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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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40代の中頃、アルバイトで小さな会社をやったことがあった。たまたま偶然のきっかけがあって以前使っていたアルバイトの22歳の男の子を社長にすえて始めてみたのだが、その子が中々の才能で、始めて3か月で当たって儲かった。世の中は不景気なのに毎月300万も400万も売れる。原価ゼロの広告商売だったから、車を買ったり、億ションを借りて住んだり、剛勢な海外旅行をしたりして二人で散財した。3年で2−3億売った記憶がある。国税庁の調査が入って仕事が一時的10日間も中断してまいったことも起きたが、きちんと税は支払っていた。人が増えて売りがその後倍加して手狭になったので6畳一間のボロアパートからマンションに事務所を移した。初台という新宿のそばだ。ここには落合シェフのラベットラというイタリアンレストランがある。安くて旨いから月に5−6回は通っていた。それぐらいしか事務所には行かなかった。年に60日通勤して5000万使えば1日80万だ。そんな脳天気なリーマンも世の中には少しはいるんだろうと思う。イタリー料理はあちらに仕事があった30代からいろいろなミシュランに出る有名店にも行ったのだが、落合さんの料理はそれに負けないというかさらに美味しいと僕は思った。それは彼の料理が日本人の作るイタリアンだからだという結論となった。どこか、そこはかとなく「ひらがな」の味がするのだ。オリーブなのかチーズなのかそれともアンチョビやトマトのせいなのかはわからないのだが、多分その分量や時間と配合の総合ということなのだろうが、イタリア人の有名シェフの作ったイタリアンよりもどこか「ひらがな」の味がして、僕は大好きだ。東京を離れてから、彼の料理を食べる機会が無くなって少し寂しいのだが、彼の本を買ってパスタを自分で作るようになってもう3年以上がたつ。今日のブランチはホタルイカのフィットチーネアラビアータにした。 
 ドライブ旅行をするのが好きで、好きな車にマダムを乗せて1週間とか10日間とかかけて東北をぐるっと一周して帰るとか九州をまわるとかそういう国内のグランドツーリングをするのが当時の憂さ晴らしのようなものだった。山形の酒田にそばにアルケッチャーノというとびきり旨いイタリアンレストランがある。東京の人が地元に帰って、地元の食材と水を使って作るイタリアンで、店舗デザインは「なんこれ?」という驚くほどダサいデザインの店だが味はすこぶる旨い。パスタに使う水と肉や魚に使う水がそれぞれ異なる水なのだ。軟水と硬水を料理ごとに使い分ける手間のかけようだ。毎日湧き水を汲みに行く手のかけようだから、不味いはずがない。そこで食べたのがホタルイカのフィットチーネだった。多分2000円もしなかったと思う。あの頃も相場をやっていた。資金はまだ億を超えてはいなかったから、枚数も少ないし、なんぴんの買いが早くて回転をあまり意識するほど上手くは行ってはいなかったが、それでも1000万とか2000万とかは毎年相場で利益が出ていたと思う。相場師という職業(?)の駆け出しだったから、暇をみつけては折れ線や月足グラフばかり書いていたように思う。それでも何か誇らしくて自分一人で自立できるという仕事につけたことでそれを自分に納得させるために気張った消費をしていたのだろうと思う。外車を年に数台買った記憶がある。子供も中学、高校だったから、毎日家に父親がいるという変な家庭というのにきっと困ったことだろう。そんな娘も結婚して孫を3人産んだ。月日のたつのは実に早い。
