ここから本文です
猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

記事検索
検索

 軟派教育の緊急性

イメージ 1
「日本のリベラル(左派)は何故人気がないのか?特に若者に。」「なんで大阪の橋元市長みたいなガリガリの右派は自分たちに明らかに不利な政策を取るのに熱狂的にフリーターが支持したのか?」という興味深い問いを建てる人たちがいる。僕は政治誌でひとつだけ渋谷陽一が手出しで発刊する「SIGHT」というのを定期購読している。もう3年目だ。自動更新だからまだしばらく来るが、この政治誌は必ず3人のリベラルのおっさんの対談集が乗る。司会が渋谷陽一、ゲストは常に内田樹と高橋源一郎だ。二人とも、いや3人とも全共闘の活動家という前科(笑)がある。渋谷はロック雑誌で当てたが、高橋は女好きの小説家で3回離婚4回結婚の猛者だし、内田はイラチの武道家で合気道の道場主で哲学者だ。その3人が大の自民党嫌い、55年体制嫌いで好き勝手を言うために雑誌を作ったようなものだ。
今月号は「自己批判特集」で「なんでリベラルはダメか?」というお題である。いくら選挙をしても自民が勝つのは何故か?あれだけ原発にしろ憲法、秘密保護法、靖国参拝など反対が多いのにもかかわらず何で自民は勝つのか?という問いである。抵抗軸の民主があまりに馬鹿でダサかったということはあるにしろ帰り咲いた自民にしろ目新しい政策というものは無い。むしろ旧来の税金投入による公共事業の復活とばらまきと金融緩和と規制緩和の3点セットの時間調整スピードのタイミングの早い遅いぐらいしか無いだろうと思われる。それでも民主は全敗と言って良いほど負けた。鳩山、管、野田とまあパットしない馬鹿ばかりという点は、阿部、福田、麻生も大差ないと思うのだが6人が毎年変わるというのも確かに酷い。国体(そんなテキストは右翼的かな?)護持の責任は果たしているのか?そんな国はどこにも無いだろう?誰でも良いのを選んだという事だろう。誰がボスをしても一緒という事である。
結局日本は戦後ずっと政治的、軍事的、経済的に自決権のない植民地同然だから、アメリカの言う事を聞く以外に道はないという「割り切った結論」の自民に任せるのが現実的に上手にやるかな?という醒めた国民の割り切りなんだろうかと思う。だから誰がやっても同じなら、アメリカとなるべく上手くやりそうな所がマシじゃないという所かな?と個人的には思う。政治や宗教、倫理の話を書くと、大抵板が荒れるという経験があるからあまりこの種の話題は好きではないのだが個別の正邪とか信仰とかはどうでも宜しい、みなさんの勝手である。そうではなくて倒立する価値観に若者が投票するその構造と心理が不思議だという問いである。問いの建て方に知性は現れる。メタ言語を常に考える習慣が大切なのだ。
 渋谷は自己批判として「俺たちの言ってる事は暗くて夢がないでしょ?何も良い事が無い未来みたいな話じゃない。人口は減るし、格差は開くし、税は上がるし、年金は無いし、お先真っ暗でしょ。それでも有るものを分けてみんなで貧しく仲良く暮らしましょう。そういう世界は支持されないという事じゃない?」
「この対談集のタイトルを「沈む日本を愛せますか?」ってつけたのが間違いっていうことなんでしょ?」
内田は「だって本当なんだもん。嘘言ってもしょうがないでしょ?無い袖振れっていうの?それ詐欺でしょ。」高橋はごにょごにょわかんねえよそんな事という感じ。つまりロック雑誌と文筆家2名で政治と経済の話をしても噛み合ないという事実がある。そもそも「金なんてどうでもよい」と思っている3人が権力と政治に関して語るから現実感が無いのだ。
個人で金に苦労するということは有ったにしてもそれを「大した問題ではない」と切って棄てるだけの意識が彼ら3人はとても強い。一方大半の若者は価値=金という刷り込みをたっぷりとされている。価値とは金と等価なものという意識が強いから、金の匂いのしないものは人気が無いという現実を受け入れないという所か。金が持っている全能感を信じてるのか?どちらがリアルか?
不思議なものだが、僕の周囲でもお金が比較的有る人は「お金なんて大したもんじゃないよ。それよりお金で買えないものが大事だ。」と言う。ポーズという側面はあるにしろそれ以外のモノ=家族とか愛とか心とか知性、感動とかを大事にする。一方、お金に恵まれない人は(無論、こちらが数十倍たくさんいると思うが)「金があればなあ。あれも欲しいしこれも出来るしなあ。金がないと何もできないよ。お前は良いよね仕事もしないで金持ちで。」と暗いのだ。両方とも自分に有るものよりも無いものを欲しがるという点では一致している。だから政治的にはあるところから無いところに移転させれば問題は解決するはずだがそうは問屋が卸さない。それは多分お金がある人がほしがるお金で買えないものは、お金があることが前提でさらに買えないモノが欲しいという欲求であり、自分のお金を無い人に上げるという選択は無いということだ。結局は市場を通じてお金が移転しない限り問題の解決は出来ないという事になるが、市場は大半がお金がある人が支配する場所だから、お金のない人のわずかに残るお金までお金のある人が巻き上げるという仕組みになっている事が多い。(それに気づくかどうかは別として。)8585、8589を僕が買い持ちするのはそのせいだ。(笑)だから格差が開くということが実際に起きている。よく革命が起きないなあと僕には不思議だ。実に貧しい人たちは大人しい。だからオレオレ詐欺の報道を聞くたびに「あれは若者の老人に対する革命行為だろう」と僕は思う。革命だとすれば命を取るわけではないが富の配分を是正してある場所から直接市場を介さないで収奪するということでロシア革命や中華革命と同じだが、これには政府という機関が無いという差がある。現行法では無論違法行為だが、使いもしない老人の預金が若者の浪費となって市場化するということは不胎化された価値が実現することで市場化するから景気対策に多分なっていると思われる。まあ無いところからは取れないのだから騙された人は災難だろうが、それで大きな不幸が起きてるようにも見えないのだ。
 世界が大きく変化しているのに日本人の意識構造は昔のままだ。それはテレビを見ればわかる。水戸黄門、忠臣蔵、坂の上の雲、大河ドラマ、どれをとっても正義と悪のニ項対立と天下統一、上昇志向のみだ。それしか人気がないということだ。最近はAKBのパンツ見せとお笑いが加わったぐらいだろう。その後には必ず8589みたいなCMが入る。(笑)あまりに下らないからもうインテリは見ないだろうと思う。必要なのは社会のみんながギスギスしないでもっとシアワセに楽しく暮らす事だろう。そういう教育が必要なのに、そんな議論はどこにも無い。利益誘導で子供に勉強させてグローバリストをたくさん作るとどうなるか?そんな議論はしているのか?成績順に医者を作ればだめな仕事の質になるというのと同じ事が多分起きてしまう。世の中の出来事は大半が複雑系でむつかしい因果関係と相関関係でおそらく成立しているが、ビジネスは縮減モデルでしかない。グローバリストは単純化した縮減モデルでしか物事を考えないし説明できない。金は稼げてもそれ以上でもそれ以下でもない。金は交換の記号以上の価値は無いからだ。その記号を積み上げても停滞が生まれるだけのことだ。だって欲しいものは全て持っている者にさらなる欲動は、市場で売っていないモノの獲得しか道はない。市場経済の限界がそこには待っているという今日の現実が透けて見える。
「全体が成長が出来ない世界で個人はどう生きるか?」という問いの必要性が現実的にはあるのだろうと僕は思う。それは一方でおそらく熾烈な生存のための競争だろう。他方そこで必要な要素は記号だけのはずがない。少なくとも記号を時間的に継承するもの=家族という単位の有り様が問われる。子供がいない夫婦も僕の周囲ではかなり多い。何かを取れば何かを諦めるという選択をきっとどこかでしたのだろう。それは意識的な選択である。ところが人間の意識的な選択は必ず誤る。意識は本能を抑制するからだ。個人の拡張は本能の実現以外には無いからだ。
 英語教育も大事かもしれないが、それより「日本語でどうやって女(男)を軟派するのか」という教育のほうが実際数倍も大切なはずなのに文科省はそんなカリキュラムを組むような気配さえない。「人たらし」が出来れば資源がなくても仕事は出来る。その基礎は「軟派」にすべて要素が含まれている。なのに現実は「婚活」なんて馬鹿げた順列組みあわせだ。本脳を意識で並べ直して何が生まれそうか?なんて馬鹿でも想像できそうなものだが、やるべき時にやるべき事をしていない、させていないからそんなマンガのような事が起きるのだろうと思う。ベトナムさんを講師にして軟派塾でも開いて欲しいと思うが、よほどそのほうが英語が出来るグローバリストよりもたくましい日本人が出来ると思うが。
アンジーは3人子供を産んで、3人子供を引き取って育てている。しかもオッパイをばっさり取ってもだ。男ならち○ち○取ったようなもんだろう。こういう女が人気があるし、圧倒的に強い母となる。男はタジタジだ。ち○ち○取って6人自分が子供を育てられるだろうか?と問うような男は多分いないだろう?金なんか少し儲けても屁の突っ張りにさえなりっこない。このように強い女はほっておいても生まれてしまう。だから必要なのはこれを手込めに出来るような男ということになるんじゃないのか?上野千鶴子や桜井よしこのおかげで女は十二分に強いのだから、男をなんとかしないとヤバいことになるに決まってる。なんとか騙しても拝み倒しても金を積んでも女に子供を生ませる選択をさせないとどうにもこうにもならなくなるのだ。男には出来ないことだから、、。だから草食男子を留学させるなら軟派のイタリア、フランス以外に無いなと思うのだが、、。ベトナムもいいのかな?オレって右翼かしらん?

