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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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内装解体

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 新居の内装解体と施行の打ち合わせに行った。すでに壁紙をはがして照明器具を外し、断熱材と石工ボードの下地作りが始まっている。大型の鏡を外して、古い洗面台を撤去していた。ここにクッチーナの洗面を入れるらしい。トイレも全部交換して、壁紙を入れかえて手洗いをクッチーナを使うという予定らしい。全部、マダムのお好みだから口を挟む余地はない。とりあえず現時点の「終の住処」の段取りを進めて行くことにする。何年か何十年かはわからないが、当面初老の夫婦が快適に生活できる場所の確保という事だ。夏は涼しく、冬は暖かくというのが毎日の快適さの基本で、津波と地震と富士の噴火の直撃が無い場所で、歩いて駅や病院、スーパーにアクセスが良い事、温泉が24時間いつでも使えて、風景の良い静かなリゾートという結構贅沢な環境が欲しいという目的には合致しているのだから、そういう具体的にしたい生活に現実の物件を近寄らせるという動作なんだろうと思う。室内ダウンライト照明は全部LEDに交換しておくとメンテフリーで楽だし、電気代が安いという建築士のアドバイスに従った。熱海ガスという都市ガスが使えるのでナノイーガスファンヒーターを買った。78000円を43000円だという。今年の在庫のセールらしい。ガス管工事を予約した。僕が死んでも、マダム一人でなんとか不便が無く当面(一人で動くのが困難になるまで20年ぐらいはあるんだろう)快適な生活が出来るような環境という事だ。
 工事は養生をほどこして連休以降に進む段取りということで、移転は早くても6月ぐらいになりそうだ。横浜からクッチーナの担当と部長さん2名が現地調査に来た。休日出勤ご苦労さまである。

 熱海は前回のリーマンショックで駅前の大規模マンション計画が潰れたが、タカラレーベンがその後を引き継いで50階(?)の高層リゾートを建築中だ。矢沢永吉が宣伝していた例の物件で100前後は販売済みだったらしいがお金はちゃんと戻ったらしい。多分今回も6000−20000万ぐらいの高額物件なのだろうが、金余りのせいか不動産の動きは活発だという。金利が低いせいもあるし、人口の5−10%ぐらいの層は景気が良いという事で、そんな人たちのお金が行く場所という事だろうと思う。現在熱海で不動産を買う人は、9割ぐらいが現金払いが多いという。都内の家を売るか、貯金で買うか、とにかくリゾートでも定住でも法人またはお硬い老人が住むらしいので、法人と言っても大半が社長さんの節税みたいな事が多いのだろう。あまりリーマンぽい人は多く無いような感じである。べラビスタもご近所は社長さんとその奥さん、医者、音楽家、芸能人、スポーツ選手ぐらいが購入層だったらしいから、似たり寄ったりという事だろう。
 熱海でも「星野リゾート」と「大江戸温泉」が元気がよいが、星野の大型買収物件は特に稼働率が高いらしい。(写真中央)予約が取りにくいというが、その付近にまた高層クレーンが現在稼働しているから(写真中央左上部)、また大規模な箱ものをどこかが作っている。ゼネコン1社につき下受けで2000−3000名は投入が平均ということで、雇用が直接出るから地方景気にはカンフルなんだろうと思う。大工さんや左官屋さんなど実際の施行の人数が不足して、面倒なリフォーム(総単価が低い割に面倒な工事)はあまりやりたがらない。神奈川と静岡のかなりの業者を引っ張ってこないと工期が入らないということで、工賃は上がるので売値も上がる。だから新築と中古の価格差が開いて、割安の中古の回転が早まっていると不動産屋の支店長が話していた。
 日銀がどんどん緩和を進めているが、中央銀行がデフレからインフレに舵を切るということは、資産性商品の価格が上昇するということである。不動産と株式の価格が上昇して、石油や大根やナスやコメはそれほど上がらない。
 すべてが同時に上がるというのではなく、跛行性を持って人気がついたものから順番に上がるという事である。だかそのうち水準訂正が浸透してくると結果的には意外なものが大きく上がるということが数年のうちに起こるというのは長期の価格変動グラフが常に表している。1965年からの50年ぐらいの長いのを書いたら?というのは、書けば馬鹿でもわかるからという意味なのだ。『そんな馬鹿な!』というぐらいの変化が起きるのが「資産市場の価格表記=いわゆる僕の言う幻想』である。何もしないで買い持ちで見ているのがお仕事の本質なのは、5年前とも変らない。うねるからそれに乗る練習をするかしないかだけの差異であるが、したい人はすれば宜しいと思う。だから売っても買っても上達すれば利食いであると思う。