 2052 協同飼料という地味な穀物輸入の飼料会社がある。当時(2000年頃)も100円内外の価格で今と変わらない。その後FAIの選定銘柄に取り上げられたりもした会社だが、その前から売買はしていた。配合飼料と2つ今も場帳を書いて売買するおなじみの銘柄だ。2006年1月に247円で天井して崩れ震災時は76円まであった。林サンの大失敗の選定だったから覚えている。1年で倍加という謡で釣ったFAIだったが1年で1/3になった。鬼が笑う。1996年の戻り高値が630円だからどん底は約1/10まで叩かれたということになったのだ。地味な飼料会社の業績がそれほど極端に変わるわけがないにもかかわらず、株価というものはこのようにすぐに劇的に変化する。たったの数年で1/10になったり数倍になったりする。業績や金利では説明できない変化がおきるのは、つまりすべて「人気」という不思議な幻想のためである。ようは大衆の気分というだけの単純な話である。それが実に気まぐれで極端に変化するというだけのことに過ぎないのだから。こういう不人気の低位株が半年とか1年で2−3倍に木の葉が舞い上がるように倍加していくような相場がそろそろ始まるような気配が僕はしている。きっと1996年の戻り高値を当初の目標として多くの低位株が水準訂正を今後順番にしていくのだろうと能天気な事をグラフを記入しながらぼんやりと思う。上昇の根拠など何もない。グラフの型が良いぐらいしか客観的な理由はないが、大きな幻想がどうやら始まりそうなそんな気配が空気に伝わってくるような感じがするのだ。あくまでも個人的な感覚だ。
 今日の場帳を書いたら、「コツンと来た」低下株がたくさんあった。2/5 4/11か16 4/30か5/1で三尊かWでコツンだ。
結局、安値を諦めてしまった感じの低位が多い。桑田の歌に「夏をあきらめて、、」というのがあるけれど、そんな感じのメランコリックな後を引く味のバラード調の底入れという感じが僕にはとても強い。
 先日、僕のメアドを乗せたら知らない女性からメールが届いた。I wish to be under the same sky
そんなしゃれたヘッドだった。函南の夕焼けの空を「はるこ」さんにあげよう。
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長期の月足グラフというのを毎月更新すると様々なことに気がつくことになる。最初のうちは訳も分からずに必死に正確に書くということだけを出来るようになるのだって1−2年で300や400は最低30年分ぐらいを書かないとなんだかわからない。それぐらい自分で実際に経験して始めてわかるという事だから、やるかやらぬかしか結果は出ない。だからそういう基礎の基礎、入り口になんとか立った人とそうでない人とは会話が全く通じない。大半の人は入り口にまで到達するはるか前の感覚以前のごちゃごちゃ下らないミーハートークしか出来ないから、同じテキストを読んでも、同じ売買譜を見ても意味するものが180度も違う受け止め方になってしまう。事実、そういう人がいるおかげで、プロや上手な人は飯が食えてるというのが事実であるから、こちらは「まあいいか」と思うのだが、アルタミラやラスコーの壁画を描く新人ではないが、こうした呪術を使うという意識の拡大を通じて人が動物と共生し、獲物が食われるために向こうからやってくるという共生の空間成立儀式が起こったというのは、ある意味ブログや掲示板でも同様な効果が現代でも起きているようだ。この場合は人が人を食う。あるいは猫やベトナムが人を食うということが起きやすい。(笑)餌が向こうからやってくる。毎日毎日400も500もアクセスがあるのはきっとその証拠だろう。だから猫次郎のブログは狩りの豊穣を祈る祝詞の儀式と似ていることになる。2チャンでスレッドが立ったのも食われた獲物の呪いだったのかと思えばわかりやすいと思われる。スレッドが立つぐらい彼らは徹底してきっと負け続けたということなのだろう。ご冥福を祈りたい。心配するな、君の無くした金は僕やベトナムさんががきっちり浪費に使って上げるから成仏してね。
