ここから本文です
猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

記事検索
検索

動作の質のお勉強

イメージ 1
12月の後半に8585,8589の折れ線グラフを上げた。どういう資料を僕は作っているのかというのは見た方が早いなと思ったからで、一つのグラフ用紙を縦にして4銘柄を4色のボールペンで書いている。アホは猿真似だけ10年やってりゃ少しはオツムに毛が生えるかと思う。資本主義社会で自分が金儲けに無能な自覚が有るのなら、なぜ無能かを少しはマジに考えた方が良い。このブログはそういう頭がお天気の人にテキストはどう読むか、さらに書くかということのヒントのつもりもあるのだが、大学を出てからはパワーポイントでプレゼン資料を作るぐらいしかテキストを書いた事が無い奴らが大半である。そういう資料は会議に出る上司やアホを説得するための材料でしかない。つまり説得のための材料だからそれで金が儲かるテキストは一つもない。欲望が資本主義の器官なき身体という認識があるのなら、そんなテキストが金になるのならわざわざ人に見せる必要など無いからだ。それを使って金儲けをすれば良いだけの事だ。なぜしないのかは、それに金銭価値が直接にないことをテキストの書き手は自覚している。それはある意味で時間の無駄で、それをしないと25日にアーンと開けた口に餌が投げ込まれないことを知っているからでもある。相場の資料はそれが直接金儲けの道具でないと意味が無い。だから単純で実用的であるという一点に意味が有る。それが感覚的に(この場合は視覚的に)直接訴える形式でないと意味が無い。
別に人格、倫理はゲームに必要な要素ではないからプロになったような奴は、こんな地味な作業をそれこそ飯を食うのも忘れて何100時間も最初はやるのだ。ホ−11というグラフ用紙を箱(50枚入り)で買って、それを毎月3つも4つも使ってグラフを書く。ただただ書く。理由などない。値動きの受け止めに慣れるためだ。受け止めがすすめば、これは5週で反転とかチュブツキは3月とか相手のパンツの色ぐらいはわかるようになる。ああこれは新値2段整理だなとかWボトムか三尊かと少しは型も見えてくる。グラフとは縦に価格、横に時間という2次元で当然、線描される形にある癖が生まれる。類似、相似、反復、反転、ランダムウォーク、その不作為なリフレイン、まさに音楽の形式と似ている。そんなふうに折れ線グラフを見たり感じたりしたことがあるのかな?たったそれだけのことを見るというのにも数銘柄の折れ線を同じ用紙に最低でも3年ぐらいは付けないと気がつかないのだが、その気がつくまでの時間にアマチュアの大半は無自覚に相場に手を出して金の大半を失って行く。だから「止めとけ、(あんたはどう見てもアホそうだから、、)」という親切心が沸いてくる。僕の倫理とはそういうことなのだが、、。(笑い)

さて反転して7本5週戻したところでベトナムさんが落としている。年初来高値を一気に9枚売って高殴れの神技だ。

02.04   200   - 1    - 1

 〃      204   1 -     0
   〃      199   - 1    - 1
02.05   204   1 -     0
02.14   201   - 1    - 1
02.17   206   1 -     0
   〃      201   - 1    - 1
   〃      205   1 -     0
02.20   215   - 1    - 1
   〃      212   1 -     0
   〃      207   - 1    - 1
02.21   214   1 -     0
02.27   207   - 1    - 1
02.28   201   - 1    - 2
03.06   208   2 -     0
03.12   204   - 1    - 1
03.14   200   - 1    - 2
   〃      197   - 1    - 3
03.18   209   3 -      0

以下UP済み
04.07   209   - 1    - 1
04.08   204   - 3    - 4
04.09   200   - 5    - 9
04.21   252   9 -      0