趣味という儀式性

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「自分のダメっぷり」というのを確認するのは結構面白い趣味だ。例えばハイキングとか軽い登山。標高が1000メートルかそこらの山とも言えないような低山でも自分の脚で10キロぐらいのリュックを背負って往復7キロぐらいの一番初心者向けのコースをネーチャンとゆっくり登っても呆れるぐらいにへばる。
下山時には膝は笑うし、上がりの温泉につかる頃には筋肉のどこかは釣りそうになっているわ、日に焼けて皮膚は火照るわ、肩に喰い込むリュックを下ろすとホッとする。なんでこんなに消耗して良い事なんてほとんどないような事をわざわざするのかと登るたびに思うのだが、きっと自分のダメな身体を確認するためにするんじゃないか?といつも思う。景色が見たいとか目的達成感が欲しいとか健康のためとかなんとか苦しい言い訳を見つけて登山をするのだろうが、今と異なる環境においては自分という身体と個体の思考と発想がいかに使い物にならんのかという自己確認をすれば、なんとなく僕は安心するんだろう。それは作り出している現状という自己世界の強固さの確認と一端それが崩れた時の世界のモロさについてのある種の憧れという部分が輻輳しているからに他ならない。つまり自分の生きている世界という意識は幻想であるという自己確認のための儀式なのだろう。「便利でラクチンでお気楽」という現状の自己世界と「不便で苦しくてめんどくさい」という対象的な世界=それが僕の低山のハイキングの意義とも言える。そもそもお握りとか山ラーメンとかおよそ美食とは一番遠いようなメニューがなんでミシュランの星がつくようなレストランのメニューより美味と感じるのかというこの僕のいいかげんな味覚という感覚の理解を、いかなる言語を持ってしても身体の欲求以外の言葉で説明することは不可能であるという現実。保温性のマグに入った少し温くなったコーヒーをチビチビと飲みながら、いつもそんな事を考えるのは何故だ。
 僕よりおよそ10歳は年長の登山教室の先生の脚力というのは凄まじく、片足で何の抵抗もなくスクワットを軽々とこなす。エベレストに登ったような超人だから鍛え方が半端でないのは頭で理解できても同じ人間とは思えないぐらいに素晴らしい筋肉と肉体の芸術という事だろうが、そういう素晴らしい肉体を持ちたいと思った事は一度も無いし、そういう素晴らしい事が出来るようになるために努力したいと感じた事も一度もない。最初から負け犬根性が染み付いているから「無理!」なことは無理である。「無理をしたら即座に死ぬね。」そう思えるだけが僕にとっての「意味」である。
 「伊豆の山歩き、海歩き」という雑誌を買った。伊豆は世界ジオパークという認定を申請しているらしいが、およそ22の絶景トレイルコースを詳しく紹介する雑誌で、パラパラ見ているだけで歩いたような気分に浸れる良い雑誌である。が、このうち自分で実際に歩いた場所はたったの3カ所で、今後もそんなに増えないだろうと思う。都会ではないこんな田舎に住んでいると娯楽というものは外部的には自然ぐらいしか見当たらないし、実際にそれが一番の魅力でもあるのだが、車で移動して温泉に入って本を読んで美味しいものを食べて好きなだけ寝るという手抜きの娯楽しか知らないし出来ないこのどうしようもない自己の身体と自己意識がそうそう容易に変えられるとも思えない。己の欲望の限界の底が浅いという確認儀式を通じて、何とかかんとか一日を凌いで行くという無様さという事なのだろう。登山をする猫というのは確かに見た事が無いのだから、当然といえば当然である。そういう方向に欲求がいかないから猫なんだろうと思う。

ホルモー六景

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「京都に住もうか?」そう考えた時期があった。日本で最も美しい街の一つというより、1000年の都だったから当然だが独特の佇まいがあって素敵な街だ。だから数え切れないぐらいこの街には行った。最初は小学校の就学旅行、その後の仕事の出張で毎年2−3回。プライベートな旅行でも10回以上は行った。講演とか教室で20回ぐらいは行ったから、車で行くのも多かったせいで地理はそのうちに慣れた。碁盤の眼のような区割りだから覚えやすい。それでも住所が「上立ち売り西入る」なんて書くとどこだっけ?と今でも慌てる。
