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パイソンプリントのスピングルムーブのスニーカー
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17歳のチビは元気で食欲モリモリ。

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焼きチーズカレー。220度で6分オーブンで焼くと美味しい!ノマドライフの料理はワンプレートの焼き物中心が便利だ。

平成が終わる(1)

サンデー毎日に「平成の30年間を振り返る」というお題での寄稿を求められた。4600字というたっぷりと紙数を頂いたので、書きたいことを書いた。
それでも書ききれなくて、二回にわたってしまった。まとめて掲載。

平成という時代が2019年4月で終わることが決まった。
元号が変わることについてある媒体から「元号はこれからも必要なんでしょうか?」と訊かれた。元号を廃して、西暦に統一すればいいと主張している人がいることは私も知っている。でも、それはいささか短見ではないかと思う。別に日本の固有の伝統を守れとか、そういう肩肘張った話ではなく、時間を時々区切ってみせることは、私たちが思っている以上に大切なことのように思えるからである。
私の父は明治45年1月の生まれだった。明治は7月末日に終わるので、父は半年だけの明治人であった。けれども、「自分は明治の男だ」というアイデンティティーはずいぶん強いものだったように思う。私が子どもの頃、父は折に触れて「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男の句を口ずさんでいた。それはおそらく父が戦後の日本社会について「ここは自分の本籍地ではない」という異邦感を抱いていたからだと思う。その「時代との齟齬感」が父の世代に独特の反時代的な批評性を与えていたように思う。その反時代性(例えば、SFを「荒唐無稽」と一蹴し、ロックを「騒音」と切り捨てるような風儀)は彼の個性というよりはかなりの部分まで「明治の男はかくあらねばならない」という外形的なしばりのせいだった。そのせいで彼らは不自由をかこちながら、一方では「ある時代に帰属していることの安心感」を享受してもいたのではないかと思う。
漱石の『虞美人草』の登場人物である宗近君の父は、小説の中では若者たちから「天保老人」と綽名されている。おそらく江戸時代の武士のたたずまいを明治の聖代に遺していたのであろう。明治40年頃の読者たちは、その語によってある年齢の老人については輪郭の鮮明な、解像度の高いイメージを抱くことができたのである。「大正デモクラシー」も「昭和維新」も、元号抜きにはそれほどの強い喚起力をもつことはなかったはずである。
元号のない国もそれに代替する自分たちだけの時代の区切りを持っている。イギリス人は時代を王位で区切る。だから、「ヴィクトリア朝風(Victorian)」には「旧式で、融通が利かず、上品に取り澄ました、装飾過剰の」といった一連の含意がある。エドワード七世の在位は1901年から10年までのわずか10年だったけれど、形容詞「エドワード朝風(Edwardian)」は「物質的豊かさに対する自己満足と華美絢爛」という固有の語義を持っている。
フランスでは装飾様式の変遷と政体の転換をセットにして、「ルイ16世様式」「総裁政府(ディレクトワール)様式」「帝政(アンピール)様式」といった細かい区分を行う。
王の交代も政体の転覆も経験していないアメリカは仕方がなく「狂騒の20年代」とか「50年代ファッション」とか「60年代ポップス」とかいうように10年(decade)で時代を区切る。10年単位で人間の生き方が変わるとも思われないが、これが変わるから不思議である。アメリカ人もたぶん「もうすぐ○○年代も終わるから、そろそろ新しいことをしないといけない」というふうな変化への無言の圧力を感じるのだろう。
だから、「世界は西暦で度量衡が統一されており、日本だけが元号のような時代遅れの陋習を維持している」と断定するのはいささか気が早いと思う。人間はいろいろなしかたで時間を区切る。区切らないと落ち着かないからそうするのだ。そして、区切ってみせた後に、あたかもそこに決定的な時間的断絶が存在したかのように、区切りの前後でふるまいを変えてみせる。まず区切りをつけてから、事後的にその区切りに「リアリティ」を賦与するのである。上に「ある時代に帰属することの安心感」と書いたけれど、人間は型にはまることで「ほっとする」ことがある。そういう生き物なのだ。良い悪いを言っても始まらない。