薔薇が咲いた

イメージ 1
テラスのモッコウバラが咲いた。小さなクリーム色の薔薇だ。良い季節になった。少し今日は風が強い。毎日、夕暮れを見るのが習慣となった。大自然が周囲にあると仕事のことはついつい忘れそうになる。それでも場帳は毎日書くし、月足グラフも見直すのがいつの間にか習慣化している。「煮詰まるねえ、これはそのうちに大相場になりそうだねえ、、」などと無意味に猫に話しかける。♂猫は膝に座ってジーンズに爪を立てる。
仕事について経験的に要点を書く。若い人で迷いがある人はプロ相場師というのはこんな奴がいると思えば良いだろう。お薦めはしない。誰でもなれるものだとは思うな。目ざしてもほとんどの人は多分なれないと思う。

「深く感じ取る」「深く考える」「確かに行動するあるいはしない」
人に物を教えるのは僕の仕事ではなかった。しかし新しい仕事を覚えるには誰でも最初は先輩や上司の仕事を真似る。今ならマニュアルという基礎の基礎が一応はあって、それに応じてすべき事と禁止事項があり、まずその通りにする。900円ぐらいの学生バイトという仕事ならそんな程度の質で「時間」がお金になる。これがサービス業でも単価を10倍20倍取れるレベル(時給で1−2万、月給で300万)ぐらいの仕事だとするとマニュアルぐらいの質や生産性ではどうしようもない。例えば高級ホテルの総支配人をやるような人は素晴らしいサービスをするだろう。頭も良いからその人の仕事の質一つで何億もホテルの利益が変わる。仕事の質がマニュアルそのものを作ったり、それにないものを即座に対応出来るような質を持ったサービスを適時に行える人ということに多分なろうか。人を雇うという経験があったので「こいつは幾らぐらい働くか?」という値踏みみたいな事を30代から頻繁にしてきたせいか、出来る奴とダメなやつは15分ぐらい面接すると大体わかる。最初は見習い契約をして10名雇って1週見て、ダメなのは数名即座に首にする。首にして空いた人件費を残りのバイトの中で出来る奴の時給にプラスする。900円と1500円の人が生まれる。すると残った人は大抵目つきが変わって全員が仕事を懸命にするようになる。それは競争で勝つと金になると働く人が本気で感じて動くということを彼らが自覚するからだ。仕事量は残った人でしたほうが効率が出る。だからどんどん被せるが、不思議になんとかこなしていく。当初の2倍ぐらいの仕事量でも残りの人数でこなすぐらい、人間の仕事量の伸びしろがあるというのを使う側はちゃんと知っている。「叩けば伸びる」という経験があると仕事や利益はそうして作るものという体験がまず出来て来る。理屈っぽい開発やマーケティングをするよりもよほど即効性があるし、員数が少ない方が一体感とか達成感とか無駄が減って仕事が「面白くなる」。そういう経験を若い時に使われる立場と使う立場で両方したことが、その後の僕の仕事に大きく影響したのだろうと思う。今の企業の50代の管理職の仕事のさせ方を30そこそこで教えられないでもしていたということだろう。これでも20代は左翼で労働組合を作って初代の委員長でストライキを敢行をした経験がある。友人数名は器物破損で逮捕された。その救出の過程で弁護士の使い道を覚えた。総評の弁護士で東大出だった。そのせいか読書のせいかイデオロギー的には今も左だ。好きなのはチェゲバラと毛沢東だ。(二人のTシャツも持っている。)全員この話で笑うがマジだ。彼らの映画も好きだ。戦争や革命好きはここから多分きていると思う。クラウセビッツなんて何度も読んだ。
こういう小さな仕事のユニットを作るというのは軍隊で言えば下士官(中尉クラス)の仕事だろう。一番戦闘現場に近いから楽しい仕事だし、自分の意思決定のミスで兵隊がすぐに死ぬから手に汗握る。事実10年ほどの間に数名が死んだ。(病死、自殺、交通事故死など)自分より若い人やかつての上司が死ぬとこちらも考えるようになる。これが俺だったらという事だ。事実病気もした。そこで仕事のやり方や考えが根本から少し変わる。それで個人戦に切り替えた。相場師である。新しい仕事でもすることに最初の基礎は大きな差はない。
「深く静かに感じ取る」「深く静かに考える」「確かに行動するあるいはしない」この3つがスタートだ。

