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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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彼の戦争と僕の戦争

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リビングから遠くに駿河湾が見える。目の前に大きな富士が見える。そんな光景が当たり前の一人暮らしになって3年ほどがたつ。この山の暮らしというのはバラモン教でいう林住期という家族のために働いた後の自分を振りかえる時代の孤独な暮らし方というのを五木寛之の本で読んだのがきっかけで始めた。「大河の一滴」だったかあるいは「下山の思想」のどちらかだったと思う。五木にしても遠藤周作にしても、インドやアジアに行って、貧富の巨大な格差を目の当たりにしてはたと自分を考えたのだろうと思う。富む側から貧しい側を見下ろす視線だが、見ないよりは見たほうが良い。気がつかないで、あるいは見て見ぬ振りをして通りすぎるのが当然の世の中だからだ。非力な個人は気がついても事態を変える力は無い。だが自分を少し変えることは誰にでも可能だ。そう五木や遠藤は考えたのだろうと僕は想像する。
別に地震による強制的な立ち退きが理由の引っ越しだから山や林である必要もないし、家族と一緒に都会で今まで通りに暮らす方が普通かもしれないが、あえて離れて暮らしてみるという選択を僕はした。普通でない事が多かった人生だから普通にするほうが僕にとっては普通でないというだけのことだ。このせいでマダムはきっと随分苦労したんだろうと思う。そのお返しというと変だが僕が出来る限りの金で買える贅沢を彼女にはさせたいと常に思う。クラス会があったら一番上等なドレスと一番素敵な指輪と靴を、そして一番素敵な車でお迎えが出来るようにと思う。当初、マダムは僕が離婚したいと思っていたらしい。全然僕はそんな気持ちはかけらもなかった。でも何も言わないでマダムは別居を了解した。12歳の猫もおまけにくれた。後で友達にそう聞いた。少しお金が出来ると生活という意味では家族が自由な暮らしをすることが出来る。家が何軒もあったり、車が何台もあったり、死ぬまでお金の心配がいらなかったりぐらいはまあしっかり仕事で稼いだ男なら(女でも)簡単ではないかもしれないが、出来る奴には容易に出来ることだろう。たまたま運が良くてそれが出来るのならしたほうが良いこともある。お金は記号という認識が年とともに強くなって、記号なら使う以外に意味など無いのだから、全員が積分したがるゲームを僕は微分するという生き方がしたいなという相場と同じ逆バリだ。「変なの?」と思う人が大半だろうが、僕に取っては積分ばかりの人生こそ「変だよ」と思う。「だってお金はお墓に持って行けないよ。」時間は有る程度買えるのだから金で買える時間があるのなら僕は躊躇無く他人の時間を買ってきたのだし今後も買うだろう。その買った時間に労働力とアイデアと商品を加えて客に売りつけるという仕事で金を稼いだからその金は当然リーマンの金の数倍の加速度がついて、気がつくとスーツのポケットには札束が常に唸っていたそんな30代だったように思う。そういう発想で金を作るという意識になってからは、友人や周囲と考え方を比較しても何の意味も無いといつも思っていたし、事実比較すると嫌みな話ばかりになるから、友達の付き合いも少なくなる。全く話が会わなくなるのは当然だ。買う側と売る側だ。本音の話をするのが無理になるのだ。昔の友人と飯を食うような機会があると僕は車で行く。ジャガーだったりポルシェだったりメルセデスだったりする。普通の不味いレストランは行きたくないから、少し高級な場所を予約する。僕は飲めないが昔の同僚は飲めるから酒を飲む。勘定書きが来る。友人はそれを見て目を剥く。それで僕が払う。そんなことを数回すれば誰も僕を誘わなくなる。一晩の食事代が彼らの月の小遣いより多分多いからだろう。それですることがないから本ばかり読むようになった。することがないからグラフや場帳ばかり書くようになった。元々、学生時代からしていた相場というのをそれでは職業にするかと本気で思ったら、他の事をする気が全く起こらなかったので、会社も売ったし、付き合いでしていたある会社の役員も辞めた。面白くない仕事はしたくないのだ。仕事は金になろうがなるまいが、好きな仕事が一番だと今でも思うし、気に入ったもの以外は本来の仕事ではないのだろうと思う。みんながそういう風に生きたら不平や不満はすごく減るだろうし世の中がもっと明るく楽しいものになるんじゃないかと今でも思うが、そんな風に仕事をする人はほとんど周囲にはいないようだ。