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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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土の香り

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老いの事を考える。五木寛之、大江健三郎、辻井喬、吉村昭、日野啓三と自分の父や長兄にあたるような世代の人の小説やエッセイばかり読んでいる。こうした本は現在は販売という意味では多くがあまり売れないから、函南や沼津の新刊書店では置いていない。だから図書館かアマゾンの古本を買うということになる。ある作家を読むとその友人、知人などその作家の周辺の人の話が出るから、読んでいない人に当たるとそれをアマゾンで買うとか図書館で拾うという繋がりで、新たな地平が自然に広がるからいくらでも読書はできる。彼らは既に鬼籍に入った人も多く、元気な人も既に鬼籍を意識して残りの命をテキストの成立に命がけだから売るために書くという力の入りかたは無い。その脱力しているが、何かを憂いたり、後に残るものを心配する眼差しは大人だなと思う。老いるという自覚をどのように彼らは確認するのだろう?五木は大の車好きだったから運転を諦めたのは何故なのかをエッセイで書いていた。
仕事で東京と関西を頻繁に往復することの多かった彼は、新幹線によく乗った。そしてひかり号が通過する駅の駅名の掲示板の名前を読むというのが趣味だったが、いつからかそれが読めなくなったという。動体視力の低下である。駅名の順序は無論すべて記憶しているから次が何かはわかるのだがそれが視覚として読めないという状態になった時に、好きな車を止めたという。利口な人である。己を知っている。趣味のもつリスクとそれ以外に軽々と心の方向を変えることの軽妙さ。「俺は若いから大丈夫」なんて粋がって無理をするのがアンチエイジングなんだという阿呆が多いなかで頭の良い人なんだなと思う。どこかの頭の悪そうな俳優を若作りにしてサプリメントの広告に使っているのを見ると、大衆はこうやって死ぬまで騙されるのが嬉しいのだろうなあ、、とため息が出る。趣味というのは単なる暇つぶしだから対象の問題ではない。心が遊ぶということが出来ればなんでもその人なりの趣味になる。だから趣味に高尚も低俗もない。金も関係ない。対象に対して自分の向き合い方の問題ということである。いかに真剣かというだけのことだろう。真剣になればやるほど疲れるから、後でホッとする。それは良い息抜きとなるはずだ。
 料理は生活だから趣味とは言えまい。それでも凝ればいくらでも凝れるから、作った食事が新しい味となることは新鮮な感覚となる。プロの料理人は、素材、温度、組み合わせなどどうやったらそれらしい美味しいものが出来るのかという定石を知っている。だから料理の全く出来ない人でも、ある人のレシピ集を全ページその通りに作ってみるという経験を面倒がらずにやってみれば、今までとは異なった家庭料理というものが食卓に並ぶことになる。難しいことはしなくても良いのだ。最近は男も料理をするようになった。単身赴任とか生涯独身とか状況の変化もあるのだろうし、マダムや彼女が料理をしなくなったという事情も関係するのかもしれない。我が家の娘の料理はド下手である。たまに山に遊びにきて野菜炒めひとつやらせても旨くない。亭主がかわいそうだとおもう。仕事と子育てに忙しいから料理どころではないのだろう。だから代々木上原の「ジーテン」という吉田勝彦さんの中国料理店に連れて行って、こういうのが旨いというのだと奢ってやったことがある。お店で「せんぶ10分のフライパン料理」という彼のレシピ集があったのでそれを買って与えた。炒める、蒸す、焼く、揚げる、煮るを全部10分程度でフライパン一つで出来る優れたレシピ集で、このおかげで僕の食卓は随分と豊かになった。たった1600円の本を読んだおかげで美味しい中国料理を堪能できるのだから、こんなに簡単で安い投資は無いと思う。これで孫たちの味覚が少しはマシになるんだろう思う。
