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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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カフーを待ちわびて

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 新居に光の固定回線が開通可能という連絡が来た。熱海は主要道路沿いには既に光ケーブルは設置されているらしいが、伊豆山山頂は無理かな?と思ったが念のためNTTに問い合わせをしていた。道路までは回線が開通しているが、建物自体までは通じていないとの事で僕以外にも要望があるので調査するということだが、OKということで4/25日開通工事を室内で行うらしい。
なんだか今回キャンペーンで24000円の工事代金を4000円にしてくれて、5800円だかの月料金を3800円に2年だか3年縛りで割引だとこちらから言いもしないのにまけてくれるという。これならドコモの移動データ通信よりきっと安いと思う。値段はどうでも良いが、ちゃんと安定して早いスピードが出ること、上限がなく月末で鈍くならないことが目的なんだが、それでも自由競争になると消費者のサービスに応じて業者も競争するようになってきたという事だろう。光電話も500円だというから同時に久しぶりに固定電話を引くことにして3つの中で好きな番号を選べということだった。なんか昔よりサービスが良くなったような気もする。支払いはクレジットカードで良いのか?と聞いたら、少し間があって「良いです。」という。
本当は嫌なのだろうが、こちらが頼むと良いという事なのだろうね。これで「おれおれ詐欺」の電話が来るかもしれない。一芝居打って遊んでやろうと思う。還付金詐欺が静岡では流行らしい。「還付されるほど納税していない」と言ったらなんて相手は言うかしらん?
東京ではずっと何年も光で仕事をしていたから「田舎暮らし」で一番不便だと感じていた最大が光回線の有る無しだった。ダイヤランドは「永久に入らない」と言われていたから、やはり熱海は都会なんだなあと思う。
 浮気しそうな印象が強いかもしれないが、僕は面倒なことはしないタチなので、携帯はもう10数年ずっとドコモだし、多分料金で他が少し安い所も有るのだろうが変えない。どこにいても一番安定して確実に繋がるだろうと思うからで、値段よりもそれのほうが生き残り上は大事だねと思うから。10倍もするなら別だが、何割かならどうでも宜しい。でもドコモの無線データ通信は光と遜色ないぐらい普通の天候なら無線でも早かったので、なんとか4年間はこれで凌げたが、月末になると遅くなるので困っていたのだ。霧と台風の時は繋がらないか遅くなるのはどうしてなのだろうね?被災人口推定140万だというから40%近いということだ。
 お一人様の老後を地で行く熱海ライフになるだろうが、静岡県の人口減少数は日本で2番目らしい。海岸線が長いせいで、東南海地震や南海トラフ地震での被害想定では津波が数分で押し寄せる。18−38メートルの大津波が来ると、ここいら辺では愛鷹山の麓ぐらいまで海抜は10メートル未満なので5−6階以下の建物の大半は水没するだろう。人口はほぼ海岸線5キロ以内付近に集中しているので、企業や家庭もビクビクして引っ越しをして県外とか海外とかに移動してしまう。大工場とか大企業が移動すれば、それに伴って従業員の大半は移動するので人口が減るという現象があの震災以来ずっと続いているし、歯止めがかからない。県内で人口増があったのはたったの3カ所で、長泉町、藤枝市、三島市だけで、後はみんな激減しているようだ。熱海も減っているらしい。
 新居の標高は260メートルだから自宅まで津波が来ると関東平野は9割以上が水没だから誰も東京の家族は生きていないだろうから、僕一人が残っても今更意味が無い。静岡に来てから、一応念のために救命胴衣を4つ買って、2個に分けて2台の車のトランクに入れてある。オレンジ色の3000円の安物だが、まあコレを使うような時は大体ダメなんだろうと思うが、気休めする分だけ昔よりは慎重になっているか?沼津港の良く行く寿司屋の親父が言うのだが、「旦那、あのデカイ防波堤があるでしょ?あの開閉式の水門完全に閉めるのに電動で24分かかるんだってさ。で津波の到達は想定では数分(3−8分?らしい)でしょ。役所のやることは間が抜けてるねえ、、。でもさ、その水門作ったのはウチのお客さんのゼネコンの下受けなんでまあ年2回、宴会くれるんで文句も言えんしねえ、、」と愚痴は言う。(爆)村社会の平均民度と地方経済はこのように回転しているのだなあと勉強になった。自民党が勝つのは当然のような仕組みがずっと昔から出きているのだろうなあ、、と言う他無い。