以上が元号についての私見である。その上で平成の30年間がどういう時代だったかを総括してみたい。それについてこんな仮説を立てた。それは過去30年間で何がどう変わったのかを見て取るためには、時間軸をもう30年先に延ばして、前後60年の幅を取る必要があるのではないかということである。つまり、今を「折り返し点」と想定して、「これまであったこと」の回想と「これから起きること」についての予測に等分に知力を分配するのである。そうしないと、人間はうまく知恵が働かないのではないかという気がしたのである。そういう気がするだけで、何のエビデンスもないが、平成の終わりに同期するように「今から30年後の日本はどうなっているのか?」という想像力の使い方をする人が出て来たのは事実である。その一人が橋本治である。
橋本治は『九十八歳になった私』という「近未来空想科学私小説」を書いた(たいへん面白い本だった)。その中で、橋本治は98歳になって、まだらに惚けが入ってきて、足腰が立たなくなって、生活保護を受けながら、「原発が二個壊れて、CO2出せないから火力発電もだめで、電気がそんなに通ってないから、パソコンもそうそう使えない」北関東の「東京大地震」の被災者住宅で、空から襲ってくるプテラノドンに怯えながら暮らしている(遺伝子工学の暴走によって30年後の日本は局所的に「ジュラシック・パーク」化しているのである)。その日常を活写した小説の「あとがき」に橋本はこう書いている。
「『三十年後の近未来』を考えたら、今や誰だって絶望郷(ディストピア)だろう。そのことを当然として、みんなよく平気でいられるなとは思ったけれど、『じゃ、どんなディストピアか?』を考えたら面倒臭くなった。(…)『ディストピアを書くったって、現在の自分の立場を安泰にしておいて、暗い未来を覗き見るんだろう? それって、なんかフェアじゃないな』と思い、『そうか、自分をディストピアにしちゃえばいいんだ』というところへすぐ行った。」
橋本はここでとても大切なことを書いていると私は思う。それは「現在の自分の立場を安泰にしておいて」なされる未来についての想像は「フェアじゃない」。だから、同じように「現在の自分の立場を安泰にしておいて」なされる過去の回想も「フェアじゃない」のだと思う。過去30年を振り返るとしたら、「こんな日本に誰がした」というような言葉づかいは自制すべきだろう。他ならぬ私たちが「こんな日本」にしたのである
同じように30年後の日本について語るときも、それが絶望的な見通しであればあるほど、その社会でリアルに苦しんでいる老残の自分をありありと想像した上で、「そうなることがわかっていながら、止めることができなかった」私自身を責めるべきなのだ。