 春はバジルやルッコラ、パセリなどをプランターに植える季節だ。この種のハーブは肉料理やピザなど洋風料理にはかかせない。ハーブ一つで料理の風味が劇的に変わるし、たくさん必要なものではないから、毎春苗を買って来て植えることにしている。だから春から秋まではテラスはそんなハーブのプランターで賑わう。これも植え方の本を買ってきて、古い土を日光消毒して追肥をして植えるということになる。土をいじるというのは50年ぶりぐらいじゃないかと3年前に思った。それぐらい都会の生活に土というものが無くなって久しい。土の粒子や匂い色、そんなものを意識するような生活環境になかった時間が50年も続いていたということなのだ。いずれ人は土や灰に帰るはずだから今のうちに自分の行く末を見ておくもの良いだろうと思っている。
日野啓三の「砂丘が動くように」を読み始めた。東大の共産党細胞である辻井は日野を回顧録で書いていて、僕は日野を知った。静謐なテキストである。読み始めて無償に砂丘が見たくなった。そのうちに鳥取にでも飛ばすかな。

場帳雑感

4/11 372
4/14 126  と年初来安値銘柄数は急減した。多分両日が目先の底だったと後で確認することにまた今回もなりそうだ。場帳でも両日が底の低位株が大半で、陽線でコツンときた感じは2月、3月の安値時と同様だからおそらくまた2週程度の戻りに成るんだろうと思われる。何度も何度もこうやって底を固めて戻すの繰り返しをずっとやっている。昨年6月から程度の差はあるにしてもこのような限られたレンジの往来を繰り返しながら出来高が減少して人気離散の低位株が大半という場帳の状況に変化無しというところで、いつ動意づくのかはわからない。
昨年春の高値時の1/20 1/30 に萎んだ出来高の低位株が多いのが昨年の場帳で確認できるだろうと思う。閑散に売り無しの局面だろうと個人的には思うのだが、、。下値でも閑散、少し戻しても閑散、結局いつでも閑散に売り無しということで僕は1枚も2月から売っていない。利食いが出来るものも無いではないが、なんか売る気にならないのだ。気に入らない時は何もしないのが僕のやり方になっている。
topixの下ヒゲも毎回1120程度で下げ止まり反発するという繰り返しだから、結局上値は重い、下値は硬いという上下が変わらない値幅で売り買いが拮抗している状態がかれこれ10ヶ月に及ぶ。いずれどちらかに離れる事は時間の問題であるが、僕は場帳やグラフから上だろうと感じているからつっこんだらポツンと拾って放置するだけで戻りは売らない。というか利食いしたいほどには上がないから売らないだけの事である。
それでも3月は安値で短い陽線に転換したものが急増しているのは良い兆候だろう。4月の前半は7、8手押したものが多いようだが、また3月同様5手も戻せば陽線になるものが多いと思うから、新聞の書くような暴落という感じとは低位株はほど遠い。昨年6月の突っ込みの安値に顔合わせで、毛抜きの形になれば底入れ完了と成る線組だし、そこを下に抜ければまた当面は調整ということになるんだろう。いずれ時間がくればわかることだ。一番増益率が高い日本株が一番下落率が高いというのも不思議なものだが、それは外人比率が高いせいでボラが上がるということが起きている。為替が少し円高になれば、円売り株買いのアセットのアンワインドが自動的に起きるから無条件に株は売られるということが起こるのだし、国内はちっとも買ってこない(個人、金融法人、投信)から外人が売った分だけ下がるという事が多分起きている。まあ昨年来14兆も外人が買えば、何割かの利食いが出るのは当然だから、それが一巡するのには日柄が必要なんだろうと気長に調整完了を待つしかないのだろうと思っている。こんな時は長いグラフでも見て、結構底が硬いな、指数とはまったく印象が異なる。