これは単なるお金の問題ではないのだが誤解している人がほとんどだ。僕の周りには僕より数十、数百倍の資産をお持ちの大金持ちが数名いるが、彼らは僕から見ると随分と不自由で不幸な生活をしている。自分がいくら資産があるのかよく知らないような商業ビルを数棟繁華街に持っているようなご夫人もいるのだが、精神病だったり家族と上手くいかなかったり仕事やお金でいつもイライラ、ヤキモキしている人もいる。つまり多すぎて邪魔なのだがスパッと使えない、棄てられないことからくる問題だったりストレスだったりなのだ。微分すれば一発で解決するのに習慣として出来ないのだ。僕にいわせると「頭が悪い」ということなのだが、悪いものは悪いので60歳を過ぎては直るはずもきっとないだろう。あのままお金に埋もれて不幸な気持ちで亡くなるのだろうと思う他無いのだ。
 なんちゃって田舎暮らしというのは楽だ。畑いじりなんか出来ないしする気もない。テラスでハーブや花を少し育てるぐらいで十分だ。それでも日差しはとても強いからトマトだろうがインゲンだろうが何でも育つ。半分は虫が食べるけど。今日は連休が終わったから、12時から長岡温泉に岩盤浴に一人で出かけた。文庫本を1冊持って、バドガシュタイン鉱石の岩盤ベッドで2時間ほどうつらうつらしながら本を読む。汗がどっと出て浴衣2枚がビショビショになるぐらい発汗したら、今度はラドン浴槽でぬる湯に使って休憩室で昼寝をした。帰りにスーパーに寄って牛乳と食材を買ってきた。それでほぼ一日が終わる。「本当の戦争の話をしよう」というティム オブライエンの短編集を読み切った。村上春樹が訳している。僕より10歳ほど上のアメリカ人はベトナム戦争で歩兵となった。戦友が多く死んだ。彼は生き残ってハーバードを出て作家になって、戦争の話ばかりを今までずっと書き続けている。それが彼の「仕事」なのだ。もう40年になるがずっとそれを何度も何度も書く事で彼の戦争、彼の仕事は今も続いているのだろう。帰りの別荘地で見事な藤の棚を見つけた。満開の藤が五月の空を埋めている。お金を追いかけた生活より今のほうが何倍も僕は楽しいし素敵だと思う。山暮らしにお金はちっとも役になんかたたないのだね。何でそんなものを僕は30代で追いかけていたのだろうと不思議な気持ちになっている。きっと年を取ったせいだろうと思う事にしよう。
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 2週にわたるG-WEEKが今日で終わる。普段通勤ご苦労様のリーマンたちも少しはゆっくりとお休みが出来たろうか?ここからまたお盆の夏休みまで3ヶ月ほどお仕事だがら明日からはまた平常に戻る。連休では海とか山の事故がいつも起きる。いつもと異なることをすると思いがけないリスクにあって、運が悪い人や不注意な人がなくなる。登山でも滑落や凍死のニュースがあった。高山は5月はまだ冬だ。それが魅力なのはわかるが楽しみは生きていないと意味が無いから、慎重に遊んでほしいと思う。たかが遊びだから命を棄ては意味がないし、本人は良くても家族はショックだ。高齢者の登山は実にリクスの塊なのは経験して理解したので、低い山で僕は満足している。天候の、気圧の、気温の急激な変化に年をとると身体がついて行けないのだ。だからまだ朝夕は寒いから登らない。僕のフラットは680Mぐらいの標高だが、午前5時には最低気温は6度ぐらいになる。風が強く吹けば体感温度は零度に近いから軽装だとあっという間に低体温症になる。あのトムラウシ山の9名死亡の遭難でも7月の死因は低体温症だ。2時間ぐらいで歩行不能、視覚障害、脳機能障害であっけなく死ぬのが山の事故だ。足が動かないのに下山しようとして滑落というパターンは多いだろう。「こんな時にどうしたらよいか」という事を知らないでアウトになる人が多いのは、「こんな時」がどんな時か知らないことが大半だ。仮に人間に学習という能力があるのなら、知っている人の言う事を馬鹿にしない方良い。その人たちは「こんな時」とか「あんな時」をいやほど見ているし経験している。昨年、長野県の大町という場所で登山初心者講座というのを経験した。参加者は18歳から65歳まで様々80名。2200メートルの夏山に標高差850メートルを5時間歩行で登ってみて、「これは俺はダメだな」と思った。プロや上級者がたくさんいたので登山そのものは安心だったが、経験して「止める」という結論になったのは、自分にはこんな高い山は必要ないなという事だった。それがわかった経験として貴重だったと思う。2時間歩くと高山病の軽いのにかかった。20代のギャルが楽々登る道をこちらはハアハアフウフウだ。ベッドならまだ我慢も出来るが山でこんな苦労なんてしたくない。