 マダムがもう30年以上ずっと読んでいるクロワッサンという女性誌がある。このラストを現在、原田マハが「ビジンサマ便り」というコラムで括る。彼女は現在は蓼科に住んで執筆しているらしいが、自然の中で春の訪れを知るというのがどんなに嬉しい体験かということを切々と書いている。キュレーターを経て作家になった美的感覚抜群の彼女でも、満員電車でぎゅうぎゅう詰めになって通勤していた頃があったらしい。それが鹿の訪れとフキノトウの芽吹きで春を知る生活になって「すごく嬉しくなる!」その嬉しさが都会のそれとは異なるということなのだろう。ノマドライフは女もするんだね?と楽しくなった。だから僕は今、マハの「カフーを待ちわびて」を読み始めた。「マヤは何回サミュエル ベケットを読んだことだろう?」そうフッと思った。
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「死ぬまでに飲みたい幻の酒」という特集が今月のGQにある。毎号そうなんだが、この雑誌は編集長、スズキさんの好き放題の企画で枯れそうな真面目な男の欲望と欲情をなんとか喚起して「まだ死ぬのは早い!」と書いているような気が僕にはするのだ。だから物欲満載、性欲満載、食欲満載でまるでエゲツナイ女性誌むき出しの紙面構成だから、「おのれの生活と欲望のみみっちさ」を嫌でも大半の読者は受け止めざるを得ない。「自分の欲望の程度=つまり生きる力」を毎号むき出しでチェックされるようなものだから、9割以上の読者は1冊買って読んだらきっと次は買わないのだろうと思う。
だから売れない。多分、草食男子なんて忌み嫌うコンテンツてんこ盛りなのである。しかも美意識をあまり重視してない。その点がkinfolkt とは対象的でもある。金を払って見る気になるという意味では両誌のせいでこの世に留まっているという意味でも貴重ではあるのだ。
「世界が違う。」きっとそう諦めるコンテンツ満載である。それぐらい時代に逆行した古典的な欲望の質なのである。
 とは言っても、彼は筋金入りの正義感からの全共闘の闘志であったし、大学を中退して貧しい暮らしも経験し(慶応中退だったはず)、編集の世界に潜り込んで、車雑誌に拾われて、業界のナンバーワンまで上り詰めたガッツな人でもあるから、きっと団塊世代のアウトサイダーの生き残りの成功者の一人でもある。そのくせ自分では古い(20年落ちぐらいの)シトロエン2cvなんて扱い憎い車を日常の脚にしている人だ。ポルシェ、ベントレー、フェラーリ、ミニなど欧州車を自分の金で中古で買って、品質と感覚と思想について徹底して自分で使って考え感じ、そして伝えるという実証的な経験の人である。だから「書いている事」に彼なりの言葉の塊がてんこ盛りだから、それが好きで僕は彼の「おっかけ」をしている。エンジンという車雑誌の編集長をを3年前に止めてGQに転籍したのを知らないで3年の定期購読をしてしまって、ちっとも面白くないそれの期限がやっと来たから今月でエンジンは終わりだ。もう多分買う事は無いだろう。思想や言語を買うのだから、写真が美しいだけの雑誌には意味をあまり感じないからで、僕自身がword child である証左と言えるんだろう。