 国内の実需景気は確かに増税の影響や予算規模の縮減で3−6ヶ月はもたつくことが当初から予想されているし、それは株価的には織り込み済みだろう。駆け込みで大きな物を買ったのは需要の先食いが起きてしばらくは閑散となるのはやむをえない。住宅とか自動車とか白物家電とかはそういう動きになるはずでそれも織り込みと思われる。一級建築士に聞いた話では、3月までの税を意識したリフォーム需要は単価の低い人が神経質だったということだった。自動車も軽のような安い車の人が気にしていたようだと言う。100万で3万、150万で4.5万だからそれがどうしたという気分の問題のような気もするのだが、貧しいに人は切実なのかもしれない。でも慌てて無駄なものを買ってもしかたがないから必要な物以外の先食いはそんなに無いんじゃないのかな?僕はおつきあいでピースというタバコを3カートン買っただけだから、30日でもとの消費に戻ることになる。600円分の節税だから意味は無いのだが、形だけ増税に反対の意思表示をした。需要不足の国が消費に増税してどうするんだ?税の設計全体に瑕疵がある。日本は常に貯蓄超過だから消費は振興するべきだから物品税も含めて無税化して、贈与税と相続税を100%にするべきだろう。財産は一代かぎり本人かぎりでおしまい。次世代はゼロからスタートすれば、きちんと人生のスタート時点は公平である。親の金と力が次世代に及ばなければ子供も自分を信じて努力するしかないと本気になるだろう。年金も65歳スタートで75で打ち切り。後は金のない奴は勝手に死んでくれというのが宜しい。それなら長生きするには自分で働くはずだ。自立するシニアが増えないと若い人はたまらんだろうと思う。まあそんなことしなくても年金破綻は確実だからそれに近いかたちにそのうちどうせなるんだろう。無い袖は振れないからだ。国家が財政破綻すればどうせIMFが同じ事をするだろう。ギリシャを見れば分かる。
別に生きて行くだけならそんなに大金はいらない。老人は田舎に住めばお金はほとんどかからない。老人が低コストで生活するようになれば、都会は若者の比率が上がり、家賃も下がり暮らしやすくなる。あの狭い東京でわざわざ老人が住む必然性などないだろう。地方に老人が移れば、医療機関や介護の需要も地方に移る。バランスが都心に集中しないから時間効率が上がると思われる。東北復興に老人都市を造るのも良いだろう。老人特区を作って、老人向けの姥捨て山のデスニーランドだ。やばいものもなんでもありだ。不良の爺婆が集まるとある種、壮絶な世界が生まれるかもしれない。実験として実に面白い。安全、安心の真逆の発想で危険で悦楽というのはどうか?治外法権で賭博、麻薬、売春、銃器、臓器売買なんでもありだ。ただし65歳以下は入場お断りだ。ゴールドパスを500万で売る。速度制限なし。300キロでも400キロでも規制無し。年を取ればデタラメが出来ると思えばそれがしたければ金儲けや長生きしようと思うだろう。金の使い道も大きく変わるだろう。だって相続できないとすれば使い切る以外に方法は無い。そんなもののためにせっせと貯金などするやつの気が知れないという気分の不良老人が増えればある意味迫力満点だ。老人力が爆発してGDPも爆発するかもしれない。ロシアの平均寿命は男性で64歳なのだから日本はそれに比べてすごく長生きなんだから、残りはイケイケドンドンやっても罰は当たるまい。どうせなら第三の矢で画期的な規制緩和やってよ、阿部ちゃん。
自由と公平はほとんど両立しない。自由を許せば強者の総取りになりやすい。アメリカを見ればよくわかる。それではやがてシステム自体がどんずまりだ。算盤もご破産に願いましてというだろう。だから死ぬときはご破産になるようにしたら貯蓄に時間の制約が起きる。それで次世代の公平は最初から担保出来る。こんな例は世界初だから試してみてもよいかもね。憲法解釈で軍事参加するより格差のほうが国家100年の計には切実なんじゃないのかな。資本主義の新たな未来になるかもよ。