30年後のディストピアについての暗鬱な予言をもう一つ紹介する。アメリカの投資家ジム・ロジャーズの日本経済について語ったものである。(『週刊現代』12月13日号)
「日本はいまGDP240%、じつに1000兆円を超す巨額赤字を抱えています。そのうえ、猛烈なペースで進む人口減少社会に突入してきたため、とてもじゃないがこの借金を返済することはできない状況になってきました。30年後に40歳になる日本人には、老後を支えてくれる人もカネもない。このままいけば、いま日本人の10歳の子どもが40歳になる頃には、日本は大変なトラブルを抱えていることでしょう。」
2050年の日本の人口予測は9700万人。現在が1億2700万人であるから、3000万人、つまり年間約100万人ペースの人口減である。仙台や千葉サイズの市が毎年消滅する計算である。日本の国土面積は38万㎢、今はそのうち18万㎢に人が住んでいるが、2050年にはその20%が無住の地となり、60%で人口が半減する。無住の地は国土の62%に及ぶ。
国交省や総務省はこういった非情緒的なデータは公開するが、どういうプロセスを経て無住地が広がるのかについては具体的な描写を控えている。現実に起こるのは、政府も自治体も行政コストを負担できなくなり、交通網、上下水道、ライフライン、警察、消防、医療、教育機関など「それなしでは暮らしていけないインフラ」が過疎度の高いエリアから順に廃絶されるということである。「採算が取れない」という理由で鉄道を廃線し、道路や橋梁やトンネルの補修に予算をつけず、病院や学校を撤収すれば、その地は事実上居住不能になる。
すでに過疎地の切り捨ては全国で始まっている。今のところ都市住民は無関心を装っているが、過疎化切り捨ての波は遠からず地方都市にも及ぶ。その時には今度は地方都市住民たちが「文明的な生活をしたかったら、首都圏に移住しろ」と告げられることになる。「無駄なコストで財政を圧迫するのだから過疎地には住むべきではない」というロジックにひとたび同意したら、同じことをより人口密度の高い地域の住人から冷たく告げられた時にもう反論できない。この言い分に一度同意したら「それっきり」なのである。「無住の地が62%」になるというのは、そういうことである。
上で引いた投資家の言う「大変なトラブル」の一つはこれから後「無慈悲で不人情な社会」が行政主導・メディア主導で創り出されてゆくだろうということである。それについての危機感が今の日本人には感じられない。だから、この暗鬱な予測は高い確率で実現すると思う。
年初早々、気鬱な話で申し訳ないが30年後の日本についてはまだ書き残したことがあるし、そもそも平成の30年を総括するはずだったのに紙数が尽きた。続きは次の機会に。

                       内田 樹の研究室より 転載
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 元号の切り替えは国家元首の交代を意味するが、これは中国の例に習って日本が過去に取り入れた制度だろう。天皇が変わると(あるいは将軍が変わると)元号が変わる。つまり時間の名前はボスの名前ということだ。これを現代のアメリカに適用すると、クリントン3年とかオバマ4年、トランプ2年ということになって8年未満で総てが変わるのでちょっと細かすぎるなあと感じる。平成の30年があと1年ちょっとで変わる。その平成は株価だけでいうと大半が暴落と底練りの散々で陰鬱な時間の連続だった。