1深く静かに感じ取る
目処になるかどうかは別として僕は1200枚、ベトナムさんでピーク3000枚のグラフを書いた。30年グラフを今書くと僕は直接画面から読み取る書き方で着彩とグラフの繋ぎ合わせ(糊付)まで含めておよそ4.5時間ほどだ。1200枚とすると5400時間。一日12時間書いても450日かかる。10年を3000枚でも似たようなもんだろうと思う。リーマンが休日を使ってなら数年かかるだろう。
折れ線グラフを4年分(1.5周期)書くと1枚に4時間、100銘柄なら400時間。34日かかる。
場帳を200銘柄書く。一日酒田だと現在ゆっくりと書いても2.5時間ぐらいかかる。1月21日として52時間。260日で650時間。これは毎年続けることで値動きと時間軸の意味が救える。
これで終わりではない。ここまでは「単なる準備」なのだ。こういう前提があって、初めて練習を始めることに「意味」が生まれる。深く感じ取るということをフィジカルに反射的に感応するために、少なくとも僕やベトナムさんは同様な方法(林流)を選んで、両方ともが億を超える金を市場から獲得して来たという事実がある。2名がやって両方とも出来たということが方法論の蓋然性を担保していると思うが、まあそれはどうでも宜しい。これをやったからと言って、初心者が必ず成功するという「保証」など何も無い。おそらく想像だが成功する人と失敗する人の比率はどんな仕事でも同じようなもんだろう。会社で同期で部長や役員になる人の比率を考えてみたら良い。成功の比率はそんな程度の割合だろうと思う。つまり「上手い下手」ということだ。それを大半の人が薄々感じ取っているから「専業」になることをためらうということになるのだろうと思われる。今大きな会社で役員になればヒラの10倍ぐらいのギャラかな?でも平でもゼロではない。役員はミシュラン三ツ星で経費で食事が出来て、ヒラは社食のランチだ。でも飯は食える、味は別として。
相場師は最低でも億か青天井と片方は破産という極端な配分がいつでも起きる。負けると失業手当もないし、自己破産も効かない。社員食堂も無い。リーマンに慣れた心性には向かないだろうと思うが。だから止めとけというのが正しいアドバイスだがハルトモさんが言うには10年で聞いた奴はいないそうだから、僕のサイトでもきっと同じだろうと思う。

2深く静かに考える
考えるために必要なことは「言語」である。言語以外の手段で我々は複雑なことを考える事も伝えることも出来ない。映像や音響や触覚はその他の手段ではあるが、大衆性はあっても論理性に欠ける。だから言語は重大である。言語は過去からの人類の英知の遺産である。従って人類のあらゆる知性は言語の継承以外にない。「本を読む」という一番基本的な事だ。僕は毎年200−300冊ぐらいは読むと思う。まだらがあるから平均を150としても40年で6000冊ぐらいは多分読んだろうと思う。記憶にないとか忘れているのは当然だが、ある時フッと言葉が立ち上がる。「あのときああ書いてあった」と記憶の縁から浮かび上がる。理由はわからないが、きっと命がその時に必要としているからだろう。これが直接に相場と関係があるかどうかは自分でもわからない。でもこれほどたくさんの時間とコストをかけて一日の大半を費やすことが無駄や無関係なはずはないと思う。相場書も少しは読むがせいぜい200かその程度だろうと思う。読むには読むが方法の参考にはほとんどしない。あれもこれもは出来ないし、する必要性もない。無駄な仕事、無駄な金は必要ない。仕事は飯を食う(出来れば優雅に贅沢に)ためにすることであり、それ以外は怠惰な性格だからペン1本持つのさえ嫌だ。好きな事しかしたくないし、人生の時間は限られる。不得意な事や嫌いな事は全て金を払えば大抵はどうとでもなる。社会の分業制はそれで成立するからだ。矛盾だがリアリストでロマンチストだろうと思う。分業を起動させるものは金という記号である。その記号の売買をするのが仕事である。

3確かに行動するあるいはしない
6年前に母が死んだ。ガンだった。お通夜の席でも僕は場帳を書いていた。おそらく親戚や知人からは顰蹙を買ったろう。僕は家長(妻と子供二人と猫2匹)と塾長(当時は猫塾をしていた)だから仕事に責任がある。母の死という事件はショックだし、悲しいことだが仕事は仕事であるからするべきことはする。それをけじめと言う。それを理解する母であったろうと確信する。今仮に妻や子供や孫が死んだと仮定すると多分書かないと思う。猫でも書かない。しばらくは損益無視して丸にして何もしない。仕事の動機が無くなってはするほどの仕事ではないからだ。確かに行動するが無駄な行動はしない。先日孫の退院で上京した時も場帳は書かなかった。旅行で数日書かないで後でまとめて書く事もある。別に不都合は無い。身体が覚えているから数日数週はどうというとはない。少しマシになったということかもしれない。
昨日、昔の弟子から電話があった。0さんという人で四国の人らしい。グラフ用紙が切れたから無いかという電話。昔の猫塾の用紙は22年分書ける特殊紙だ。どこにも売っていないからコクヨに書き直しとなるだろう。手間だが勉強になるから良いと思う。一つ余計なアドバイスを数分した。彼は22年グラフが一杯になったということは10年前からずっと同じ事を継続してきている。つまり月足という時間軸では感覚が継続的にあるという事だ。だから2銘柄ほど彼の書いていない銘柄を教えて先行するものの天井の型を見ておけと教えた。まだ売ってはならない。グラフだけ書いておけ。銀流しの安サンの気持ちが少しはわかるから。前回の大天井は1987と89である。今回も仮に数年後に天井するなら型は似たようなものとなる蓋然性は高い。だから数年(5−6年後?)先に起きる大半の型を現在から先に先行して形作るものに「慣れを」作る作業をさせる意味があるし、それがわかるレベルに多分あるだろうと直感した。翌日、すぐに2つを書いたという報告がメールであった。顔も覚えていないが、きっと彼が相場で失敗することは恐らくないだろうと思う。一人救えるなら師匠としては嬉しい。
きちんとすべき事を即座に優先して出来るという事実はそれが彼の生活と意識の中心だという事だ。こういう仕事の質で負けるのは容易ではない。下手でも負けないで残っていればいずれ勝つのが相場というものであると思う。あとは寿命との勝負だろうが、そうなれば金は使いきれっこない。経験でわかるからだ。
「自分が取れる場所」というものは上級者は自然とわかる。「ここは簡単だから取ろう。ここは面倒だから逃げて休もう。」難しい所は最初から逃げて何もしない。すると過半の人はそこで死ぬのだから、死んだあとでゆっくりと骨を拾いに行くから大儲けできるのを身体的に知っているということだ。ハルトモさんは玉操作の技術は無くてもそれを身体的か動物的かは知らんが知っている。勝負事の基礎だが出来る人(抑制的に張る)はごく稀だと思う。目を瞑ってていても取れる部分で取れそうなときだけ取るわけだ。お会いしなくてもテキストでわかる。感覚判断だがそれがわからないようでは僕が相場で残れるはずも無論無い。

