「書き手の生活と意見」にごく近いものがあって、要は個人の生活とか趣味とか書き手の個性(具体性)を公開しているという点で、そのコンテンツの質量によって実際にお会いしたことも無いような赤の他人との間に、「一定の関係性が生まれるという幻想」も事実起こりえる。
これを商売の道具に使う器用な人もいるし、実際に僕も10年ほど前は、ブログではないが「有料掲示板」という形式で「ねこ塾」というのをやってみて、結構な売上げになった記憶がある。会員が500名ぐらいはいたと思うし、実際に生で教室をやったり、講習会をやったりしたし、これで顔と声がリアルに分かると結構面白いという事が起きた。当時からずっと仲良しのガールフレンドなんてオマケも出来たりして、なかなか上手い事道具を使えたのは「若者を雇用して専門外の世界の準備をした」事と「大衆が欲しがるコンテンツ」を一応準備して僕が面白おかしく真面目に書いたという事だったんだろうと思う。長くはないが以前それでも10年ほどは経営のお仕事を一応はやっていたし、お金と人とモノを転がすお仕事は、コンテンツが異なっても算盤は同じだから、別段大きな違和感は無かったと言える。動機が「好奇心」でも工夫があればそれなりのロットにはなるもんだという事実の確認にはなったが、相場が上げから下げに変化すると「空売り」が出来ない人が99%ぐらいだったせいか「シーン」となって大半が消えたという当然の結果になったのだろう。それでも東京にいる間は続けていたが、移転によってサーバー設置が無理なので(回線の関係で光が引けないから)面倒なので辞めてしまった。しばらく書かない時間があって(3年ぐらい?)もっぱら見るだけだったが、ブログなら専用サーバーの必要性がないから、気楽になんでも書くかとまた初めてみると、不思議なものでどこから探すのか結構人が来る。毎日400−500もビューがあるのなら1/2ぐらいの数は見ている人が定期的にはいるんだろうと思う。相場が大きく動く日は増えるから、「なんか書くか?」と思って見に来る人も1−2割はいるんだろうと思う。でもあまりポジショントークなってしまっても実際の相場には関係ないし、書いても予想なんてよく曲がるから見ても為にはならんと思うが、「重要なのは玉操作の質量ですよ」ということで、方法論とか練習とかの必要性をおせっかいに少し書く。
 ブログというのは足跡というのがあって、リンクを辿ると閲覧者のページに移動して、その人のブログが見られるようになっているから、回覧して今度は僕が読み手になる。相手が欲しそうならチビッとコメも書く。
関係性という意味では、知っている人と知らない人の2種類しかいないはずであり、知っている人でも「お会いした人」とそれ以外に別れる。ネットの関係性が不思議なのは、お会いした事もないような人と意見交換が成立するというような間抜けな幻想を多くの人が持つという点で「キチガイに刃物」の要素が満載である.(笑)だからオバカな人はコンテンツの内容に関しての個人的意見の齟齬ですぐに炎上したりするんだろうが、そういうオ間抜けな人に限ってリンクを辿っても「何も書いていない」通りすがりの人が大半であるという統計を僕は以前の仕事柄持っている。いわば「2チャンのクズ」という群れであるが、まあ即座に削除しないと板がバッチク汚れるから当然の抹殺処置をする。コメントする意味さえ無い。
 回覧してコンテンツの内容が云々という以前の問題として重大なのは書き手のメタメッセージという視点である。これはコンテンツの内容云々より、そのコンテンツの書き手の知性や美意識のマナーがまず重要な要素という事であって、別に難しい事が書いてあるという意味ではなく、コンテンツに至る考えと生活が如実に表現できているその「知性の作法」の事を指す。仮に書き手に「主体性」があると幻想するなら、その主体性が生まれる時間と場所がそのテキストなり写真にはどこか必ず現れるという事実が重大であると僕は感じるから、そういう無意識のメタメッセージを感じない場所に行っても時間の無駄ということが起きる。表現というものはその表現するコンテンツに至る表現者の表現のマナー(お行儀に読む、見るだけの魅力的な知性と美意識があるのか?)を問うという事である。それにピンと来た人が閲覧し合う場所、それがわずかに残るブログという世界の幻想の値打ちなんだろうと僕は感じる。
