美人でスタイル抜群でインテリでお金持ちでバリキャリで言う事無しというような女性はそんなにいないだろうと思うが、そのものかそれに近い人をお二人ほど僕は知っている。仕事をさせれば軽く男なんて出し抜いてトップクラスの成績を短期間で達成してしまう。真面目だし働く事がきっと根っから好きなのだろうし休日返上も厭わないぐらい熱心にお仕事をする。そんな人が些細な事で、突然不調になって鬱とかノイローゼで変調を来す。元来完璧主義できっちり何でもするから、「男の仕事の穴」が直ぐに見えるので、「ダメよ、ダメダメ」と否定が先にたって合理的な選択肢という以外の方法を受け付けない。それはそれで宜しいが、人間社会のすることに理屈が通らないこともシバシバあるのだから、ある意味ある部分で緩さと隙が無いと息が詰まる。自分が苦しいと周囲も苦しいし、それが伝搬すると全体の効率や空気が無限に悪化するというのが集団というものの性質なのじゃないかと個人的には思う。だからそんな時は個人的な「休み」が必要で、栄養を心や身体に補填して戦線から一時的に離脱する勇気も必要なのだろう。24時間闘っていればどんな優秀な戦士も戦死するに決まっていると思うから、、。
知性、才能、美貌、地位、財産と彼女たちが持っている大切なもののほとんどを僕は持っていないけれど、僕が一つだけ彼女達が欲しがるモノを持っている。それは「たっぷりとした自由な個人の時間」だと思う。
先進工業資本主義社会というものは、それが成立するために無限に生産と販売を拡大することをその本義としている。だから集団教育はその本義に則った準則に応じて人間行動の規範を成立させてきたし、集団のルールを法制化しているのだから、それに逆らえば不利益になるような仕組みに出来ている。拒絶する権利がもともと無いか、あってもごく限られた範囲でしかそれが出来ない窮屈な社会であると思う。信仰とか宗教とかいうものはそれを緩和する役割があって、現実的な矛盾を一時的にパスして「無かったもののように見る」という世界を作るから、これだけ様々な信仰や宗教が何世紀にもわたって世界中で発生し持続しているのだろうと思う。ある意味、現代科学なんて価値観も合理性に準拠した信仰のようなものであり、「信じれば救われる」という点において同義的であるとさえ言える。「STAP細胞はあります!」そう言い切ったカワイコチャンの決め台詞にあれほどコロッとやられた研究所の職員上司にしてもマスコミ観衆にとっても、その手玉に取られたスゴ技の本質についての真摯な反省は果たしてあったのか?ある意味「オレオレ詐欺」と同質の錯誤と言えるのだろう。
OECDの学力調査で男女別の学習能力調査というのを15歳の時に50カ国ほどで同時に行って、その70%以上の国で女性のほうが男性を15%ほど上回るという結果が出ているそうだから、普通に同じ教育を受けたら男にあまり勝ち目はないという事になる。だからこそ男尊女卑の習慣が残るアジア諸国においてはインドやパキスタンのような酷い事件が起きたりもするんだろう。「女には蓋をしておかないとヤバイぜ」というアルカイーダの歴史の教訓ということなんだろうと思う。(これには僕も古典的だから人類全体が平和であるために心理的に少々同調する部分もあるのかな? 笑)
中学校の運動会で整列して準備体操を誰でもした経験があるだろう。「マワレ 右!前ニ ナラエ。」という動作は集団が同時に行動するという訓練であり言葉の通り「それ以外の選択枝」を自動的に排除する。これに対して少し考え始めた頭脳は「あーかったるいぜ。こんな下らんことアホらしくてやってられんぜ。ちょっと体育館の裏でタバコ吸いに行こうぜ。」という例外をおそらく例外無く生む。(昔の僕の事ね。)バレれば処罰が待っている。(親を呼び出され、注意喚起して改善がないと停学とか、、)どんなに厳罰を処しても、そういう不良がゼロになる事はきっと無いだろうと思うし、「ゼロになった途端に人類はきっと滅びるんじゃねえの?」と僕は思う。集団と個というのはそもそもそんな政治的に対峙する構図が一部では必ずどこかにあることで成立するものだろうと思うからだ。僕の良く書く「差異」という部分である。
「監視することと処罰すること」全体が「身体/権力」に関わる議論であるという了解のうえで、そうとらえている。
この「身体」とは、第一部の身体『刑」の中で道徳概念や法律措置を基礎にして懲罰を考えるのではなく、身体の次元だけにとどまっている処罰の体系として考えられているものだ。生物学的に「事件化」されてきた身体に対する「知」と、身体に対する政治的包囲の「統御」とが、断片的、雑多におりなされている。身体は 1 生産する身体 2 服従する身体 である場合に初めて有効な力になる。権力関係は、身体に、無媒介な影響力を与えており、身体を包囲し、烙印を押し、訓練し、責めさいなみ、労役を強要し、儀式を押しつけ、表徴を要求する、とフーコーはいう。この政治的な攻勢が経済的な活用と結びついたとき、身体の服従強制が生産力へと組み込まれうるのだ。経済と政治を結合し、からみあわせるための「身体」への働きかけ、これが、フーコーの基本的文脈となっている。
このあまりにマルクス主義的な基本筋を見落としてはなるまい。この政治と経済の関係を設定する論理のうえで、彼は、マルクス主義が権力の所有や国家装置やイデオロギーへ局所化し、「他者=敵」の側へおしつけている、そうした権力観を批判し、権力の行使のされ方を、肯定的、積極的なあり方において論じるのである。しかし、マルクス主義の基本構図が解体されたり、あるいは理論藩式が転換されているわけではない。ただ、細部にわたって、ミクロな微視的なところへ行使される権力を鮮明に描きあげただけだというように言ってもかまわないのだ。フーコーを知れば知るほど、その論理の枠は、あまりに簡潔すぎるほど明快である。とりわけ「身体」刑という処罰、懲罰の「害」を与える傾向性の強い問題領域だけに、その図式では変っていないことが判然としているし、また基本的に変らないのである。