プロや上手い人など片手で数えてすむぐらいしか実際は読んでいないと思う。勝つと負けるは紙一重の世界だが、勝つ人は大抵いつも長い目で見れば同じ人ががっぽりと勝つ。その勝ちは負けた人の数十人分、数百人分だ。アマチャアが1000万円の資金で相場をやって1年で3割負ける。すると300万の損だ。それが10人で3000万、100人で3億だ。勝つ人は5000万も1億も毎年勝つのだから15人とか30人とかの負け分を毎年総取りしていることに結果的になってくる。これがゼロサム世界の相場の現実だという事実に対しての認識が無い人が9割以上いる。1000万あっても300万を3回負けるとオケラになって退場する。退場した人が新たに1000万のお金を作るのには長い時間と懸命の労働が必要になるのは当然だろう。だから復帰してくるまで数年とか10数年がかかる。この間、勝って残る人は同じ人であることが大半だ。それぐらい生き残るというのは容易でない。残ればその間に変動感覚も売買技術も磨かれてそうそう簡単には負けなくなる。たまに負けるにしても負け方が上手くなる。つまり損切りが上手になるから、大きな失敗にならないのだ。トータルでは大幅な勝ち越しでお金は余る。使い切れないという状態にいつの間にかなっている。だろ?一方で負けた側は悔しいから懸命に労働し節約しなんとか元手を作って、再度挑戦する。失った金を取り戻すという目的のために努力する。それは別に良いのだが、休んでいる間には売買技術や変動感覚は場帳や練習売買やグラフを通じて身に付くものであるから止めれば元も粉も無い。資金を作るにはそんな面倒なことを毎日ずっと続けない人がほとんどだから、結局いくら資金を新たに作っても返り討ちに会ってまた同じように敗北するという繰り返しだ。お馬鹿は死んでも本当に直らないのだ。そんな例ばかり腐るほど見ているこちらとしては、「いいかげん諦めたら?あなたいくら言っても何も聞かないし、(基礎を)やらないんだから。」という突き放した言い方しか出来ない。やらない人(基礎を)は相場もやらないほうが良いのだ。だって必ずオケラになるに決まっているからだ。それでもやりたいのなら、それは仕事ではなくて趣味の売買だからいかようにやっても楽しければ良いということになる。そもそも相場は現物取引なら倒産会社を買わない限り投資元本がゼロになることはない。パチンコ、競馬、競輪、宝くじなどの趣味は、当たらなければ投資元本は即座にゼロになる。それと比べて相場は、100円のものが50円になっても50円は残る。すごい違いだろうと思う。そのかわり100円のものが競馬みたいに3000円とか5000円になることは滅多に無い。(1989年頃にはあったけど)せいぜい100円のものが良くて300円400円ぐらいに半年とか1年で変わるというぐらいが最大だろうと思われる。それでもパチンコや競馬に数千万とか数億とか賭ける人は少ないというかほとんどいないだろう。相場ではそんな人はゴロゴロいると思う。事実僕も億を張ることは別に珍しくもなんでもないことだ。5000万取れようが1億だろうが、ああ今回はダメね、今回は運が良かったねとあまり気にならない。釣れた魚の目方というのは引きである程度推測がつくから、まだ水面下に魚がいてもなんとなく引の強さでわかる。「ああ外道だ、メダカだ」ぐらいはわかるから。マグレで大物がかかって、それに引きずりこまれて海に落ちたらお陀仏だから、そういう時はこちらから糸を切る。べつに大物が釣れなくても(釣れるに越したことは無論ないが)まあ、しかたない、明日があるさと吞気なのである。だから常に船の上にいて釣れそうかどうか潮を見たり、風を見たり、コマセを撒いたりしている。多くのアマチャアはその間懸命に海で泳いでいるのだから、ご苦労さまと言うほか無い。
 さて晦日だ。今夜からまた1200枚の更新だ。世の中はG−WEEKだけれど、いつも働いていない僕はこういう時は仕事(?)である。肩は凝るし、目も疲れてしょぼしょぼはするのだが、基礎は結構楽しいのだよ。「ああ、小動きで煮詰まってきてるなあ、、そろそろだなあ、、」とか 「結構揺さぶるね、威勢がいいですね、、」とか一人ブツブツ言いながらグラフを書いているのを端で見て何が楽しいのかしらこの人とマダムは言うのだ。本人にしかわからない狩りの祝詞なのだがこればかりは呪術使いになってみないかぎりはわからないと思われる。肉体関係にあるような身近な女でもわからない事だ。初心者にそう簡単にわかってたまるかと思う。さて今年もマンモス来るかな?