(笑)それからは1000Mぐらいの低い山(山というより高原か)に友人とゆっくり登って降りる。温泉に入ってごちそうを食べるというハイキングしかしていないが、それでとても楽しいのだから満足できる。それでも冬はやらない。11月の中旬に富士の近くの愛鷹山に登ったのだが下山時に10メートル滑落した。霜が降りていたのだがアイゼンをしていなかったので滑って止まらないのだ。腕を少し切ったがそれでもなんとか止まった。あれで足を骨折とかすればそのままアウトかもしれない。大した山でもないし、登山道もしっかりロープで指示があるのだが、「霜」という「こんな時」の対処が頭になかったせいだ。30メートルも50メートルも深さ10センチの霜がびっしりと張っている斜面などという場面をこれまでの人生で一度も経験したことは無論なかった。そういうことが山では容易に起きるのだ。少しだから利口になったから馬鹿はしないというか怖くて出来なくなった。
 あとなんとか10年ほどは生きていないとしたいことが出来ない。したい事とは下げ相場を売りで取るという明白な目的である。10年かどうかは無論わからないが、それぐらいの間には上げと下げの大きな相場があると感覚的に思うので、毎月だるいグラフをずっと書いて来たし、これからも生きていれば書いて行くだろうと思う。それが唯一の仕事らしい仕事かもしれなしい、楽しみらしい楽しみかもしれない。もう大金が欲しいわけではない。使い切れない金などあっても何の役にもたたないし、孫子が当てにするとろくな人生にならないだろう。金は自分で働いて稼いだものを自分(妻は自分の分身だ)で使うものだ。世の中の仕組みはそういう決まりになっていると思う。
あるか無いかわからないそのためだけに毎日場帳を書く、折れ線を書く、月足を書く、玉帳を書くという「書く」という行為を繰り返す。「書く」ということは「音読する」と同様に、非常に重要な記憶識別認識行為であると思う。脳と五感の繋がりはまだ科学的に明白ではないが、書く事で受ける認識の深さは、単にちらっと見ることの認識行為とは全く異なる感覚と動作を作り出すということを、書いた人だけが体感するのだが、面倒でしない人がほとんどである。それによって、操作の練習を通じて入りと落としのタイミングが変わるという大きな直接的なメリットがあるし、そのメリットは結果的に利益が数倍、数十倍に変わるということなのだが、儲けた経験の無い人には何を言っても信じない。グラフを書いて数億相場で取るような経験をした人なら誰でもわかることだと思うのだが、、。
 月足を書いてみて感じたのは、今年はアノマリーがズレたという認識だ。初心者に説明すると日本株のアノマリーは通常の年は年央高だ。5月連休前後が年間高値になる。(林さんの本を読め。)1200枚書いていて7割以上がそうなるが、今年はそうなっていない。それがわかれば宜しいかと思う。つまりズレたのだ。なぜズレたかは保合い相場(底練りの保合い)が終わったからである。保合い相場が終わるとアノマリーにズレが起きる。上げでも下げでも同じである。天井の保合いを終わって下げになればアノマリーは崩れるし、底練りが終わって上げに移行すると同様に崩れる。上げ相場になると年間高値は年末付近になるし、下げ相場になると年間安値は年末付近になる。したがって年足が上げなら陽線、下げなら陰線となってそうした傾向が数年(2−5年)続く。すべての景気循環株(主に低位株)の現象だから、書くと馬鹿でもわかるが、書かないとわからない。
3月の終わりごろ、100円ぐらいの低位株を10個買って半年放置する手抜きの投資法を書いたのは2−3月にかけて安値を取るものが大半であったからだ。年間安値の6ヶ月ー8ヶ月後に年間安値を取りにくるのはどの低位株でも大体同じである。だから2−3月に安値を取ったものは8−1月に目先の高値を取ることになるだろう。理由はわからないが日本株はそうやって動いて来た。そしていつか天井する。その天井は同時的ではないことが多い。大天井は1980年代では1987年と1989年のWトップとなった。薬品と金融が87、その他が89である。
スタートは1983だから5年と7年の上昇時間があったことになる。今回はどうなるかまだ日柄はわからないが、仮に同様なら2018−2020頃が臭い。したがって今年は連休前には一枚も落としは無かった。あっても年末付近だろうと今の所は思っている。FRBのテーパリング終了が10月前後、その半年後ぐらいから金利の引き上げという観測が多いようだが、仮にそうならそれを見越して為替が動く。日本株はそれに連動というパターンになりやすいと今の所思われる。
 今年は季節が狂う。侘助という黒ツバキがある。雪で死んだと思っていたら連休の最終日にほころんだ。遅れて咲くというのなら株と同じで縁起が良いぜ!