以上の3つぐらいが仕事に関する僕のした事としている事の大半である。それを苦しくなく出来るか?快楽的に出来るのか?同じ事をしても楽しく自分から進んでするようでないと、飲み込みも遅いし効果がない。「好きこそものの上手なれ」は正しい。どんな仕事でものめり込むように身体が勝手にしてしまうという状態にならないと受け止めも練習も身に付かない。「飯より好き」かどうかだ。それが一流になるかどうかの最初の分水嶺だろう。

あとはどうでも良い事だし個人的な趣味的なことだ。現在は毎日400も500もサイトにアクセスがある。理由がわからない。なんでこんなサイトを見るんだろう?相場の事で何か理解したい共感したいと思うのならば、最低僕と同じ事を量と質以上でしないかぎり同感することは有り得ないだろう。人間の才能など大差がないと思うから。中途半端に真似ればその全員が鴨になる。相場というゼロサム世界はそういう風に出来ている。だから注意書きとしてこんな暴露ものを書くのだ。
先日アルタミラの洞窟壁画の話を書いた。人間と動物が狩りの豊穣を祈る協同儀式の話だ。呪術の意味についての話だが同じ事がネットという世界で現在は起きていると個人的には思う。本を読まなければ気がつかないことだったろうと思う。
忙しい人で同じ時間を相場に使える人がたくさんいるとは思えない、本気でやればこれに相当のエネルギーと時間を取られるし、他のことが全部犠牲になるのは言うまでもない。それで成功する保証など無論何も無い。しかも大半の人は虎の子の資金で始めるはずだ。心理面で不利だろう。僕は相場師になる前にすでに仕事で10年以上も億の金には慣れていた。そんな人はきっと多くはないだろうと思う。1回の損で1000万やられたとして「ああメルセデスの新車1台 事故ったな」ですむ話だ。貯蓄とは積分世界だが、浪費は微分世界の出来事だ。買いは積分で売りは微分である。だから長っパリで大きな下げを取るには微分が必ず必要だ。それが積分の世界しか知らない人には出来ないのだろうときっと思う。毎日400−500は少ない数ではない。その半分が相場でサイトを見るとすれば200−250の不幸を生む可能性が高いだろう。幸運な数名は僕やベトナムさんと同じように勝つだろうが、そういうヤバい世界の話としてこのブログは読むのが重要であると思う。
クドいしどうでも良いような話だが、相場をする人には大抵家族がいるのだ。1000近い人が確実に不幸(経済的という意味だが)に必ず接近する仕事だという強い認識が僕にはある。「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という植木等は正しいと思う。お気楽な分は楽しくないぐらいは当たり前だろう。「首以外に何のリスクも無いのだから。」とかつて労組の委員長をしたこともあるリーマンは思うのだ。まずいが社食も有るし文句なんか言うな!(笑)
イメージ 1