 「人生とは壮大な暇つぶしの連続」であるという認識が僕には40歳前ぐらいからもう変化がないのだから、欲望の喚起なしには暇が潰れない。ところが歳を取れば欲望は身体の衰えと共に減少していくという当然の帰結となるのは誰も例外はないだろう。それで良いのか?些細な個人の短い人生なのだから、それでもなんとか無駄な苦労でもしながら積極的に前向きに喚起できるものはもう無いのか?しかも日常という普段着の普通の毎日においてである。経済性や合理性、政治性から離れて(脳が作り出す幻想は言語のみにとどめて)、階層や組織や家族、習慣や言語、思想や規範から自由に羽ばたく個人の純粋な身体的(トカゲと蛇の脳も含めての)欲望。そんなモノや事を夢想しながら、暇つぶしの一日を送る。それを毎日毎日、繰り返す。

「お山の上から鴨を喰う」というスタイルが僕の日常なのだし、事実それは快適で快楽である。それ以外の快楽と欲望なんてほとんどもう無くなってしまった4年だった。資本主義が僕に残した残滓。
そんなわけで今月は酒と食(wine&dine)の特集だった。残念ながら酒は飲めないのだが、飲める人は周囲にたくさんいるから、今度上京したら誰かを連れて行ってみようかと思う。誰かがいると欲望は倍加する。だから孤独でない事の効用は、「一緒に遊んでくれる人」が「お独り様の老後」には実に貴重な出来事なのであると思う。

欲望の断片

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  M.フーコーを読み込んで行くと「生活の技術」という言葉に出くわす。セネカ、プリニウス、ソクラテスとギリシャ人もローマ人も未来の人生とか、死後どういうことが起こるかとか、神の存在とかは彼らにとって大問題ではなかったということだ。
 彼らの問題とは「私はよく生きねばならないが、それとともによく生きるためには私はいかなる技術を用いるべきか」というのが主題であった。食とか性とか快楽とか苦悩とか日常の生活に関する技術ということである。翻って、現代人の感心はもっぱら「どうやって幸福に生きるために急いで大量の金を稼ぐか?」にいつの間にか代置されているように僕は強く感じる。きっと欲望の資本主義的変態といえるんだろう。それをちっとも異常だとは感じないし考えない人が、いわゆる市場原理主義者といわれる人々の系譜ということになるのだろうか?多くの普通の人にとってはそんな変態は実生活上は不要だろうと思う。
 多くの人が重要な事がすべて金であたかも買えるかのような錯覚と幻想に支配されて毎日を走り回っているように見える。本当にそうだろうか?としばし立ち止まって考えてみるというような当然で冷静な態度で生活しているような人にはほとんどお会いした記憶が僕にはない。僕も含めて都会で金儲けに突っ走っていた時代はそういう感じだった淡い記憶が蘇る。昭和のラブホなんてそんな空間だったような記憶があるんだ。それが今海外でも人気で、来日する人の観光名所になりつつあるらしい。いつも何かに追いかけられて息せき切って走っているか逃げ回っている、そんな印象の人のほうが圧倒的に当時は多かった。でも金は便利だが、時代がクルッと変れば単なる獲得手段の一部分であるとしか僕には思えない。多く消費するのは(多めに金を使うのは)質の良い物が欲しいという欲望のせいだろうし、それで金の用途の有効性は担保されるのだからおそらく合理的なんだろうと思う。 (金を)失う事の喜びとは等価交換を否定して贈与交換が行われるという事だろうし、家族とか愛とかいうものはきっと等価交換なんて最初から成立しない世界だからこそ貴重なんだろう。ハルトモさんやベトナムさんのブログには書き方は異なっても同じ事を多分彼らは書いてると思う。

