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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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海辺にて

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西加奈子にハマった。パロールに大阪弁を駆使する女子小説というのは新鮮で面白い。通天閣という場所には一度も行ったことはないのだが今度大阪に行ったら見てこようかなと思う。多分下町ライクな昭和な大阪の風景というトポロジックな記号ということなんだろう。うーん東京で言えば上野とか錦糸町とか北千住とか場末な感じぷんぷんな場所ということだろう。猫好きの作者の描く「風俗的なおみずの世界」は「家族と社会」の縮図の記号なんだろう。東京人の持つ虚ろさとか空虚というメタファーを全否定していく力動感がなかなか素敵だなあと思う。直木賞を取ったらしいが実力充分であるなあと。

 来週から本格的にお引っ越しが始まる。ここ3週は荷物のパッキン済めという単純作用と壁、床、ガラスの清掃業務をしていたので筋肉痛が出てブログを書く気も起こらない。紫陽花が美しい函南ライフも今週で打ち止めという事で記念に函南図書館で10冊ほどいろいろと借りた。図書館は昨年新設されたハイテク図書館で、実に内容が充実し蔵書の中身が新しい。西加奈子、内田樹、平野啓一郎を立て読みするのが今週のお仕事の大半で、残りは引っ越し準備と新居の工事の確認だった。トイレと洗面の交換を終えて、冷蔵庫の廃棄、壁紙の張り替えとライトの交換終了。あとはカーテン設置が来週だ。大工さんに月足グラフの一括整理が可能な巨大なキャスター付きの棚を作って貰った。後日写真を揚げる。

 相場は指数だけが強く、僕の主力の低位は大半が人気の圏外で安値の小動きだが、中に年初来高値を連れ高でとるのだから、戻り高値を売った値ガサがダレルのかを見ているが、結構強いのだからまだあるのかなとも思う。数枚の利食いを入れるとすぐにダレルからまだ時間がかかりそうなものが多い。5月の月足更新は新居に移動してからだから遅れるがまあいいかなねと思う。低位株には大きな動きは無いからだ。

 ガラス掃除というのは結構ヤリガイがあるなあと思う。毎日ピースを一箱分タバコを吸うので知らぬ間にガラスや壁紙は汚れいてる。4年前に張り替えをしていたのだが、これをガラスマイペットとか激落ち君という洗剤を使って拭くと色が変わる!雑巾が黄色になるということはその分のヤニが取れたという事であり4年分の不健康の蓄積の可視化にはウッテツケ。
什器の支店長さんがわざわざ工事の立ち会いで横浜から来た。僕より2歳下の定年前の穏やかなお金持ちの坊ちゃんなタイプなんだろうと思う。ダイヤランドの別荘も5−6軒過去に施行した実績があるという事だったが、なんか定年を前にして周囲の友人の動向などを見ながら「もういいかな、お仕事やめても」と感じているらしいから「定年近くまでせっかくやってきたのだから、あと2年ぐらい我慢したほうがいいんじゃない?」と余計なお世話を言っておいた。したい事があるにしろ、それがあと2年後に出来ないことなら急ぐべきだろうが、そうでないなら惰性で行ったほうが多分彼には安全である。組織の仕組みというのはそういう風に出来ているし、それに一生適合してやって来た人が終了直前で心替わりをしても良い事なんて起きないんじゃないか?はみ出すならモットずっと早い時期でないとモノにはならんだろうと思うが、、。
家中がパッキンだらけで70個近くのパッキンで埋められると脚の踏み場も無い。だから猫は混乱している。いつものソファーとマッサージチェアが彼のベッドの定位置なのだが、それも落ち着かないようでなんなそわそわしている。移動はケージを使用する予定なので、またたびを使ってケージに入れる練習を2回ほどしてみた。狭い所は嫌いなようである。まあ30分以内で移動完了できるはずなので、一番最後にしてもいいのかなあ。