あのやさしかった場所

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毎度の事ながら日曜日のNHKの討論(9時から政治家を呼んでやるやつだ)は眠たい事ばかりをウダウダ言っている。まあ曖昧国家の曖昧世論とはこんなもんだろうが、視聴料を支払うんだからもっとマシで何か新たな方向性か画期的アイデアが出ないものかと思うが、視聴率を気にして過激なゲストはあまり来ない。だから結局世界の先進国で一番労働生産性の低い国になってしまったという自覚はこの国にはないのだろう。
 今日のお題は、「少子化と働き方」というものだった。ブスなおばちゃんゲストが数名出て、働き方と子育て、出生率などをぐたぐた文句を言う。労働法制とか企業の女性の人事考課の改善とか眠たい話ばかりで、ゲストで美女は一人だけ。なんか団塊ジュニアで女社長をしているハキハキした経営者で、残業無しの会社をやっているらしい。なかなか肚の座ったネーチャンでこういう女はモテるだろうなと思う。アンジョリーナジョリーみたいな座った目をしている。子育てをしたくても、待機児童の問題で働きたくても働けないとか、企業の労働時間が長いから子供を迎えにいけないとか転勤があると子供の学校が心配だとかゲストは文句ばかりを言っている。なんかおかしくないのかなこの人たちと思う。レバタラを言っても子供は増えないし、子供が減ればそのうち年金を誰が払うのか?冷静に考えてみれば良い。働く世代の保険料で引退族の年金を払うなら、どのみち子供が減れば無理に決まっているから支払い不能しか道はない。どんな馬鹿でも出来る算数計算だ。税金投入しか道はないが、資産課税と消費課税以外に選択肢は無いが、金持ちは自由な奴が多いから、極端なことをすれば海外に逃避する。金持ちだけ特別に虐めればそれなら良いよ、俺はどこでも暮らせると国を棄てる奴がきっと増えるだろう。自分の事は自分でするというシニアを増やす以外に道などないのは数十年前から当然わかっていたが、目の前に危機がくるまで誰も事実に黙って蓋をしていただけの事。俺の世代まではなんとかなる、その繰り返しでここまできただけの事だ。ドンズマリになれば無い袖は振れないだけの事である。江戸時代は「姥捨て山」があったから、現代では都市でそれが起きる。限界集落の都市版である。既にそうなっている古い団地がたくさん生まれている。高島平とか八王子のニュータウンとかは既になりつつある。その速度が今後は加速するだろう。福祉事務所に言っても誰も来ないという黙殺にそのうちなるだろう。どうせ国家が金を使うならもうすぐくたばる老人に支払うよりこれからの子供に払うほうが利に敵っているから多分そうなるしかないだろう。
 一方、子供を作る、育てるというのは個人の自由だ。多いか少ないかを国家にガタガタ言われたくないのは当然だ。だから国家が子供をどうしても現在より増やしたいなら、そういう方向に優遇するとか規制緩和をするしかない。一番金がかからず効果的なのは民法改正だろう。これを書くと顰蹙を買うは確実だろうが、一夫一婦の単婚を規制緩和して多夫多妻の重婚を可能とすればよい。一人5人まで配偶者可とすれば、男も女も経済力や資産のある力のある個人が重婚すれば配偶者が2人づつ子供を仮に作ると1家族が次世代に10になる。6が10に増えると人口増加率は1.666でアフリカ並になる。適者生存、強者生存の自然の法則の通りになるから、強い成功者の子供がどんどん増える。ダーウィンの法則をそのまま適用することになる。まるでアラブだが、これなら国家の金もかからないし、子育てに気合いが入るだろう。10人も兄弟姉妹がいれば、子供の頃から切磋琢磨されるから次世代の惣領になるのは家族の中でも政治が必要となる、光源氏の世界ではないが画期的なアジア的解決になるかもしれない。子供特区とか重婚特区なんか作って限定的に実験してみる意味はあるだろう。平均とか標準とかいう仕組みが先進国ではとっくに賞味期限を迎えて、どうにもこうにもいかくなっているのだから家族という最小単位を変えるという方法はイデオロギーではない社会革命となるだろう。物理的な制度革命だが直接的な血は流れないから平和的だ。第一夫人から第五夫人まで年齢差を3才ぐらいつけて子供を順番に計画出産すれば、子育ては1−5の誰かが専門化しても良いし、交代にしてもよい。手のあいた女(男)は働くことが出来るからバンバン稼ぐ。6人の大人で10人の子供を育てると人口は増える、需要も増える、その結果所得も多分増えると思う。