問題を、少し教育の局面へ進行させてみよう。教育は、子供の行状、行動、身ぶりなどに事のほか留意する。それは、労働力として有効な身体(能力を持つ身体)へと鍛え上げることで、必ずそこでは、服従が強いられるのだ。しかし、この服従は、服従された身体が絶対的なものであって、技能を身につけるために服従するのではなく、服従することそれ自体が目的なのである。「生産する身体」と「服従する身体」とを、最も合理的に結びつけ、しかもそれを慣習化する場が、「教育」である。マルクス主義は、生産するために服従する、という因果関係論をたてるが、フーコーはそうではない。生産することと服従することをはっきりと別のものに区分けする。だからこそ、そこで、「身体」という権力形式の場が問題とされるのだ。
服従の強制は、暴力本能ーー物理的暴力と考えるべきーーの手段でも、観念だけの手段でもなされるべきではない。強制が直接的、物理的であったにしても、「暴力的」であってはならない。計算され組織化され技術的に考慮されてもよいが、身体的次元にとどまっていなければならない。ここに、知と統御の政治的技術が成り立っていく。この技術の有効性の場は、装置、制度の大仕掛けな作用と、物質性、力を含む身体自体とのあいだにおかれるのである。
したがって、そこで行使される権力とは、独自なもの、占有、特権、契約、征服において考えられるのではなく、戦略的、素質、操作、戦術、技術、作用、活動中の諸関連がつくる網目、永久に果てない合戦、において考えられるべきである。権力を持たざる者に、義務ないし禁止として強制されるのではなく、その権力は、彼らを包囲し、彼らを媒介に、また彼らを貫通して行使される。身体を貫通する権力は、したがって多数の対決点、不安定性の根源にかかわっており、制度の改革や破壊、政治権力の占有の交代劇によって置換されるものではない。
まず、権力のこうした「位置」と性格が明らかにされたうえで「権力と知」の関係が議論される。
権力は「知」を生産し、知と相互にからみあい、知の領域と相関関係がくみたてられなければ、権力関係は存在しえない。「知」もまた、権力関係を想定したり組み立てなければ存在しえないのである。「教育的なるもの」は、この点を全く隠してしまうか、あるいは、教育運動や政治運動においてさえ忘れさられている点となっている。フーコーは言う、「権力関係が一時留保される場合にのみ知は存在する」とか「知は自分が行う禁止命令や要請や利害関係と離れる場合にのみ発展しうる」とか「権力をすてることが学者たりうる諸条件の一つである」とか、といった考えはすべて捨て去るべきである、と。
これは、通常いわれる「教育の中立性」ーー教師の中立性、教科書の中立性ーーと呼ばれるものであり、さらに一般的には、知識、真理の客観性といわれるものである。フーコーは、知や真理が「権力」であると指摘し、それを解剖するわけであって、そこが、フーコーのフーコーならしめたところである。
まず、「権力と知」の諸関係は、自由であるはずの一人の認識主体をもとにしても、権力制度との関係によっても分析されない、という排除がなされる。そして、権力に有益であろうと不服従であろうと、ひとつの知を生み出すのは認識主体の活動ではない。「権力ー知」を横切り、組み立て、在りうべき認識形式と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いが、「認識する主体」「認識されるべき客体」「認識の様態」を、「権力ー知」の係わりあいの史的変化のなかで結果づけていくのだ。ここが、ディスクールの「権力」形式の位置である。
すると、具体的な局面で何が生じているかといえば、いうまでもなく、身体に関する知が発展するーー生物学用語と政治用語の類似をフーコーは、「エスプリ」誌への解答で論じている。また、身体に対する技術が発展するーー教育学、心理学、精神医学。そして、何よりも、身体に対する表徴がコード化され、それが発展するのだ。実際に処罰されずとも、その痛みや苦痛がシーニュとして自覚され、実体なしのコード世界が形成されうる。
ここに、精神が、身体の周辺、その表面、その内部に権力効果によって生み出されると、罰せられる人々ーーつまり、監視され調教される人々、狂人、幼児、小学生、非植民者に、また、生産装置にしばりつけられて生存中ずっと監督される人々ーーに行使される。処罰、監視、懲罰、束縛といった手続きから生み出されてくる「精神」である。「知ー権力」の絡みあいの中で、この精神は作り出され、そこで、人々は搾取の概念や分析領域をつくりあげてきた。教育の諸々の技術とディスクールもーーーそれこそまさに「精神の錬金術」(爆)ーーそこにうちたてられた人間中心主義の道徳的権利要求をうかび上がらせるのに一役買ったのである。この人間像に、精神はすみつき、実在にまで高められ、その深部に、服従化が、つまり、「身体の監獄たる精神」が構成されているというわけだね.(爆)
LILYさん、長々と君の好きなM.フーコーを引っ張り出して構造主義的に口説いたのだがさて効果はあったかね?まあ、お疲れならしばらく回復するまでお休みがきっと良いと思う。そうしないとコジワが増えてモッタイナイ!
野良猫暮らしも結構快適だよ。