04.21   235   - 1    - 1

単発の数円抜きを6回連続して仕掛けている。高値の順張りを損切りで落としたという所が彼が天才的に上手いということだが(まだ順張り乗せには少し早いかな?)、13年やって始めて出来る事だ。次に2分割、更に3分割と進んで慣れた試しをリズムが合った所で本玉で9枚建った。少ししていきなり動き出したので落としている。多分すべての動作が反射であると思われる。リズム取りの理想的な見本譜であると思うし、僕など愚図で下手だからとても真似できない。それでも少し未練もあったのだろう、マルの同日、試しの−1を入れている。
この後の譜は無いが、多分後に数枚分割で買ったのかもしれない。日柄が浅いのでこれで終わるとはおそらく感じていなかったからのー1だろうと思われる。

こういう反射的な動作が出来るようになるために、彼が毎日何をしているのか?何をしたらこうなってきたのか?そういう事を猿真似しろという事なのだ。たったの9枚でも60万ぐらいにはなっただろう。オネーチャンのベスパや携帯ぐらいは買えるのだ。でも彼の分のお金は増えない。オネーチャンの10倍ぐらいは最低ないと本妻も子供もいるんだからお話になるはずがない。だから8585かどうかは別としても
買いの長っパリの本玉は増すしかないねと僕は思う。
手の内とはそうした必要性の要求の必然だ。上げ相場は買いで下げは売りで取る。
必要でない所に金は落ちないという資本主義の金の流れの法則性を理解してるから
熱帯魚とか目先の動作の動機を作るのだろう。そういう勇気を僕は買いたいなあ。



















































呪術空間と祝祭空間

イメージ 1

本格的狩猟民の生きる世界は、呪術的空間である。本格的狩猟民の登場以後、世界は二重化した、目に見える(肉体的に知覚できる)世界と、目に見えない(精神が感じとる)世界とに。
 動物たちも見えない諸力を感知する。渡り鳥、渡り蝶、闇の中のコウモリ、深海魚その他、神秘的としか思えない能力を持つ生物はいくらでもいるが、それらは特殊化した知覚機能(コウモリの超音波知覚や渡り鳥の地球磁場感知能力など)であって、彼らはわれわれが目を開いて道路や山道を歩いているように、知覚的にリアルに、ある意味では条件反射的に行動していると言うべきであろう。