 大量のテキストを書き込むと、その人の人となりが嫌でも文体と画面に現れる。「書く事」も毎日同じ人間がすることだから、反復が増えるのは当然だろうし、内容も自然に無意識に絞り込まれる。表現することがどれぐらいの質量になるかなんて、自分で実際にしばらく書いてみると馬鹿でもわかるが、1万も2万も原稿用紙に何か書き続けられるようなレベルの人は数万、数十万に数名しかいないだろう。テキストは自分で書いてるつもりだが、そもそも言語自体を先達から借用して身につける文化的な道具であるのだから、テキストの構成、言語の選択、ラングとパロールの配置を通じて文体が構成されていくのだから、頭の悪い人が長い間保つはずが元々ないのである。
 文章を書くことを職業にする人(作家、文筆家、編集者などのプロ)のテキストを大量にまず読み込む事以外に、僕たちが出来る「関係性の成立のための仕掛けの勉強」なんて無いと思うから(そう13歳ぐらいで僕は思った)、その意味では僕は未だに活字中毒の勉強家ではあるんだろうと思う。現実生活が毎日シコシコ働かなくても成り立つというお金と時間の裕福さと自由度という意味で個人的に恵まれてもいるし、本屋の息子という生い立ちで本を読むのがゴハンとお風呂と歯磨きと同列に日常化しているせいだろうと思う。
 そんなわけで、今日も僕は「猫次郎さんの生活と意見」を書くという日々が続く。
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 押目をゆっくり現物をポツポツ地味に拾って戻りを外す。一番簡単な馬鹿の一つ覚えだけ大体2−3週のインターバルでしているだけで一応は生活するぐらいの現金は誰でも増える。根玉の値洗いなんてどうでも良い。そんなのは勝手にそのうち時間が来ると増えていたから、適当に半年ぐらい上がったら繋げばまた現金が増えるだけだろう。単純な事の繰り返しだけすれば良い。だから相場で書く事は何も無い。予想なんて大抵曲がるが利食いなら問題無し。だから本ばかり読んでいる。
「様式を一括りして定式を作り出すという演繹行為の弊害」は社会科学(そんな科学があるとしてだが)を目にすると「知らない例外的な社会や思考法」というのだって随分と有るんじゃない?と言いたくなる。世界が代わればルールだって変るだろう?だから人類が残ったということじゃないの?と常に思います。そもそも日本語という言語(他の言語も同じですが)を使用して思考するという現実そのものが民族誌的な偏向を幾分かは常に含むという自覚があるのなら、思考法の限界は言語の限界の内側にあるという事なんだ。国語教育はだからまず一番重要でしょ?英会話を小学生から習ってもホントに使える日本人は生まれないと思います。
『引きこもる人にとっては、「引きこもらない日常生活」は苦しくつらいものであり、それよりは「引きこもる生活」の方がまだマシ(よりポジティブ)なのでしょう。まず、男性にとってはこの「引きこもらない日常生活」が、女性よりも圧倒的に困難なのだと想像されます。なぜなら社会生活から受けるプレッシャーは、男女同権とされる今でも男性の方がかなり大きいからです。「フリーターのままだと結婚できない」と思う女性は少ないですが、男性はほぼ全員がそう感じる(思わされる)でしょう。この「男は稼いで当たり前」という社会通念だけでも、男性に大きなプレッシャーをかけていると思います。仕事だけではなく個人生活においても、社会は常に男性にリーダーシップを期待します。「プロポーズはやっぱり男性がすべき」であり、「いざという時には男性が主導権を取るべき」「何かの時には、女子どもを先に保護すべき」といった感じです。人前でうまくしゃべれない女性は「奥ゆかしい」「おとなしい」と言われますが、男だと「頼りない」「しっかりしていない」です。つまり、「外の世界」はまだまだ圧倒的に男性に厳しい。引きこもりたくなる男性が女性より多いのは当然と思えます。また、女性は「家事手伝いをする」ことで擬似的に「引きこもりつつ、引きこもりと呼ばれない」という逃げ道を持っていますが、男性の場合、主夫ならともかく、未婚で親の家に住んでいて「家事手伝いです」はちょっと厳しいですよね。「外で戦わないなら、引きこもるしか道がない」のが男性のつらいところです。 』