 ガルシアマルクスの「コレラの時代の愛」や「わが哀しき娼婦たちの思い出」などを読むと、南米人の日常生活の中で「いかに喜びに満ちてこの日々を暮らすか」ということにすごく真剣に彼らは悩み努力する描写に満ちている。酒を飲むでも女を抱くでもその費やされる時間、情熱、技法に深い陰影と虚無と彩りがある。「彫りが深い」タッチなのである。つまり自分の人生の時間をいかに技法をもって芸術化するか、美化するかに大きな努力や時間や金をたっぷりと費やす。だから宝石や料理や酒の話、タバコと女と銃と硝煙と博打の話が並列されたりもする。旦那が死んだ未亡人が次々と若い男を引っ張り込んで、死ぬまで楽しく自由気ままに暮らす魔女的な女の話とか 12歳の孤児を自分の娼婦にして娼館に何年も通いつめ膨大な遺産を全部彼女のために残す老人の話とか(児童福祉法違反で日本では御法度な習慣だが、、ベトナムではありらしいが 良いねえ!)喜びのための生活技術という点で逆立ちしても現代日本人では太刀打ち出来ない先進性と優越性、猟奇性に満ちている。それぞれがそれぞれの自分独自の世界の美を持っていて、キョロキョロ日本人みたいに周囲なんて見ていない。幸福にしても不幸にしても圧倒的な量感と厚みがあって、日本のような薄っぺらさというものがないのだ。こじんまりとしたワビとサビはその前では霞んでしまう。

 先週は80歳の高齢のご婦人と10日間ほどご一緒する稀な体験を持ったのだが、とにかく元気で大きな声で良く喋る、よく食べる、よく眠る。長寿や元気の秘訣、快楽の秘訣はきっとこれだろうと思う。一般的に女性の寿命が男性のそれより長い傾向にあるのは、遺伝子のせいもあるんだろうが、生活の技術についての圧倒的な差異があるからだろう、そう僕は推測している。
妻が死んだ男がすぐに後を追うように死ぬのは生活技術を妻にほとんど依存して金だけ持って来るのが役割という分業をきっとしすぎたせいなのだろうと思う。必要以上の金なんてあっても技術の足しにはちっともならんのを馬鹿なんで忘れてしまったのだろう。

 通貨による等価交換の世界だけに生きていると(大都会の生活の大半)、それ以外の生活がどうだったかという事を知らないか忘れてしまう。お金が何の役にもたたない生活を一度でもしてみると(山頂の生活は実際にそうなのだ。現金で3万以上は無意味である。パン代とガソリン代の上限だ)、価値観なんて嫌でも当然変化する。霧が出る。雨が降る。雪が降る。星が出る。イノシシや蛇や狸が出る。一切通貨とは無関係の世界がそこにはある。重大な生存に関与する外部情報は天候や景色や温度が大半で、人為性のあるものはテレビとネット以外にはない世界だ。遮断するのだってコチラからは簡単である。インフラ以外は繋がっていなくてもなんとか生きていることは出来る。だって大昔はそんな繋がりなんて無くても、全員が生きて来たから僕たちがいるのだから。
 金で買える上等な品物なんてネット通販以外には一つも存在しない。その時、金は「完全な記号」に変る。欲望もまた脳内で記号化されて虚ろいゆく。
生活の技術とは「いかに美味しい食事を一日2回取るか」「いかに快適に眠るために必要なものとは何か?」「いかに体温を保持して快適に歩行できるか」というような具体化された単純な技術的な事が重要になる。マトグロッソのブリコルールという事が都会と比較して一番重要なポイントという事になってくる。
 なんかこのところ意味なく嫌な感じがしていたのだが、どこかの海岸でイルカがたくさん浜に上がって死んだという。地軸が歪んだのか、GPSが狂ったか、理由は知らんが大地震とかヤバイ事が起こらないと良いなと思う。
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美人でスタイル抜群でインテリでお金持ちでバリキャリで言う事無しというような女性はそんなにいないだろうと思うが、そのものかそれに近い人をお二人ほど僕は知っている。仕事をさせれば軽く男なんて出し抜いてトップクラスの成績を短期間で達成してしまう。真面目だし働く事がきっと根っから好きなのだろうし休日返上も厭わないぐらい熱心にお仕事をする。そんな人が些細な事で、突然不調になって鬱とかノイローゼで変調を来す。元来完璧主義できっちり何でもするから、「男の仕事の穴」が直ぐに見えるので、「ダメよ、ダメダメ」と否定が先にたって合理的な選択肢という以外の方法を受け付けない。それはそれで宜しいが、人間社会のすることに理屈が通らないこともシバシバあるのだから、ある意味ある部分で緩さと隙が無いと息が詰まる。自分が苦しいと周囲も苦しいし、それが伝搬すると全体の効率や空気が無限に悪化するというのが集団というものの性質なのじゃないかと個人的には思う。だからそんな時は個人的な「休み」が必要で、栄養を心や身体に補填して戦線から一時的に離脱する勇気も必要なのだろう。24時間闘っていればどんな優秀な戦士も戦死するに決まっていると思うから、、。
知性、才能、美貌、地位、財産と彼女たちが持っている大切なもののほとんどを僕は持っていないけれど、僕が一つだけ彼女達が欲しがるモノを持っている。それは「たっぷりとした自由な個人の時間」だと思う。