そうした核(コア)になる人=族長を中心にした拡大家族が成立すると価値観の劇的転換が起きて、いわゆる西欧型(キリスト教型)資本主義を凌駕する新たな家族集団というのが生まれる。天皇家なんて側室制度を止めたから現在の危機になっているのは当然なのだ。西欧の猿真似をするからそんなことになるのである。制度の存続を本気で考えるなら仕組みを根本から考えなおさないとダメに決まってる。討論でそういう意見が出るぐらいでないと画期的な意味が有る討論とは言えないし、問題の根本解決にはならないだろう。なんで綺麗ごとを言ってお茶を濁すのかなあといつも思うのだ。大体日本人のする会議なんていつもこの種の過激な意見が絶対に出ないものばかりだから時間の無駄なのである。会議の目的は無駄の確認をしているようなもので、これを負け犬の傷の舐め合いと言うのだが負け犬の自覚のない犬ばかり(笑)だから最初から意味が無いということになる。
実際に子育てに一人最低2000万はかかるのが現実だとすれば、年収200万の人が子供を産んで満足な教育を受けさせることが出来るはずはもう既にないのだ。現実を見ないから子殺しとか貧窮の連鎖とか悲惨なことが起きるのだ。母子家庭で悲惨な状態よりも重婚のほうが豊かな分だけ子供はマシだろう。現在、東大生の生徒の親の所得は1000万以上の家庭ばかりだというが、勉強するにも金がかかるのが現実だ。だから金持ちの金(民間の金)を教育に誘導するにはこれが手っ取り早い。スケベなトーちゃんが妾に払う遊び金を重婚化させれば教育に金が行くのは確実だ。西武の堤康次郎の息子の清二の例を見るまでもないだろう。彼は東大文学部で西武デパート社長だったし作家である。強い親の子供は強い可能性が高いのは歌舞伎の世界を見てもわかる。シャルルフーリエはそういう協同家族社会=理想社会主義=空想社会主義を唱えたフランス人だった。別に僕のオリジナルと言うのではないが、柔軟な発想を持っていたのだ。個人に個性が、あるいは特性があるのなら、経済に強い人もいれば弱い人もいるのは当然である。だから強弱があるのを前提にした制度や規制を作るのがもっとも効率的に全体が回るということなのだ。経済に弱い人でも他に強い部分があるのだからそれを延ばせば良いだけのことで、それは拡大家族の族長の采配と手腕にかかるということだ。別に珍しくもなんともない、つい数百年前まで人類がしていたことの現代版というだけのことだ。専制にならないようにどう相続や教育に規制をかけるかという工夫をすれば回るはずだと思う。現実的にアメリカは離婚が多いから連れ子が複数ずついて同様な形に近い現実になっている。同性婚も可能になった州も出始めたから今後は流動化が進むだろう。
 こういう制度に緩和すれば、単婚と重婚の家族間競争も起きるだろうし選択肢も広がるから産み方、働き方、育て方に多様性が嫌でも起きる。草食男子なんて眠たい事を言ってる男は一世代で恐らくすべて駆逐されてしまうだろう。動物同様に遺伝子を残そうとすれば競争に勝つ意外に方法は無いから、働き手はより稼ぐようになるだろうし、女はみんなもっと綺麗になるだろう。それが残る大きなポイントになってくるからだ。インテリ女子からは反発が多いのが予想される。彼女たちは男性的成功を目的とするから婚期が遅れ、出産が遅れ、結果人口減になるというのに不満があるし、その責任を自分たちの生き方と特性(子供は女性しか産めないのだ)に一部はあるとは考えないが、当然彼女たちにも大いに責任があるのだ。産んでから働けば良いという順番の問題だ。40過ぎて半分腐った卵子で生むから不幸になるのだ。男に子供を産む機能はないのだからしかたない。出来る人=つまり女性がするしかない事を拒絶すれば事態は悪化する以外に道はない。別に嫌ならすることはないが、したい人がすれば良いという自由な制度にすれば必ず変わって行く。それは歴史を見れば明白だろう。一夫一婦制という制度は人間の都合で出来た競争緩和政策だが、それがドンズマリになったなら自然に戻す以外に方法は無い。近代思想の敗北という現実を突きつけられてるいるのが現代という時代なのだと思う。企業社会の進展によって破壊された家族の再生にはそんな奇抜と見える手のほうが現実的な効果があるだろうと思われる。
 