 「オイオイ、ちょっと待ってよ!」と言いたいなあ。上記は「引きこもらない日常生活」と「引きこもる生活」についての男女差についての歪んだ保守的女子目線の代表的なコメントなのだが、そもそもライフスタイルに関しての男女差なんて、出産以外に身体の基礎的な構造部分は差異がないのに、なんでそれが個人の労働や生活のスタイルにこれほど強く影響するのだろう?それはきっとアジア民族的な古典思考と行動の奇習という部分で、主に筋肉的労働が男子に向いていたというここ1000年ほどの長嫡子遺産相続制の儒教思想の奇習と弊害の効用であると思われる。民法が90年ぶりに改正されるらしいが、まあ日本は現在どこかの発展途上国未満のレベルで、引きこもり男子だけを差別的な扱いにしているのではないか?日本の場合には天皇制の権力継承スタイルがその中心に位置するのと夫婦別姓を認めない法制度の存在が主たる理由なのは言うまでもないのだが、昔は日本だって女帝というのもいたのだから、まあ単なる歴史の勘違い、幻想か錯覚の域を出ない。男はきっと母によって必然的に作られた性なんだろうと思う、その母が劣化した幕引きを誰にさせるかね?と。
 そもそも「労働」という現代的概念解釈が「就職して会社に勤めるというスタイル以外を想定していない」議論だから馬鹿馬鹿しい結論が導かれるのだろう。個人技能を主体とするようなお仕事=work(例、芸術家とか職人とか文筆家とか漫画家、歴史家とか組織とは基本的に無関係で仕事をする人たち)は昔も今も必要なら引きこもるし、必要なら当分は帰ってこない(遠洋漁業とか)という元々標準化された賃労働の定番のライフスタイルが無いのだ。賃労働の発生は奴隷解放後に一般化した労働形態であるという認識も薄い。レイバーとは「苦役」という語彙である。ひきこもり=フリーターという直結概念も現実的、統計的多数はそうだろうが、例外も新分野では結構あると思う。インターネットの発達で、生産、流通と労働スタイルは激変したから、おウチにいてもお外にいる人より効率的にガッポリ稼ぐことは独自のスキル、アイデアのある人には可能であると思うし、事実爆発的な売り上げというのを僕は相場以外でもお家でも数回経験したことがある。この場合には「いかに契約社員を多数引きこもらせるか」が経営的には成功の鍵だったし、それがたたって疾病者が出たケーズも経験した。
 人口数が頭打ちから減少し始めるような国(先進国の大半)では、物品やサービスの総量的な需要拡大は継続的に期待できない。大量生産がデフレを生む自殺行為になるような世界について、どうやって利潤を作り出すかという点において、資本主義は「変態」を何度も繰り返すことで、工業から商業、貿易、金融、サービスと裾野を広げてなんとか誤摩化しながらここまでやってきたが、ついにすべての需要の飽和点の地平に達すると外延的拡大を諦めて内延的深耕を開始する。それは貧窮化を先進国の市場内部に意図的に作り出すという現象と無関係ではないだろう。(アベノミクスなんて昨今は呼ぶのかね?笑)この貧窮から絞り取られる搾取の構図は、内部市場の一部分の植民地化と同義であり幻想に商品価値を添付して通貨の異常な膨張によってそれを支える中央銀行の政策にまで発展(?)した。余剰化する労働力と機械化が加速する生産性によって、対抗通貨の膨張はシステムの保険であるとも言えるが、突如満期が訪れる心理の臨界点に向けてのロシアンルーレットにもどこか似ている。いみじくもドンフェルダーは1976年に早くもこう書いている。
We are programmed to receive. You can checkout any time you like, but you can never leave! (Hotel California)
この「男は稼いで当たり前」という概念は女子がペアの相手を選ぶ時の古典的選別基準なんだろうが、逆のケースもあって(ヒモなんてそれです、ハイ)稼げる女子は今後は男の稼ぎなんて当てになんてしないかもしれない。稼げる女子の数の絶対数が今の所日本では少ないからこんなヘンテコな社会的なプレッシャーが男子にかかっているという事なんだろう。男勝りの稼ぎ手の女子の数が今後ますます増加してくるようなら「可愛くて私の思い通りのなる♂」というペット的男子の値打ちは否応無く増すんだろうと思う。現代の優れた女子の特技が「オッサン転がし」であるという定説に従うと、1、2世代以降の(僕の子や孫の世代では)優れた男子の特技が「オバサン転がし」になるのは必然であろうと僕は密かな仮説を立ててもいるのだ。
単なる個別の組合せの問題なのかもしれないが、イギリス王室とか天皇家、クリントン家なんて見ていれば、どっちが賢いかなんて誰にでも見える気もするのだが、、。(我が家も同じだけれども、、)だから不毛な抑圧を男にかけるのはやめよう!!飼い猫だって愛想の良いのは大抵♂である。♀のほうがズルいのが猫にだって多いのだ。そろそろヒラリーも戦闘開始だし、アンジーはアンドロイドみたいになっても以前戦いを辞めないしね、、。