昭和天皇崩御とほぼ時を同じくしてバブル崩壊から日本経済は一気に暗闇の世界に突入して、まったく経済成長できない唯一の先進国として有名になった。まあ別段、それまでが例外的に出来過ぎだったのだから、30年や50年不調だったからといって国や民族が無くなるはずもないだろうし、日本は島国だから他の国が簡単に併合するようなことは容易ではないから、不調な時は休んで体力を温存していれば良いと僕は思う。そのうちきっと風向きも変わるだろう。それまで自分が生きてるかどうかは怪しいが、、。こういう根拠無き楽観というのは人生を明るく生きるための知恵だと僕は思う。暗いやつは幸福を割り切って買えないんだな。幸福の多くは金でも買えるというのが資本主義社会のルールとなって久しい。だからこそ金がない人は不幸だという意見が多いのかもしれないし、それこそ多くの人が金を欲しがる最大の理由かもしれない。
 内田さんは今後の30年を憂鬱なデイストピアとして構想しているようだが、まあ爺になって景気の良い事を無責任に書かないという意味では普通のインテリなんだろうが、彼の予想はかなりの比率で曲がるのだから(自分でそう書いている)そう日本の今後の30年を彼のテキストのように悲観してもしかたがないと思う。
 僕は能天気が服を着て歩いているような人間だから、この株価的にはどうしようもなかった30年を随分と楽しく快適に楽々と生活してきたという実績と自信があるせいか、子供や孫の今後の30年だって捨てたものじゃないなあと大変期待もしている。近代国家が完成して、国民が基礎的な教育を受け均質な価値観が一般化すると人類はモル状の分子的な粒子のような均質な拡散として日々運動するようになる。それは極めて均質さを要求されるから、ほとんど総てが例外無く同じような運動をする。運度スピードの差が結果の差となるので、人はより早く、より遠くへ到達しようとしたのが19世紀からの近代人間社会だったのだろう。それを人は後から資本主義と呼んだと思う。
どんな運動スピードにも限界値というものが生物にはあるはずで、それは人間も同じだから、身体が耐えうる限界を超えて加速することも到達することも不可能だから、結果的にリニアモーターカーと飛行機が速度の限界であり、地球の圏内が距離の限界であることを人類は知ることとなった。その内部でなんとかするしかないのだ。
すると今度は人間の視点が内向しはじめる。外部ではなく内部に目がいく。成長とか拡張とかではなくて、円熟とか調和とか飽和とか定常的な数値の中でのバランスに意識の多くが振り分けられる。加速と減速のバランスが調和となるような時代が多分やってくるのだろう。そういう意味では空間的な部分で都市と田舎の構造と関係性に大きな変化が生まれると思う。それをコストの面から見ると日本の多くの地域で居住不能域が増えると内田さんは言うが、その不便な行政の力が行き届かない不毛の地こそ、新たな非農耕民の土地になる。つまりそこは遊牧民の土地と空間として新たな可能性が生まれる。そこでは人は都市のルール、定住のルールを捨てた人たちのユートピアになる可能性があると思う。そこにISのような全く新しい価値観の人間たちが居住(あるいは遊牧)する可能性があるのだし、それは新人類、新日本人となる可能性を秘めている。そういうSFッてあっても良いなと思うな。
こっそりと接近して殺して奪って逃げる。都市は防衛のために万里の長城のようなラインを作るだろう。その一部を突破して遊牧民が都市定住民を襲う。それは中世以前から見られた人類の生存の構図だと思う。新しいノマドライフがそこにある。

