ここから本文です
猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

記事検索
検索
イメージ 1
大学で近代経済学の基礎をすこし学んだ人なら、景気のサイクル論というのを覚えているだろう。コンドラチェフ、クズネツク、ジュグラー、キッチンの4サイクルで、それぞれ超長期の60年から20年、10年、4年の短期までそれぞれの波が合成されて景気変動が起きるという仮説である。無論仮説だから、サイクルの強度について様々なノイズが入るのは当然であるが、その強度と速度に関しては様々な係数を複合的に用いて計測している。銀行系の経済研究所などがこの調査をしていて、三菱などは有名だと思う。NYでガス爆発が起きて雑居ビルが崩壊したニュースをwebで見たが、このビルは100年以上たった老朽化したビルだったらしいから超長期の建設投資になんとか耐えて来たが最後に悪魔が待っていたということになったのだろう。だから人間の作ったものは何であれいずれ寿命がくるので、その寿命が来る前を見越して作り直すということが延々と繰り返されるという事だ。今まであった橋が地震で壊れて落ちれば掛け直しをしないと通行出来ないから不便だ。すると新たに需要が生まれる。まず古い橋を取り除くための撤去需要、次に新しい橋を掛けるための建設需要だ。設計から材料の調達、基礎の建設、架橋、道路の整備と多くの企業や人がかかわる大事業が生まれ、資金需要が発生する。債券発行で(国債とか地方債)資金を集め、セメントや鉄やアスファルトや塗料、建設や運搬の重機が大量に消費される。建設する人の弁当代や交通費までそれには含まれる。だから自民党は箱物を作るのが大好きで、景気が悪くなるとすぐに何か大きなものを作りたがる。今回はオリンピックを引っ張ってきたので、これに関連する施設や周辺整備を大々的に行うのは既定路線となったから2020年に向けて東京周辺で大きな建設需要が起きるのは確実となってそれを見越して昨年秋のゼネコン株の急騰が起きたのだろうと思われる。こんな大きな高価なものを誰の金で払うのかといえば税金が大半だから、赤字が増える。赤字は国債でとりあえず発行すれば良いし、現在のようなゼロ金利ならいくら発行しても金利などたかが知れている。1000兆円という天文学的な借金と言っても金利は1%なら10兆円だから、消費税を少し上げればなんとかなると自民党は踏んでいるのだろう。デフォルトするんじゃないかと心配性の人は危惧するが、もしそうなら金利が既に急騰しているはずであるが、国内金利は世界で最低を更新しているから杞憂というほかない。民間の貯蓄が膨大でそれが使い道が無く、銀行預金の大半は国債で運用されているのが実態だ。だから預金者が預金を引き出せば国債は売られ、金利は上がる宿命にある。ところが不思議なことに日本人はいくつになっても貯金するという癖をやめようとしない。わずかな年金で暮らす人でさえ、その中から少しでも将来のために(年金受給者の将来ってつまり死ということだろ?笑)貯金をしてお金を使わない。金さん銀さんのコマーシャルの通りのことが普通に行われてる。貯蓄がゼロの世帯は全世帯の1/3近いというデータがあるが、これは非老人世帯の低所得層が大半だろう。離婚した子持ちの女性などがこれに当たる。こうして溜められた金は老人の死亡によって相続され子供たちに引き継がれるが、高齢化が進んだために80−90歳の老人が死んだ時の遺産は50−60歳の子供たちのものとなって、結局若いお金の必要な世代には届かないケースが多いようだ。こうした好ましからざる現状は経済のせいというよりは社会の権力構造と既存秩序の因果関係で発生するからおいそれとは対策よって解決不能である。これらの相続世代は将来を考えて積極的な消費をあまりしないから、結局預金のまま市場に出てこないという繰り返しが起きている。だから金利が上がることがないし、そうした傾向は定着したようだ。