 祇園、百万遍、京極、河原町と遊ぶ場所は事欠かない。少し走れば嵐山や鞍馬はもう山だ。出町柳から電車に乗って何度も行ったし、温泉もある。比叡山の紅葉も素敵ですぐに琵琶湖に降りられる。桜も素晴らしいから一年でいつ行っても京都は外れがない場所だし、料理も素晴らしい。だから歳を取って住むならこんなコンパクトな都市は悦楽的な生活には向いていると思う。静岡に来るまで東京圏以外で生活したことは一度もなかったし、出張は国内外どこでも行ったが、住んだという意味ではどこにも経験が無い。だからいつだって異邦人として異なった場所に行って、すこし留まってもすぐに消え去る根無しの他所者のままだ。気楽だし、表面しか知らないという意味であっさり見て触っておしまいという淡い関係性しかどんな場所にも持ったことがない。場所と時間という決定項に深く食い込まないという生活だった。まあ誰だってそんなものだろうとは思う。異国に骨を埋めるという覚悟で移民したりするハードな人生ではなかったのだから、いわゆる生温い生活だったし、今後も死ぬまで大きな変化はこちらからは無いだろう。マジになにかをするのは苦手だし、うっちゃって放置して適当に流してそれでなんとかなるのなら、まあそれもいいかねと思う。猫のような暮らしというのは普段は寝てばかりいる。餌がいる時だけムクッと起きておねだりをしてまた寝る。気持ちのよい場所(暖かいとか涼しいとか)を見つけてそこでフワフワして生きて行く。怠け者の暮らしだが、それで済むのなら別段文句はないのだ。
 僕の本籍はかつては神戸だった。父の本籍が神戸市灘区記田町という現在の六甲道という電車の駅の側だったらしいが、小学生の時に叔父の家に一度だけ一人で新幹線に乗って新神戸まで旅行した記憶がある。その家もあの震災で潰れて親戚はその後亡くなった。母は松山の人だったらしく、だから血統は関西系なのだろうが、生まれたのは兄弟全員がこちらだから、関西のことは良くわからない。それでも祖母と父には関西弁の名残りというような発音やイントネーションがあったように思う。
 大学のある街というのは日本中にいろいろあると思うが、金沢とか京都、神戸、横浜、福岡とどこかに理由の知れない馴染みが街の風情にはあって、きっとそれらは大学時代の4年間を遊んで暮らすという自由な時間を誰もが共通して体験することから生まれるその街独特のムードみたいな空気感が生み出すものだろうと思う。大きな本屋、文房具屋、図書館、美術館、博物館、遊技場や繁華街はデートスポットだし、お金があまり無くても若い男女がそれなりに楽しめる場所だ。お金がない時代というのは、「何かが欲しい。」という強烈な欲望が有る貴重な時間帯であり、未だ所有、体験したことのない未知なる物事に強い欲求が常にある。自意識と現実の大きなギャップがそこにあるのだが、近い未来にそのギャップを埋めるという確信や希望が渦巻いてる。そんな空気のようなものが僕の好みと合っているという事なのだろう。だからそういう人が集合的に全国から集まる大学のある街というのは、独特な熱を持っていて、どこか新しい風が吹いているような気配が魅力だ。お茶の水という街もそうだった。お堀沿いを市ヶ谷に向かってよく散歩した記憶がある。河とか堀とかいう水のある場所はボートがあったり、釣り堀があったり、花火をしたりと夏場を中心に人がたくさん集まってくる。集まると何かが起きるという必然だから、結局は物事の開始には、人の数が増加するという事が必要条件なのだろう。人口が減るということは、その逆なのだから何かが終わるということと同義だろう。だからしばらくは(きっとあと半世紀ほどは)日本は何事も終わりに向かって進むと考えている。
 万城目学の小説とエッセイを2冊ほど昨日読んだ。彼が京大生だった頃の京都の街を背景に書いている。伝わる空気が懐かしい。大学対抗のホルモーの戦闘という奇想天外な発想は、多分ゲーム世代の彼らの日常の空想なんだろう。他愛無い若者の恋愛なのだが、京大、同志社、龍谷大、一橋、お茶の水とエリート大の卒業生男女が合コンする下りは、多分ウインウインが常態というマッチングの現実を描写している、男の楽観は多分こんな能天気が生むという事だろうが、女の眼からみるとそれは正反対の現実を見ている気がするのだ。
