経済の国際化が否応無く進む。ベトナムさんのように一年で200日以上も海外に住んで現地でたくさんの人を雇って技術指導やクレーム処理をするうな現法社長さんをする人やハルトモさんのように海外の自動車を売る仕事で世界中のさまざまな国に行って仕事をするような人が珍しくなくなってきた。僕も30代の前半は日本にいる時間と海外にいる時間が同じぐらいの一時期があったから、こと「お金」を企業で儲けようとするならば、職種とか仕事内容とは別として、日本だけに留まっていたら競争にならないし、チャンスが回ってこないという時代にもう既に現実はなっているのだろう。それでもこちらは日本人、相手は外国人。乗り込んで行く方としては言語も習慣も所得も常識も異なる国の人を相手に商売をするのは沢山の思いがけない苦労をいつだってするだろうと思う。それでも双方に「お金」というメリットがあるから、お互いにわざわざ面倒で手間と暇がかかることを我慢しながら継続して続けていくという事をするのだ。たくさんの日本人が海外で仕事をして、たくさんの海外の人が日本に来て仕事をする。いわゆる3kという仕事はきついから、日本では若者がやりたがらないので求人倍率は現在6を超えるらしい。当然不足すれば労賃は上がる。いくら上げても人は足らないが、納期や工期は待った無しだからなんとかやりくりして間に合わすしかない。だから都会のマンションを作るのでも労賃が急上昇したから売値を上げるしかなくなってきた。23区内で7000万以下の新築マンションは(25坪ぐらい)もうコスト割れになるらしい。新築が上がると買う方は資金が不足するから今度は中古を買う。するとみんな中古を買うからその値段も上がる。そうやって人気のある立地の部分から不動産価格がジワジワと上昇するというのがインフレ時代の資産価格の推移だろう。それでも友達の香港の不動産屋に言わせれば東京は他の都市(シンガポール、上海、NY、ロンドンなど)と比較すればまだ割り安感が強いという。安全な割には安いと彼女は言うのだ。きっと失業率とか移民の容易さなども都市部の人口動態に関係が深いから、よそ者嫌いの国民性が不動産価格上昇の足を引っ張っていると思われる。まだ原価の上昇に見合っての価格上昇などという局面は上がり始めの序の口で、本当に上がる時なら投機的に棒上げの状態になるものだ。円が安くなっている部分で(2年弱で40%)不動産も株も$ベースで見たらまだそれほどの割高には見えないんだろうと思われる。
2060年には人口が8000万と現在比で5000万ほど減少する予測が出ているが、アジア、アフリカなど人件費の安い国の人口増加率はまだ2桁の所もあるから、結局はいつかの時点で移民をもっと積極的に入れないと国内で仕事ができなくなるという事態になるんだろう。すると減少した5000万人分の住宅の少なくない部分は今度は外国人が住むということが起きる事になる。シェアハウスの話が出て来ているが、安い家賃が都心部で絶対必要となるならそれに近い需要とサービスが生まれるだけのことだ。借地借家法、消防法、民法とかウルサい規制はあるにしろ、実体のほうが先にいつも進むというのが世の習い事であると思われる。
一つの町、一つの会社、一つの学校、一つの共同体があって、そこに言語、民族、習慣、信仰、常識の異なる2つ以上の人たちが暮らすという経験をほとんどの日本人は国内でしたことがまだないだろう。一部の地域、会社では既にそういう事を経験して、様々なノウハウを学んだろうが、大半の日本人はまだ未経験である。だから当面は混乱が予想されるし、様々な事件、事故が起きやすい。すると外国人批判がワッと出て、移民反対の声が上がる。大陸ではたくさんの種類の人が混在して生活する環境を島国という特殊性から日本人の均質性を頑に守ろうとするから摩擦が起きるわけで、時間とともに段々と慣れが相互に出来て来るというのを待つしか解決法がおそらく無いことである。お互いをお互いに「変なの」と思っている事実は時間をかけてもきっとあまり変わらないが、その「変なの」を許容して干渉しないという知恵が生まれるまでに時間が必要となるに過ぎない。旅行でなら素晴らしいと賞賛される「オモテナシ」も生活なら度がすぎる「おせっかい」に変わらんとも限らない。マナーと意識の公準はなかなか難しい。