 先進工業資本主義社会というものは、それが成立するために無限に生産と販売を拡大することをその本義としている。だから集団教育はその本義に則った準則に応じて人間行動の規範を成立させてきたし、集団のルールを法制化しているのだから、それに逆らえば不利益になるような仕組みに出来ている。拒絶する権利がもともと無いか、あってもごく限られた範囲でしかそれが出来ない窮屈な社会であると思う。信仰とか宗教とかいうものはそれを緩和する役割があって、現実的な矛盾を一時的にパスして「無かったもののように見る」という世界を作るから、これだけ様々な信仰や宗教が何世紀にもわたって世界中で発生し持続しているのだろうと思う。ある意味、現代科学なんて価値観も合理性に準拠した信仰のようなものであり、「信じれば救われる」という点において同義的であるとさえ言える。「STAP細胞はあります!」そう言い切ったカワイコチャンの決め台詞にあれほどコロッとやられた研究所の職員上司にしてもマスコミ観衆にとっても、その手玉に取られたスゴ技の本質についての真摯な反省は果たしてあったのか?ある意味「オレオレ詐欺」と同質の錯誤と言えるのだろう。
OECDの学力調査で男女別の学習能力調査というのを15歳の時に50カ国ほどで同時に行って、その70%以上の国で女性のほうが男性を15%ほど上回るという結果が出ているそうだから、普通に同じ教育を受けたら男にあまり勝ち目はないという事になる。だからこそ男尊女卑の習慣が残るアジア諸国においてはインドやパキスタンのような酷い事件が起きたりもするんだろう。「女には蓋をしておかないとヤバイぜ」というアルカイーダの歴史の教訓ということなんだろうと思う。(これには僕も古典的だから人類全体が平和であるために心理的に少々同調する部分もあるのかな? 笑)
中学校の運動会で整列して準備体操を誰でもした経験があるだろう。「マワレ 右!前ニ ナラエ。」という動作は集団が同時に行動するという訓練であり言葉の通り「それ以外の選択枝」を自動的に排除する。これに対して少し考え始めた頭脳は「あーかったるいぜ。こんな下らんことアホらしくてやってられんぜ。ちょっと体育館の裏でタバコ吸いに行こうぜ。」という例外をおそらく例外無く生む。(昔の僕の事ね。)バレれば処罰が待っている。(親を呼び出され、注意喚起して改善がないと停学とか、、)どんなに厳罰を処しても、そういう不良がゼロになる事はきっと無いだろうと思うし、「ゼロになった途端に人類はきっと滅びるんじゃねえの?」と僕は思う。集団と個というのはそもそもそんな政治的に対峙する構図が一部では必ずどこかにあることで成立するものだろうと思うからだ。僕の良く書く「差異」という部分である。