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夕方、西友という巨大スーパーに行った。グラフを書くのに疲れたから別に用もないのだが夕飯を沼津のマシな中華料理店で食べるのでついでに買い物に寄った。レジは10台あるが3台稼働でみんな4−5人待っている。オートレジもあるがみんな並んで買う。夕方7時だからパーキングはほぼ満車、それぞれカゴにかなりたくさん入れてる人が多い。街角消費は悪くないなという印象。増税顔もそのぶん価格を下げて総額を同じようにしているものが目立つ。実に涙ぐましい。業者とスーパーが折半できっと泣いているのだろうと思われる。先週も並んだレジは同じ女の子だった。きっと20代後半、マスクに眼鏡だから顔は美人そうでは無いけど体つきは未婚だな、、、。「いらっしぁいませ」と「ありがとうございます」だけを蚊の鳴くような消えそうな声で言う。元気がまったく無い。眼が死んでいる。体調でもきっと悪いんだろうと思う。忙しすぎるということなんだろう。300台も駐車スペースがあるような大きなスーパーをたった3台のレジで高速回転するのを延々とやれば、どんなタフな人でも疲れるに決まっている。立ちっぱなしの単純労働を8時間もやれば嫌になるだろう。それで時給が900円かそこいらだ。残りの2台は50台の女性らしい。この人たちも見るからに疲れている。この人たちに明るい未来はあるんだろうか?労働の喜びはどこに行った?チャップリンのモダンタイムスと同じ事がきっと日本中のスーパーとかコンビニで起きていると思われる。年収200万以下というが、時給900円で一年働くと2016時間、182万の給与だ。悲しい!彼女が全部消費に使ったとして5%なら90720円、8%なら145100円だ。5万の増税で55時間余計に働かないと可処分所得が昨年と同じにならない。するとさらに疲れるということになるだろう。資本主義で使われる側にいる限り、程度の差こそあれ誰でも同じ目に合う。そのレジの客には彼女の30倍40倍の金を稼いでメルセデスでやって来てパンとトンカツとひげ剃りムースを買う客がいる。原価500円のトンカツサンドを作るのにガソリン代を1500円かけて来ているという変な客だ。地方のお金の回りかたはこんなイビツな状態なのである。
 有効求人倍率は1を超えて、失業率も3%台前半でほぼ完全雇用状態に戻った。建設は倍率は3超え、介護も2超えで人が集まらない。予算を組んでも工事は進まないだろう。一方、事務は0.28。誰でもきつい仕事はしたくないのだ。もっと現場の賃金を上げることをしたら良い。スーパーのレジを時給3000円にしたら、多様な人材が集まるだろう。そうしたら商品もサービスもきっと変化する。結局働く人間の質で、商品の内容も変わるから多様性が産まれるのだ。コンビニが100円か150円で入れたてのコーヒーを売るようになったら、300円500円のコーヒーの売り方を変えて行かないとその店は潰れるだろう。事実、高速のパーキングでコンビニの入っている所の、コーヒー自販機は客がいなくなった。制度に頼ったビジネスはやがて競争で駆逐されるというだけのことだ。もっと自由な競争をすれば柔軟な需要が産まれるだろう。安物を欲しい客ばかりではないはずだから。そろそろ格差を認めてそれを前提にした商品を作るということを真面目に考えてみたほうが良いだろう。群れるのを止めて好きな物を買ってそれに囲まれて暮らすような暮らし方だ。雑誌ではそういう暮らしの提案があって、そういう商品は数は少ないがそこそこ売れている。ほとんどが外国製というのは戴けないが、国内にオシャレな差別化商品が無いせいだろうと思う。技術はあっても商品として作れないというのはソニーを見ればよくわかる。何一つアップルを超えられない。だから僕の家でソニー商品はゼロになってしまった。パソコンも音楽も携帯もみんなアップルかボーズがB&Oになった。4kテレビなんて作っても開発費だけかかって結局また赤字になるに決まってる。番組ソフトがないのに入れ物を高級化しても意味が無い。ニュースしか見ない僕など10万か20万のシャープで十分だ。100万、200万のテレビを買う必然性がどこにも見あたらない。7万のルンバは良かったが、そういう何か異なる付加価値が欲しいのだ。「好き」というのは特に重要で、一度気に入るとたくさん買う。我が家は携帯はiPhoneが4台、Macエアーが2台、iMacが2台、iPodが2台、iPadが1台にサムスンのギャラクシータブが1台。サムスンはドコモのおまけで貰っただけでデザリング以外にはほとんど使わない。エレキは全部アップルだ。別に価格で買ったわけではない。デザインが綺麗だし無駄が無い。インテリアとして邪魔をしない。使いやすい。それだけ。僕は大抵の商品を値段を見て買うということをいつからかほとんどしなくなった。