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五木寛之の「退屈のすすめ」というエッセイをぱらぱら見ている。「人間は退屈する。そして退屈のなかから文化は生まれた。大リストラの時代の渦のなかにあっても人間は退屈する。光陰矢の如し、と嘆きながらも退屈するのが人生というものだ。日々のビジネスの世界とかけはなれた分野で遊ぶ。それは退屈を感じる人の特権である。どうでもよいような主題であればあるほど、生きていることの本質に近づくのだ。」
 もう10年以上前だったろうか。日曜日の夕暮れ時、季節は晩夏だったと思う、六本木の堀江モンが住んでいたあの巨大ビルの1階のスターバックスがあるアトリウムの前で一人ほつんとコーヒーの紙コップを持って五木サンが静かに佇んでいたのを偶然目にした記憶がある。愛読者というほどではないにしろ、5−6冊は読んだ記憶があるから「大河の一滴」ぐらいから、彼の人生に対しての諦観と弱者へのやさしい眼差しは好感が持てる。そのやさしい文体のように、大作家でもこうして夏の夕方に繁華街に出て人間の観察をしているんだなあと連れていたオネーチャンに「ほら、五木がいるよ。」と言った覚えがある。彼は自動車が趣味で、そんなエッセイも書いていたのを思い出す。BMWやメルセデスに乗って首都高で警察と追いかけっこなんかするけっこうやんちゃな中年不良だった。満州から引き上げて酷く苦しい経験や肉親の死に直面して、厭世や諦めや絶望や様々な地獄をくぐり抜けてきた人だし、その後の作家としての成功はあったけれど、どこか世の中を斜めに見ているところがあって大人は良いなあと子供の僕は思ったものだった。
 彼も外車好きだ。現在の住まいは30年前に980万で買った古くて狭いマンションにずっと住み続けているらしい。その住居の数十倍のお金を無駄な外車に乗って来たと書いているから億単位の下らない趣味にお金を使ったという意味では僕も同類だから酔狂な奴なんだろう。280SE600に乗っていたというからあのミディアムクラスにV8の6000ccを乗せた羊の皮を被った狼である。メルセデスのデカイV8好きはいわゆる「旦那車」の極地であるから乗り味としてはケツが綺麗に滑る、その滑り方に面白みというものがある。だから僕は2台ともそのエンジンの車に今も乗っている。趣味というのは利殖や経済とは反対のベクトルで成り立つ世界であり、だからこそ面白い。奢侈が文化そのものであるというのは、人間の矛盾こそが文化の本質であるということの象徴だし、どんな文化もすべて多くの犠牲、供儀無しには成立しないことを証明している。だから一見馬鹿らしいことを人は余裕ができるとするようになるというのも当然の事であると言えるのだろう。その馬鹿らしさに到達するかしないかの水準と程度の差というだけの下らない話なのかもしれない。
 若い人が車に乗らなくなったらしい。トヨタの社長がそう嘆いていると聞いた。「それはあんたのせいだろう。プリウスやミニバンばかり売るからそんなことになるんだよ。てめえの商売棚に上げて、効率ばかり追求したら、身も蓋も無いことになるぐらい、若者はお見通しなんだよ。それぐらい若い彼らは予定調和に慣れているんだ。だから若い時にはすこしやんちゃなぐらいの冒険を経験しないと面白いことに反応するような芽がでないことぐらい早く気がつけよ、ボケ!」と僕などは思うのだ。ほんの少しだけ金を人より多く支払って経験出来る特殊な感覚があるとするなら、その少し特殊な感覚の世界を目を瞑って経験しようとする欲望ーーそれを勇気というんじゃないのかな?
みんながみんな安心、安全なんてありもしない幻想に惑わされて楽しみを追いかけなくなってしまったから世の中がつまらない事になったに決まってら。なんでも感覚的なものっていうのは、理屈じゃなくて自分がその世界に身を置いて怖い思いをしてはじめてわかるものだろう?車でも女でも金でも相場でもみんな同じじゃないのかね。だから半端はだめなんだよ。何かをすることで必ず失う何かがあるからこそ、その何かに本当の意味があるのがその時に初めてわかるという事なんだろ?