イブシャンテマリー

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家に一人でいると、引きこもりで本ばかり読んでいる。不健康だとマダムに叱られる。だからマダムが山に来た時は、あっちに行け、こっちに来いとやたら外出が多くなる。花屋が商売だから、花の生産者の所に連れていったり、買い物に行ったり、外食したりと世間様との接触が増える。自分一人だったらしないことや出来ないことが誰かがいることでするのだから、まあ主体性の無いこと甚だしいけれど、あまり欲望が強いほうでも無いのだろう、だからいつまで経っても相場も上手くならんし、金も大して出来ないけれど、まあとりあえず生きてるんだからそれでいいだろうとどうでも良くなってきた今日このごろだ。僕より若くて既に死んでしまったかっての部下とか友人とかはどうしているんだろう?死んだということは呼吸はしていないけれど、なんか気配みたいなものがあるような気がして、病気で死んだり、事故で死んだり、自殺したりと様々だったけれど、結構いい奴が多かったから残念だ。死んだ連中は総じて欲望が強かった人たちが多かった。酒が好きな人も多かったし、変な合成麻薬というのかに嵌って狂ったようになったのもいた。ネーチャンが好きで病気を移されてそれでアウトになったのもいた。会社を潰して飛び込んだ上司もいた。まあ自分の結末を自分でなんとかした人が良かったのかどうかは当人にしかわからないけれど、家族は結構割り切れないものが残ったんじゃないのかなと端で見ていて思った。死に方は難しいから考えてどうにかできるのなら意味もあるが、考えてもどうにもなりそうにないものは面倒だから考えてもしかたない。だから本ばかり読んで暇つぶしをするのだろうと思う。
 器官なき身体=欲望が駆動する資本主義という概念があって、その身体が無限に拡大するという状態はぽつんと一人で生きている人間にも当てはまるのか?否だと思われる。少なくとも僕個人にとっては否だ。何らかの他者に対しての働きかけのための記号として、あるいは権力としての資本という記号は、身体が欲動しない限りはこちらからは動かない。だから何か任意の対象を措定して、なんでも良い金がかかるものなら欲動を配置して駆動させる。その駆動する客体は勝手に動きまわって、結果として負債を作り出すだろう。その負債の穴埋めにこちらは動く。手持ちのエネルギーで賄うことが可能ならさらなる欲動が持続的に働くという状態を作り出すことは経験的にかなり難しい。つまり本気のやる気は起き得ない。器官なき身体の飽和という状態の起きた時に、原始人たちはポトラッチを意識的、集団的、周期的に起こして消尽という行為を通じてエネルギーの停滞を回避したのか?当時、女は交換の対象であり記号であった。高価な服飾品とか装飾品(日常的な実用の意味の無い物)は消尽の代理記号であったのだろう。美しい鳥の羽飾りや指輪で腹が満ちる事は無いだろう。それを贈与し対抗贈与が起こり、そのまた対抗贈与がという連鎖によって消尽が完遂される。それを「祝祭」と後に呼んだのかもしれない。
 翻って、現在の資本市場でのポトラッチは暴騰と暴落のサイクルだ。資本という記号の交換過程でゲームの参加者全員が記号の極大化という目的に邁進するという前提でゲームは進むはずだが、資本が記号である限り際限のない(上限が無い)数字の累積が巻き起こる。資本市場はそもそも現実の生産物市場とリンクしているはずのものが、通貨という代置物を置く事で、資本と生産物は分離され勝手に別々の運動をするようになったから(中央銀行が無際限に通貨信用を供給するようになったから)生産物は現実需要の弱さに影響され、資本は負債拡大の強さに影響され、結果的に縮小する生産物と拡大する資本負債という相関図が定着してしまった。「物作り」と「金作り」はまるで別々の世界の住人のようだ。まるで別居する夫婦のようにだ。(笑)
 器官なき身体を無理やり起動させようと涙ぐましい努力をしてみる。GQという鈴木さんがやっている男性誌を定期購読して毎月何か面白いネタがないのか読んでみても、なかなか「これが欲しいな」というような具体的な欲望は起動しない。先日のNHKの番組で若い女性の貧困についてのルボがあったが、同じ国に住んでいるこういう人や家族がいるのかと驚いてしまった。渋谷のネットカフェで母子3人が暮らすというスタイルは新しいライフスタイルの終着点なのだろうか?同じ国に住んで、同じ言語を使って、同じような携帯電話やPCを使って、同じ円という通貨を使って、同じような米を食べてるのに、考える事やしている事があまりに掛け離れているのだなあと思った。単なるお金の量の問題だけとは思えないのだ。資本主義の特性は差異化のプロセスだ。善し悪しは別として、否応無く我々は巻き込まれている。生まれた時から否応無く。