 移動するというのはある意味で人生の区切りになる。住む場所は人間の気分と生活を一変させる好機だしノマドライフはフーテンだから有る場所には多くを拘らない生き方のスタイルだ。統合的、蓄積的でない生活。根の無いフーテンのヒラヒラした暮らし。微分的でたゆたう水中の藻のような他動的な平滑空間での流れる時間という水量の加速度と強度の受け止めのその日暮らし。もうかれこれ20年そんなことを繰り返しやっていると目的とか希望とかは別の世界の出来事になってくる。お金が社会と自分を繋ぐ記号的意味しか持ち得ないそんな不思議な世界なんだろうと思う。





























































































































































































































































































































































































































































































































戦争が始まる!

安倍首相は年金問題のときに「最後のひとりまで」と見得を切り、TPPについては「絶対反対」で選挙を制し、原発事故処理では「アンダーコントロール」と国際社会に約束しました。「あの約束はどうなったのか?」という問いを誰も首相に向けないのは、彼からはまともな答えが返ってこないことをもうみんな知っているからです。
ここまで知的に不誠実な政治家が国を支配していることに恐怖を感じない国民の鈍感さに私は恐怖を感じます。

  内田樹の研究室より転載

人間はよく嘘をつく。僕だって多分言ったり書いたことがその通りに結果的にならなかった事が多いし、それは結果的に嘘だったという事になるのだろうが、だからなるべく「当たらないがこうなるかもしれない」と感じるぐらいの書き方をするようにテキストの表現ぐらいは気を使う。べつに感じた事を書くのが嘘ということではないだろうし、それは「曲がる」という予測の外れであるのだから多分ほとんどの人が犯す未必の誤りという事だろう。
一方政治家の約束は意志の表明だから、言った事の意味と責任は重い。だから「失言」によって失脚するような事が良く起きるのだろうが、この人の場合は不思議に誰もそれをあまり指摘しないし批判しない理由が良くわからない。アルツハイマーという老人性のボケがあるけれど、阿部は若年性アルツハイマーなんだろうときっとみんなが思っているのかしれないが、それなら日本国の最高権力者にしておくのはあまりに危険である、という点で僕は内田さんと同意見だ。共産党の志井さんもきっと同意見だ。それはイデオロギーの問題というよりは、人間の資質に関する洞察力と知性の問題だと思う。「馬鹿とキチガイは政治家にするのはヤバイ。」という至って平凡な常識である。安全上の要件として議員全員をアルツハイマーテストを選挙前に受けさせる法案を提出するべきだろう。多くの議員がきっとひっかかるのではないか?
 確かに民主党は酷かったが、自民党はさらに酷かったという結果になって、きっと国民は政治に嫌気がさしているのだろうが、そういうタイミングでファシズムが生まれたのはドイツも日本も過去同じ経路を辿っている。わずか80年ほど前の事だが、それによって日本は敗戦する事になった。このまま行くとまた同じような大失敗になる可能性が高いだろう。
アルツハイマーというのは遺伝性があるらしい。彼の爺さんは戦犯だったのを覚えているか?東京裁判で連合国側が戦犯として判決しているのだ。戦争犯罪人である。それが冷戦の発生で運良く(?)首相に返り咲いただけの事である。阿部が靖国に拘るのはそんなせいだろうと思う。阿部が爺さんとそっくりだというのは、体質も発想も同じであるという事で、それは血筋の遺伝に関係があるのかもしれない。
 このまま行くと、日本は戦争に近く巻き込まれることになるだろう。後方支援というのは兵站業務ということであり、戦闘行為である。自衛隊の艦船がアメリカの敵国のミサイルの標的になるという事であり、当然報復をするということになるだろう。「自衛」という名の戦争である。そういう状態を阿部は作りたいという意志なのだ。一端戦闘行為が始まれば、どっちが良いの悪いの言っても意味は無いのはパレスチナとイスラエルの泥沼の戦闘を見ていれば明かである。戦争とはそもそもそういうものである。前回の選挙で自民に入れた人は結果的に国賊を選んだ事に多分後悔することになるんだろうと思う。





































































































































































































































































































































































































































































