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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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「お前には言われたく無いよ」と多分言われるのだろうが「疲れたと思えば仕事はしないほうが良いですよ。」と思う。僕は元気でもなるべく仕事はしたくない。好きな事しかしないから、仕事も自分の好きなものだけ選んでするから、グラフを書くとか、場帳を書くとかは結構「好き」である。書いているときっと「ここが取れそうだね」とか自然に感じるようになる。それでもなかなかその通りになることは多く無いだろうと経験的に思う。

 「どれぐらい(量と時間)書いたらよいか?」とよく初心者の人が質問するのだが、感覚というのは個人差があるものだろうから、「俺に聞かれても困る。」
場帳なら酒田の4本で25年で6万ページぐらいは僕は多分書いている。100ページぐらいの人と僕とが、仮に同じ形式と道具で同じ銘柄を書いたとして、同じような感覚で値動きを受け止めるか(A),その受け止めに対して玉操作を行えるか(B)という2点が差異ということだろうし、その結果が成果の差異ということに同じ資金ならなるんだろうと思う。100ページの人の600倍書いていると多分いろいろなケースを書いているから、いろいろな感じがあるんだろうと思うが、無意識で感じるのだから、その反応が異なる理由を見つけることなど出来ないだろう。
 月足グラフでも30年とか40年を1000枚の人と10年を50枚の人で同じはずが無い。10年だとジュグラーサイクルしか見えないが40年ならクズネツクサイクルをカバーする。だからまず自分なりのAを作って、その後Bとなるような分割と時間の練習をすれば「出来るようになる人はなる」ということだろう。ただし自動車教習所のようにほぼ全員が卒業できる世界ではない。その反対でほぼ全員が卒業できない世界である。だから10年同じ努力をしても出来なかったという結果になるのは至極自然だと僕は思う。「適正」が無かったという他ないから「諦めろ」と言う他無い。

「どの程度何が出来るようになるのか?」はやった人にしかわからない。だからクドイ話になるが、暇つぶしとカラカイの意味を含めて、現在の実行譜を場帳の写真と解説を交えて買いてみたりもするのだが、なかなか多分同じような感覚や操作にはならんだろうと思う。簡単に短期間で出来るなら、誰もリーマンなんてかったるくて儲からない仕事をこんなに多くの人がそもそもするはずが無いという事実があるだろう。「いや、俺なら出来る。」と思って辞表を叩きつけて相場師を目指すが半年か一年ぐらいでボロボロで破産する人が9割以上なのは事実なんだから、「ヤバイからやめとけば」と言うことにしている。特に定年までリーマンをしていたような人は、そういう社会に慣れ切っているからいきなり弱肉強食のルールの違う社会に飛び込めば「オイシイ餌」になるのが目に見えているからだ。大事な退職金をオケラにしてローンの残る家まで取られれば家族が悲しむだけでは済まないだろうと思うからだ。多くの人が飛びこんでJRが事実毎日止まるでしょ?相場は体力も気力も必要な仕事だしお金も胆力もリーマンの比ではない。千万、億という個人のお金のやり取りには慎重さと慣れがいるし、そんな慣れはほとんどの人は経験が無いからすぐにムキになって失敗しやすいのであると思う。

 3ヶ月程度の周期の20%程度の小さな値動きでも、そのジグザグの周期とかリズムとかは当然同じではない。少し高安がズレたり、値動きのリズムに縦横方向に癖があったりする。4本で見るのはそれが分かりやすいからであるし、「逆張り」という方法が使いやすいからでもある。自分なりの建てと落としの得意なやり方を練習を限りなく繰り返せば自然に身に付くということが数年で起きると思うし、その間、なんとか大きな損をしなければモノになって来るのだが9割以上の人は、そこまで辿りつかないのが現実だろう。一応の感覚や技術が理屈無く反射的にできるまで10年は必要だと思うから慌てても無駄だと思うのだ。