 「監視することと処罰すること」全体が「身体/権力」に関わる議論であるという了解のうえで、そうとらえている。
この「身体」とは、第一部の身体『刑」の中で道徳概念や法律措置を基礎にして懲罰を考えるのではなく、身体の次元だけにとどまっている処罰の体系として考えられているものだ。生物学的に「事件化」されてきた身体に対する「知」と、身体に対する政治的包囲の「統御」とが、断片的、雑多におりなされている。身体は 1 生産する身体  2  服従する身体 である場合に初めて有効な力になる。権力関係は、身体に、無媒介な影響力を与えており、身体を包囲し、烙印を押し、訓練し、責めさいなみ、労役を強要し、儀式を押しつけ、表徴を要求する、とフーコーはいう。この政治的な攻勢が経済的な活用と結びついたとき、身体の服従強制が生産力へと組み込まれうるのだ。経済と政治を結合し、からみあわせるための「身体」への働きかけ、これが、フーコーの基本的文脈となっている。
 このあまりにマルクス主義的な基本筋を見落としてはなるまい。この政治と経済の関係を設定する論理のうえで、彼は、マルクス主義が権力の所有や国家装置やイデオロギーへ局所化し、「他者=敵」の側へおしつけている、そうした権力観を批判し、権力の行使のされ方を、肯定的、積極的なあり方において論じるのである。しかし、マルクス主義の基本構図が解体されたり、あるいは理論藩式が転換されているわけではない。ただ、細部にわたって、ミクロな微視的なところへ行使される権力を鮮明に描きあげただけだというように言ってもかまわないのだ。フーコーを知れば知るほど、その論理の枠は、あまりに簡潔すぎるほど明快である。とりわけ「身体」刑という処罰、懲罰の「害」を与える傾向性の強い問題領域だけに、その図式では変っていないことが判然としているし、また基本的に変らないのである。
 問題を、少し教育の局面へ進行させてみよう。教育は、子供の行状、行動、身ぶりなどに事のほか留意する。それは、労働力として有効な身体(能力を持つ身体)へと鍛え上げることで、必ずそこでは、服従が強いられるのだ。しかし、この服従は、服従された身体が絶対的なものであって、技能を身につけるために服従するのではなく、服従することそれ自体が目的なのである。「生産する身体」と「服従する身体」とを、最も合理的に結びつけ、しかもそれを慣習化する場が、「教育」である。マルクス主義は、生産するために服従する、という因果関係論をたてるが、フーコーはそうではない。生産することと服従することをはっきりと別のものに区分けする。だからこそ、そこで、「身体」という権力形式の場が問題とされるのだ。
 服従の強制は、暴力本能ーー物理的暴力と考えるべきーーの手段でも、観念だけの手段でもなされるべきではない。強制が直接的、物理的であったにしても、「暴力的」であってはならない。計算され組織化され技術的に考慮されてもよいが、身体的次元にとどまっていなければならない。ここに、知と統御の政治的技術が成り立っていく。この技術の有効性の場は、装置、制度の大仕掛けな作用と、物質性、力を含む身体自体とのあいだにおかれるのである。
 したがって、そこで行使される権力とは、独自なもの、占有、特権、契約、征服において考えられるのではなく、戦略的、素質、操作、戦術、技術、作用、活動中の諸関連がつくる網目、永久に果てない合戦、において考えられるべきである。権力を持たざる者に、義務ないし禁止として強制されるのではなく、その権力は、彼らを包囲し、彼らを媒介に、また彼らを貫通して行使される。身体を貫通する権力は、したがって多数の対決点、不安定性の根源にかかわっており、制度の改革や破壊、政治権力の占有の交代劇によって置換されるものではない。
 まず、権力のこうした「位置」と性格が明らかにされたうえで「権力と知」の関係が議論される。
 権力は「知」を生産し、知と相互にからみあい、知の領域と相関関係がくみたてられなければ、権力関係は存在しえない。「知」もまた、権力関係を想定したり組み立てなければ存在しえないのである。「教育的なるもの」は、この点を全く隠してしまうか、あるいは、教育運動や政治運動においてさえ忘れさられている点となっている。フーコーは言う、「権力関係が一時留保される場合にのみ知は存在する」とか「知は自分が行う禁止命令や要請や利害関係と離れる場合にのみ発展しうる」とか「権力をすてることが学者たりうる諸条件の一つである」とか、といった考えはすべて捨て去るべきである、と。
 これは、通常いわれる「教育の中立性」ーー教師の中立性、教科書の中立性ーーと呼ばれるものであり、さらに一般的には、知識、真理の客観性といわれるものである。フーコーは、知や真理が「権力」であると指摘し、それを解剖するわけであって、そこが、フーコーのフーコーならしめたところである。
 まず、「権力と知」の諸関係は、自由であるはずの一人の認識主体をもとにしても、権力制度との関係によっても分析されない、という排除がなされる。そして、権力に有益であろうと不服従であろうと、ひとつの知を生み出すのは認識主体の活動ではない。「権力ー知」を横切り、組み立て、在りうべき認識形式と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いが、「認識する主体」「認識されるべき客体」「認識の様態」を、「権力ー知」の係わりあいの史的変化のなかで結果づけていくのだ。ここが、ディスクールの「権力」形式の位置である。
 すると、具体的な局面で何が生じているかといえば、いうまでもなく、身体に関する知が発展するーー生物学用語と政治用語の類似をフーコーは、「エスプリ」誌への解答で論じている。また、身体に対する技術が発展するーー教育学、心理学、精神医学。そして、何よりも、身体に対する表徴がコード化され、それが発展するのだ。実際に処罰されずとも、その痛みや苦痛がシーニュとして自覚され、実体なしのコード世界が形成されうる。
 ここに、精神が、身体の周辺、その表面、その内部に権力効果によって生み出されると、罰せられる人々ーーつまり、監視され調教される人々、狂人、幼児、小学生、非植民者に、また、生産装置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々ーーに行使される。処罰、監視、懲罰、束縛といった手続きから生み出されてくる「精神」である。「知ー権力」の絡みあいの中で、この精神は作り出され、そこで、人々は搾取の概念や分析領域をつくりあげてきた。教育の諸々の技術とディスクールもーーーそれこそまさに「精神の錬金術」(爆)ーーそこにうちたてられた人間中心主義の道徳的権利要求をうかび上がらせるのに一役買ったのである。この人間像に、精神はすみつき、実在にまで高められ、その深部に、服従化が、つまり、「身体の監獄たる精神」が構成されているというわけだね.(爆)