「半分あきらめて生きる」という不思議なお題を頂いた。「あるがままの自己を肯定し、受け入れるためには、上手にあきらめることも必要なのでは。閉塞感漂う現代社会でどう生きていけばいいのか」という寄稿依頼の趣旨が付されていた。 
 『児童心理』という媒体からのご依頼であるから、不適切な(過大な)自己評価をしている子供たちの自己評価を下方修正させることの効用と、そのための実践的な手順についてのお訊ねなのであろうと思った。
 なぜ私にそのような原稿発注があったかというと、ずいぶん前に学校教育について論じた中で、「教師のたいせつな仕事のひとつは子供たちの過大な自己評価を適正なレベルにまで下方修正することにある」と書いたことがあるからである。これはたしかにほんとうの話で、「宇宙飛行士になる」とか「アイドルになる」とか「サッカー選手になる」とかいうことを「将来の夢」として小学生が卒業文集に書く分には可憐だが、二十歳過ぎて仕事もしないで家でごろごろしている人間が語ると少しもかわいげがない。そういう人はどこかで「進路修正」のタイミングを失したのである。むろん、そういう人の中にも10万人にひとりくらいの割合で、それからほんとうにNASAに就職したり、グラミー賞を受賞したり、セリエAにスカウトされたりする人も出てくることがあるので、あまり断定的には言えないが、そういう「起死回生の逆転劇」を演じられるような大ぶりな若者は年寄りの説教など端から耳を貸さないので、こちらががみがみ言ったくらいで「大輪と咲くはずだった才能が開花せずに終わった」というような悲劇は起きないから、いささかも懸念するには及ばないのである。
というようなことを書いたかに記憶している。その意見は今も変わらない。才能というのはまわりの人間がその開花を妨害しようとすればつぶせるようなやわなものではない。むしろ「自分をつぶしにかかっている」という現実そのものを滋養にして開花するのである。説教くさい一般論ですぐにつぶれてしまうような才能は「才能」とは呼ばれない。
真にイノベーティブな才能は、その人の出現によって、それまで「旧いシステム」に寄食していた何千人か何万人かの面目を丸つぶれにしたり、失業に追いやってしまうものなのであるから、その出現が「既得権益者」によって妨害されて当然なのである。万人がその出現を諸手を挙げて歓迎する才能などというものはこの世に存在しない。
かつて白川静は孔子を評してこう書いたことがある。
「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語はすべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない」。(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、26頁)
思想は富貴の身分から生まれるものではないというのは白川静が実存を賭けて書いた一行である。「富貴の身分」というのはこの世の中の仕組みにスマート適応して、しかるべき権力や財貨や威信や人望を得て、今あるままの世界の中で愉快に暮らしていける「才能」のことである。「富貴の人」はこの世界の仕組みについて根源的な考察をする必要を感じない(健康な人間が自分の循環器系や内分泌系の仕組みに興味を持たないのと同じである)。「人間いかに生きるべきか」というような問いを自分に向けることもない(彼ら自身がすでに成功者であるのに、どこに自己陶冶のロールモデルを探す必要があるだろう)。富貴の人は根源的になることがない。そのやり方を知らないし、その必要もない。そういう人間から思想が生まれることはないと白川静は言ったのである。
同じようなことを鈴木大拙も書いていた。『日本的霊性』において、平安時代に宗教はなく、それは鎌倉時代に人が「大地の霊」に触れたときに始まったという理説を基礎づける中で大拙はこう書いている。
「享楽主義が現実に肯定される世界には、宗教はない。万葉時代は、まだ幼稚な原始性のままだから、宗教は育たぬ。平安時代に入りては、日本人もいくらか考えてよさそうなものであったが、都の文化教育者はあまりに現世的であった。外からの刺激がないから、反省の機会はない。(・・・)宗教は現世利益の祈りからは生まれぬ。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、41−42頁)
白川静が「思想」と呼んでいるものと、鈴木大拙が「宗教」と呼んでいるものは、呼び方は違うが中身は変わらない。世界のありようを根源的にとらえ、人間たちに生き方を指南し、さらにひとりひとりの生きる力を賦活する、そのような言葉を語りうることである。思想であれ宗教であれ、あるいは学術であれ芸術であれ、語るに足るものは「富貴の身分」や「享楽主義」や「現世利益」からは生まれない。二人の老賢人はそう教えている。
これが話の前提である。私が問題にしているのは「真の才能」である。なぜ、私が「自己評価の下方修正」についての原稿をまず「真の才能とは何か?」という問いから始めたかというと、「真の才能」を一方の極に措定しておかないと、「才能」についての話は始まらないからである。というのは、私たちがふだん日常生活の中でうるさく論じ、その成功や失敗について気に病んでいるのは、はっきり言って「どうでもいい才能」のことだからである。
「富貴」をもたらし、「享楽主義」や「現世利益」とも相性がよいのは「どうでもいい才能」である。それは思想とも宗教とも関係がない。そんなものは「あっても、なくても、どうでもいい」と私は思う。
ところが現代人は、まさにその「あっても、なくても、どうでもいい才能」の多寡をあげつらい、格付けに勤しみ、優劣勝敗巧拙をうるさく言挙げする。
今の世の中で「才能」と呼ばれているものは、一言で言ってしまえば「この世界のシステムを熟知し、それを巧みに活用することで自己利益を増大させる能力」のことである。「才能ある人」たちはこの世の中の仕組みを理解し、その知識を利用して、「いい思い」をしている。彼らは、なぜこの世の中はこのような構造になっているのか、どのような与件によってこの構造はかたちづくられ、どのような条件が失われたときに瓦解するのかといったことには知的資源を用いない。この世の中の今の仕組みが崩れるというのは、「富貴の人」にとっては「最も考えたくないこと」だからである。考えたくないことは、考えない。フランス革命の前の王侯たちはそうだったし、ソ連崩壊前の「ノーメンクラトゥーラ」もそうだった。そして、「考えたくないことは考えない」でいるうちに、しばしば「最も考えたくないこと」が起き、それについて何の備えもしていなかった人たちは大伽藍の瓦礫とともに、大地の裂け目に呑み込まれて行った。
この世のシステムはいずれ崩壊する。これは約束してもいい。いつ、どういうかたちで崩壊するのかはわからない。でも、必ず崩壊する。歴史を振り返る限り、これに例外はない。250年間続いた徳川幕府も崩壊したし、世界の五大国に列した大日本帝国も崩壊した。戦後日本の政体もいずれ崩壊する。それがいつ、どういうかたちで起きるのかは予測できないが。
私たちが「真の才能」を重んじるのは、それだけが「そういうとき」に備えているからである。「真の才能」だけが「そういうとき」に、どこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのか、それを指示できる。「真の才能」はつねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練をしてきたからだ。
問題は「すべてが崩れる」ことではない。すべてが崩れるように見えるカオス的状況においても、局所的には秩序が残ることである。「真の才能」はそれを感知できる。
カオスにおいても秩序は均質的には崩れない。激しく崩れる部分と、部分的秩序が生き延びる場が混在するのがカオスなのである。どれほど世の中が崩れても、崩れずに残るものがある。それなしでは人間が集団的に生きてゆくことができない制度はどんな場合でも残るか、あるいは瓦礫の中から真っ先に再生する。どれほど悲惨な難民キャンプでも、そこに暮らす人々の争いを鎮めるための司法の場と、傷つき病んだ人を受け容れるための医療の場と、子供たちを成熟に導くための教育の場と、死者を悼み、神の加護と慈悲を祈るための霊的な場だけは残る。そこが人間性の最後の砦だからである。それが失われたらもう人間は集団的には生きてゆけない。
裁きと癒しと学びと祈りという根源的な仕事を担うためには一定数の「おとな」が存在しなければならない。別に成員の全員が「おとな」である必要はない。せめて一割程度の人間がどれほど世の中がめちゃくちゃになっても、この四つの根源的な仕事を担ってくれるならば、システムが瓦解した後でも、カオスの大海に島のように浮かぶその「条理の通る場」を足がかりにして、私たちはまた新しいシステムを作り上げることができる。私はそんなふうに考えている。
自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。どのような破局的場面でも揺るがぬような確かな思想的背骨を求めつつ同時に「富貴」であることはできないからである。
人間は何かを諦めなければならない。これに例外はない。自分が平時向きの人間であるか、非常時向きの人間であるかを私たちは自己決定することができない。それは生得的な「傾向」として私たちの身体に刻みつけられている。それが言うところの「あるがままの自己」である。だから、「あるがままの自己」を受け入れるということは、「システムが順調に機能しているときは羽振りがよいが、カオスには対応できない」という無能の様態を選ぶか、「破局的状況で生き延びる力はあるが、システムが順調に機能しているときはぱっとしない」という無能の様態を選ぶかの二者択一をなすということである。どちらかを取れば、どちらかを諦めなければならない。
以上は一般論である。そして、より現実的な問題は編集者が示唆したとおり、今私たちがいるのが「閉塞感漂う現代社会」の中だということである。
「閉塞感」というのは、システムがすでに順調に機能しなくなり始めていることの徴候である。制度が、立ち上がったときの鮮度を失い、劣化し、あちこちで崩れ始めているとき、私たちは「閉塞感」を覚える。そこにはもう「生き生きとしたもの」が感じられないからだ。壁の隙間から腐臭が漂い、みずみずしいエネルギーが流れているはずの器官が硬直して、もろもろの制度がすでに可塑性や流動性を失っている。今の日本はそうなっている。それは上から下までみんな感じている。システムの受益者たちでさえ、このシステムを延命させることにしだいに困難を覚え始めている。一番スマートな人たちは、そろそろ店を畳んで、溜め込んだ個人資産を無傷で持ち出して、「日本ではないところ」に逃げる用意を始めている。シンガポールや香港に租税回避したり、子供たちを中学から海外の学校に送り出す趨勢や、日本語より英語ができることをありがたがる風潮は、その「逃げ支度」のひとつの徴候である。彼らはシステムが瓦解する場には居合わせたくないのである。破局的な事態が訪れたあと、損壊を免れたわずかばかりの資源と手元に残っただけの道具を使って、瓦礫から「新しい社会」を再建するというような面倒な仕事を彼らは引き受ける気がない。
だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる。私はそう思っている。
いずれそのような重大な責務を担うことになる子供たちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。彼らはたしかに何かを「あきらめている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見しているからである。たぶんそうだと思う。