 理解できることと実行できることはだから天地ほどの距離がある。その距離を埋めるのは「練習」以外にないし、その仮定で損が必ず出るから練習の継続が困難になるのだろう。2枚や5枚の玉をいくら操作できても「ゴハンを食べる」ような利食いになることはまず起き得ないから、こんな額では生活できないと一般人は感じる。2−5枚の基礎の地味な操作が出来ないで100−200枚の操作が出来るはずが無いのだが、出来ない自分を無視してまず欲しい金(毎月の生活費  例えば100万)が先に頭をよぎる。

 例えば今月で言うと300円代の5401を100枚買うと3000万以上だ。これを4%取れば約100万だから、値幅で12円分綺麗に取れれば目標達成なのだが、18円しか月の鞘のないものを12円まるまる取るのは容易ではないだろう。まず100枚をどう分割できるのか?朝の成り行きなら鞘は最大で12円だ。分割した途端に不可能ということなる。ジグザグに動くのだから現物買いだけでは無理でつなぎや空売りが同様に出来ないと仮に単発で上手くいっても翌月は無理だろう。
だから2−5枚と少量で練習して、波の動きにこちらを合わせるという技術をモノにする以外に利益の反復性がないのだから毎月「飯が喰える」わけがない。マグレは毎回は続かないのである。そもそも毎月同じような利食いになるという発想を持つ時点で相場師としは落第だろう。数年(最低でも3年)坊主でも屁でもないという状態で相場をしないと大きな相場なんて取れっこ無いと思う。
 試しを建てて、ダメなら落として待って、また試す、良いなら増して厚くして波に乗って、売ってみて、早いなら買い戻して、また増して、待って仕切る。その後戻りを売って、増して崩れを待って落とす。それからドテンでまた上げを取りに行く。それを譜に単純化すると以下のようになるはずだ。

 −1    0−1
1−      0
−1
−2     0−3
1−     0−2
−2     0−4
4−      0
1−     1−0
2−
2−     5−0
−1     4−0
−5     0−1

上記のようになるのが数量変化の一例だが、これを21日の営業日の寄りだけの操作で出来ないと綺麗な利食いにはならない。時間が欠けているがこれが合わないで難しい要素なのは言うまでもない。しかもそれを毎月100枚でするのだ。最大5枚でも出来る人は1000人いて多くて3名だ。100枚だと10万人に一人いるかいないの世界だろうと思う。
自分の練習譜はどうなっているか?1ヶ月の間に上記のような操作の質になっているのか?場帳を2、3ページ見た瞬間で、どの程度の練習成果の度合いなのかがすぐにわかるだろう。
 場帳や月足、折れ線グラフを書いているだけでは一向に操作が上手くなることは起き得ない。当て物の域を一歩も出られないのだ。自分が出てみた感じ以外に信じるものが一つもない主観世界の出来事をどう乗り切って行くのか?くどいが練習とはそのためにするのである。
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熱海駅前でマダムを待つCLちゃん。ようやくピカピカで戻ってきました。保険修理で250万だったそうな。事故は高くつきますので、接近しないようにしましょう。