 LILYさん、長々と君の好きなM.フーコーを引っ張り出して構造主義的に口説いたのだがさて効果はあったかね?まあ、お疲れならしばらく回復するまでお休みがきっと良いと思う。そうしないとコジワが増えてモッタイナイ!
野良猫暮らしも結構快適だよ。

右肩は、下げたフリ。

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 10歳年上と20歳年上の老人の日常生活を良く観察して、今後の自分を少し考える、決めるという事を最近はするようになった。現在還暦だから70歳と80歳の生活という事で、健康状態は個人差も大きいだろうし、第一それまで生きているかどうかも怪しいが、仮に生きているとしても多分僕の場合は人よりも悪さばかりしてきたのできっと衰えているという悲観的な見方をしたほうが間違いが少ないだろうと思う。眼が悪くなる、運転ができなくなる、足が弱くなる、物忘れが激しくなるなどが共通点みたいだ。
 理想はピンピン、コロっと死ぬことだが、そうそう上手く行く人は稀だろうし、そうなりたいものだとも思うが、あまり期待しても身体と頭がついて行かないのなら仕方ない。病気で長く痛い思いをしてまで生き残りたいとはちっとも思わない。「したい事」で自分の能力に応じて出来そうな事は多分もうほとんどしてしまったような気もするし、自分勝手な人間だから人様のお役に立って生きたいなどと偉そうな事は絶対出来ないし考えない性分であるから、自由でのんびり我がままに裕福に生きるという今のスタイルを可能な限り続ける以外に選択肢はないとうことは、明日死んでもまあいいかという事とある意味で同義だろう。
老化の対策なんて無いが、している事は、散歩をして入浴を一日最低2回して、2食自分で作って食べて、指を人の数倍遣って文字や図形を書く(場帳とグラフ)、そして本をたくさん読んで、くだらんブログを書く。

「負け犬の遠吠え」を2003年に書いた酒井順子は僕より11歳年下の立派なおばさんだが、不思議に同時代感が僕にあるのは何故だろう?