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ルッコラ、トマト、ラディシュ、キューリの浅漬けにハヤシライス 
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遅れていた船も8週でコツン

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クレソン、レタスと汁なし担々麺激辛  これ僕の十八番です。
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珍しく逆鞘が同じ用紙で2発同時に発生している。
パイオニアと1650、カネツとクラリオン  1年に1回あるかないかという感じで当然片張りなら「向かえ」ということだな。たくさん書いていないと無論スルーになるだろうな。


死ぬわけではないが
葬式に行かなくても、修学旅行に行けなくても、死ぬわけではない
暮らし続けられるし、学校にも通い続けられる。また、黄信号全員が赤信号になるわけでもない。なにくそ見返してやると奮起して、成功する人たちもいるだろう。そういう人たちは、どんな時代にも、どんな境遇に生まれても、一定数いる.それは立派なことだと、称えたい。ただ、全員にそれができるわけではない、とも思う。
仮に10人に2人でも3人でも赤信号になっていけば、赤信号の数自体は増えていく。そして、各地で住民や専門職が悪戦苦闘の中で実感しているように、赤信号が灯ってしまった人の対応は、大変だ。それは、地域と社会の体力を奪う。そしてそこから、第2の理由が出てくる。
持続可能な発展のために
相対的貧困率をとりまとめているのが、OECDという国際機関であることは、あまり知られていない。
OECDは、正式名称を経済協力開発機構という。ここの目的は、経済成長と開発と貿易だ(OECD設立条約第1条)。
なぜ、国連の人権理事会ではなく、経済成長を目的とする国際機関が相対的貧困を調べているのか。
経済成長に関係がある指標だと思っているからだ。なぜ、関係があるのか。
あっていい格差といきすぎた格差
これには「格差」の議論を参照するのがわかりやすい。
「相対的」とは「格差」のことだから。格差については、大方の合意がとれている2つのポイントがある。
1つは、ある程度の格差は、個人および社会の活力の源泉であるということ。どんなにがんばっても隣の人と収入が変わらなければ、がんばる気持ちは萎えていく。どんなによい商品を開発しても隣の会社と利益が変わらなければ、がんばる意欲は萎えていく。ある程度の格差は、人々ががんばり、イノベーションが起こるのに必要なものだ。
もう1つは、しかし、行きすぎた格差は、世の中の足を引っ張るということ。不安やあきらめが蔓延し、世代を超えて固定化すれば社会の流動性が失われ、むしろ世の中の活力はそがれていく。
治安も悪くなるかもしれない。テロとか、「誰でもよかった殺人」とか。メリット以上にデメリットが多くなる。
国連も、世界銀行もIMF(国際通貨基金)も、そしてOECDも、そのように考えている。
のびしろ指標の一つとして
では「ある程度の格差」と「行きすぎた格差」、両者の境目はどこなのか。
OECDは、それを相対的貧困率に見ている。世帯の中央値の半分未満という算定基準を決めているのは、OECDだ。日本政府ではない。それは「死んでしまう」という基準ではない。にもかかわらず、なぜそこで出しているかと言えば、「この基準を下回る人たちがどんどん増えていくような国は、将来の発展に疑問符がつく」と考えているからだ。
つまり、将来的な成長・発展、その国の伸びしろの1つの指標として考えている。だから「問題」なのだ。
「死んでしまうから、問題」なのではない。
「死なないかもしれないが、問題」なのだ。
持続可能な開発のために必要なこと
そして近年、このメッセージをより明快に打ち出した国際目標がある。「持続可能な開発目標」(SDGs・エスディージーズ)だ。2015年に、193の加盟国が合意した目標だ。もちろん、日本政府も入っている。
17あるゴールのうち、第1ゴールは、次のように書かれている。目標1 あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる
ただ、「貧困を終わらせる」ではなく、わざわざ「あらゆる場所のあらゆる形態の」とされているのはなぜか
それは、次のように「解説」されている。
1.2 2030年までに、各国定義によるあらゆる次元の貧困状態にある、すべての年齢の男性、女性、子どもの割合を半減させる。「各国定義によるあらゆる次元の貧困状態」、つまり開発途上国の絶対的貧困だけでなく、先進国の相対的貧困も含むんだよと言っている。なぜ含むのか。それが、世界の持続可能な開発という目標に資するからだ。
見えなくても、放置しない
世界は、黄信号を問題にしている
黄信号の人たちも含めて、前を向いて強く生きていけるような環境を整えよう、と。
そして、日本の国会も、同じ考えなので、2013年に「子供の貧困の対策の推進に関する法律」を全会一致で可決した。
私たちはすでに「見えないけど、放置しない」という段階に踏み出している。たしかに実感はないし、見えないし、死ぬわけではない。でも、それをなんとかしようという意思は失わないでいたい。
私たち自身のために。
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湯浅誠さんのコラムから転載した。彼は経済的弱者の見方で、困った人たちを救うのが生き甲斐の立派な人だと思う。とても心豊かでやさしい人なのだろう。数冊彼の著作を読んだが、きっと彼は社会福祉家というよりは宗教家に近いのだ。何々教というのではなくて、お助け教とか湯浅教と言える。とにかく困った人に寄り添って支援するのが生き甲斐なのだ。そうやって今より良い社会を作ろうとしている理想家なのだろうと思う。こういう人が政治家になると多分税金が上がるなあと思うが、リベラルは日本では何故か人気がない。それより日本はファシズムの伝統があるので、阿部のような質の悪い政治家が何度も再選される不思議な国なのだな。それのほうが安上がりでケチくさいがまあ国民の政治的な資質がその程度という証拠だろうと思う。
 彼は「豊かな社会は貧しい社会よりは良い」というイデオロギーが明確なんだろうと思う。僕はこの点については少々懐疑的なほうだ。物質的な裕福さと幸福とは異質なものだろうと思うからかもしれない。貧乏な幸福は確実にあると思うし、裕福ゆえの不幸もたくさんあると思う。あまり比較しても価値観の差だから無意味な気がする。ただし、裕福なほうが選択肢が広い場合が多いということは客観的には言えそうだ。広いから良いという意味ではなく、広いと可能性が拡大するという事である。