内田樹の研究室より全文転載
======================================================= 相変わらずグローバリストに対して手厳しい威勢の良い左翼のおっさんである。僕は内田さんが大好きでこういう教育者が増えたら良いなあと常に思うし、「先生は偉い!」と思えるなら生徒はそれ真似ると思う。
「閉塞感」満載のこの世界で遠い目をして南アルプスの空を見ながらプー太郎をしている老いた♂猫二匹の我が家としては「現世利益」や「享楽主義」をもたらす「富貴の身分」という「どうでも良いような才能」ばかりを30年以上も追い続けてそれはそれでほとほと飽きると、別のことをやがて考え始める。そんな事が大した事でないことは直ぐに誰でもやればわかるのだが、人間は一度自分で何でも経験しないことには納得しないのだろう、まずそう経験的に思うのだ。プリンを食った事のない人にプリンの味を伝えることは容易でないから、まずは自分で享楽的に食ってみる以外その味わいはわからない。だからすべての人は食った事がない「富貴」の味を一度はきっと食いたがる。欲さえあれば素直に食う事にそれほどの才能が必要であるとも思えないし、大抵の事はその気になれば誰でもきっと可能だろう。僕は「真の才能」とは無縁であるから「システムが順調に機能しているときは羽振りがよいが、カオスには対応できない」という無能ぶりの様態を選ぶしか所詮道はなかったのだろうと思うほかなかったのであるが、それにしても「破局的状況で生き伸びる」にしても毎日腹は減るだろうし暖かいベッドが必要だし買い物に行く車がないと今日の餌さえも買えないから、売ったり買ったりをたまにはしないわけにはいかないのが実情だ。だが「日本でないところ」に逃げる用意のために英語を習ったり海外に家を買って移ったりというような気持ちはさらさらないし(英語はももともと本を読みたくて少し使えるようにはなったが)、破局的な事は仕事の世界で頻繁に今までも起きて来たから、「また来たね」と毎回思うだけの事に過ぎない。それがどうした?
「閉塞感」というのは、システムがすでに順調に機能しなくなり始めていることの徴候である。制度が、立ち上がったときの鮮度を失い、劣化し、あちこちで崩れ始めているとき、私たちは「閉塞感」を覚える。そこにはもう「生き生きとしたもの」が感じられないからだ。壁の隙間から腐臭が漂い、みずみずしいエネルギーが流れているはずの器官が硬直して、もろもろの制度がすでに可塑性や流動性を失っている。今の日本はそうなっている。
お説の通りの状況が都会にいるとありありと感じたものだが、少し群れから離れてみるとそんな気分も変わるかもしれない。山の上で仙人暮らしを3年ほどしてみたら、群れの密度という引力が思考に影響するのじゃないのかな?「離れて」みるという地理的な距離感だけでも人の考えは変わるものだ。養老先生のいう参勤交代を子供にさせろという現実手段の有効性を還暦猫爺が感じるのだからみなさん本気でしてみれば良いのだろうと思うのだ。原発事故の日本人の対応を、欧米メディアは「ブリコラージュ」と笑ったが、内田先生のシステム瓦解の対応もやはりおなじようなブリコラージュに映るのだけれども。壊れたシステムの中で何が残るのかは、立場で意見が異なるが、物事やサービスの交換はどんな小さな世界でも起きるだろう。そういう事を教えないとその日のオマンマもベッドも無いじゃ「遠い目」もクソもない間に全員が飢え死にですが、、と言いたくはなるけれど。
「自分が何者であるか」を自己決定できないとするのならばシステムがどうあれ「諦める」以前に自分がどうあるかは既に決まっているということになってしまう。遠くを見るか金を稼ぐかは比較論で考えても意味が無いということになる。遠くを見ながら金を稼ぐというような猫も稀にはいるのではないかという視座が彼にはきっと無いのだろう。それでも金を稼ぐだけの事に飽きたかつての子供はやはり別の事も遠い目をして考えるし、ブリコラージュ以外の道、個人が群れを食いながら生き延びるという人でなしのノマド論も有り得るのじゃないかと思うのは、「農耕性」の否定だろうか?
「だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる。私はそう思っている。」と内田先生は書く。それは彼の旧来の友人 平川克美の書く「小商いのすすめ」が具体論ということにおそらくはなるのだろうと思われるが、本当の危機が来た時というのは、何者も頼りにならないという状況のことだ。実に美しい話だ。ただしその美しい話の中でもそこで頼りになるのは「自分」という個体でしかない。だから「富貴の」味を知った者たちは、思想を棄てて、システムを棄てて逃げだすという事になると彼は考えるのだろう。逃げ出すという時にそれは「個人」という単位以外に選択肢がないからに他ならない。それでも逃げださないで、危機の波に飲み込まれて大伽藍の瓦礫とともに、大地の裂け目に呑み込まれて行くというのも一つの生き方ではないかとも思うのである。人は永遠に生きるわけではないのだから、飲み込まれるのが運命ならそれをことさら嫌って多少の延命をしても目くそ鼻くその時間差でしかないのだろう。要は、いかなる場面においても自分の人生を引き受けるという個人の覚悟ということではないのか?その覚悟がありさえすれば「富貴」であろうが「卑賤」であろうが大きな違いなどさほどないと僕は思うのだが、、。
とちゃっかり思うが、現実の飯が不味いのは許せないし妻やネーチャンは美人が好ましいしあまりダルい仕事は勘弁願いたいという「富貴」もどきは、世の中を半分舐めた怠惰な猫暮らしが事実快適であると心底思う。みんな文句なんて言っていないでチャッチャとしたら良いのに。そんなに金なんてかからないのだし、、と思います,ハイ!
この日本の美しい空を見よ!なんと「天使が降りてきそうな空」ではないか。システムが壊れてる?別に壊れても良いじゃないの、さっさと壊れたら今よりずっとすっきりもするしさ、、。(笑)