第三の審級

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「老、病、死」という順番で多くの人は死の瞬間を迎えるというのが時間軸の凡庸な成り行きだろう。
夏目漱石は享年49歳だったが、明治時代ぐらいまでの日本人の寿命は50歳前後が当然だった。それがたった100年も経たないうちに30年も平均が伸びたのは「上下水道の完備」と「医療の発達」が大きい。栄養の向上もまた大きな要因だろう。反面、死にたくても死ねないほどの延命治療やアルツハイマーなや痴呆など早めに死んでいたら表面化しなかった老いのハンデも明らかになった。
企業の定年が65歳になり年金の支給も後ズレして、人間は更にもっと働けと言われているようで怠け者の僕などは「マジかよ」と呆れるが、いつからこんなに日本人は真面目に働くことを徳目とするようになったのだろう?日本だけがデフレを20年も続けているのは働き方と遊び方のバランス配分が異常に働くほうにウエイトがかかっているせいだろうし、生産>消費なら価格が落ちるのは当然だから、もっと働くのを減らせば良いのになあといつも思う。この国会で労働法制が変更されて時間と給与が連動しない人(残業代を支払わないで制限なく働く人)が合法化されるとさらに企業人の働き方はヒドイものになっていくのだろう。憲法9条にしてもなんで悪い方向に変えるという事が明らかに分かっているのに、そんな政党に支持が集まるのは全く理解できないのだが、得票率が25%でも議席が70%になるような選挙制度というものの弊害がモロにここにきて出ているようだ。それでも大阪都構想が潰れたのは政治の市場化はオカシイという常識がまだ大阪人には少しは残っていたという証拠で救いはあるのだろう。右派が調子に乗りすぎてやり放題という状況がどこかで止まるというのは安全上好ましい事だろうと思う。
 イアンブレマーという政治学者は若いがクールだ。アメリカがどうするべきか?という国家的な方向性を常に考えて政策定言をしていると思うが、こういうタイプの若い学者が日本には少ない。金子勝と大沢真幸の「見たくない政治的現実を見る」岩波 を再読した。少し古いがそれでも、沖縄、高齢者医療、ナショナリズム、若者の就職難など日本の課題を何かという視点で共同取材を行い、実際の現場で格闘する人々と実際に会って彼らが何を考え、どのように振る舞うのかを、思考の枠組みや座標軸を組み換えていくという良い仕事をしていると思う。右派にこのような地味でも意味のある仕事をしているような学者は少ないと思われる。物事の解決が金だけではどうにもならない事のほうが沢山有るのが現実だろうと思うが、それを金でなんとかするという無理筋が横行すると変なことになりがちであるのは常識なんだろう。気候風土歴史文化習慣が異なる多くの国家と民族が一つの方程式で割り切れるのならば戦争などというものが起こるはずもないだろうが、現実は戦争が無い時間のほうが無いぐらいに人類は戦争ばかりしている馬鹿な動物である。その馬鹿さ加減の自覚の有る無しが重要であろうし、どこかの孫はその「無い」ほうの馬鹿だからつける薬が無い。テロリズムを非難するのは容易だが、テロリズムの必要性はこんなケースのためにあるのかもしれない。