安いから買うとか高いから買うというのではなく、気に入ったら買うという買いかただ。全部おつりが嫌だからカードで買う。月のカード決済はだからバラバラで150万の時もあるし6万の時もある。上限は無いから「こずかい」という概念がそもそも無い。幾ら使っても良いだけの口座に現金がある。メルセデスもその場で3キロほど試乗して衝動買いだった。営業マンがあっけないと思ったのか「ホントに買いますか?」と疑う。値引きもしないで言い値で買うから、向こうは気を使って少し引いたようだ。このマンションも15分で衝動買いだった。相場と同じで値段はなんでも成り行きが良いのに決まっていると思う。気に入れば買う、飽きたら棄てる。資本主義の正しい態度だと思っている。
 さてグラフの6000番台を書いた。機械株だけだが、昨年の4−5月高値からの1年調整の安値小動きという共通性が見られる。低位の(300円以下の)ものは短い陰陽線の反復でほどんど変動が無いものが多い、つまり煮詰まっている上げ待ちの状態のものが多いようだ。設備投資のピークは2005年末だったのであれからおよそ9年が立つ。設備投資循環はジュグラーサイクルと言い10年スパンである。現在企業の財務は現金が積み上がる状態で使途がない。今来期の業績はバブル時の史上最高を更新するところがゴロゴロ出ているから、いずれ設備更新に踏み切るのは確実だろう。小型の低位の機械株はベータの高い代表だからそのうち派手に動き出すと思われるので300枚ほどポツンポツンと仕込んである。相場で儲けて税金を払うと今年から1億勝つと2000万だ。支払う税金が西友のレジの女の子の年収の10年分ということになる。どちらが国家に役に立ってるかは支払った税ということだから相場師はリーマンより勝てば役に立つ。レジの女性は一生働いても今のままだと1億にもならない。だから国が豊かになって、個人も豊かになるには900円の仕事を増やしても政策的な意味は無い。労働者が年金も保険も満足に払えないような社会が健全なはずはない。だから一見働かないでも税金だけはしっかりと払うようなそんな仕事を増やせば良いのだし、アメリカはそういう国を目指している。政治家はどこを見ているのか?と言いたい。リスクを取るという仕事の本質を逃げたらそれは人間の仕事ではなくなる。リスクをいかに減少させるかは技術と経験だがゼロになることはない。仮にゼロを目指せば900円で奴隷になることが待っているだけだ。

猫マンマ豪華絢爛!!

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明日からまた4連休で相場がないから一日中場帳がないのでゆっくりとグラフ更新が出来る。だから今月は急いで書く必要がないので、だらだらとテレビをつけてBSなんか見ていると火野正平の自転車で日本各地をまわる旅というのが映った。「人生、下り坂 サイコウ!」というコピーがいつ聞いても良いな。定年後とかシニアのお手紙の思い出の風景を巡って回想録的に各地を回る自転車の旅だが、上り坂は漕ぐのがきつい。橋が嫌いらしい。出来ればあまり高い場所は止めて欲しいという火野の本音が楽しい。それでもふうふうハアハア言いながらなんとか走る。アドリブで楽しめるというぐらいキャラが明るいのは女好きのせいもあるんだろう。そのくせ愛妻家だから、カーちゃんに叱られない範囲での火遊びをする。「アホは死んでも直んない」の典型だが、そのアホをするために60過ぎても20代の若者みたいな格好をしてチャリで走るのは楽なはずが無い。そうやって稼いで遊ぶという基本的な♂の行動を素直にやるから良いのだと思う。70−80年生きるのが人生の平均としたらその半分、35−40過ぎたら、すべての人は下り坂だ。その自覚の有る人は少ないが、それでもどんな馬鹿でも50を過ぎれば峠は超えたなぐらいの自覚は嫌でも覚える。体力が20代のピークと比べて落ちるのは当然だ。ほんの100年前までは日本人は50が人生だったのだから、4割も寿命が伸びたのだ。
