熱海桜も盛りを過ぎた
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富の利用
バタイユはマルクシストたちと共に主宰し、短命だった雑誌『社会批評』に1930年のはじめ『消費の概念』を書いてる。この異論の余地のない力を秘めた論文をいま読み返すと、読者はたしかにバタイユの不本意さに気付く。彼はこの論文でとりわけ人間の営為の無償性に言及しているのだが、この消費の概念が必然的に含み持っている問題を追求することを差し控えているのであって、その意味をやがて彼は『内的体験』や『エロチシズム』、あるいは1952年に『クリティック』誌に発表されたあの「神秘と官能」と題する研究のような簡潔で衝撃的ないくつかの論文において再発見することになるわけである。それはそうとして、『社会批評』に発表した論文でバタイユは、前世紀のマルクシストや革命家が不可能であるとした、生けるものとして人間存在と事物の分離を、力強く描出している。「それ(人間の生)はこうした体系(経済学の閉ざされた体系)が欠如しているところにこそ始まるのだと言えば、人間の生を成立させている放棄、排出、激情などといった旺盛な活動がなんであるかを明らかに示すことができるだろう。少なくとも人間の生が容認する秩序と貯えは、秩序づけられ貯えられたもろもろの力が、説明のつくようなものにはいっさい服従させることのできない目的のために放出され無化されるときに、はじめて意味を持つのである」。
この後半の部分が読者の注意を惹く。それは浪費と破毀との定義、『呪われた部分』に分析されている(より正確に言えば完全に体系化されて明示されている)あの消費と切り離すことのできない『消尽』の定義である。
ともかく『呪われた部分』は、総体的な経済体制、近代資本主義を利潤の追求から無償贈与の意志へと移行させる体制の中に見られる一つの逆転と時代を同じくする作品である。この本は、今や消費するために集めるものによってではなく、むしろ存在するために消尽するものによって決定される社会の分析として、忘れてはならないものであることに変わりはないのである。この分析の全体には、マルセルモースの与えた情報が、すぐれた註釈者らにしたがって読み込まれたヘーゲルと少なくとも同じぐらい、流れている。それは、人間集団が貧しい日々の生活で手に入れることのできたものすべてを壮大に浪費することによってその存在を確認するあの祭りーーー勤行、歌、踊り、ごちそう、情念、欲情などについて、この上なく見事な記述を与えてくれたあのモースである。民族学者らの言うこの『ポトラッチ』は、これまで人間の分析の中心課題として真に取り上げられたことはないのであり、それだけに、あのエディシオン ド ミニュイ の叢書、その題にバタイユは1930年の自分の論文の表題『富の利用』を付したのだが、この叢書の予定表にある本をクローズ ド レビーストロースが書かなかったことは、今後も長く悔やまれるだろう。
だがここで触れられているテーマは、あまり知られていないとはいえ、現代の考察の中でも最も豊かなテーマの一つなのである。富と使用可能なエネルギーの氾濫が広島以来の世界を脅かしているとすれば、計量手段としての算定できる経済に対して、苦しみによって蓄積される労働の宗教に対して、人間がその存在を回復し、その本来の姿を取り戻すためには、あの全般的な交換の体験を再び手に入れるほかはないのであるが、それに対しては、われわれは容易なことでは消し去ることのできない疑い深い道徳意識が永遠に抗い続けるのであって、実にこれほど困難な道はないのである。この反省が一つの計画とその他もろもろの可能性に堰を開くこと、バタイユが道を開いたこの純理論をその流動性と自発性の中で実質たらしめること、そうすることによってこそおそらく一つの偉大な思想がその意味を明らかにするだろう。
この思想は継承されるだろう。 |
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