 それに対して呪術は新人たちの知能レベルに深くかかわっている。スティーブンミズンの言う「博物知能」===長年経験的に蓄積された生物に関する知識(ワニは強い、コヨーテはずる賢い、ある種のサボテンの汁は幻覚を誘うなど)のもとづいて、動物たちの習性を知り、その行動と情動のパターンから彼らの「心」を読み取り、その心に働きかける。働きかけは「技術的知能」の操作と制作の能力にもかかわる。ただ後世の技術のように、操作主体の人間の方はそのままで対象だけを変化させるのではなく、自分たち自身の意識と知覚をも変容させることによって、主客ともに変容する共通の力の場を作り出すのが、呪術的な仕方であろう。動物たちはすすんで獲物になりにくる。殺され食べられに人間の所にやってくる、と本気で確信させる場を作り出すこと。
 ラスコーやアルタミラの洞窟深くの闇の中で、かがり火か獣脂の炎のゆらめきとともに行われたが、そういう動物と狩人との共通の超現実的な意識場を作り出すことだっただろう。動物と狩人の魂が融合するエネルギーフィールド。その超現実的空間を作り出すのが、聖なる場所、聖なる日、聖なる時刻、聖なる歌、聖なる踊り、栄なる楽器の音、つまり呪術的儀式のセットである。そこで呼び出される見えない力ーー霊は様々な名前で呼ばれたに違いないが、その大いなる霊への服従、崇拝、信頼、帰依、憑依が獲物たるべき動物と狩人たちとを深く結びつける、いや、本来結びついているという現実感をつくりだす。麻薬的な植物も焚かれあるいは吸引されたことであろう。
そうして醸し出される現実感は幻覚に過ぎない、と言う事もできる。迷信的妄想、集団的自己暗示と言う事もできる。だが工業技術文明下のわれわれの「現実」も集団的幻覚のひとつの形ではないだろうか。電子技術文明の到来とともに「ヴァーチャル」という言葉がしきりに言われ始めたが、それは現実に対立する虚構(仮想)という意味ではなく、「事実上は現実と同様の効果を持つ」という言葉の意味であり「ヒトは本来バーチャルな生物である」と西垣氏は言う。(中略)
 実際、最も早い地域で10万年前ごろから、遅くとも5万年前ごろから、人類は漁業を含む本格的狩猟生活を、何らかの呪術的儀式とともに続けてきた。焼畑農耕を含めた農耕生活が始まるまでの何万年もの間。
 その期間を長いと感ずるか短いと考えるからは、何を基準とするかによって異なるけれど、そこで生きた動物たちと、祖先を同じくすると信じるほど近く親しい関係を結びながら、実は動物的存在とは異なる人間的生存の構造を徐々に作り出してきたのだと、と私は考える。
 ある意味では積極的な「ヴァーチャル生物」への自己変容である、もしこの宇宙がより複雑、精妙、不安定なものを次々と局所的に進化させ続けているとすれば、多細胞生物の大きな脳が「意識」という最も精妙で最も不安定な超物質的なものを生み出す宇宙進化の最もアブナイ実験を、狩猟民たちは行ってしまった、とも言えるだろう。洞窟の奥での、密林の奥での儀式の繰り返しを通じて。
               呪術的儀式 「書く事の秘技」日野啓三 より転載