それが嫌ならいつまでたっても楽しい世界が自分の感覚のなかで生まれてくるはずもないことぐらい普通の常識人の大人なら誰でもわかるはずなのになと思うのだが、大人もいつの間にかそういう馬鹿をしなくなってしまった。哲学者の鷲田清一がどこかで書いていたけれど「アホになれんやつがほんまのアホや」というのは真実だ。しらけていないで、何かに夢中になる。馬鹿らしいと思っていても何か自分が決めことに夢中になって本気で取り組んだら状況は自然に面白い物に嫌でも変わってくるからだ。それにのめりこんで、首までどっぷり浸かったら普通の生活なんてしたくても出来っこ無いほどにすぐになる。金なんてあっという間に無くなってヤバい状態にすぐになる。それでも一つ何かを追いかけているうちに状況というのは変わるものだ。良い方か悪い方かは別として。(大抵はさらに悪い方に変わるけれど。(笑)それでも人間は死なないよ大抵は。それができない理由を、家族のせいとか会社のせいとか社会のせいとか、くだらん理由で正当化することでなんとか保とうとする卑屈な自分がいるだけだ。そんな事が分かるだけでも良い勉強に成ると思うのだが。出来ない理由は本当はダメな自分のせい以外には何も無いんだよ。そこからしか新たな自分なんて出来っこないことぐらい自分でもよく知っているんだな。だからアホなやつの書いたブログが一番面白いんだよ。そこにはなりたい自分がいるからさ。

 僕の活字中毒は実はそんな理由からだ。テキストはフィクションであれノンフィクションであれ、時間や存在を超えてテキストを書いたそんな世界中のアホがそこにいるからだ。学びというものはそんな彼らのテキストに触発される自分からしか始まらないと思うからだ。
その意味でも中古の外車趣味はなかなか暇が潰れて楽しいよ。W6ダイムラーを夏の都会で一度でも乗ってみれば、妾を囲うよりも手間暇と金がかかる。車の値段の数倍の修理費が毎年多分かかると思うけれど、3速しかないGMの変速機のリッター2−3キロしか走らない2トンオーバーの車の猫足のしなやかさという意味を救える。それがイギリスという国とドイツという国の違いだということが身に沁みてわかるということだ。そいういうアホが少なくなったけれど、、。そんなにみんながみんな良い子になっちゃって誰に褒めてほしいのかな?と思うんだけど、そんなつまんない奴誰も相手にしないんじゃないのかな?

時間のポトラッチ

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山笑うという言葉がある。春が来て山の草木が一斉に咲いているという状態を「笑う」と例えるのだろう。散歩を5キロほどした今日は「山は爆笑!」という感じだった。場帳を書くおかげで今日は平日でないというのはとりあえずわかる。マダムがいるからきっと日曜日だ。習慣というのはすぐに消えてしまうもので、日曜も土曜も平日も祭日も忙しさという意味ではあまり変わりない暮らしになって随分と経つ。唯一相場が自分と世界を繋ぐ具体的なアイテムであるから、それでも行為(実際の売買注文行為)の頻度はすごく少ないから、繋いでいるのは場帳の筆記以外に毎日の仕事はない。ある意味で仕事というよりは坊主の「写経」に近いのかもしれない。相場教という宗教の呪文。ただただ慣れた銘柄の数字を書く。数字に大きな意味などなくて、上げたり下げたり持ち合ったりがわかるだけのことだ。それも大きな数値の変化はほとんど起こらない。その確認のために毎日2−3時間を費やす。数えてみたら、場帳一行に出来高と陰陽まで入れると6つの数字を書く。250銘柄だと毎日1500、一月21日として31500の数字を書いていることになる。こんなことをしても誰の役にもたたない。社会的な貢献は何一つ無い。あるとすればインクと紙の消費で少し貢献するだけだが、実際はゼロと同じようなコストでしかない。だから取るにしろ取られるにしろ、仮に僕が社会的動物でいられるためには(別段いられる必要性はあまり無いのだが)、相場とは別の種類の貢献をしないと社会との接点がなくなる。だから少し人様よりは多めに消費行動を行って需要に貢献しようとする。「贅沢は素敵で大好き」だからその意味では少し社会のお役にたてるかもしれない。それでも人は一日10回もご飯を食べられない。太りたくないし食欲も強くないほうだから2食で十分だ。すると需要量的にはちっとも貢献などできない。他人様のブログなどを見ていると、シニアの主婦ブログでは食卓いっぱいにいろいろごちそうが並ぶ。とても僕はあんなに食べられないし、作れない。きっと半分か1/3ぐらいだろうと思う。だから少し単価で貢献するしかないのだが、牛乳は200円だし(2000円のそれは無い)卵は300円だ(1パック)。それ以上の単価の商品はここいらでは売っていない。だから食うために働くと言っても食うためという言葉通りの事なら働く意味などもうなくってしまってる。食う以外にも着るとか住むとかのために働くというのでも、着るは一生分でも消費できないほどの衣料品を持っていてどれを棄てるかいつも悩む。住むにしても掃除を考えると100平米で十分足りるから新たな需要は既に無い。価格選考という比較の世界から消費だけでも離脱したいのだろうか?