イメージ 1
「人の噂も75日」という格言がある。これは多分世の中の多くの人が噂話を覚えているのは75日ぐらいがせいぜいだろうというような解釈を僕は勝手にしている。テキストの解釈というのは、そもそもその解釈する人の知性とか特徴とか期待とかを反映するものだろうが、そのテキストが生き残ってきたという事実はその「テキストの持つ意味が信憑に値する」からという現象的側面なしには起こりえない。「猫の言い回しはクドイね」と思う人も多いのは承知だが、僕も生活の大半のことは「面倒でどうでも良いもんね、オレ」というようなザックバランな性格だが、ある現象面に関してはすごくウルサいし細かい。その現象とは「流行」であり「人気」というものの大衆現象である。それにウカウカ同化すると大変な目に合うし、それを予め予測出来れば巨万の富というほど大げさではないが、かなりの良いお金を稼ぐ事が可能であるという個人的経験の結果が大きいと思われる。僕にとっての相場とは「人気」の大衆化現象が引き起こす価格変化の波のことを言うし、利潤とはその値鞘を稼ぐことに他ならない。景気が良くて株価が上がるなら買いで取り、景気が天井して下がるなら売りで取る。底練りは動かないのでお休みだ。単にそういう動作の事であって、それ以上でもそれ以下でもない。噂の75日とは2ヶ月半ほどの日柄だ。仮に立ち会い日は週5日とすると15週になり、1月5週なら3ヶ月ということになる。
日本株の変動周期とはまさに3ヶ月およびその整数倍というのとぴったりと一致する。だから天をつけて仮に下げたのならば3月前後の日柄で、その動きがどうなるかということに特に注意するという観察が当然必要となる。そのポイント付近で同じ動きが続くようなら下げはさらに6ヶ月ぐらいまで長引くし、そこで下げが止まって保合いになるかもしれないし、V字で上げに変わるかもしれない。その値動きを見て行くということが大切で、そのためにグラフ(月足や折れ線)を書いているわけである。そういう周期というのは個別ではマチマチだし、指数と同じようなものもあれば全く異なるものも多いから、わざわざ沢山の銘柄のグラフを書いて、個別の値動き、同業種の値動き、同じ値ごろ帯の値動き、225採用のものの値動きなどを比較して、さて自分は当該銘柄をどう売買するのか?という戦法に初めて行き着くわけである。(これを比較感覚という)だから一つの銘柄に絞って練習売買をするにしても、その下準備となる様々な仕事をしてからでないと練習にさえならないケースが大半であり、猫塾の時でも月足グラフを端折って、折れ線と場帳だけで練習を始めたような人は例外無く脱落したか、その後大損したか、上達しなかったという結果となっている。
どうでも良い事だが、2−2の山種の練習売買の方法を参考までに書いたら、それを見てその方法を猿真似する人が現れた。その人の譜をたまに拝見するのだが、正直な話、練習にさえなってもいない。無駄な損ばかりだ。犬死に意味は無い。本人は真面目にやっているつもりなのだろうが何で練習になっていないかという事自体の自覚さえないのだ。そもそも練習の意味を自分自身でよく租借も出来ていないのなら何のための練習なのか?という本末転倒の事態になってしまう。練習でも必ず損益が出る事だから、利食いに持ち込みたい気持ちは理解できるが、どういう行程で練習をしたらよいのかを自分で考えるという工夫が3ヶ月の間で一度も見られないのだ。操作は山種の中卒の小僧に教える方法だからそんな高度なものではないのだが、それでさえ全く理解をしていないので呆れてしまうほど酷いのは何故だろう?

 2−2と両建てで建てた物を丸にするには以下の操作の行程の組み合わせ以外には無い。

1 売り玉  A  −1      B     -2
           −1

2 買い玉  C  1ー   D    2ー
         1−

組み合わせとしてAC  AD  BC  BD のいずれか以外には有り得ない。そして酒田場帳で逆張りを主体で操作すると21日の営業日で操作可能な人はほんの数日しか実際にはないのが数ヶ月の過去の場帳からは理解できるはずである。そもそも逆張りの操作というのものは、ベトナムさんの先月の見事な8585の仕切りのように、高殴れや安殴れを半分狙ったアクロバティックな価格要素を方法論に既に含んでいる。だからこそ新値を逆張りでしかも朝の成り行き一本で売買するというプロの決まりが効いてくる鮮やかな断ち切りとなるのである。一手ズレてもなかなか決まらないものだからこそ練習の意味があるのだ。それには例えば225採用の大型株は先物の影響で現在はギャップアップやダウンが頻繁に起きるから銘柄として売買しにくいという特徴があり逆張りが決まりにくいからそのために練習に向いた大人しくて素直な値動きをしているものでしたほうが容易だし、上達も早いし体感も深まるということが起きるのだが、その為には該当する業種や値ごろの中からある程度の(立花さんは20ほど)銘柄数を面倒な月足、折れ線、場帳の数ヶ月分の過去の値動きを見ないことには決める事さえ容易ではないのだ。いちいちこんな初歩の更に前提になることまで人に指摘されないと気がつかないような最低のレベルでは、練習すること事態が無理ではないかとこちらは心配になるのだが、テキストの読解を誰にでも理解できるほど程度を下げに下げて底辺のアメーバ用に書いても多くの人はそれさえ理解できないでいる。対面ならどなりつけて修正も可能だが(山種は恐らく殴ってでも教えたろうと思う)ネットでは読み手が頭が悪いとどうにもならないということが事実起きるから困るのだ。猫塾はそんなアホが多かったから正直イヤになった面が大きいのだ。
練習をするにしても当該銘柄が来月上げるのか下げるのかこちらがどう感覚的に発会で感じていなければ(当たらなくて当然だが)時間内で仕切りようがそもそもない。仮に下げるのなら、悪い玉は即座に落とすのが定石であろう。例えばこんな譜に近くなると最初からプロは予想する。

1日  2−2   
2日  2−  2−0

その後の安値の日  −1 −1と分割か −2と買い落ちになる。 0−0

仮に上げると思うのなら
1日 2−2 
2日 −2     0−2

その後の高値の日  1− 1−と分割か 2−と手仕舞いになる。  0−0
売買で玉を動かしてトータルで期日内に利食いに持ち込むという強い意志無しに練習で変動感覚が鋭敏になり断ち切りが上達することなど地球が三角になっても絶対に起こり得ない。そもそもそれが出来ない(変動感覚がない)人だから練習をしてアメーバの売買行為を強制的に変えるというのが目的だと言うことさえ理解できていないレベルなのだ。(これを僕はアメーバ以下という。)
無論値動きだから予想のようにはいかないが、失敗とは損切りのことではなく、買い玉も売り玉もなるべく高く売りなるべく安く買い戻すという出来もしない操作を夢見て「狙う」という姿勢で売買することなのである。そういう売買の質を大失敗だというのがアマチュアには理解できないのだ。メタ言語の理解とは頭の善し悪しと想像力の強度ということである。
だからアマチュアとプロは所詮別世界の住人だということになる。「損を最小にとどめ、利は最大に延ばす」というのがトータルの繰り返し売買の目的の本質である。だからその練習の売買譜にその人の姿勢がすぐに現れる。テキストにその人が現れるのと同じ事である。
「落第」というテキストの意味を彼は噛み砕いて理解しているようには見えない。つまり僕の書いた今までの事をほとんど一行も理解していないし実行していない。だから結果はダメに決まっているという当然の結論だ。山種の小僧はみな中卒のガキだ。みんな15か16の小僧である。こういう若い時には怖いオヤジがドツイて身体で覚えさせるということが効くが、大人になるとそれが出来ないということになる。つまり一生お金と縁がないという結論になると思われる。だからアメーバは相場なんてやめておけというおせっかいを僕は書くのである。
大体、こんなクソみたいな程度の低い事をいちいち人に指摘されないと気がつかないぐらい程度が低い怠け者ばかりが相場をやるから悲惨な事が起きるのだ。「怠慢なやつは相場なんてするんじゃねえ!」と言っておく。