 熱海観光が賑わいを見せている、土日はかなり先まで予約が取れず、ジリジリ宿代も上昇気味らしい。
東京から1時間もかからないから、一番近い本格的な温泉街という事できっと人気が復活してきたのだろう。若いカップルも目立つし、家族連れも多いようだ。日帰りが可能だからというせいもあるだろう。梅と花火の時は市民人口32000に観光客が30万だからほとんど外部の人の街になる!このごろは平日でも昼間から並んでランチを待つお客さんが増えているようだが、きっと雑誌やテレビに出るとそんな現象になるのだろう。あまりお味は期待しないほうが良いですよ。熱海でマシな飲食店は、市内にはほとんど無いと言って良い。東京のほうが断然味が良いのは当然ですが、きっと観光気分で心が軽いから何を食べても美味しく感じるのだろうと思います。良い料理人は、全部有名旅館が囲い込みをしているから、「強羅花壇」とか「ふふ」とか最低でも一泊10万クラス(1名でよ、お二人で20万です!)でないと、東京のミシュラン星クラスの料理は出ませんから、料理だけなら東京や京都の割烹のほうが断然安くて美味しいです。これホントですね。だから特別な事を期待しないで下さい。それより2000円ぐらいの安い海鮮丼とか天丼とか三島の鰻(5000円)ぐらいのほうが間違いが少ないです。とくに熱海に「旨い鮨屋は無い!」と断言できます。鮨なら沼津の「さいとう」か「わたなべ」の2軒ダケです、マシなのは。なかなか予約が取りにくいです、地元民でも。
 それより熱海にしても伊豆にしても「温泉」は良い湯が相当あるので、よく調べて自分の好きなお湯に入ってくださいね。あまり大きな立寄湯よりもすこし不便な場所にある小規模でも昔からあるお湯のほうが「かけ流し」で塩素処理をしていないのでお薦めですね。大きな駐車場があるような所はみんな大抵は循環ですから、効能が無いとは言わないが低いのは致しかたないですね。
 熱海よりも東京に近い厚木のそばに良い温泉がありますよ。アルカリがとても強い「七沢温泉」という場所で、本厚木の駅から車で30分ぐらいの所にあるひなびた温泉ですが、実にガーンと効いて運転不能になるほどです。ただの田舎で何も無い所ですが(zund barというラーメン屋だけです)、山の麓にあってのんびりしています。箱根には硫黄泉がたくさんあります。お湯に入ると疲れて眠たくなるので、充分休憩を取ってから運転してください。最近はひどい交通事故が増えているようで、みんな居眠りしてやっちゃうようです。東京の人の事故が多いそうです。。カーブと傾斜がきついから膨らんでドカンと当たると即死ですから。よくバイクと膨らんで接触が起きていると警察が言っていました。急いでも昼間はあまり時間は変りませんから、どうせ東名も海沿いも渋滞ですし、土日の午後は熱海ー東京は平均6、7時間かかります。(東名でも小田原厚木や西湘でも同じ)だから深夜まで遊んで空いてから1.5時間でビュンと返るのが楽です。ただし東名秦野の上下のオービスは生きているのでご注意を。僕は8年ほど前に50キロオーバーで即免停でした。(笑)赤いのが今も光ります!

超人の公準

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「かって存在しなかったような大規模な支配組織が成立するための、適した前提条件が今後はそろうことになるだろう。しかしそれは最も重要なことではない。最も重要なのは国際遺伝協会とでも呼びうるものの成立が可能になることである。その組織の使命は、主人の血統、未来の『大地の主人』を生みだすことにある。ーーーそれはすなはち、誰れもが恐れる新たな貴族階級、最も過酷な自立的立法にもとづいた貴族階級であり、その立法によって哲学者と暴君的芸術家たちの専制君主にも似た意志は何千年もの持続を保証されるのであるーーーそれはまた、高次の人間たちの種族であり、彼らは、その意志や知恵や豊かさや影響力を駆使することで、民主主義的ヨーロッパを最も従順で使い安い道具のように利用して、「大地」の運命をわが手に握り、最後には芸術家として、「人間」それ自体に形を与えようとするのである。もう充分だ、政治を再転換することをひとが知る、そういう時が到来する。」     フリードリッヒ ニーチェ 「選別の教義としての悪循環」