 残念なことながら、日本人で相場が特別に世界規模で上手い人というのが生まれないのは何故だろう?と前から考えていた。例えば高名なジョージソロスとかジュリアンロバートソンのような規模の個人の相場師がなぜ生まれないのだろう?ずっとそう思ってきたのだ。彼らの成功は市場規模と言語とレバレッジと資本調達と税制のせいもあると思うが、それにしても成功した時のその規模があまりに違いすぎる。
 それは技術的な部分というよりは思考的な部分で相場に対峙するやり方、考え方に差があるのではないかと僕は思っている。日本人は典型的な農耕民族であり、「みずほの国」と言うように皇室儀式に農耕の習慣が取り入れられているのに代表されるようにすべての発想が農耕的であると思われる。一方、アングロサクソンやジャーマンは狩猟民族の典型である。「狩りをする」ことが即ち生活することと同義であった。狩りの対象が動物植物から現在は債券、株式、オプションに変化したに過ぎない。だから扱いに慣れているから成果にここまで極端な差が生まれる歴史的な土壌があるのだろうとぼんやり昔から考えていた。器官なき身体が資本主義を駆動するのならそれもうなずける。
相場は狩りに似ている。大物を数年かけて一つ仕留めると一生家族が遊んで暮らしてもおつりがくるほど儲かるのなら、なぜ社会の大半の人がそれを狙わないのだろうと不思議な気がするのだ。明治や大正、昭和初期の相場師たちの話を読むと今とは全く異なったやり方で成果を上げていたことに気がつく。最近では佐藤和三郎は牛ちゃんの名前で有名だが、箱根の強羅花壇を宮家から買い取って観光事業を始めた。きっと彼は狩りをきちんとしたのだろうと思われる。また相場に参加する人の大半が当時はそうした狩りの感覚を少なからず持っていたという事だったのかもしれない。相場は貯蓄の延長では絶対にないが、あたかもそのようなイメージに誘導して安全安心で効率的という嘘を金融業界が流し続けて来たせいで市場参加者の意識が更に農耕化されてしまったのかもしれない。何度か損をすると相場(株)は怖いものだ、という意識が強く働いて、収益のチャンスに指をくわえて見ているだけということがしばしば起きるということになる。真面目が仇になっていつしか臆病な国民性が支配的になるという具合だ。そこを狩猟民族の草刈場とされてしまっているのが現状だから、異常にボラが上がって更に投機的な変動率で手が出せないというような事が起きているのだろうと思われる。
 私見だが、農耕民族は翌年の収穫のために「モミ」を貯蔵する習慣がある。モミとは次の収穫の原資だから、多いほど安全という意識が強い。だから発想は累積的にならざるをえない。一方耕地面積は増えないのだから異常に蓄積されたモミは使い道がないという状態が総体では続く。古米、古々米ではないが、古モミ、古古モミの状態でやがて使用されないまま腐る。日本人は価値に対しての時間的観念に制限がないと言える。ドルーズの言うように仮に資本主義を駆動するものが器官なき身体=欲望機械であるとするのなら日本人は欲望機械の強度が著しく弱いということになると思われる。欲望とは消尽の時世の現在形である。つまり貯蓄率とは欲望機械の逆数と言って過言でない。それが一時的に高いのはうなずけるが、高原状に高い状態が連続して何十年も続くということは器官なき身体が壊れてるといういう状態と同義ではないのか?日本人にはそんな自覚もないのだろう。そんな事を考えながら 僕は日野啓三を読んでいる。相場が狩猟民の生きる場なら、それは呪術空間であるはずだ。つまり幻想的な意識の空間といえるだろう。一体現在の日本人投資家の誰が資本の呪術性などどいう主題をマジに語るだろう?僕やかってのバカラ氏くらいしかそういうおどろおどろしいことを技術論に持ち込んだ論考は無かったように思う。だから久しぶりに相場研のバカラ氏の過去ログを読んでみた。「ふんふんそうだよね、と首肯している自分」がいるのが何故か可笑しい。別に僕は断食もしないし、性交を断ちもしないし(出来るか!そんな不自然な暮らしなんて)、バカラ賭博を夜通しすることも一度も無かったがそれでも彼の気持ちや言いたい事が実によくわかる気がするのだ。その代わりに僕は浪費を常にしてきてからそんな必要性を感じなかったというだけの単純な話である。「金は天下の周りもの」という格言があったはずである。それは彼が呪術的空間を作りだすという事に長けていることにどこか似ている。人間の呪われた部分を生活に取り入れるという意味合いにおいて。
 農耕民の祝祭とは何か?盆と正月ということだろう。お神酒を飲んで、ごちそうを食べて、健康を祝い、風呂に入ってネーチャンといい事をするぐらいが庶民的な祝祭である。誰かの毎日と同じだなと思う。(笑)