 不愉快な生活に巻き込まれないで自分なりに快適に暮らすという誰にとっても身近な幸福という単純な事が出来そうで出来ないのはどうしてなんだろう?健康面でも経済面でもそういう生活の技術という事をきちんと教えてもこなかったし考えてもこなかったツケがここに来て初めて気がついた人が多いのだろうと思う。西欧ではギリシュ時代からそういう生活の技術というのは一番の思想哲学のテーマだった。どのようになにをどれぐらい食べるのか?というテーマがまず最初の主題であったという事だ。日本は生産面では優れているのに消費面ではひどくその点で劣っている。それは生産しないと食べられない(働かざるもの喰うべからず)という戒律が異常に徹底しているせいなのだろうか?それでも生活保護が400万にも増えたという事は、少しは改善されたということでもあるのだろうが、現実的に一番貧しい人は働かないし、一番豊かな人も働く必要が無いというサンドイッチな状態が現在社会の特徴なんだろうと思う。どっちも働かないで生きる事が可能なら働かないほうがお得であると僕も思う。後は質の問題が残るのだろうが、幸福とは感覚と習慣の帰結だから金のあまりかからない幸福というもの無論あるだろう。日本人の好きな「清貧の思想」というやつである。ただしこれだとデフレになるが、、。
 ここに来て湾岸の高層マンションが良く売れているらしい。売値は坪300万が相場らしいから、一番安い部屋でも(70平米の兎小屋)7000万前後であるという。ギャラが1000万を越える少しマシなクラスでも支払いにはフウフウ言うということで20年住んだら多分1000万程度に減価するから、年間300万の原価だから生活は苦しいだろうと思う。つまり無理をしている事になるから今後の20年は生活の質はひどく低いという事に否応無くなってしまう。地震で液状化、金利が上がったり途中でリストラなら途端にホームレス直行が相場という事だ。僕の周囲でも無理なローンでしくじるケースが後を絶たない。無謀だなあと思うのだがそんなリーマン以外に生活の技術の無い人がたくさんいるから銀行と不動産屋が飯が喰えるという事なのだ。頭が悪いというか、考えが無いというかつける薬が無いという意味でどこかの孫と同じだから、まあ死ぬまで直らんだろうと思う。欲しい物は全部現金買いが出来る範囲で買えというのが技術の基礎だろ?しかも今はまだデフレだせ?
反面、田舎暮らしを快適にしている勇気有る母子片親世帯を国営放送でやっていた。住居費はタダだし(村営住宅で月に3000円の家賃で一戸建てだ)、仕事も時給1000円で紹介してもらえる。母と娘の二人暮らしで豆腐屋のアルバイトだが、野菜を作って自給自足の暮らしをしてゆっくりと暮らしている。お金とあまり関係ない暮らし。必要な現金は水道光熱費とガソリンと多少の食費ぐらいだろう。時間は豪華にあるからゆとりがある。通勤は10分だ。藻谷耕介の言うグリーン資本主義に近い、辺境の暮らし。失敗のしようがない(だって金を借りていないから)生活という事である。無農薬野菜の食事と薬品漬けのコンビニ弁当との違いが20年の蓄積でどうなるのか?どんな馬鹿でも想像がつくと思う。
 JK(女子高生)JC(女子中学生)JD(女子大生)に関する考察で、桜庭一樹は鋭い。今週は彼の作品を4冊ほど読んだが、日本は多分♀に関しては心配ないと思う。競争力が実に高いのである。問題は♂である。
知の伝道師、内田樹が道場を作った理由は男子の再生が目的だそうだ。生殖力が落ちているのである。AKBのブレークは第三の審級が日本では少女性にあるというドルーズの閃きに恐らく起因しているということなのだろう、池沢夏樹が桜庭を選んだ(日本文全集 私家版)のは故無しとは言えまい。一読を強く押す。


































































