 僕は仕事は40まで。あとは遊んで暮らすというのを20代のころに考えていた。親父が61で死んだからそういうふうに思ったのだと思う。だから22で大学を出て18年しか労働時間は無いことになる。リーマンの生涯所得はそのころ大卒で3億だという話だから18で割ると1700万弱になる。初任給が122000で年収が300万ぐらいの会社に取りあえず入ったから足りるわけがない。でも仕事を覚えるのにお金をくれると思えばただでも安いから7年はやってみた。きっと4000万ぐらいはそれでもトータルでは貰った計算になる。だから平均を取るにしてももっと金を稼がないと良い暮らしは出来ない。それで結局会社をいろいろやることにその後なったが、リーマン時代の経験は実に良い訓練となった。10年で3つやってなんだかんだで5-6億はギャラとか経費で使ったろうから元は取れたと思う。それで40で仕事を止めた。親父が死んだ年まで21年あるから、この時間をたっぷりと豊かに楽しく生きるというのが僕の仕事になって今に至る。金のことなど考えもしなかった。「なんとかなるさ、今までもなってきたんだから、、。」という軽いノリである。事実その通りになってきたし、多分今後もそうだろう。天下の回りものなんだから回せば良いのよ。
 暇になって、一番嬉しかったことは何か?通勤しないですむこと、朝寝坊が出来るという事、好きな本をいくらでも読めるということぐらいだと思う。まことに些細な事だが僕個人の欲望なんてその程度のものだ。ごちそうを食うとか海外に行くとか外車に乗るとかネーチャンと仲良くするとか雑誌にあるような欲望は既に全部30代でしてしまってると、そんなものは何をしても直ぐに飽きる。どんな事をしてもすぐ飽きるというのは困ったものだがしかたがない。飽きないのは相場と読書ぐらいのものだ。だから地味にそれをする以外に下り坂の楽しみというのはない。
 50近くなって猫塾という投資塾を暇つぶしがてらやってみた。するとお金持ちがたくさん生徒になった。大企業のリーマン、ビル持ち、土地持ち、医者、会社経営者やその奥さんなんかが大半だが、全員が相場がすごく下手である。下手というよりまさに鴨である。何人かは林さんの本を読んでいる人もいたが、グラフや場帳、玉帳をしっかりとビジネスとして書いている人は極まれであった。プロと数名知り合いになったのが収穫だろう。生徒は全員、目が$になった人ばかりで異様な感じの迫力がある。特訓コースを作って月一で東京と京都で会合をしたが、80名ほどの参加者のうちで2年で残ったのは35名、そのうちリズムやうねりが取れるレベルに上達したのは3名だけだった。それでも3名は救えたという結果になった。これは逆に77名が死んだか、こけたという事で相場で成功して生き残るのはいかに難しいという統計の通りになった。だが成功は何も相場に限らない。相場は金と操作に凝縮されているからはっきりわかりやすいが、どんな商売をしても3/80ぐらいがプロになるレベルだろうと思う。猫塾で「ご職業は?」という質問をしたことがある。一番多いのがoo銀行の課長です、とかoo商事で部長をしていますとかいうお答えだ。僕は職業を聞いたのだが、彼らは会社名と職種をいうのが「職業」だと本気で思っている。笑えないジョークだが頭が社畜そのままである。そういう答えをした人は全員消えた。東大卒も慶応も早稲田もゴロゴロいたが一人も残らないのだ。そういう頭では勝てないという証拠だから、そういう人はリーマンだけやるほうが良いと思う。使う部分が違うのだ。相場は幻想の呪術使いのお仕事だから、柔軟性がないと無理なのである。

 グラフ更新で8589を書いたので上げる。左のペン2本は1996−97の金融危機時の暴落時の値動きを指している。19ヶ月かけて757から66まで1/10以下までの暴落過程が綺麗に見えるだろう。中央の前回の戻りは51から780まで38ヶ月の上げである。上げの日柄は下げの日柄の2倍という定石通りの動きだ。仮にインフレで株が上がる、低位株のような限界企業の上昇率が全体を凌駕するという信仰に賭けるのならあと2年ほどで135が800オーバーくらいにならないと上げ相場とは言えないことになる。デフレが終わり金利が上がる。実質金利が現在マイナス2%程度だがかりに1%まで戻ればそんな可能性が高いだろう。黒田のバズーカが有るにしろ無いにしろ、世界の金融地図がこのままで終わるとも思えない。FRBが数年以内にゼロ金利解除に踏み切れば世界の地図がかわるのは言うまでもない。資産性商品だけが金余りで上がる金融相場は続くのだろう。他に行き場が無いというだけの理由だ。不景気の株高というやつだ。貧乏人は常に金がない。金持ちは常に金が余るという構造矛盾だか、それが世界規模でますます激しくなっているようだ。それをひょいひょいとかわすにはこんな波に乗れば良いだろうというのが猫の幻想である。1億買って8億になるならそんな旨い商売はそうそう無いだろう。猫マンマは豪華絢爛!
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