環境は運と不運のゴブラン織りだから自分で最初はどうにもしようがないけれど、そのうち何とかなる人と何ともならん人に自然に分かれて行く。その分かれる分かれ方の差異とは何だろう?努力と言えば聞こえは良いし事実そういう部分があるのも否定はしないが、果たしてそれだけなんだろうか?毎日ぐったりするほど働いてそれでも年収が200万円にも満たないで年金も保険の支払いできない、菓子パン一つ、コンビニ弁当一つを母子3人で分け合う暮らしは本当に先進国の人の健康で文化的な暮らしという憲法の基準を満たしているだろうか?他人が考えて答えの出るものではないが、彼らはどうして豊かになれないのか?いくらでもチャンスはあると思うのだけれど、現実はそうではないのだろうか?彼らにはチャンスが見えていないのか?消費税を上げたことでこういう底辺の人たちの暮らしはまずます厳しくなるだろう。更に10%に上がると逆進性の破壊力は凄まじいものとなるのかもしれない。だからそこにつけ込んだ貧窮ビジネスが大流行りだ。他に選択枝の無い人たちが選ぶ選択と言えない選択。事実だけが差異化を加速させる方向に突き進む。

さて今月も残すところ晦日だけとなった。安値で値動きが止まった低位株が多いのが場帳からは確認できるが、短陽線で2−3ヶ月連続で上げに移行したようなものもぽつぽつと出て、指数は弱いが高安マチマチという分布となっている。先に底を打ったと思われるものは2−4月のどこかが底でゆっくりと戻り始めているようだ。12年秋から半年急騰して一年調整という8585や8589も2連続短陽線に変わったようだ。このまま周期の大きな変化がないのなら数本陰線を交えて年末に向けて上げの周期になるのが自然な線組のような感じもする。結局今年は何もしないで見ているということに今の所はなりそうだが、まあもともと何かするというのが得意なほうでもないから、いいかなと思って何もしていない。
マダムが三島の市川バラ園という生産者から見事なバラを買った。イブシャンテマリーという香りが強い豪華なバラだ。妙齢のマダムへのブーケの客注だという。イギリスの育種家が開発して日本では市川が独占して作る有名なバラらしい。花でも眺めていると貧しい世界はすぐに遠くなる。
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他にどのように言ってもいい。ただ書く人、計算書でも報告書でもなく自分自身の言葉で自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、よく知っているはずだーーー文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態になる瞬間があることを。以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械のように、その正体不明の何者かの、言葉以前の重く暗い想念のエネルギーのゆらぎを言葉に翻訳するような道具になることを。
 少し落ち着いて考えてみれば、「自分の言葉」などないのだ。何万何十万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が重なり合い、まといつき、溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。同時代に住んでほぼ同じような生活をしながら、とても少ない語彙でとても単純な組み合わせ方しかしないのか、できないのか、そういう人たちがおり、他方、文法の基本は共有しながら多くの語彙を複雑精妙に、あるいは新鮮に組み合わせる人もいる。実生活上、前者のほうが後者の方より不便なわけでも不幸なわけでもない。
 ただ野球の例を引かせてもらえば、球を十分に呼び込んで打つ打者とバットの先に当てるだけの打者がいる。後者の場合も結構打率は稼げるのだが、飛ぶ玉ののびが違う。言葉を自分の意識の深みにできるだけ引き寄せて語り書く人と、意識の表面で軽く当てるだけの人。そのような意味では「より自分に近い仕方で言葉を使う人」という言い方は出来るだろう。
 そしてこのところが、ほとんど神秘なのだーーーより自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは「沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れる事が出来るということ。あるいは心ならずも近づき触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまうということ。