母の日ということ

イメージ 1
 母の日が終わった。この日はマダムがクリスマス同様、一年で一番忙しい日だった。しかも今年は娘が女児を出産したばかりで仕事に復帰するのが遅れていたから一人で仕入れからレッスン、配達、出張の活け込みと大活躍だったらしい。毎晩ヘトヘトになって電話してくるのが10時を過ぎて12時近いこともあったから、残業で大変だったということだろう。こちらは愚痴を聴くくらいしかお手伝いが出来ないし、そもそも手伝う気もないのだからどうしようもない。お願いしてお仕事をして戴いているわけでもないし、お好きでおやりになることですからご自由にお遊びくださいということで、出来るならあまりこちらに影響のないようにお仕事をして欲しいなあと思うのだが、それでも仕事を終えてロマンスカーに乗ってやってくるから熱海までお出迎えに行って、一応マズい料理だが3、4品はご用意してお待ちすることになる。それで夜遅くご飯を食べてワインを1本開けて、温泉に入ると次の朝は大抵12時ぐらいまで寝ている。起きてすぐにまた風呂に入ってやっと一息という所なのだろう。これは実はオヤジの働き方と同じではないのかと思うが、何か言うと10倍返しになるので何も言わない。
 昨日はそれでもヴァンジ美術館に行きたいと自分から言い出すぐらいだから、元気が少し余っていたのかもしれない。お天気の良い日は家でゴロゴロするよりは外出してなんか美味しいものを食べたり楽しい事をするほうが身体と心に良いのだから、面倒くさがらないでしたほうがよいと僕も思う。一人だとどうしても我がままになって何もしないものだが、誰かがいると主体性無く引きずられるという特性があるので、ちょうど良いのかもしれない。片方しか運転ができないとどこかに行くにも車しか足がないから行かないという選択は事実上無いということになる。
「スープの冷めない距離」という言葉があるが、現在マダムと娘は歩いて10分ぐらいの所に住んで母娘で花屋を一緒にしている。娘の旦那が実に良く出来たまめな男で、炊事洗濯掃除育児をスーパーマンのように上手にこなす男で頭が下がるのだが、子供3人と嫁を一人でなんとかしてしまうという離れ業をどうやって覚えたのだろうか?と不思議である。彼は実はお金持ちのお坊ちゃんで人生で一度も金の苦労をしたことのないつい最近まで(結婚するまで)プータローをしていた。実はバンドのボーカルをやっていたのらしいのだが娘はそのマネージャーをしていたらしい。(詳しいことは知らない。我が家は親子で人生不干渉主義であるから)ところが25歳の時に彼のお父上が突然心筋梗塞で亡くなられた。57歳だった。お葬式に行くまで僕は彼の事さえ知らなかったし、その時初めて彼のお母さんに会ったのだ。それですぐ結婚するということになった。でも200名もいる会社のワンマン社長だったらしい彼の父親の仕事を彼が継ぐという選択は彼には最初からなかったらしい。それで彼の母親が社長をやって、その後叔父が社長を継いで今に至っているが、未だに別の会社でペーペーのリーマンをしている。安月給だが時間は定時出勤、定時退社で毎日子供のお迎えをする。休みは常に子供と一緒にどこかに出かけるのが楽しみなのだ。本音では9人子供がいて野球チームが出来ると良いと思っているらしい。だから31歳で3児の父だ。たまに山に遊びに来る。酒もほとんど飲まないしタバコも吸わない。テレビ子だったくせに娘の方針で家にテレビが今も無いのだ。(これは僕の子育ての方針でテレビを子供たちが18歳になるまで買わなかったせいも影響していると思われる。あるとつけて他のことをしなくなるから僕も買わなかったのだ。変でしょ?そういう家だったの。その分本を読むと思うから)
彼は父親の仕事をずっと見ていたから「経営者のなんたるか」を肌身で知ってる。だからそういう仕事には自分は向いていないし、そういう仕事をするということは家族が仲良く楽しく暮らすには不適当という信念に近いものがあるんだろう。金なんかたくさんはいらない。ない時は誰かが助けてくれるものだろうという(少し甘いが)楽観的な気分で生きている。事実彼の母親はおそらくかなりの援助をしているんだろうと思うが(これも知らないのだが、マンションを3年ほど前に買った頭金は多分そうだろうと思う。どうみても二人の貯金で買えるとは思えない。僕は子供に金はやらない。)なんとかなるさと楽観的だ。ところが夫婦はよく出来たもので娘は現実的である。「世の中の面倒事の大半は金でカタがつくんだろ。だからまず金だ。」というようなあられもない考えは僕に実によく似ている。ということでゼロ歳児から保育園に子供を預けてマダムと花屋をやっているということになる。まあそれでなんとかやっているのだから僕がどうこう言う筋の事ではない。自分のことは20歳過ぎたら自分で切り開いていくのが大人のルールだからだ。それでもマダムの母親とマダムと娘と孫と4世代の女が一堂に会するとそれはそれは賑やかで男の出る幕など全くかけらもない。運転手と食事代を黙って支払うぐらいが役割となる。村上龍が「すべての男は消耗品である」というエッセイを書いていたがその通りのことが目の前で今起きているのだと思うほか無いのである。83歳の義母から3歳の孫まで4世代の女たちに遺伝子が乗っかって命のバトンタッチが進んでいく。途中でさまざまな男がいろいろな影響と種を彼女たちに植え付けたとしても命というDNAは滞り無く運ばれて行くのだ。その間、多くを稼ぎ多くを生産消費し、あるいは分配しと見た目の金は無秩序に動くのだろうが、残る事実は女の身体を通じてしか命は継続されない。金などせいぜいが潤滑油ぐらいの役割しか持ち得ないのだろう。だからそんな表面的なことの大小は大した問題ではない。チャリンコだろうがメルセデスだろうが子供は育つ。だから付加価値というものは物に宿る事は無い。快適か不快かというのもせいぜい主観的な問題でしかない。
だからそういうことは所詮好みの問題でしかないのだ。その好みの問題のために大半の男は消耗品という役割を甘んじて受けるか否かという問題でしかない、というか問題でさえないという事だろう。孫の名前は長女がツバキ、次女はスミレである。花屋の娘らしいと言えばいえるか。
娘はきっと現実的な女だからきっとこんなことも考えるているのに違いない。
「どうせ時間の問題で親は死ぬ。親父は金儲けが得意だった。だから必ずママが死ぬまで困らない金を残すに決まっている。それを利用すれば良いのだ。だから今は子育ての時間でたくさん子供を産む。困れば姑とママに助けてもらえば良い。ママの大きなダイヤモンドもカルティエの金時計もボッテカやダナキャランのドレスもいずれみんな私のモノだ。時間の問題!」
「いずれ」を短縮して明日とか来月とか来年にしたらわかりやすい。おそらく娘の考える通りにおそらくなるだろう。こうやって自分の考えとは無関係に大抵の男の人生は進むのだろう。そして棺桶が接近すると娘の顔を見て思うのだろう。
「すべての男は消耗品である」という村上龍は多分正しいのだろうと、、。母の日というのはじつはそういう母性を讃える記念日であるという事を知る男は少ない。
友だち
白猫次郎
白猫次郎
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(16)
  • まっちゃん
  • 亜紀
  • rem。
  • ラブレス
  • key09.hatenablog.com
  • kurisan
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

開​設日​: ​20​13​/1​2/​21​(土​)

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事