 怒りだろうか。冗談だろうか。それとも同時に両方だろうか。ーーーニーチェがここで見せてくれるのは、応用生理学の字義通りのヴァージョンである。さらに、現実原則の番人たる科学、しかもみずからが実行する方法それ自体によってすでに乗り越えられている現実原則の、その番人たる科学に対してニーチェがおこす裁判は、人間固有の振舞を生理学的に変容させることの可能性を、非常にはっきりと狙っている。
 社会的な基盤から解放され、少数の個人たちの集団だけの手に握られた科学、しかも、いかなる制度にも従属せず、自分たちの実験に必要な諸手段を得るために何らかの工業に服属することがもはやないような、そうした個人たちの集団の手に握られた科学ーーーこれが、ニーチェにおいては、『あらゆる価値の価値転換』の計画の前提となるべき具体的諸条件の、幻想的に表象された姿である。科学に関する「価値の価値転換」は、知識の用いる手段が多くなればなるほど目的や目標に対する配慮が少なくなるという、その事実に基盤をおいている。目的が幾つかあれば、それと同数の手段があるのである。求められ到達される目標は、あたらな手段を生まれさせるための名目でしかない。創造すること、それが恣意的なる特異性の勝利への道をひらくのだ。思考し感じることの集団化された諸慣習にとっては当惑の対象でしかない、そうした特異性の勝利への道を。

 次のような科学のさまざまな側面ーーー方法の連続的展開(目標への配慮なしの)ーーー実験をおこなう力ーーー諸目的への従属、それが科学の創造性を阻害するのだがーーーそして最後に経済に組み込まれていることーーー、それらはニーチェの預言者風のファンタスムのなかに、同じ数だけのモチーフとして介入するーーーつまり、ニーチェが科学のなかに導入したいと思う創造への要請への、同じ数だけの障害として。この要請の名において、実験者は、稀な何人かの個人のーーー種というものの唯一の正当化であり、唯一の存在理由であるような人間の類型の、その素描としての個人のーーー成長に好都合な生理的、心理的条件を探し求めなければならないのだ。この「正当化する類型」は、したがってある特定のファンタスムの恣意的な複製であるということになる。ところで、この複製が恣意的であるように見えるのは、既存の種との関係においてのことでしかない。しかしわれわれの種を通過していくような一つの存在を生み出すという衝動的必要性こそが、創造へと向かうイニシアティブをになうのだ.このファンタスムとは何なのか。「人間があらかじめ前提としているような一つの存在」でないとしたら。「人間は存在しない。しかし人間は、みずからの生の目標を指し示す。これがあらゆる意志の自由であるーーーしたがってあらゆる恣意性の自由である!目標のなかにこそ愛があり、完成されたヴィジョンがあり、ノスタルジーがある!」
 このように定式化された「超人」の公準、それは「超人」が個人ではなく、状態であると語るのだがーーー生にいかなる目標も信じないニーチェは、このような公準によって、生に一つの意味を与え、追求すべき一つの目標を定めるのである。ニーチェはこうして、生の無数の偶然のかわりに、個人の創造的イニシアティブを置こうとする。同時に彼は、彼の思考のなかから最も重要なポイントを削除する。すなはち、これらの「偶然」は永劫回帰のなかに暗黙のうちに含まれているのだという考え、永劫回帰だけが人間たちの意志や非ー意志とは無関係に偶然を生み出すことができるのだという考えを。
 ニーチェは「永劫回帰」の啓示を忘れることはできなかったのだが、しかし彼はその「回帰」の記号を、ただ利用するためにのみ手元に残す。彼は「現実原則」の彼方に突き抜けてしまったが、すぐにまたその原則の手前に戻ったのだ。つまり「回帰」の法則を意図的に再構築することによって、科学を手段として用いながら、彼は「現実原則」を復活させたのだ。

