これまでの時代には、資本と労働という明白な対立にしたがって決定された歴史的諸形態の分析が、大幅な特権を付与されていた。しかし今日、労働の領域は流動的なものとなり、概念そのものが定義を失ってしまった。エリアスカネッティーが歴史について述べたように、われわれは社会的なものの「盲点」を乗り越えて、気づかないうちに資本と労働の強力な対立関係の向こう側に移行したのである。今後は社会機構そのものが一体化された循環をたどるだろう。メビウスの輪と言ってもよいが、そこでは行為者たちは契約の表と裏につねに同時に存在することになる。
『社会の断絶」という用語自体が、資本と労働の昔ながらの客観的状態を復権させる試みに属している。19世紀のユートピスト
(空想社会主義者=シャルルフーリエなど)たちが、産業化のまっただなかで、土地と職人仕事に結びついた諸価値を復活させようとしたのと全く同じように、現在われわれは、情報化のまっただなかで、産業時代(西欧19世紀の産業資本主義の最盛期)に結びついた社会関係と対立関係を復活させるつもりなのだ。同じユートピア、同じ錯覚ではある。
あの階級的力関係と弁証法的矛盾の黄金時代にはお気の毒、というほかはない。マルクスの分析自体がすでに、階級闘争と歴史の決定論的単純化に属していたが、彼の分析は上昇運動と決定的な否定の可能性に結びついていた。社会問題とは、プロレタリアート同様、当時はまだ乗り越えるべき定め、否定されるべき定めとしての概念だったのである。社会問題と労働の本質が実証主義の装いをとって曖昧化される現在の状況とは、何の関係もない。
われわれの「対話型」(インターアクティブ)の社会関係で失われたもの、それはまさに否定性としての労働、客観的状況を断固として否定することの可能性である。「客観的状況」は、一般的なかたちではもう存在しない。情報の潜在性は、現実を断固として否定することの可能性をもはやて提供しない。このことをしっかり確認して、滅び去った状況を夢見ないようにする必要があるだろう。
われわれはもう否定性としの歴史のなかの存在ではない。投機と雇用と資本と情報のあらゆる流れの合流地点で、力関係と社会関係がヴアーチャルな双方向性と冗長な集合的パオーマンスのために骨抜きにされる事態に、わわわれは立ち会っている。だが、こうした状況を未知の魅力にあふれるものとして受け止めることも可能だ。マルクスの言葉のように 歴史が茶番となったなら、今度はこの茶番が繰り返されて、茶番そのものがわれわれの歴史になることも、じゅうぶんにあり得ることなのだから。
「不可能な交換」 ジャン ボードリヤール 塚原 史 訳 紀伊国屋書店より 転載
半熟卵さん こんにちわ、今日は東海地方は雨です。特に僕のフラットは大雨でドシャドシャという雨の流れる音が凄いよ。視界は50メートルぐらいで外は真っ白だ。でも不思議に落ち着くんだな、誰もいない部屋でピアノを聴いてコーヒーを飲みながら読書をするのにはこんな天気もなかなか良いもんだよ。上げたのは僕の好きなフランス人社会学者で、元は商品経済の記号性についてずっと書いてきた人で、大学時代からもう30年も読んでいる人の遺作2冊前の2002年のテキストだ。
少し読みにくいし、使用言語が一般的でないからわかりずらいだろうが、彼の考えの根底にある疑問とは、現実の認識についての「一般的な認識の過誤と限界」ということなんだね。かいつまんで言うと 善と悪 とか 金持ちと貧乏人 とか 資本と労働とかいう典型的なニ項対立で物事を見るその見方ってホントに正しいかしら?っていう疑問なんです。そういう単純化した対立軸で物事を受け止めたり感じたり対処したりするだけで本質的な問題理解の解決ってあるんだろうか?って事。
彼を良く理解しようとするとこちら側もちゃんと理解の基盤を持っていないとテキストの真意を理解できないよね。だからそのための勉強に毛沢東、マルクス、ニーチェ、クロソウスキー、サド、ダーウィン、フーリエ、フロイト、バタイユ、ドルーズ、ガタリとか様々な関連書籍を僕は自分で選んで読むことになったんだけどね、それをすることで自分から読み込むと吸収がすごく早いしクリアカットな疑問も更に湧くし、どんどん自分で自分の頭の中が勝手にでき上がっていったのね。テキストというのは自分が考えているようで、実は言語そのものは過去からの膨大な知識の遺産の集合体で、僕個人のオリジナルなんてほとんど無いんだよ。アホだからゼロに近いね。