「金持ちに貧乏人の悲哀がわかるはずがない。」という意見は至極真っ当だろうが、最初からそもそもそんなことに金持ちは興味が無いのだ。金があるのが当然でずっと暮らしているとなんでそんな些細な事にいちいち目くじらを立てるのかと不思議な気がする。金が欲しいなら自分でどんどん稼げば良いと思うからだが、貧乏人にはそれが自由に出来ないことのほうがきっと多いのだろう。だから物事が思い通りにならないからきっと悲哀を感じるのだろう、そう想像するしかない。金がたくさん欲しいのなら、商売を人より上手にやれば良いと歴史が教えている。富豪という人はいつの時代も商売がとても上手だった人のことである。何かを買って売るということが普通の人より上手い人のことだ。だから自分が人より金がたくさん欲しいという人は、商売が上手になるような仕事をするべきなんだ。だから人に雇われていると儲からないと思う。自分のギャラを人が決めれば当然叩かれて安いに決まっている。自分のギャラを自分で決められるのは現代ではオーナー社長をやる他に手が無いのは馬鹿でもわかると思う。だが、日本では起業する人が減っている。だから日本人はどんどんと貧乏になっているのが現実だ。自分でそうしているという自覚が無い人が多いのだろうと思うな。

 さて今日は終末なので折れ線グラフを120本ほど更新した。総てが底打ちして反発開始というわかりやすいグラフになっているようだ。ここから7−8週の戻りはチャンスだろうと個人的には思う。突っ込み穏やかだから誰でも押し目を買いやすい。鞘を見てももうこれ以下には閉じそうも無いものが大半で、複数の逆鞘まで発生している、1年にほとんどない事が起きてるという時間には、「向かえ」という結論だな。その対処の差が「あってよい格差」と「行き過ぎた格差」を生む原因だろうと僕は思うな。
A8306      B8604       サヤ A-B                      鞘の変動差

653       569          84
790       672          117        +33  735       632          103        −4
899       739          160        +57
715       634          81         −79

コツン完了か?

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割安リスト  1月と2月  あまり差はないな



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値動きと鞘、鞘の変動値、新値

KEYさんへ

8306、8604の折れ線を書いているかどうか知らないが、無いのなら同じ銘柄で金融の折れ線を書きなさい。(過去3年分は必要だ。株価はボトム(底)ー上昇ーピーク(天井)ー下落ーボトム(底)の無限反復を繰り返すというのが、値動きの観察からはわかる。金利、業績、ニュースなどノイズはすべて無視して(そんなもんはすぐに値に織り込まれるから必要ないノイズである)、ただ値動きだけを見て、自分の取れる所を取るのが相場師のお仕事である。それ以上でもそれ以下でもない、単なるそれだけである。
さて、主要2銘柄を一枚の全紙版に折れ線で書くとさまざまな有益な値動き関する特徴に気がつく人とそうでない人がいる。要素は、1日柄  2新値  3鞘  4および その再帰性である。それを売買に生かす人とそうでない人がいるわけだ。
           

A,B両銘柄は底で鞘が最小になり、天で鞘が最大に拡大するという鞘の特性を明確に示している。大きな上げ相場は、その鞘の動きを繰り返しながら底値を切り上げていく。9月1週は両者の鞘は84円、今回の底?は3月2週でその鞘は81円と前回並みに下がったので底打ちと僕は感じたのだな。両銘柄ともに底値は60円ほど切り上がっているので、上げ相場は継続しているという認識だ。うねりながら上げていくのだから、押し目とか突っ込みを分割して買って、戻りや吹き値を売るという分割の反復売買こそが相場の本質である。
その際に、いかに買値を平均として安く押さえるか、いかに売値を平均として高く保つかというのが相場の技術である。それには、値動きの感じを主観的に捉えて分割操作を行う(日柄と不当分割)ことが必須であり、そのための道具が場帳と折れ線と月足である。

因みに僕の金融の折れ線は 上から
8306、8604,8316,8309,8840,8411,8303,8617の8本を同時に書いている。
金融全体の構図を見るのには有益だと思う。
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伊豆山の桜は満開です。
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花びらはピンクが強く可憐です。