彼女たちの未来

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  ところで、「全地球的管理」の唯一有効な「合法化」として、「非生産的」生き方ーーー労働にいそしむ集団という全体の文脈のなかでーーーを支配権力の属性とするような人間類型を扶養するという務めを定めること、これはとりもなおさず、寄生生活を神聖化することに他ならなかった。
 これは工業社会のあらゆる道徳への、先取りされた挑戦である。工業社会における生産原理は、交換不可能性の中に生きるものすべてに良心の咎めを感じさせるのだし、全体の生産性に何らかの形で組み込まれても隷属してもいないような、そんな文化や生活圏は全く容認しようとはしないのだ。諸情動に対する圧迫のこの企てがいかに広汎に広がっているか、それをニーチェは十分認識していたのだが、彼はそうした企てに対して自分の選別の諸計画を、まるで恫喝のようにして対立させる。それらの計画は、貴重で、珍奇で、必ずや有毒であるはずの植物たちを非合法に栽培するための、最適な時期を用意するーーーそしてその植物たちは、あらゆる美徳の命令に対する情動の反乱のようにして、大きな花を咲かせるはずだ。「支配者のカースト」、支配者のように非生産的なそのカーストの到来は、「悪循環」のなかに記載ずみであるとニーチェは知っている。こうしてニーチェは、そのカーストの到来の前提条件を、無意識に、そして確実に準備する仕事を、集団性の漸進的な「機能化」に委ねるのである。
 前提とは、いかなる意味においてなのか。工業勢力が集団の増殖によってみずから生み出す固有のディレンマの数々から、それらの条件が派生するのだという意味においてである。支配者のように非生産的な種が、この点では時代の政治美学の影響をまだ強く残しているニーチェの目から見て、「カースト」の形を取るか否かはそれほど重要ではない。むしろその種の独自の性格は、諸世代の予見不可能な力から由来するだろうと思われる。種の伝播の力は、その種を増殖させた道具にすでにして反抗するようになっている。工業的精神は集団を生の唯一の基体の地位にまで引き上げたのだが、その精神はしたがって、自分自身の破壊者を生み出したことになるだろう。みかけは逆に見えるかもしれないが、「いかなる美徳の命令にも従う必要が無いほど、充分に強い」新しい種は、まだ世界を支配するにはいたっていない。そして、その種はすでにどこかの教室の椅子にすわって来たるべき時にそなえているのかもしれないが、あるいはまた、その種がもたらすはずの比類ない驚愕は、いまだに揺り籠のなかでまどろんでいるかもしれないのである。
   「選別の供儀としての悪循環」 P クロソウスキー  1974   兼子正勝 訳 より転載

 僕がこのクロソウスキーのテキストを読んだのは1993年だったと思う。僕の蔵書は20−30年前に買ったものがゴロゴロあって、その多くは既に絶版になっているものも多い。売れない本ばかりを読んでいるという自負が僕には常にあるのだ。ある意味で「売れてたまるか!」と思う。当時は工業化社会の真ただ中にあって、胃袋に幾つか穴を開けながらも走り回っていた尻の青い若造だった頃のことで、実に衝撃的なテキストで読んだ瞬間に僕の金儲けへの熱情はあっという間に醒めて行ったのを記憶している。ニーチェが革命を予見していると感じたのは、そしてそれがはっきりと僕の意識に登るようになったのは、クロソウスキーの読み方という事であったのだしそれがサドとドルーズに宛てた彼の考えの一端であったと知った時からだ。僕たちが彼らと同時代を生きるという意味合いにおいて、多少の前後はあるにろ唯一有効な「合法化」として、「非生産的」生き方が出来ないはずがなかろうそう僕がすぐに考えたのは説明の必要さえないだろう。集団的工業社会への寄生生活の先取りの神聖化!実に魅力的で背徳的な響きの生き方であると思う。ノマドライフというソフトな呼び方に現在はチョロっと変えてみたのだが、中身は一緒である。「遊び人の支配者のカースト」であり「お山の上から鴨を喰う猫」というドンキホーテ的カリカチュアである。集団的工業主義に支配された真面目な人ほど反発するのだが、平たく言えば変異の後に生き残るのはきっとそういう新しい種なのである。
 それはピケティーの不等式 r>g の前提が変化した時に生まれた突然変異なのかもしれないが、確実に世界中に増殖している新種であると僕は思う。政治体制とは無関係に、西欧でもアジアでも中東でも先進国でも途上国でもそういう動きが顕在化している真っ最中なのだろう。きっと20年も待たないでこの日本でも思ってもみないような酷い社会の全体図ができ上がるという自信が僕にはあるのだが、それは昨日書いているマッカーシーやピンチョンが描写する近未来のアメリカの姿に近いものにきっとなるのだろうという強い予感がするのだ。
長いフードスタンプを待つ行列を避けながらベントレーやアストンが疾走する不完全で歪曲した秩序の崩れた世界がすぐそこに待っている。記号が唯一の意味を持って実体を支配する世界。そんな暗い予感をジョージ オーウェルが「1985年」という小説に書いたのは僕が中学生の頃だったはずだ。あれから40年あまりで世界はオーウェルやピンチョンに限りなく接近している自覚が僕にはある。
 「戦争は平和である。」ビッグブラザースのアイロニカルなスローガンが正義となる時、果たして僕たちは生き残っているのだろうか?