父性のロールモデル

イメージ 1
ハルトモさんが「お金のこと」というのを施設の子供たちにいろいろと体験を交えて教えている。素晴らしい教育だと思う。子供たちは大人が考えているよりよほど利口である。ちゃんと大人の言う事とすることを冷静に見て観察している。そしてその矛盾や真実に直裁に反応して大人になっていく。だから何が本当で何が嘘なのか、自分はどうしたら良いのかということを自分で判断しながらも進んでいくしかない。その時に、「どういう大人になりたいか」とはつまり具体的にあんな大人になりたいよ、というロールモデルがあればわかりやすい。それが子供たちに魅力的であればよいということになる。小学生の低学年なら「ウルトラマン」や「アンパンマン」で良いだろうが、そのうちそうもいかないことが自然にわかる。想像だが、おそらく子供たちは親の失敗で自分たちが施設にいるということの自覚を持ってる子が多いだろう。彼らは敏感だから、一般家庭の子供と比較して「お金」に対して鋭敏な感覚を嫌でも持っていると思う。いや持たざるを得ないのだ。これはすごくある意味で生存戦略上は有利な状態だ。「お金がないと苦労する、お金がないと大変な想いをする」という原体験は成功のための大きなエネルギーに瞬時に変換する成功のファクターだからだ。その点、一般家庭にすくすくと育った子供たちの大半はお金で大失敗するという事が起きやすい。何の苦労もしないから、何の注意もしないし、何の欲望も沸かないからである。一般家庭の子供は親に守られるという前提で育つから苦労と言っても、せいぜい希望の大学に入れない(自分が馬鹿で努力不足なだけ)とか出会いが無くて彼女が出来ないとか(アホか!獲物は自分で狩りをしないと取れないの。軟派の練習でもしろや、100人に100回100日連続で声をかけりゃ大抵数名は反応するのに)牧歌的なレベルの不満を自分が行動もしないくせに文句を言う。まあどうせ彼らは羊の群れの食用家畜の域を永遠に出られない。つまり彼らこそ資本主義の餌である。こういう餌を大量生産するのが国家教育の目的であるという自覚が無い親が大半である。なぜなら親の大半も自分が餌であるという自覚が無い。良い学校を出て、良い会社に入り、良い給料を貰って、定年まで大過なく過ごし年金を貰って家を建て子供を一人二人育てるぐらいの最低レベルの欲望のが目的化している。この要因は母性にも大いに責任がある。母性とは群れの中にいることで、弱い者(餌を取れない自分の子供)が他の強い動物の特定の捕食の対象になりずらい、なるとしてもその確率は群れの総数のわずかな比率となるという、本脳的認識に依存している。だから母性は常に平均と標準を大きく超えるという選択を絶対に好まない。だから母性は結果的に常に資本主義の餌を大量生産する生産機械なのである。ジェンダーの人から反発を買うが、母性と父性の差異とはそのような機能である。ここに父性としての逆のベクトルのロールモデル=ハルトモさんが登場することで、子供たちは考える。「さて、僕はどうするのか?」