このような飽和状態を突き破るのに、北アメリカの先住民はポトラッチという習慣を持っていたとマルセルモースは述べている。
交換経済ではなくて、贈与経済。ポトラッチのように贈与と対抗贈与というのは、等価交換という西洋の習慣の外にある。それは地位、身分、権力、財力を背景にした政治と経済が混合された何かである。つまり贈与政治経済を支えるものは結果的には権力構造の維持なのである。これはリベラルには受け入れがたい。僕は維持よりも逆転を好む。つまりどうやって現状維持という政治体制を転覆するかに快楽を感じるタイプなのだ。工場長のレクサスを非正規のランボルギーニが、「おまえなんかに使われてたまるか」という偏固物のリーマンが、「ここは下がっちゃおしめえよ」という勝負師が、という主体の語りかけるテキストの真意は逆転であり、革命であると僕には読めるのだ。テキストの解釈は無論自由だけれども、、。
 山を歩いて笑いを見れば、そういう世界とも無縁になる。きっと10種類以上の草木の花々が咲き乱れている豪華な日曜日がそこにあるだけだ。
シダレザクラ、ソメイヨシノ、レンギョウ、ツバキ、サザンカ、スミレ、モクレン、ハクレン、ユキヤナギ、ウメ、モモと彼女たちは一斉に咲き誇る。人間とは無関係に時が満ちれば咲くのだ。彼女たちは意味などちっとも表象しない。ただ時間と温度と光に反応して花を咲かせる。それでいいじゃないか?植物や動物は今を生きる。明日も昨日もきっと考えたりなどしないだろう。仮に人間が今日だけに生きたら、世界はもっとシンプルになっただろうし、維持も逆転もあまり考えたりしないだろう。人間が植物や動物とどちらが賢いかなんて彼らは考えないだろう。考えているのは人間だけだろうが、その考えている人間は考えない植物や動物のおかげで生きながらえているのだ。考えても考えなくても生き物はその本能によってなんとか生き残るという事実がきっとあるだけなのだろう。考えるということが本能の一部となったかどうかは別としても、、。
 西行という変な坊さんはそれでも自分の死に方にスタイルを望んだ。如月の満月の頃、花の咲き誇るころに死にたい。如月は2月だが旧暦だから今の3−4月の頃だ。花は桜ということになろう。社長の女をこまして武士をリストラされて坊主になってそれでもしぶとく生き抜いて行く。諦めても諦めないヘソの曲がったチャレンジャーだが独特の美意識が歌に表れる。知性と知識が別物であることが伺われる。1000年前にこんな男がいたんだよととても僕などは励まされる。金と権力から離脱できた彼が時間だけは離脱することが出来なかった。最後の望みは時間の選好ということだったのだろう。だから春は豪華な欲望の季節ということになる。命と引きかえにするほどに豪奢な、、。

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機会があったら「林サンを偲ぶスケベな勝手弟子の会」というのでも内緒でいつかやりたいなと思う。参加資格は月足グラフ最低1000枚なんて言ったら何人来るかな?少し下げて500枚ぐらいにしたら50人ぐらいはいるかしら?現在の東証一、二部の全銘柄は3000ぐらいだったはず。低位株はまだそれでも1000前後はあるだろうから500枚ぐらいは書いていないと実際の市場全体の動きはわからないだろう。桜を愛でて酒を飲んでネーチャンいっぱい呼んでスカートめくりとかダメかな?相場師はスケベが多いと思うけどなあ、、参加費30万ぐらい取ってさ。