この辺の事情を内田樹は「辺境論」という書物で日本人の心性の歴史特性を大陸との微妙な距離感から読み解く。なかなか読ませる論考だ。ノマドロジーという解決のヒントになったから興味がある人は読んでみたらよい。「行きづまり」「閉塞感」というのはある意味で空間的な感覚だ。つまり距離という横軸の参考になる。圧迫されているという被害者意識は空間的なものが主体だろう。そこで逃走線に引きかたといういつもの話になるわけだ。
鵜飼 幸 「セブンレイクス」笠倉出版 という小説を読んだ。2時間ほどでパラパラと読めるライトノベルだがマリアというフィリピン人ダンサーと偽装結婚した大輔というトラック運転手の「恋と結婚と家族」の物語だ。男は33歳、オネーチャンは5歳の子持ちの23歳。病気の母親がいてお金の無心をしてフィリピンに新婚旅行で里帰りする。このお話は男が女から偽装結婚の見返りに日本に入国するために70万を受け取り、ビザの発給更新まで毎月5万を払うという契約だった。ダンサーがダンサーだけで食えるはずもないし、女は国の家族を食わすために日本に来たのだから金のために働く。それが彼女の生活というものだ。誰が文句を言える筋のものではない。それでも男は女に惚れて本当に結婚式をして本当の夫婦になろうとする。(ヤバいよね、男が独身でホント良かった!と僕は拍手をしたのだ)前提となるものが全く異なる男女がそれでもそれを超えて結びつくという事がハイブリッドという事である。生活は現実だから、当然お金が絡むが、そのお金のことで男がしたことは、毎月貰う5万円をその時のデート代に大半を使ってしまう。まあ浪費だ。きっと浪費することで仕事を彼は「恋」に変えたかったんじゃないかと僕は読んだ。そしてついに市ヶ谷の釣り堀が見える公園で二人の結婚式が桜の花の咲く季節に始まるが、、、やがて子供が二人生まれる。というお話である。落ちは書かない。二組の男女の生活と結婚とお金と家族のことを書いている。多分、多くが実話に基づいているリアルがそこにあるように思う。
僕の生徒にも国際結婚をした女性がいる。相手はアメリカ人だ。このパターンは小説とは随分とまた異なるように思われる。どちらが日本人でどちらが外国人でも、日本人同士よりも複雑で困難な状態は誰にでも予想できよう。それでもそれを確信してまでも男と女が一緒に生活しようという勇気は素晴らしく美しい動機と欲望に満ちている。そんな時に不思議に「金こそ」は素晴らしい幻想作用を持つように思われる、金がなかったら起きなかったことが金があることで起きて行くという部分に僕は金の持つ不思議な幻想の拡張性を世界中の人たちが同時経験するという事なのだ。記号が記号として、あるいは記号が幻想として生活を表象する。資本主義でなければ起き得なかったことが目の前で起きている。高速で回転する金であれ、サービスや商品で交換される金であれ、理由や性格は問われない。ただ金は人と人、男と女、国と国とを結びつける。だからある意味で金はある種の「全能性」を持って国家をスルーする。
銀行に預金として退蔵された金はわずかな利息以外には何も生まない。これが勢い良く動き出すことで様々な「閉塞性」と「行きづまり」が解けていく。そういう風に物事を考える人は多くないというかきっとほとんどいないだろう。資本主義は微分の世界というのはそういう世界の事だ。誰かさんが相場が上手いのはだからやはり当然なんだろうと僕には思われる。
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