園長さんや若い先生は教科書に書いてある母性的な事をいつも言う。「これはダメ、あれはダメ」という禁止事項ばかりだ。それでいつも不機嫌な顔をしている。いつも忙しそうにしている。それでもあまりお金があるようには見えない。「お金は大事にしましょう」とは言うがどうやってお金を儲けるかは教えてはくれない。ハルトモさんは変なおっさんだがたまに内緒でアイスクリームを自腹で奢ってくれる。以前は大きな会社で偉い人だったらしい。安月給らしいが大家サンで外車に乗っている。世界中のいろいろな国に行って、英語で仕事をしていたらしい。おっさんなのに携帯とかパソコンにも詳しい。話も面白い。悪いことをすると怒られるが、きちんと話は聞いてくれる。
 母性的な事とは捕食対象に自分がならない方法であるが父性的な事とは自分が狩りの主体となって狩りをする方法のことである。生きて行くためには両者のバランスが重要だが、子供たちはこの矛盾する両者を比較しながら、自分の最適解を手探りで導き出す。その時に必要とされるのがロールモデルであり、その後の人生の決定的な選択の際の分水嶺となる。「師との出会い」とはまさにそれで、それによって触発されたものだけが資本主義の狩りをする側に迷いこむ。(笑)
あとは模倣と実験的接近によって放りだしておいても伸びる奴は伸びるし、ダサイ奴はくたばる。そうやって人間社会の自然淘汰は進むのだが、大半の人間社会は露骨な表現を好まない。オブラートの包んでラッピングして見栄えの良い修飾辞で飾り立てる。「あいまいな日本のわたし」というタイトルで大江がノーベル賞の受賞講演で語ったようにだ。(笑)アルタミラやラスコーの洞窟で新人類が狩りを描いた瞬間から、このように獲物を希求する切実な祈りの神話こそ群れが生き延びる父性の本源的な役割であった。だからハルトモさんのお話はきっと子供たちにとってはアルタミラの洞窟壁画の再現であると僕は思う。
これを読んでるあんた、君も多分捕食用の餌である確率は実に高いという自覚は必要だ。遊んで暮らしているのなら別だが、そうでないなら間違いない。狩られる側か狩る側かどちらになるのかは自分次第ということである。
 最近、なんかハルトモさんのカキコの頻度が上がっているような気がする。中身も濃い。テンションが高い、頑張れ!(血圧だけ注意してね、笑)
イメージ 1
田舎に帰るとホッとする。東名から新東名に御殿場から入ると道は広いし路面は完璧、交通量は半減だから書けないぐらいのペースに速度は上がる。で5分で長泉到着、そこから伊豆縦貫道で6分で函南着、下道になるともうド田舎の軽ばかりの牧歌的風景が広がるのだから、ホッとする。いつも御殿場のサービスエリアでトイレ休憩をして少し休む。連続運転は反射が鈍るし、眼が疲れる。だから一定の姿勢を維持しつづけるとお年のせいで首とか目が凝って疲れるのだ。ハーゲンダッツなんかナメルと目が醒めて宜しいな。当たり前のことだが、東京の人はみなさんとても忙しい。歩くスピードも速い。彼らはそれこそ分とか秒とかを意識してサッさと行動するのが習慣化しているのが、田舎から出てくるとよくわかる。安月給でなんであんなに忙しいのか理解に苦しむがきっと惰性で動いちゃうということかもしれない。