 自覚的に書く人ーーー書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、世界を少しでも意識化しようとして書く人すなはち職業的ではなく運命的に「書く人」である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。彼あるいは彼女を駆り立て支えるものは、そのように「自分のために書くことが(特定の読者を予期して書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう」という信念というより信仰に近いものだ。
 少なくとも結果の保証のない賭け。賭け金は自分でもよくわからない自分の生涯の体験の闇の奥行きと自己判定不能の才能。確実に失われるのは、保証された人生の幾つかの現実、その安定と安心。
    日野啓三 「書くことの秘儀」より転載


 人様のブログを読んでいると、この人はたくさんの良い読書をしてきたなというのが数行読むとわかってしまう。テキストというのものは考えて書くという行為だと、どうしても作り物くさくなってしまう。勝手に言葉が出てくるのが自然なテキストだ。勝手にペンが走り、指がキーボードを打っている。小学生の夏休みの宿題のようなテキストのブログが多い中で、そうではないテキストに出会うとホッとする。100人いてせいぜい数名というところか。上手い書き手、少なくとも再読する価値があるなと僕が感じるテキストとは、職業的なテキストという意味ではない。読み込みが適切で、その人の個人の心で受け止めが自然に出来たテキストということのだが、そういう事が自然に手足を動かして歩行するように出来るようになるのにも、相当量の質の良い読書やそれに対しての自分なりの感想や反応というものを書き言葉に置換するという行為を長い間に習慣化して始めて出来るようになると経験的に思うのだ。書くということは話すという事とは言語の使用が全く異なるという事を知っている人間とそうでない人間がいるということに気がついている人間。
 春が来て桜が咲いて「ああ綺麗なだ」はアホでも感じる事だが、そこからどう桜と自分を掘り下げて彼は想うのか?という所からしか「彼の桜」は始められない。その彼の桜とはまさに彼の個人的な桜ということだから、彼そのものが桜を通じて立ち現れる。それが彼のテキストという言葉の意味であると僕は想う。
 頭が良いというのと表現が上手いというのは必ずしも一致しないが、まあ7割ぐらいは一緒の事が多いと想う。頭が良いというその頭とは記憶力が良いとか難しい理屈がわかるという学校的な意味では無論無い。学歴など無い人でもすごく頭の良い人は多いから、そういう人のブログは面白いし、再読することになる。経験知というものは誰でも個人では有限であるから、その彼の経験知というものを承るという恩恵に読み手は預れる。これこそが知の醍醐味と言って過言ではあるまい。人類はそうやって生き残ってきたのだし、そういう経験知こそが伝承されるべき値打ちの本質であると思う。金などという下賎なものは買えない値打ちということだ。
 経験値が紡ぎ出す言葉=テキストについて日野啓三が語っているのは、人類が意識というけったいなものを不幸にも編み出してしまった経緯がその後の我々の暮らしや文化そのものを決定的に変えたという事柄の中にあって、個人という時間を超越して引き継がれるもの、個人の肉体や時間を超えて我々が受け継いだものについてのやさしい眼差しのようなもの、それを次の世代の人たちにどう違和感なく引き継いでいくことが可能かという主題をわかりやすいテキストで書いている。
 「少なくとも結果の保証のない賭け」それが我々の最も偉大な仕事の一つであるという自覚は、少なくとも農耕的でない日本人がいたという事実だろう。賭け金が保証されもせず、個人に蓄積されることもない割に合わない賭けである。そういう素敵な賭けをするようなテキストを僕は読みたいし出来れば書きたいというのが書く事の本質的な意味だろうとなんとなく思うのだ。だから表面的な意見がどうのこうのなんてどうでも良いし、方法論だのイデオロギーだのもどうでもよい。彼の、あるいは彼女のテキストから隠しようもなく匂いたつ賭け金の偉大さについて返礼する、テキストはだからポトラッチそのものと言って良い。
どこかのブログが炎上するというような記事を読むと、ああ大衆はテキストの本当の意味さえ考えてもいないのだと悲しい気持ちに少しなる。だから多分永遠に大衆なのだろうけれど。

金は天下の周りもの