ZUNT BAR&CAFE SUZUKI

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イタリー製アンティックエスプレッソマシン

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カップはミントンやジノリ、ドルトンが多いみたい


通貨(お金)の無くなった世界というのを想像できるだろうか?別に個人的な意味ではない。通貨で交換することが不能となった世界という意味だ。何か特別な事が起きて(大地震とか核戦争とか宇宙人の襲来とか?)通貨の交換機能を人々が信用しない状態が生まれた時という意味だ。政府機能が完全に停止して、通信、水道、ガス、エネルギー、流通生産機能が全てストップするような大規模な災いごとが起きるという事で、「今までそんなことが起きた事は無い」とはとても言えない。福島を見れば「起こりえる」という証拠だろうからこの物騒な時代ではいつ何が起きても不思議は無い。アルカイーダやISがどこかから核を調達してそれを先進国の都市部の中心で弾けさせればすぐに起こりえる事態なんだろうと僕は思う。映画のようだが、現実は今日の延長だとずっと思っている人の常識があっという間に変化して世界が劇的に変るだろう。あり得ないメルトダウンがあっけなく起きたということは、あり得ないというのは技術者の儚い願望でしか無かったという事実である。そうなると相場師なんて一番最初にオマンマの食い上げである.(笑)

 汚染地域は「人間が誰もいなくなった棄てられた土地」である。世界中がそんな場所になったという想定で書かれた小説が、コーマッック マッカーシーの The Roadという小説だ。近未来、多分核戦争かなにかで政府が無くなる。奇跡的に生き残った父と息子が、アメリカ中西部の都市から徒歩でカリフォルニアの太平洋岸を目指して汚染された道を進む「生き残るための旅」をする。道中ではわずかに残った食料や衣料を生き残った人たちが奪い合う争奪戦が随所で起きる。限界状態で、「人は何を信じて生きるのか?」そういう価値観への問いかけの小説だ。
「飢えと乾き」が日常的で、なんとかその日を生き伸びるためには人はどんな残酷な事でもするようになる。「法」が消えて「力」が全てを決めて行く。正義も悪もそこには無いのだ。いたるところでカリバニズムが横行する。他にめぼしい食物が無くなれば人間は共食いを始めるのだ。残るか消えるかというだけの物理的な世界である。動物の世界はまさにそういう生き残るかどうか?という命を賭けて生存する世界だが、それでも残るものと喰われるものに別れても、種としては残るものが多いのだ。弱者が必ずしも滅びるとは限らない。多分、自然な生存のバランスが食料と捕獲者のバランスという部分でどこかで人間の知らない黄金比率があるのかもしれない。
 地震の時、あっという間にコンビニから食料と水が売り切れてしまったように、何かが起きない前提で僕たちは明日を予想する、というかそれ以外を予想できないような思考の構造にどうやらなっているようだ。でもいつかそれは来るというのは歴史が示している。だから御岳山でいきなり噴火が起きたりする。