負け犬の恋の物語

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 やっと晴れた。雨の日は外出する気がしない。運転が危険だし、濡れたくないし、室内にいるほうが快適だし、元々外出する動機がないし、、となんだかんだ言って一日中読書ばかりしている。ダイヤランドはこの季節、雨や霧が多いというか、雲の中にある日が多いのだ。雨雲が三島や沼津にかかっているのを見下ろすような風景が当たり前の毎日で、街から見上げるとちょうどフラットの下ぐらいから分厚い白い雲に覆われて山頂部分は見えないという日が少なくない。標高600−700メートルは、雲が出来る場所なのだろう。駿河湾から吹き上げる温かい空気が上空の冷たい空気にぶつかって霧や雲が出来る場所、そんな邂合の場所に住んでいるということになる。だから鷹巣トンネルという800メートル以上ある長い熱海と函南を繋ぐトンネルの南北では、天気が全く変るような事だって珍しく無い。ここで視界不良の事故が良く起きるのだろうと思う。
 人間1人に対して樹木が100倍、200倍の密度で生えているから空気と水はとても綺麗だ。函南原生林という1000年前からの原生林が保存されていて、鳥獣保護区だから小動物とか鳥がたくさんいて、僕の部屋からウグイスやツグミの鳴き声が毎日のように聞こえる。都会っ子だったから、最初車の騒音がない暮らしというのを想像できなかったが、とにかく静かだ。雪や霧は音を吸収してしまう。だが雷鳴が時々轟くと驚く。晴れた日でもいきなり轟くことがあるのだ。山の天気は午後に崩れるというが、それはかなり高い確率で起きるのは、風の向きが逆転するからだろうと思う。
 1日2冊のペースで小説を読んでいる。今週は恋愛小説特集で原田マホ「カフーを待ちわびて」のあと谷村志穂「尋ね人」を昨日終えた。大体1日500ページぐらいのペースになっている。活字中毒という病気があるとすれば恐らく該当するんだろうが、僕の病気は突発性で、いきなり来ていきなり止むという点で予測不能だが、活字がないという状態は僕の場合はあり得ないから、およそ2000冊ぐらいの蔵書の中できっと500冊ぐらいがコロコロと回転する。アマゾンで良さそうな古本を片っ端から20−30冊買うとかブックオフで10−20冊ぐらい買って持ち帰るとかそんなことを毎月しているとあっという間に本棚には収まり切らない本の山が積み上がる。途中で図書館で借りたり、雑誌や新刊を沼津の書店で買ったりとまあことあるごとに本を読む。だから一番している時間が長いのは本を読むという事だと思うが、左脳の使い道という点で読書は一番手っ取り早い暇つぶしの作業なんだろうと思う。本が無かったらこの膨大な暇をどう潰すのか見当もつかない。映画とかTVとかはほとんど見ないほうだ。全くTVをつけない日のほうが多いから、週末にマダムが来るとお酒を飲みながらTVをつけているとウルサいなあと思って寝室で読書を始めるくらいだ。だから一番最近どんな映画を見たのかもう覚えていないから、映像にはほぼ興味がないのだろう。映像は視覚情報だが、想像力の差異に個人差が生まれにくい。つまり発信と受信が固定的だからどんなに奇抜でも同じも映像を見ていることなる。それが言葉(言語)というのは表意文字と表音文字によって表記される(日本語の場合だ)言語空間だから、解釈や想像によって生まれる対象がほとんど固定されない。ある意味多くのミスリードが起きる形式だからこそ面白いと言えるのだろう。
 人間に限らず、恋と生殖というのは生命継続のための「お祭り」のようなものだろう。単性生殖は別として、両性生殖による繁殖行為の前提に人間の場合は「恋」を前置詞に置くというのが近代の作法となったようだが、こうした一般事象を歴史という時間軸を辿ってみると様々な「物語」が生まれたという事だし、およそ文学と言われる言祝ぎから「個人」という感情と感覚が生まれて来たのだろうと思う。だから個人的な「差異」があって当然だし、「差異化」とは言祝ぎの必然的結果なんだと思う。
言祝ぎの下手な人=負け犬の書いた小説が昨今は面白いなあと思う。「恋愛小説大賞」なんて文学賞も出来たし、様々な前置詞としての愛や恋を体験として代置する事で自分を再定義してみたりもするのだから、いかに誰と交わるかというのは個体にとっては文句無く切実だということだ。