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「一番大事なモノ?」って何だろうという問いは難しい。即座に一つに絞り込める人はきっと人生も単純で一直線に進んでいくのだろうと思う。生きて行くには「自分の命があること」が前提だからそれがないと他をどうこうしようにも出来ないから、自分の命は一応置いておいて、その次に大事なモノとか事とか人とかは何か。「家族」を上げるのは平凡だろうが当然多数派だろう。人間は一人では生きられないし、協同することで社会を作ってきたのだから、家族は一番最少単位の大事なモノ(人)だ。でも天涯孤独という人もいるし、自分がいつそうなるかもわからない。大きな災害でそれを嫌でも知らされた人が今回の震災で増えただろうと思う。でも生き残ればまた新たな家族を作ることも出来るかもしれない。家族という形式でなくても、それに近いような擬似的な家族や仲間。家族でもいろいろな家族がいるだろうが、一般的な家族は強いものが弱いものを助けながら役割を交替していく。婚姻出産によって構成員が変化しながら時間軸に従って赤ん坊から爺婆になるまでの役割をこなしていく。子供がいないとか結婚しないとそこで途切れて繋がらなくなる。だから少子化というのは繋がらなくなる日本人が増加している証拠で、日本人全体の繁殖力と生命力がきっと減退している証拠なのだろう。増えすぎたから自然に減って行く過程なのかもしれない。意志的な要素もあるだろうが、状況的な要素もあるだろうし、一概には言えないが強い増殖本能が以前よりもきっと減っているのだろうと思う。理由は様々でよくわからない。家族の在り方が変化すれば、当然社会の在り方もそれに応じて変らざるを得ない。少子高齢化が進むと老人数が増えて子供が減ると社会保障なんて制度は当然成り立たなくなる。かといって70歳を過ぎたような老人が若い人と同じよう働くのは肉体的にも能力的にも難しいだろう。そういう人の数がどんどん増えて、それを支える若者がどんどん減れば老人の面倒を見る事は出来なくなるのが当然だ。だから介護されないと生きていけない老人は結局は見捨てられるのが自然だろうし、そのほうが日本全体の効率は良いだろう。だから足手まといにならないように隅のほうで静かに消えて行くような死に方が多分良いのだろうと思っている。
 子供が結婚して孫が複数生まれるというような時間に来た僕は、都会で生活するという今までの生活を一端やめてみた。変更するという事が何を生むのかはその時点では全くわからなかったし、現在もよくはわかならないが、150キロほど地理的に家族と離れた場所で一人で生活する(マダムは週に2−3日此処に来るが)という不自然な生活を4年ほどしてみて感じたのは、子供達の独立心が少しは出て来たかな?という事だ。親子が心理的、経済的に依存しないでなんとか自分の力で生きて行く事が出来れば、両方とも自分の力の範囲内で自由に生きる事が出来る。丁度自分が大学を卒業して働き始めて家を出て、一人で暮らすようになった頃と同じ事が起きているのだろう。新しい相手を見つけて、新しい家族を再生産してそれが続いて行く。そのために働くという動機が生まれる。初孫は8歳だからあと10年もすると大学生になるはずで、そのころ僕が生きているかどうかは分からないが、世代がクルッと回転しているのは自然だろうと思う。僕は祖父を二人とも知らない(会った事が無い)から、それを考えると僕は長生きしているという事実があることになる。それだけでも凄い事なのだろう、多分。
 我が家は女系家族だから、僕の義理の母が84歳で健在で、その娘(僕のマダム)、その娘(長女)そのまた娘(孫二人、 5歳の椿と1歳の菫)と4代の女子が現存する。男はオマケのようなもので僕と長男と男孫が一人ずつなんとかその側で小さくなって生きている。出生時の男女比は日本では男子が高いはずだが、我が家は逆で女子が多い。男は酒が飲めいないか弱いのに、女は酒豪といえるぐらい毎晩ガンガンと飲む。これも理由はわからない。自分が飲むのではない酒を買うために随分と余計に働いたような気もするが、家族の役割だから別段文句は無い。出来る人が出来ることをする以外に解はないからだ。
 次世代を作るには「生殖すること」がまず前提である。今月のGQは LOVE&SEX 日本人1000人のセックスライフという特集だった。きっと売れないからそんな企画を組んだのだろうが、中身は書かない。主に生殖可能年齢の若い人の調査をしている。ハイトレポートの時代と隔世の感がある。どの中で鈴木涼美という作家が「女の欲望と不都合な真実」というショートを書き下ろしている。曰く「この国の男と女はいつすれちがってしまったのだろうか?男がセックスへの関心を失った今、女の身体は行き場を失った。そんな3人の女たちの憂鬱を、作家 鈴木涼美が綴る。