 人類に根本的な対処法はあるのか?恐らく「無い」と言えるだろう。起きた事態になんとか個人的に対処する延命策が少しはあるのかもしれないが、自分が人類最後の一人に生き残ったとしても、それは恐らく酷い不幸という他ないのだろう。ならどうすれば良いのだろう?全ての命には限りが有る。時間には限りが必ずあるのだ。この事実を曲げようとしても何人たりとも無駄なのだから、残された時間を自分でいかに有効に生きるのか以外に手立てはないのが全ての人の合理的結論だろうと僕は随分と若い時に考えたものだった。その結論は今も変わらない。だからこの今日の一日を自分の好きなように生きる。明日があればまたその繰り返しだ。そうやって命が尽きるまでそれを続ける以外に僕にとっての合理的選択肢はないし、全てにそれが優先されるということに基本はなるんだろうと思う。その上で、生きて行くために必要は物資やサービスを、現在は通貨による等価交換が可能だからしているという事に過ぎない。自分の独力で必要な物資を作り出すことなど「不可能」だから、「買う」かそれが不能なら「奪う」以外に手立てが無いのだ。マッカーシーはだからきっと人間の限界について書こうとしたのだろう。
 30年以上も前に、僕は「すべての美しい馬」という彼の作品を読んで以来欠かす事無く邦訳された全てを読んで来た。80年代に文学部を出て小説家を目指すアメリカの青年たちはみんな彼のような作家になりたいと憧れた男であると思う。文学が果たす役割、いや文学でしか果たせない役割というものがきっとあるのだとすれば、彼はそういう役割を担った偉大な作家の一人なのだろうと僕は感じる。20世紀の初頭にもグローバリズムの時代があった。資本家が生まれて工業化が進むと自然淘汰で貧富の差は拡大する傾向にあるのだろう。1世紀がたって、大きな戦争が無くなって社会が固定化するようになると自由競争という名の元に、既存秩序を拡張する方向にベクトルは進みやすいことになる。通貨と信用が無限大に拡張されれば ピケティーの不等式 r>g はますます酷くなるんだろう。弱い需要と高いリーターンの反復によって世界が二分される。資本主義の合成の誤謬に解はあるのだろうか
 昨日はお昼から座間と厚木に遊びに行ってきた。コストコというアメリカの会員制スーパーで食料品をいろいろと3万ぐらい輸入食材を中心に買ったので、大型の冷蔵庫が満杯だ。これできっと1ヶ月ぐらいは電気が止まらなければ生き残ることが出来るだろうが、対処法なんて儚いものである。一寸先はどうなるかなんて誰にもわかりはしない。
友達が食いシンボなので、上手いラーメン屋を探せと言ったら ZUNT BAR という不思議なラーメン屋を見つけた。246から7キロほど山に向かって走ると辺鄙な場所に有るステンレスの内装と食器の店で、これがとても美味しい。チャーシューが旨いのだが、1枚ずつ炙っているから炭の香りが香ばしい。1000円のごちそうだ。その後、厚木の駅前にある CAFE SUZUKIに寄った。知る人ぞ知るコーヒー屋である。750円だが凄い!飲んだことのないコーヒーを飲めるから近所の人は試してみたら良い。探せればという前提だが、、。
今日の幸福とは所詮この程度のものである。彼も僕もお互いマダムが偉い女だから事実上ヒモなのだが、現代は男女平等社会という建前なのだから、べつに男が家事をやってランチをしても悪くも変でも無いだろう?平日の昼間から男二人がヒラヒラした格好で大きなメルセデスを転がすと「ヤーさん?」と思われるが(ほぼ80%ぐらいの人はそう思うらしい、、)、ヤーさんではなくれっきとした「無職」である。どうだ良いだろ?(爆)
男の幸福は、いかに素晴らしい女を相手に選ぶかにあると個人的に思う。
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