 猫塾の時は最初、パークハイアットの梢という和食レストランで5000円ぐらいの不味いランチを食べた。50−60名ぐらいは集まったと思う。価格設定を3万円のランチにしたら10名ぐらしか来なくて中身がずっと濃くなったろうとその後反省したのを覚えている。相場研の総長とかファンマネのWさんとか昨年6割で転がしたAさんというガールフレンドとかその時に知り合いになったのがなつかしい。昼から始めて、ランチの後にお茶になってたぶん6時ぐらいまでダラダラなんかミーハー話で盛り上がったように思う。その頃の人たちで生き残ったのは何人いるんだろうな?基礎が出来ていればどうにかなっただろうけど、相場が崩れて売りの時間帯に変わってから動けない、投げられないという人たちは多分固まって死んだのだろうと思う。押し目を買うのと戻りを売るのは場帳で見れば同じ場所なのだけれど、動作の順序が逆だと自分で実行してみるまでは売りに変な恐怖感を持っている人が多くてなかなか玉を重ねて上で売れないという経験をする。ちょっと担がれただけで青くなる。トイレで新聞をコワゴワ開いたなんて笑い話にすぐになるんだな。買い玉なら現物200枚も建てていた人なのに、売りだと10枚も建たないのだ。これではバランス上損を取り戻せるわけもない。ビビって塩漬け死後硬直でお休みというのが大半だったろう。初心者が場帳を書くのを止め、グラフも中断すれば感覚なんて3か月でゼロに戻る。理由を聞くと「売ると怖くて眠れないのです。」そんな答えが返ってきたように思う。もともと林さんは買いよりは売りの好きな相場師だったのだから、上げの時期はFAIだけやって、買ったら買いっぱなしでろくな玉操作なんてちっともしなかった。最後は体調不良で感覚に狂いが出たのが2008年1月に投げたけれど、それでもまあ上手に投げたと思う。投げたのまでは知っていたが、その後も仕切り直して結構早めに買い直し始めていたようだった。林さんの事務所の近所の漢方医が偶然に僕のかかりつけでそこに先生も来ていたらしい。転んで腕を骨折したと聞いたから、場帳もグラフも難儀したことだろう。老化で体力と気力が落ちれば相場は曲がるに決まっている。そんな彼も2012年に亡くなった。慎んでご冥福をお祈りしたい。
老練なプロ相場師だって天井や底なんてまぐれでしか当たらない。「曲がってばかり」と笑いながらそれでもなんとか飯が食えるのをアマチュアは不思議に思うらしい。プロになったら、ピタ、ピタとなんでも正確に予測できると思い込んでいる人がいるから「それは違うよ、わかるわけないよ。」と何度も言うのだが、言わないまでも「底値を当てる方法を教えてくれ」というような目で常にこちらを見るから困ってしまう。
「そんな方法なんて無いんですよ。状況で値は変わるから、そんなこと当たりっこない。明日の上げる下げるだって5割以上の確率では当てられない。だから当てられないということを前提に僕らは相場を張るんでしょ?当たると思えばなんで僕が分割するのよ。論理矛盾だと思わない?」といくら言っても信じない。こういう人種を僕は「火星人」と呼んで世界で一番接近したくない種類の生物だ。だって近くに寄るとド下手が伝染りそうな気がするから。だから火星人の匂いのする質問がくると僕は黙る。臭う質問が増えてくるとしばらく書かない。早くここを通過してどこかよそに行ってよ。何も猫の世話なんかしなくていいじゃいの。質問の大半が匂いがするから困るんだけれども、俺は教師じゃないし。質問なんてどこかよそでしてくれ。でも火星人の中に地球人に変わりそうな人も極まれにはいるというのが悩ましい。最初は全員が火星人だから、地球人になりそうな火星人を見分けるのは容易ではない。悪趣味と言えばそうに違いないのだが、そんな昆虫の変態みたいのが少しは起きると今よりは楽しい世の中になるだろう。だって年収200万以下の派遣社員の小僧がいきなりランボルギーニで通勤をはじめたら、レクサスに乗るトヨタの工場長はきっと資本主義の生産効率の優位性の説明に困るだろう。