3年ですっかり田舎者の時間に慣れたせいか、東京都心部にいるだけで何故だか疲れるのだ。田舎にいると都合の悪い日は外出しない。雨とか風が強いとか用がないとかいろいろ理屈をこねて家を出ない。24時間のうちで2−3時間相場用に使うだけだから、あとは何をしても良い。風呂に3回も入るとその後の1時間ぐらいは放心状態でソファーで寝るとかマッサージチェアで読書しながら寝ちゃうとかグータラが猫並みになる。飯も一人だから気ままで一応2食食べるが、見繕って残り物のアレンジに慣れると時間や手間を抜く。カレーを鍋一杯に作ると半分冷凍してそれで5−6回はなんとかなる。普通に食べる、ベジタブルカレーにする、カレーうどんにする、焼きカレーにする、カレーパスタもいけると5−6回でテイストを変えてなんとかするということも覚える。調理法と何か加えるテイストで最終的な品物に変化が出るから、手抜きでもなかなか飽きないでなんとかなるのだ。本当に何もする気が起きない時は無印良品レトルトカレーという最終兵器もあるし、、。満腹するととたんに眠くなる。いくら寝ても寝られるが、さすがに12時間もあれこれ寝ると眼が冴える。すると今度は10時間ぐらいずっと本ばかり読む。ハードカバー2−3冊は一気読みするのは珍しくない。そういう時は大抵一日中何か音楽をかけているのだが、電話にも気がつかないし、時間が気にならないので今日が何曜日かというのもしばしばズレる。こんな調子だから共同で誰かと何かをするというのはきっと無理である。ルーズというより基準の喪失と言って良いだろう。つまり人間で無くなる(笑い)。それでも別段快適ではあるがあまり困った事は無いのだから、人間なんて自分で自分を規律化しているに過ぎないなと実は経験から思うのだ。タガが外れるとだらし無いことこの上ないが時間もゆっくりとなるので、都会の忙しい時間に周囲を囲まれると息苦しいのだ。だから用が済むと用も無いのに田舎にすぐに返りたくなり、いつも3日もいられない。
青山に配達で行って、人待ちで1時間ほどあったので、久しぶりに ON SUNDAYS に寄った。猫のイラストの絵ハガキを買う。ANDY WARHOLのサムという名前の猫だ。いろいろ6枚買った。12時頃だが、他に一人男性客がいたが、何も買わないで出て行った。多分赤字だと思うが、僕の昔から好きな店で潰れないで残ってほしいなと思います。
山にいる時は、ミーハー雑誌なんか見て、新店紹介の記事など読んで、次に上京したらあそこに行こうか、ここもいいなと思うのだが、結局いつも行かない。まだスカイツリーも渋谷の駅ビルも有楽町のキッテも行っていない。雑貨品の商売をしていた事があったので少しは商業施設の新店舗に興味はあるのだが、面倒になっていかない。車で動くのが当然となってから、電車に乗るとまごつくのである。もう電車に3年ぐらいは乗っていないと思う。東京から熱海まで乗ったのが最後だった。あ、登山電車に1回箱根で乗ったのを思い出した。あれは通勤とかいう感じとは随分異なる。スイッチバックだから傾斜が急だし、リュックと登山靴だと遠足気分で盛り上がるなと思う。毎日家風呂が温泉という恵まれた環境のせいか、都心の狭いユニットバスではリラックス出来ないのだろう。裸でウロチョロすると女性3名の前ではマズイから、風呂上がりでも何か直ぐに着ないとヤバいよねという事となり、山の家にいるように、バスタオル一枚でスッポンポンでグータラという具合にはいかないからだろう。猫もいないので(義妹の飼っていた黒猫が永眠されたのだ、22歳だった)話相手がいないせいもある。
 このように都会に住めない理由のほうが、田舎に住めない理由のきっと100倍ぐらいはあるのだろうとこのごろ気がついた。この先、自分で運転が出来なくなると確かに困るかなとも思うが、その時は宅配とタクシーでなんとかなるんじゃないか、なんなら住み込みの秘書兼運転手を雇ってもいいかなと思ってもいるのだが、それなら綺麗なネーチャンのほうが楽しいなと思う。板で募集したら、来る人がいるんだろうか?100万ぐらい月給払えば来るかしら?現在、僕のフラットで運転しない人も結構住んでいる。かつては免許もあったが70過ぎて返納したという人もいるのだ。タクシー、バスでなんとかしているようだ。誰かに乗せてもらうという手もあるし、、。まあなんとか元気ならなるものだとあまり先のことはマジには考えない。だって死ぬ時は死ぬからその後を考えても無駄である。よくシニアブログを読むとデスノートみたいのを買って書いてる人のお話があるけど全く理解できない。死んだ後は自分でどうしようもないわけで、そいつは周囲が死んだ後も自分の意志の通りにしてくれるという大アマな想いがあるんだろう。馬鹿じゃねえの!こいつと思う。死んだらその後はその死というのは死んだ本人のものではなくなる。周囲の者に死の所有権や支配権は変わるのだ。この変わるということがまさに死である。思い違いも甚だしい。何が起きようともいずれ収まっていくのである。死んだ人の想いとは別に収まるように収まるというのがまさに死というものの本質であると思うがね。

