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平成が終わる(1)
サンデー毎日に「平成の30年間を振り返る」というお題での寄稿を求められた。4600字というたっぷりと紙数を頂いたので、書きたいことを書いた。 平成という時代が2019年4月で終わることが決まった。 以上が元号についての私見である。その上で平成の30年間がどういう時代だったかを総括してみたい。それについてこんな仮説を立てた。それは過去30年間で何がどう変わったのかを見て取るためには、時間軸をもう30年先に延ばして、前後60年の幅を取る必要があるのではないかということである。つまり、今を「折り返し点」と想定して、「これまであったこと」の回想と「これから起きること」についての予測に等分に知力を分配するのである。そうしないと、人間はうまく知恵が働かないのではないかという気がしたのである。そういう気がするだけで、何のエビデンスもないが、平成の終わりに同期するように「今から30年後の日本はどうなっているのか?」という想像力の使い方をする人が出て来たのは事実である。その一人が橋本治である。 30年後のディストピアについての暗鬱な予言をもう一つ紹介する。アメリカの投資家ジム・ロジャーズの日本経済について語ったものである。(『週刊現代』12月13日号) 内田 樹の研究室より 転載
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元号の切り替えは国家元首の交代を意味するが、これは中国の例に習って日本が過去に取り入れた制度だろう。天皇が変わると(あるいは将軍が変わると)元号が変わる。つまり時間の名前はボスの名前ということだ。これを現代のアメリカに適用すると、クリントン3年とかオバマ4年、トランプ2年ということになって8年未満で総てが変わるのでちょっと細かすぎるなあと感じる。平成の30年があと1年ちょっとで変わる。その平成は株価だけでいうと大半が暴落と底練りの散々で陰鬱な時間の連続だった。昭和天皇崩御とほぼ時を同じくしてバブル崩壊から日本経済は一気に暗闇の世界に突入して、まったく経済成長できない唯一の先進国として有名になった。まあ別段、それまでが例外的に出来過ぎだったのだから、30年や50年不調だったからといって国や民族が無くなるはずもないだろうし、日本は島国だから他の国が簡単に併合するようなことは容易ではないから、不調な時は休んで体力を温存していれば良いと僕は思う。そのうちきっと風向きも変わるだろう。それまで自分が生きてるかどうかは怪しいが、、。こういう根拠無き楽観というのは人生を明るく生きるための知恵だと僕は思う。暗いやつは幸福を割り切って買えないんだな。幸福の多くは金でも買えるというのが資本主義社会のルールとなって久しい。だからこそ金がない人は不幸だという意見が多いのかもしれないし、それこそ多くの人が金を欲しがる最大の理由かもしれない。
内田さんは今後の30年を憂鬱なデイストピアとして構想しているようだが、まあ爺になって景気の良い事を無責任に書かないという意味では普通のインテリなんだろうが、彼の予想はかなりの比率で曲がるのだから(自分でそう書いている)そう日本の今後の30年を彼のテキストのように悲観してもしかたがないと思う。
僕は能天気が服を着て歩いているような人間だから、この株価的にはどうしようもなかった30年を随分と楽しく快適に楽々と生活してきたという実績と自信があるせいか、子供や孫の今後の30年だって捨てたものじゃないなあと大変期待もしている。近代国家が完成して、国民が基礎的な教育を受け均質な価値観が一般化すると人類はモル状の分子的な粒子のような均質な拡散として日々運動するようになる。それは極めて均質さを要求されるから、ほとんど総てが例外無く同じような運動をする。運度スピードの差が結果の差となるので、人はより早く、より遠くへ到達しようとしたのが19世紀からの近代人間社会だったのだろう。それを人は後から資本主義と呼んだと思う。
どんな運動スピードにも限界値というものが生物にはあるはずで、それは人間も同じだから、身体が耐えうる限界を超えて加速することも到達することも不可能だから、結果的にリニアモーターカーと飛行機が速度の限界であり、地球の圏内が距離の限界であることを人類は知ることとなった。その内部でなんとかするしかないのだ。
すると今度は人間の視点が内向しはじめる。外部ではなく内部に目がいく。成長とか拡張とかではなくて、円熟とか調和とか飽和とか定常的な数値の中でのバランスに意識の多くが振り分けられる。加速と減速のバランスが調和となるような時代が多分やってくるのだろう。そういう意味では空間的な部分で都市と田舎の構造と関係性に大きな変化が生まれると思う。それをコストの面から見ると日本の多くの地域で居住不能域が増えると内田さんは言うが、その不便な行政の力が行き届かない不毛の地こそ、新たな非農耕民の土地になる。つまりそこは遊牧民の土地と空間として新たな可能性が生まれる。そこでは人は都市のルール、定住のルールを捨てた人たちのユートピアになる可能性があると思う。そこにISのような全く新しい価値観の人間たちが居住(あるいは遊牧)する可能性があるのだし、それは新人類、新日本人となる可能性を秘めている。そういうSFッてあっても良いなと思うな。
こっそりと接近して殺して奪って逃げる。都市は防衛のために万里の長城のようなラインを作るだろう。その一部を突破して遊牧民が都市定住民を襲う。それは中世以前から見られた人類の生存の構図だと思う。新しいノマドライフがそこにある。 |
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