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 昨日はヒドイ雨だった。特に山頂部は豪雨と言って良いほどで路面一杯に水の流れが視認できて、標高が400−500メートル上がると天候は劇的に変るので運転は注意しないといけない。スカイツリーの天辺ぐらいに住んでるのだから、地表付近とは随分と異なる。気圧は晴天でも常に低いから、いつも台風ぐらいの気圧が常態であり、ポテチの袋はいつもパンパンに膨張してる。雲の流れが視認できて、視界は270度ぐらいのパノラマで、富士山の雪がかなり解けて来たのがはっきりとわかる。駿河湾ははるか雲の下、富士山頂部も厚い雲で、その中間だけが雲が無い。ミルフィーユ状に雲が積層しているということで、標高400−700メートルぐらいの場所だけ視界がすっきりしているという状態なのだろう。これもあと数時間で変化するから、登山は危険なスポーツということがよく分かる。どんなに慣れた人でも、降雨の下山は滑って危ない。体温は奪われ、道を迷いやすいし、転倒や滑落の危険に満ちている。いきなり天候が変化したら、慣れた人だって対応は容易ではないと思う。天候の急変であせって下山時の事故が多いのはそんな理由だろう。くれぐれも山の天気は要注意で、悪化しそうなら「登らない」勇気が大事だと思う。

 野菜と牛乳が切れたので沼津に買い物に行ったが、村の駅という直売所は午後1時になると商品はほとんど売り切れでない。田舎の朝は早いから、午前10時ぐらいでもう7割ぐらいは売れてしまう。土日は観光用に多めに仕入れするのだが、平日は地元民中心だから量も少ないし買い始めが早いから午後にはほとんどない状態だ。だから回転が良いから朝取りの新鮮なものが買える。昨日はワラビを買って、マダムが卵とじを作ってくれた。お隣さんから、山取りのタケノコを頂戴したので土佐煮にして食べた。レンコ鯛というかわいい鯛がいたので、二人用の鯛飯を作って、久しぶりに和食をつくってもらった。やはり誰かが作ってくれるゴハンというのは良い物で、こちらは食べるだけ、後片付けの洗い物だけすれば良いのはラクチンである。気温も上昇してきて、なんとかストーブをつけないでも凌げるぐらいにはなってきた。もうすぐ5月なのだから、とっくにストーブをしまっても良い時間のはずだか、今年は山頂部は低温だ。山桜が現在満開状態で、これからツツジと藤が咲くだろう。

「この世は二人組ではできあがらない」という山崎ナオコーラの社会派小説を読み始めた。「人のセックスを笑うな」でブレークした彼女だが、学生時代から30代中頃までの青年の心理描写がとても上手い。しっかり者だが不器用な女子が小説を書いて懸賞に応募して有名になって「成り上がる」少年漫画のような世界を書きたいという事なのだろうし、「少女というのは少年が思っているようなもんじゃないんだよ」という女子の本音むき出しの部分が男子の眼には新鮮で「おまえしか見えない時間は終わった。ひとりではない、もっと広い場所に繋がってゆく。」という大卒アルバイト女子が狭いアパートで同棲しながら困窮する男子を金銭的に助けならがら成り上がっていく自伝的な物語という所なんだろう。社会に若い女子が切り込んでいく「反恋愛小説」と呼べる秀作だと思う。
 お勉強して大学に入って、良い会社に入って、出世しそうな男を見つけて結婚して子供を産んで「幸福に」暮らしたいという母の世代の欲望を真正面から否定して、「ケッ、わたしの幸福は母とは異なる。」ときっぱりと主張して、その通りに進んでいく。向う傷は問わない。これで社会が変わらないはずはなかろうと思う。こういう女子の前に若い男の多くは大抵タジタジとなりそして静かに離れて行くということになりやすい。結婚しない女子が増えているのはそんな変化が起きているせいなのかなとも思う。女子は軽々と変って行くのに男は急激な変化を受け入れられない。事態の変化が早くて、その流れに乗れない男子が「引きこもる」という現象がきっと増えて行くという現実があるもの承知しているが、だったら男はどうしたら良いのだろう。男に優しく支えられ守られて生きて行くというのが「カッコわるい女子の価値観」にきっと変ったという事だろうし、そう感じるのが彼女たちの感性なのだから、既に「パンドラの箱」は開いた。
 親娘とか母娘という断絶は現在実に深い。我が家の母娘も同様で対立が根深いと思う。ここしばらく売れたか問題とされた小説に出るのは。「娘と母」ばかりで父の影は「無い」のである。父などいてもいなくても良いというよりは、「いたら邪魔だから消す」というぐらい印象に残らないのが家庭においての父の役割と姿という事なのだろう。鹿島田真希「冥土めぐり」は芥川賞受賞作だがまさに主題の印象は父の不在と母娘の葛藤である。
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