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人並みにG-week の箱根芦ノ湖までマダムとドライブした。日曜日、晴天、暇ということで小田原駅でロマンスカーで来たマダムを拾う。国道1号で湯本まで上がり左折して箱根旧街道を抜け、天山を通過して芦ノ湖への近道。細いのですれ違いが苦しい場所が4つ5つあるけど慣れた道をトルキーなV8はグングン登る。年に数回はハイキングで通る道だから慣れたものだ。実は星野リゾートが湯本の先に「界」というハイゾーンの宿を再開発オープンしている。街道から少し降りた静かな良い湯で、そのおとなりにバブル時に建てた億ションの桜というリゾートマンションがあって、そこを内緒で買って使おうかなと思った事があったのだ。部屋に引き湯で花崗岩の浴槽、部屋は少し狭いのだが、僕の所とは泉質が異なる硫黄泉なのだ。僕のべラビスタは単純アルカリだから、2つあるといいかなと思っていたら先週売れてしまった。残念だがこのようにリゾートでも質の良い物件は回転が始まっているようだ。なにせすべて原価割れの大安売り状態だから、東京のマンションと比べるとマジに一桁違うぐらい物件価格は安い。それは管理費や修理費名目が最低でも月に4−5万するので、電気、ガスなど入れるとどうしても月に最低でも維持費が6−7万、平均で10万ぐらいはするものが高級物件では当たり前となるので、価格は安いが維持できない人が投げるという価格動向になっているのだが、ここにきてさすがに底を打って売れ始めてるようだ。都心の地価が上昇に転じたせいもあるのだろう。資産価格にインフレの始まりが見られると思う。香港の友人などは東京は安いねと来るたびにいうぐらい、外国人にも安いと感じるらしい。現在ロンドン、NYの不動産が中国人一気買いでつり上がるという現象が起きているが、そのうち東京も良い物は中国人が買い漁るということになると思う。彼らの金のロットは、日本人の100倍1000倍はザラだから(だって国家の金をちょろまかしてる党員の金だから)買えないものは事実上ないのである。だから中国が領土や慰安婦でゴタゴタさせて下げておいてこっそりと日本資産を安値で拾ってんじゃないの?と僕はうがった見方で市場を見ている。だから中国関連の安い所は文句無く拾いだなと思って、機械の安いのなんか黙って拾ってロングロングです。2−3年でどうせ3−4倍だろうから買っても何もいたしません、面倒だし。華僑は売買技術が実に優れている国民で、ユダヤと両巨頭という感じで世界を席巻しているけれど、気が短いのか物作りの細かい部分は全くダメで興味がないから、そんなものは全部丸ごと買っちゃえという感じです。だから老舗でブランド力とか品質がある金がない日本企業は格好のターゲットになるだろうなあと思います。いくらでも東証にはそんなのがたくさんありますね。低位株の良いのはそういう材料だけで火柱高になりやすい。だから安いというのが買われる理由なんですね。BS,PLを見るのでも、角度を考えないと意味が無いのでね、、。

 芦ノ湖ではパーキングは2時頃で一杯。お船の前は渋滞で、日帰りのデート客が多いのでしょう、東京、横浜ナンバーの若い人が多いです。なんか初々しい感じで良いなあと思います。お金がなくても彼女、彼氏がいればそれだけでシアワセな空気がボワーンと伝わってきそうで「春爛漫」という感じ。若い時は金なんてないほうが逆にいいんじゃないのかなあ?と個人的には思うのね。だって無いなら無いで工夫したり考えたり協力しあったりが生まれるでしょ?そうやって賢くなったりもたれ合ったりが良いのだろうと思いますね、、。だから3高が結婚条件なんてオネーチャンはやめといたほうがいいですよ。お金の切れ目が縁の切れ目だから毎日が決算日みたいになっちまう。だから見た目だけでも「ゆるふわ系」がモテるのは当然な気もします。お船の前のピザ屋さんで遅いランチを食べました。マダムはシャンパンと白ワイン、6種の前菜、ピザ2種類そして僕はILLYのコーヒーです。8000円。安いのか高いのか?わかりません。なかなか旨かったと思います。ネタが良い。生シラスのオリーブオイル漬けとか黄人参ムースとか地豚の生ハムとかなかなか凝っているんです。ワインに最高とマダムの評でした。ここに来ると昔、子供二人を連れてドライブに来たのを思い出します。ジャガーでも来た、メルセデス230、500でも来た、ボルボでも来た、SLとポルシェでも内緒で来たなあと、、。やはり当時も海賊船がいましたね。なんか今年で50年らしいから芦ノ湖も歴史があるんですね。東京から2時間で飛ばせば来れる立地のせいで、箱根の観光客は少しずつでも伸びているそうです。近いというのは有利ですね。僕もこちらに来るまでは箱根強羅のハイアットリージェンシーというリゾートに10回以上来ていますからね、、。みんな考えてすることに大差はないのでしょう、、。最近は平日は中国人や韓国人のバスツアーがすごく多いらしいです。みんなが来てたくさんお金を落としてくれると地元の人も助かりますね。金は天下の周りものですからね、、。
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