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 相場の事をしばらく何も書いていない。ハルトモさんではないが、「自分の今を綴る」というのが個人ブログのリアリティーなのだろうし、別にリアリストでもないから(結構僕はロマンチストだ 笑)玉操作をああした、こうしたというのを書くとそんな売買の基礎の練習をするひとばかりが来るようになる。で、売買を公開しても別段、分散で少量だから害はないから別の人のサイトにほとんど全部(いくつか忘れることもあるだろうが)張っている。現在はシホさんに張っているから、きっと売買に興味のある人は彼女の所にいくんだろう。1日100ぐらのビューがあるようだし、以前ひよこさんの所に張った時も200ぐらいはあったようだ。一方で僕のビューは400−500と安定しているが、この数の差200−300とは何だろう?1年半で20万ビューというのは大半がリピーターなんだろうと思うが、リンク先を辿ると8割以上が見た事があるが、あまり詳しくは書いていない。
 リンク先でテキストが長いという人はほとんどいない(1%以下だろう)し、僕のテキストは異常に長いし、単独ページを読んだだけでは多くの人にはチンプンカンプンだろうと思う。論理的な一貫性なんて最初からないし、原則論もあまりない。商売のために書いているのではなく、自分の暇つぶしのために書いている。目的は「暇つぶし」であるから、内容なんてどうでも宜しいし、リクエストがあれば(例えばそれが相場の事なら)相手の状況に応じて基礎的な事なら詳しく書く事もある。ただ、いくら詳しく書いても、相場は値動きに対するこちらの動作の質量の問題だから、理解と上手な実践の間にはそれこそ1000里の隔たりがある。その隔たりの接近にきっと10年ぐらいは誰だってかかるよと書くと多くの人は反発するのだろうが、それは何も相場に限らず、技能的な事の習得には長い時間と(失敗や成功の積み重ねの)経験が必要だと言う常識に過ぎない。だから相場を書くということは、相場の常識を書くという事であり、その意味ではクドイ繰り返しにならざるを得ない。つまり書いているほうが飽きるのである.(爆)

 こんなに便利で物騒な時代だから、世の中の多くの人はお金がとても豊かになっているはずなのに将来の不安のために、あるいはもっと多くの欲望のために更にお金を追い求める。100人いたらきっと99人が同じ方向に同じ事をしようと動いているように僕には見える。仮に3日後に日本に中国の核ミサイルが2000発飛んでくるわかっていたとしたら、僕たちは本気でお金なんて追いかけるだろうか?実際に北京の核弾頭は1000発東京に標準が向いているというのだから、喧嘩をして本気で勝てる訳が無い。大江健三郎の過去のエッセイ集に「核時代の想像力」というのがあったが、それを読んでから既に30年以上が経っている。その間、ミサイルは一発も日本には飛んで来ていないが、今度は北朝鮮が頻繁に日本海にミサイル実験を繰り返し行っている。イデオロギーというのは、人民のアヘンだからそのうちにラリって打たなきゃいいがと思うが、今更安保法制を変更してもそれで何が具体的に変るのだろうか?と思う。本気で有事を考えるなら、どこかの首領を暗殺するような部隊をマジに育成するほうがよほどコストも安いし有効な対策だろうと思うがそんな動きは見られない。日本の保守は昔から馬鹿だが体質は変わらない。戦犯だった爺さんと孫は実に良く似てるなあと思う。
 来るか、来ないかわからない未来のために(多分多くの人の数年から数十年分の未来)人は時間を犠牲にして欲望を抑制する方向でせっせと真面目に働く事を無意識に強いられる。それを僕は「プロテスタンティズムの労働倫理」と呼んで小馬鹿にする方向でブログを書くというのが、唯一僕のブログの一貫性なのかもしれない。感覚や思考の相対性、多様性を認めるとするのなら、もう少し多方向に人は感じ考えてしかるべきなんじゃないのか?と素朴な疑問が湧くのだが、その問いに対する答えがきっと僕にとっての文学や芸術という意味なのだろうと思う。「鯵が沢」と「紋別」、いずれも一度ドライブで通過しただけのはずの辺境の街で、記憶の断片からは荒涼という気配以外には僕には残らなかったトポロジー。大きくて快適なジャグアーやメルセデスのシートからは想像がつかない自然の厳しさがきっとある土地。都会人が夏にしか行けない土地というのがきっとそういう場所なのだろう。
 高村薫の描く鯵が沢と桜庭一樹の描く紋別の風景が僕の脳裏でシンクロして、二つの小説の印象が重なる。どこかで見た日本の古い原風景。親子という血族の世界。でも人類史3000年の中で2950年はきっとそんな世界が当然の前提だったはずだろう。細胞の記憶というのがあるとすれば高村も桜庭もきっとそういう賢い細胞を持った人なんだろうと思う。夏になって少し落ち着いたら一人でCLを転がして北に走ってみようか、そんな欲望を感じる小説を僕は毎日読んでいる。