 私の友人の高キャリア独身女性は料理が嫌いなのですが、
「料理ができなくちゃ結婚できないってわけじゃないでしょう」と以前は言っていたものの、最近は何かを感じたのか、料理教室に通っているのでした。また、とある20代女性は、意中の男性ができる度に、
「私、肉じゃがが得意なんですぅ」と聞かれてもいないのに喧伝するため、女友達から陰で「肉じゃが」と呼ばれているものの、その肉じゃが攻撃は、男性にテキメンに効くらしい。
 そう、「結婚とは手料理。」というその唐突なコピーは、正しいのです。高キャリア、高収入の女性が、
「なんで料理できなくちゃいけないわけ?これからの男は、自分で料理ぐらいできないと女にモテないわよ。」と豪語するのを聞いて、この結婚相談所の人たちは
「そんなことではいつまでも結婚できませんよ。ちょっと肉じゃがでも煮てやれば、男はいくらでもあなたの手中に収まるのです。」と言いたいのではないか。
 確かに、料理上手な人が嫌いという人はいないものです。そして私は、「女はやっぱり料理ができなくちゃダメ」みたいな言説を見るたびにイラッとくるのだけれど、そうこう言いながらも中華料理を習って早10年が経とうとしているし、あまりに料理下手な女を見ると、「それってどうなのよ」と言いたくなってしまう。自分の中にも、矛盾が存在しているのです。
                 「女も、不況?」酒井順子  講談社 より転載

 さすが自称負け犬だけあって、何故か「結婚と男と幸福」の因果に関して異常に神経質というか、自意識過剰気味なんじゃあないのかとも思うが、一度自分がしてみればきっと意見も変るんだろうが、幻想が消えて現実に直面するときっと本は売れなくなるんだろう。
 手料理をする人の深層心理は作った料理を同じ食卓で食べることを通じて「美味しかった、マズかった」という体験の共有を実は食べているという事なのだと思う。その共有する体験の有る無しを、制度としての結婚という慣習の中で毎度歌舞伎のような振舞として役割を演じるという所まで到達してない未達感をもって「負け犬」と自称するのがウケる時代の空気なのだろうかとも思う。だから喰うことと寝る事の無限反復はある意味で同じだし、入れるか出すかの違いでしかないから「動物的」であるし「好き嫌い」がはっきりとした生活習慣なので、自分で最初は下手でも実行する以外に「同期すること」が上手くはならない事なんだろう。学校では教えられない血族に残された身体の秘技とも言えるかもしれない。学校教育よりも数千年も過去から経験として人類が残して来た民族的な奇習とも言えるだろう。現代とはそれをしたくないという人が増えた不幸な時代という事なのかもしれない。かつて貧しくても幸福な時代というものがあった。幻想が未だ生きていた時代。最後まで男はきっと「騙されたい」のですね。マラルメの時代とちっとも変らない!


    
あのやせ衰えた怪獣の絵のついた
時の薫りのどんな絹の端でも
君の鏡の外へ君がつき出す
あの螺旋の生まれながらの雲には匹敵ない!

弾の冥想の孔がある軍旗が
私達の街に高くひるがえるが
私には私の喜ぶ眼を埋めるのに
君の裸の髪がある。

いや、口は確かに噛みしめて
味わうものが何もないだろう、
もし君の王侯の愛人が
その莫大な髪の中で
彼が息苦しく叫ぶ栄光の叫びを
ダイアモンドのように終わらせないならば。

『どんな絹の、、、』 ステファン マラルメ  西脇順三郎 訳  より転載

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