全部がパクリとコピーとアレンジメントの集合なの。だから沢山の読書をして(6000冊かな)死んだ偉人(清少納言からプルーストまで?)の言葉が僕のなかで君に語りかけるから迫力を持って君の琴線に振れてきっと震えちゃうんだね。パクリなんだがそのパクリのパーツはバラバラで僕の中で組み合わせれてどれがオリジナルかは受け手にはわからない。特別に「引用」表記が無い限り全部が僕のテキストとして君に伝わる。だから本当は僕じゃない、例えばニーチェが、あるいはレーニンが、君を口説いているんだと思うと「強烈な効果」があって当然だと思いませんか?僕の中で自然に湧いて来る偉人たちの知識と真実とその言葉たちということなんだ。それは君だって同じことさ。(ネタバレしてもさ、テキストそのものの真意や説得力は減じないだろ?これが知性の不思議さなんだよ。)6000人分の偉大なテキストが僕なんだよ。すごいリゾームだろう?だからさ多数決の民主制の正義なんてこれに対峙したら「クソ」同然の無価値なんだよ。器官なき身体が僕の中で「こっちに来い」って言ってる。「こっちがお前の逃走線だ。ここに逃れて群れが全滅するのを待ってろ。」そう時々呟くね。オカルトみたいでしょ?(笑)
6000冊の読書に投入された時間とコストがいくらになるかなんて考えたこともないけどね、人生の恐らく1割以上は時間的にはあるんじゃないかな。すごく楽しいし自由で裕福でしょ僕の人生の時間って。でもさ、そのテキストがちょっとしたきっかけで猫塾の時に「お金」という記号にたまたま変わったでしょ。楽しんで金のことなんて何一つ考えもしないで本を読んだのよ。でも好きなことを夢中でしていると無駄になんかなりませんよ。どこか知らないうちに全部その人の力になったり役にたったりするのね。意図してないからただそれがいつ役に立つのかとか幾らになるのかなんてこちらでは全く分からないんだけどね、ある日お金という記号で表記される時があるんだね。保証のない賭け。これを投機(投企)と言うんだね。賭け金は自分そのものだ。楽しいぜー。
みんなが汗水たらして安月給で働いている時に好きな読書してさ、それでテキストをパクリで(無意識でに指が動くのね)書いて1億になってさ、これ泥棒よりひどいよね。でも現行法規を一つも破ってしていないでしょ?ボードリヤールの指摘した通り、僕の心の内部で「茶番そのものが歴史」になった一例でしょ?だから自分が信じて「これだね」と思ったことや感じたことというのは一番大切だから諦めちゃダメだし、一時的にそれが社会的な評価基準に合っていないことがあっても凹んじゃだめなんだ。合っていないということはねある意味で同じことをする人が少ないでしょ?つまりライバルが少ないのね。だから凹むんじゃんなくて逆に喜ぶんです!だって風向きが少しこちらに吹いたら一人勝ちになって大儲けの大チャンスなんだよ。つまり選択肢の逆張りでしょ?値幅があるじゃない当然。これを世間はへそまがりとも言うけどね、ベトナムさんもハルトモさんも結構おへそ曲がってますよきっと。でもさ頑固か偏固かわからないけれど彼らしっかり実を取れてるでしょ。それでさ、彼らマジちゃっかりしていて、マダムはスゲー美人だったり、美女の彼女がいたり、美味しい所みんな持ってくようなスマートさがあってさ、「だってオレ頭良いから当然っす」っていう図々しさみたいなワガママがあるんだね。でも結構寂しがりやでさ、マダムとかネーチャンいないと寂しいもんだから、金なんて本人は多分どうでもいいやと思ってんだけど、その大事な人のために「全部俺が持ってくぜ、俺の通った後はペンペン草も生えないぜ。」って感じでしょ?カッコいいよねー!
やりたい事をやるために僕たちは生まれてきたんだよ。現在僕たちがしている事は全て自分で望んで選んだことだ。だからそれが違った!と本気で思うんだったら「これだ」と思う事を堂々と修正してやれば良いだけだ。誰だって間違いはあるしやり直しをすれば良いだけだ。ただ周囲とか他人とかと自分を比較して結論を出すようなのはダメだよ。自分の人生の選択を自分以外に委ねるというのは「奴隷」の生き方だ。金とか地位とか全く関係ないよ。何をやっても良いんだよ、満足があるのなら。それがリベラルってことだろ。それが出来ないと人生はまさに茶番でそのもの 終わるぜ。そんなのは俺は許せないなと思います。 |
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