寄り切りと押し出し

イメージ 1
5ヶ月ぶりの東京出張となった連休前の都心部は閑散だった。きっとオバマさんが来ていたせいで皆さん車での外出を控えたのかもしれない。山の手通り、外苑西通り、明治通り、靖国通り、青山通り、246とスカスカである。なんか変だなと思ったが、警官とパトがどこにでもいるので、ああオバマねと気がついた。23日午前4時函南発で、午前5時45分東大井の湾岸を降りたが、東名は大型トラックで混んでいる。120平均も出せないぐらい何千、何万もの大型が東京を目指す。この中に何が入っているのだろう?まだ多くの都民がベッドで微睡んでいる頃に、たくさんのドライバーが東名を走る。きっと毎日同じ事が、程度の差があるにしても繰り返されている。都市の人々の欲望が何千、何万のトラックのコンテナを飲み込んで消化していくのだ。娘が孫を産んだので退院の荷物運びと花の運送に駆り出された。我が家の法律とは即ちマダムの欲望であるから、その通りに動かないと組織が解体するので、相場があろうがなかろうが容赦なく「来い!」と言われれば行くしかない。おまけに今回は山にいたので、一緒に帰るということになった。恨めしそうな猫の目に見送られて「あのね、ご飯はUさんに頼んだから、心配しないでいいよ。」とナダメテも、あちらを向いてフンという感じである。
 東京の生花市場の最大は、太田である。ここに全国から、あるいは世界から花が届いてセリにかけられる。仲卸という大手の仲買人がセリで落とした花を、小売店が買うという流れだ。月、水、金と週3回らしいが、マダムは毎週娘の運転で早朝からここの仲買のお店を回って、自分のテイストでメニューを組み立てる。レッスンのイメージに合った花のサイズ、カラー、シルエット、副素材などを90分ぐらいかけて一気に仕入れる。大半が出たとこ勝負だからアドレナリン満載の顔つき。客注があると、例えば結婚式のブーケとかテーブルフラワーとか送別の花束とか、客の意向にそって予約を受けたものを仕入れる。生意気な花屋で土日は完全に休業。月火はマダムはいないのでアトリエ営業で店での販売は基本的にはしない。つまり店に来ても水から金までしか花は無い。しかも在庫がほとんどないから、予約しないと買えないというやる気の無い生意気な花屋で、気に入らないものはやらない、安いのもやらない、ダサイのも無論やらないというワガママさである。それでも赤字にならずに10年もやっているのだから、「偉いな」と実は思っている。店舗は潰れた花屋を居抜きで買った。ある日、ある人から花屋を買わないか?と言われて見に行ったその場で決めてしまったらしい。住んでいたマンションから歩いて7分の立地で駅から3分の場所だった。夜、ワインかなんか飲みながらこういうのだ。「金曜日にとりあえず500万くれない?花屋の安いの買ったから」目が実に真剣だったので、断るという選択肢は無論無かった。嫌だったけど金で済めば良いかと諦めた。僕同様、言い出したら絶対にやる人である。サラ金なんぞにお世話にならしたらトンでもになるので、へそくりを引き出して渡した。とりあえずでは済むはずも無い。まあお互い持ちつ持たれつでしかたがない。その後、大学を卒業した娘も花屋を手伝い始めた。完全包囲網が完成してしまう。こんどは通勤が遠いという話が出た。それで翌月歩いて1分の場所にマンションを借りて引っ越しとなった。家賃50万。僕の会社の寮という扱いになった。
 店を持つ前はご飯はマダムが作っていた。店が始まって最初の2週間ぐらいは店を閉めてから夕飯を作っていたが、大体10時ぐらいか更に遅くなる。こちらは暇だがお腹が空く。「あなた暇でしょ?本を買ってあげるから趣味でご飯を覚えると楽しいよ。」と言われ、数冊読んで一ページずつ練習で作り始めるが、これが実にド下手で不味いのだ。自分でも不味いと思うのだから家族全員がそう思うのは当然なのだが、「美味しいね」と言って必ず笑いながら食べるのである。目分量で調味料を使うのでどうしても味が濃くなる。火加減が強くて素材が硬くなるなど、理由はうすうすわかっていた。面倒だから適当にやっていたのである。それでも笑って美味しいと言われればこれはこちらがなんとかしないと論理が合わなくなるなと思い、計量カップと計量スプーン、タイマーを東急ハンズで2セット買って、必ずレシピの通りに計ることにした。火加減も付きっきり。おかげで場帳を5時半に終えると9時か9時半まで台所が僕の居場所になった。近所のスーパー2軒、伊勢丹、小田急の食品売り場、大久保の韓国市場、などに顔を出して、素材、調味料、調理器具をどんどん買う。すると前とは格段にマシな料理が3ヶ月ぐらいで出来るようになった。「やれば出来る」というのは本当である。するといつの間にか、僕以外の誰も台所に立たなくなった。朝のコーヒーさえ入れなくなった。仕事をしていないと男にはこういう事が起きるという一例である。だから引退なんてしないほうがきっと男には良いのだろうと思う、、。(笑)ハルトモさん、貴方はずっと施設で仕事しなさいね!と忠告しておこう。
イメージ 2

友だち
白猫次郎
白猫次郎
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(16)
  • ベトナム
  • ベトナム
  • ひよこ
  • key09.hatenablog.com
  • hir*5*321*7
  • むう(野生化中)
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

開​設日​: ​20​13​/1​2/​21​(土​)

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事