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1615  月足  煮詰まって三角を形成して離れ待ち?
16週上げて8週押すというリズミカルなうねりで、今週は目先高値から9週目でどうやら陽転したみたいだが、、


 道徳とは、「生を否定しようとする意思」、大いなる破壊の本能、堕落、誹謗、中傷の原理、終末の始まりではないだろうか?従って、危険の中の危険、、、?     
 ニーチェ「語れ、そして破壊せよ」より

 二人のどちらにおいても、人間はまず、断片的な存在として定義される。(社会的、政治的、知的、等々の)あらゆる要素は、特殊な決定された目的へ向かっているしるしを成すものであり、その意味で道徳に従属している。ニーチェは、人間の究極的渇望、いかなる条件にも従属していない渇望、可能なるものの全的解放を目指す渇望、「道徳的な目的および神への奉仕」から独立した渇望を定式化した最初の人である。それは、あらゆる部分的な要求を廃棄する根本的欲求なのだ。こうした意味で、ニーチェは「悪の哲学者」、すなわち、自由の、すなわち全体性の哲学者である。すでにヘーゲルはーーーバタイユはこの点に関してヘーゲルに正当な解釈を下したーーー、自由と恐怖と死とを結びつける絆を指摘していた。全的人間とは、目的を持たず、その「生が動機のない祭りである」人間である。彼の生は、限りない欲望、燃焼への欲望、果てしない消費、分断を捨て、断片化を捨てて選択される「無限のせり上げ」である。全体性への渇望は、「曠野」へと通じており、それは迷宮であり、「熱烈な責苦」である。全体性への渇望は「曠野」へと通じており、それは迷宮であり、「熱烈な責苦」である。ひとつの断片以上であろうとする狂気、だが、あらゆる妥協にまさった狂気。人間は、自分が目指してる目的を神聖化し、それらを絶対的なものとして引き受け(だが絶対とは「幼虫の渇望」である)そうして彼は、彼を、彼の理解を無限に超えたひとつの全体性のただの一断片にしてしまうであろう承認を回避した。そしてニーチェは、偶像と理想とを、あまりに人間的な「現実」としてあばいた。人間の唯一の真実とは、「回答のない懇願であること」である。どうして人間が、神の死によって空虚なままになっている空間の中で、いっさいの道徳、いっさいの決定された目的の不在の中で、世界の無意味の中で生きることができようか。これが、ニーチェとバタイユに共通した問いである。

「悲劇的自然が崩壊するのを見て、それを笑うことが出来ること、それは神聖である」とニーチェは言う。破滅に瀕している生の、死をもたらす生の体験、運の肯定、換言するなら運命愛の肯定。賭は、同時に私の不安と私の運への意思の肯定であり、それは、あらゆる喜びに付きまとっている絶望であり、あらゆる生を蝕んでいる死であり、それは、諸道徳が「善」とか「悪」とか呼んでいるものの彼岸に、ニーチェが当時「生成という無垢」と名付けたもの、遊びに石を集め、その山を築いては散らかしてしまうヘラクリトスの子供の無垢を見いだそうとする意思である。この遊びの中に、ニーチェは、ヘラクリトスに次いで、世界の姿を見たのであった。

いっさいの理性、いっさいの言葉の彼岸に、世界を賭けとして生きること、それは新たな道を発明することである。ツァラストラはまたこうも言う。「私は新たな道をたどる、新たな言葉が私に与えられた。すべての被造物と同じく、私も古い言語にあきあきしている、、、。私にとって、すべての言語はあまりに遅すぎるのだ」。神の死の空間の中で、私は、狂気に陥らないために語る。しかし、死んだ神とは、大言壮語の無意味であり、それは、「主体」の裂け目、賭けの開始である。賭けようと望むこと、それはおそらく、語る術を、それにまた死ぬ術を学び直すことである。

    ジャン ミシェル レイ 「賭」     横張 誠 訳  より転載


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