 谷村の「尋ね人」という作品は、母と娘の二代にわたる負け犬の恋の物語である。母が父と結婚する以前にいた恋人が50年前に突如失踪する。死に至る病を煩った郷里(函館)の母の元に傷心の娘が帰京して介護をするかたわら、父ではない母に代わって大昔の母の恋人を捜し出すという縦軸に自分の新しい恋という横軸が絡まって物語が進むという負け犬2代の奮闘記という物語である。
憧れと恨み、金と結婚、成功と失敗、恋と生活、家と仕事、過去と現在、男と女、親と子、あらゆる二項対立を解しながら物語が進む。恋の家風というのはやはり遺伝性があるんだろうか?なんてサイテーの感想をフと感じもしたのだが、女の執着心とのは恐いよねとも感じた。言論空間の拡張性という意味で映像では困難なことが文学には可能だろうという事。ただし言語の可能性はその使用する使用者の語彙の範疇に依存するから、本が「売れない」という現象が当然に起きるという事だろう。本が売れない理由とは言語空間の拡張性を欲求しない人の数が増え続けてるという結果論だろうと思う。「本屋」を継がないでよかったねと思う.(爆)

また変るか?

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 ヒラリーが大統領選出馬を表明した。「ああ女の戦いが始まる!」そう考えると、はやりアメリカは実験する国家なのだなあと思う。これは男(ブッシュ)と女の戦いではなくてヒラリーという女とアメリカという男の国家の戦いであると僕は思う。すること自体に根性があるから見上げる以外に対処は無いと感じるが政治という意味で日本の数十倍も楽しい。
男子クリントンはヒラリーがいなかったら大統領にはなれなかったと良く書かれているが、やめ際の醜態を見ても10枚ぐらいヒラリーが上手だから、きっとこういうスーパーウーマンをアメリカという国家と国民と家庭は強く望んでるのだろうと思う。女系家族で叩かれた僕のようなマイナー男子としては、重要なことは、女が全部チャチャとやって、こちらは「ああそうですね」と言われた通りにしているほうが楽で良いと思う。どうせ政治に出来ることなどタカが知れているのだから「こちらの(個人の)邪魔だけはしないで欲しいなあ」と思う。その意味では阿部ちゃんは先祖帰りなのかまるで大本営そのものだ。こんな首相に何で50%以上もの支持があるのか全く理解できない。有権者はちゃんとニュースを見ているの?と思う。空気でリーダーを選んじゃうのは日本人の9割が犬の習性がいつまでも抜けないせいだろう。5000円か1万円か月給が上がっただけで何で自分の自由を売るのかね?アホらしいと思わん理由が100%理解できない。
それでも阿部ちゃんがついているのはマダム昭恵が素敵なせいだろう。聖心女子大卒の森永のお菓子の社長令嬢でお金持ちで育ちは良いが、酒豪で農業やってオリジナルのお米なんて作っている。堂々と阿部ちゃんの政策を批判している部分(原発とか秘密保護法とかTPPとか)もあって、「言いたいことは言うよ.アタシは」というきっと態度はデカイ女なのだろうと思う。
それでもシレーっとして2度もファーストレディーになったという強運なのだが、子宝に恵まれずに不妊治療をずっとしていた努力の女でもあるから、きっと舐めたら一番ヤバイタイプなんだろうと思う。子供がいたらもう少し阿部もマシなことをきっと考えたかもしれない。
阿部ちゃんが今後辞めて、あと10年たってマダム昭恵が自民党総裁になる可能性はこの国にあるだろうか?と考えること自体に無理があるが、その無理が有るという部分がアメリカと日本の差異であるのは言うまでもない。首相公選制に変更してもきっと可能性はないだろうと僕は思う。
 サッチャーの後にメルケルが来て世界は変わったと思う。次にきっとヒラリーが来る。多分また大きく世界は変わるんだろう。男と女は生理が異なるから時間も質量も異質な部分がたくさんある。仕組み論ではどうにもならないことを「なんとかする」には、きっとそういう異質さについての受容的な政治的態度がポイントなのかもしれない。
アメリカの自動車のナンバープレートにヒラリーのジョークステッカーを張ったのが以前流行ったらしい。『妻がヒラリーだったら、俺もそうする!』この生理の差が本質だろうと思う。
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