袋小路の男

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「自由って何だろう?」学校で「自由、平等、博愛」なんてフランスの国旗の意味を昔習った記憶があるが、そういう3つの概念は矛盾しないものだと思っていた時期が長かったように思う。現実に自分が働いて家族を持って生活してみると、なかなかどうしてこういう概念を成立させるのは容易でないというのが身に染みてわかるようになる。つまり親の庇護の元でぬくぬく甘やかされて育った僕のようなアマチャンというのは、実際の社会的な競争に晒されると、自分の考えは行動や決定の甘さによって沢山の失敗をして初めて少しずつ社会の事がわかるようになる。それでも商家に育ったという環境のせいもあってか、お金が毎月25日に口座に入るなんて事が無いという事だけは知っていた。だから社会のお金の基本的な仕組みという意味で、それをどう転がしたら良いのかだけは人より先んじて覚えるようになったという事なんだろう。
知らないで済むのならそれでも良いが、人生70年(?)でそんな事は無関係で済むようなお気楽な人はまずいないのだろうと思う。まず個人の自由、あるいは家族の自由とは何だろう?自由とは何からの自由なのか?自由を自分で選んだ瞬間から、今度は選んだ自分の自由な決定から拘束される(責任を持つ)という事であるだろうし、その責任というのは選択の空間的、時間的制約ということでもあるのだろう。
住所氏名と人は問う。ということは「自分が誰であり、どこに住むか」という場所を常に社会から問われるということで、「住所不定、無職」というのは社会的に「のっぺらぼう」という意味であり、信用が無い事の証拠なんだろうと思う。読んだ本の影響が強かったせいのか僕がなりたかったのはこの「のっぺらぼう」だったのかもしれない。少し変人なのかもしれないのは、ある時期から(多分35歳ぐらいから)この「住所不定、無職」で野良猫のようにヒラヒラ自由に行きて行くのは無理かね?とマジに考えるようになったという事だろう。この時には既に結婚して子供が二人いて、社員が40名ぐらいの会社をやっていた。ひどい奴だねと自分でも思うぐらい無責任なのである。好きな場所に住んで、好きな事をして(主に寝ているか本を読んでいるかネーチャンと仲良しになるか)生きていければいいなあと、子供が宇宙飛行士になりたいというような純粋な欲望や憧憬のような事を感じるようなレベルで感じていたのだから呆れる!!でも仮に僕が猫だったら(まあこんな荒唐無稽な事を35歳で考える事自体が社会的に変だということは今ならわかるが、、)そういうのもアリなのじゃないか?と思ったのである。それでもしたい事をなんとかしていくのが「自由な選択」であるとするのなら、トライするのは別に悪い事でもきっと無いのだろう。だから自分を制約してる時間と場所からどう離れるのか?と具体的に考えるようになった。社会と自分を関係付けている要素=時間と場所をどう断ち切るのか?生きるための糧は職業と金なのだから、それをどうするのかは「量の問題」なんだろうし、「量がそこそこ有る」状態なら自由な時間を買えるのだろうと思ったから、「そうだ相場があるじゃない。」と思ったというのも変かもしれない。選択肢なんてたくさんは実はないという事にきっと僕が気がついたという事だろう。
 昨日はまたクレマチスの丘に行った。標高が300メートルぐらいの丘陵地で駿河湾を見下ろす良い土地である。去年の5月に年間パスを買ってきっと10回前後は行った事になるのだろうが、マダムと義母をつれて美しい庭園で本をまるまる1冊読んで2時間ほど遊んでいた。読んだのは「袋小路の男」絲山秋子、川端康成文学賞受賞作だ。エリート女子が指一本振れないまま「あなた」を想い続けた12年間の純愛小説なのだが、出て来る男はどうしようもないダメ男である。
 「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ、」  ロレンス ダレル「ジェスティーヌ」
絲山は巻頭にそんな引用を引いて想いを吐露している。5月は美しい季節だ。クレマしスは満開だね。
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