カイゼンの効用って会議で社長はなんて説明するのだろう?なんか理由を見つけて工場長は派遣切りをするだろうか?僕は左翼だからそんな事を夢想してブログを書くのもちょっと楽しい。「造反有理」なんて毛沢東のTシャツ来てメルセデス転がすと三島では浮く。そんなヤーさん見たことないし。左翼ってメルセデスと親和性が全くないのね日本では。でもトロツキーがロールス4台パリで持ってたの知ってる?金さん親子もドイツ車好きでしょ?(爆)日本共産党の志位サンにはどうかフェラーリぐらいは乗って欲しい。エコカーじゃ若者はがっかりするんじゃないのかな?火星人の相手をしても実際はランボルギーニが一人生まれる間に、ホームレスや自殺がその1000倍きっと出るのだろうけれども。だってノマドロジーの逃走線なんて誰も考えないぐらいに毎日のお仕事に彼らはきっと忙しいからねえ。

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」
秀吉は辞世でそう読んだ。ハルトモさんが教えてくれた。山の桜ももうすぐ終わる。でも西行の辞世も素敵だな。東国一の武士も帝の女に手を出してそれで坊主になったから、坊主になるにもスケベが必要だということだ。帝の女に手を出すぐらいの命がけの恋じゃないと何世紀も生き残る素敵な歌は詠めませんねえ。結局はいつの時代も染色体の不足が原因で器官なき身体の供儀となる男たち。全ての男は消耗品であると言い方は異なるが村上龍も言っているな。文学の結論と相場の結論もはやり同期する。トヨタの社長の奥さん手込めにするような係長が出たらレクサス買ってやるけどね、多分その頃には日本車も少しは楽しいだろうからねえ。(笑)
 今ダイヤランドは鶯と雲雀の大合唱で朝が明け、幻想的な夕日で暮れる。こんな生活を昔から日本人はずっと続けてきたのだろう。盆と正月しか百姓にはハレは無い。今の都会人の4代前はほとんどが百姓だ。だから遺伝子が隣の芝生が気になるの。毎日、毎日田を耕して水をやり草を抜いて刈入れをして脱穀し、俵に入れてその米を売った。米は通貨そのものだった。米は回船に乗り浪速に集まり堂島に相場が建った。世界で始めて先物相場が建ったのが堂島だ。百姓は相場は張らないというか張れない。相場を張るのは商人だ。商人は隣の芝生は気にしない。秀吉が大阪城を作らなかったら相場が堂島に建ったかどうかはわからない。酒田罫線はそんな相場の道具として生まれ、改良され口ずてで伝承され現在に至る。電子機器が発達した今、そんな骨董品のような道具を使うのは非常識と思う人が大半だろう。そんなものがあるなんて知らない人のほうが多いだろう。そういう人が多いうちは多分僕は寝ていても儲かるということが今まで通りに続くのだろうと根拠無く思う。相場で残るのは常に少数であるから、多数の方法論は常に負け戦を宿命としている。でもいくら儲けても金は金でそれ以上でもそれ以下でもない。記号と幻想のうちは何の役にもたたない。浪速のことは夢のまた夢だ。きっと器官なき身体に受肉させるために性という機能を神は人に与えたのかもしれない。例外無く宗教は供儀とともにある。父と子と精霊は資本と利潤と幻想の三位一体と相似する。これ思想史的にはノーベル賞もんじゃないかと思うんだがね。でも多分禁句なんだろうね。
都会を離れて田舎暮らしもあっという間に3年だ。もう3回も見事な桜を見た。暇つぶしの隠居にも花はある。来年もまた元気で花見が出来たら良いのにな、、。金なんて無関係に花は咲くからね。
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