 さて人間の寿命が80年として20歳までは働かないとすると実質的に働くのは多くて60年である。これはコンドラチャフサイクルと一致する。仮説では超長期サイクルはインフラの更新や技術革新のサイクルとあるが、それは人の入れ替わりによって起きると推定されまいか?すると現在の遺産受益者がすべて消滅する30年後ぐらいには少子化した世代がこれらの遺産の受益者として積極的な消費をし始める可能性が残される。それまでは多分経済や消費全体はお先真っ暗であるという事態が続きそうだ。新世代は2つの両親から2つの家を相続する一人っ子というケースが多いから、片方を売っても家はタダで手に入る。半分になった人口で遺産の売り食いをしても豊かな生活を受益することが可能だろう。それまではおそらく現在の消費傾向に大きな変化は起こらないと僕は見ている。翻って景気サイクルと株価のサイクルを比較してみると面白い。20年のクズネツク、10年のジュグラーを見ると、バブル時に派手に上がったのは都心部で大きな建設ビル投資やリゾート投資が行われた時期と一致する。それ以前は株価のピークは6507で見ると次の通りだ。1968 1974 1980 1986 1989 1996 2006 年にそれぞれサイクルのピークが来ている。間隔は 6 6 6 3 7 10年となっている。86年までは6年サイクル(設備投資の10年の約半分6で)89年は一気に3倍化したので期間短縮が起きた。大天井をつけたので後は下落のサイクルは上昇期間の2倍前後になる。3の倍で7 6の倍で10と定石どおりの動きである。今後2006プラス10で2016に次のピークがくるかなと思って僕は少し仕込み始めた所だ。160円が800円か1600円かはわからんが、多分大きく上がるだろうと思ってる。
 金融商品の価格変動というのは基本的には金利と企業業績と資金余剰が決定因だと僕は思っている。日本は、というより先進国の富裕層では資金は有り余っている(偏在しているといったほうがよいか)。死ぬまでに自分の稼いだ金を使い切れないし使う具体的な対象がもう無い。全部いくつも持っているのだ。買い替えようにも更に魅力的な商品はほとんどないと言って良い。ベンツは2台あっても1台しか運転出来ない。さらにベントレーやロースルを買っても近所から白い目で見られる。(あいつだけ良い思いしやがってズルい!という嫉妬の塊だ、日本人は。していることの差を棚に上げて結果は平等でないと気に食わないという不平感情は農村文化そのものだ。)だから金持ちの金は安全かつ効率的な運用先を探して動き回るという性質は変わる事がない。すると数年のタームでは誰もが上がる物を買うという追随的な動きになるのは当然で、それ以前の段階ではもう下がらないものを買ってみるという初動の動きとならざるをえない。上がり切った債券を売る動きが今後顕著になれば、債券を売った損失を何でカバーするかは、債券の下落以上の上昇を期待できる商品=株式と不動産と商品(原油、金属、穀物など)以外にはない。だからそれがスパイラル状に交互に上昇するということになろう。市場規模と流動性からして株式が本命であるのは言うまでもない。つまり幻想に投資する(これを普通の人はバブルという)以外に高い収益性を担保できないという現実に直面して、やはり毎回それを繰り返すというのが悲しい人間の歴史である。早めに乗って少し早めに降りる人が上手ということだが、大半は下手で遅いから天井で買って毎回損になる。50年ぐらいの長いグラフを書いてみると上記のようなことが薄ぼんやりとわかってくるのだがする人はほとんどいない。
 大震災が起きても、225が1000円下げても6507は150円をほとんど割らない。岩盤に達したものは下げようがないのだ。今日も163円1円安でいやいや連れ安だが動かないのと同じだ。何を言いたいのか?と言えば、仮に金が欲しいのなら当面は下げきった低位株を買うのが時間はかかるが楽に儲かるよということだ。林サンのFAI投資法にしても遠藤サンのやり方にしても同じことを言っている。前回は売り時期を失敗したから評判が地に落ちたようだがそれは個人の判断がダメだったということに過ぎない。上手く売り抜けた人もたくさんいたはずである。デフレ継続を読み切れなかったというのが後追いの理由だろう。賃金上昇が嫌々ながらも今年は起きたという事実を軽視してはならない。ドケチのトヨタでさえベアが上がったのだ。購買力の低下はこれで少し緩和されるだろう。でも不公平な世の中のお金の仕組みは今後も酷くなるばかりだろう。金持ちに更に有利な状態は少なくとも次の選挙までは続く。その間にどう自分が動いて市場から金を取ってくるのかが相場師の仕事である。それには動きすぎてはいけない。玉を溜めて動き出すのを待つ。材料でドテン空売りなど狂ってもしてはならない。最近相談にくる大損のひとは底値から3−4倍に上がっている株を目先天井を狙って団子で空売りを短期に仕掛けた人ばかりである。ちゃんとグラフを書いていればこんなところで売るはず無いところを売っている。そう思えないとすれば試し玉を使えないかおそらくちゃんと書いていないから感覚ができていないのだろう。団子の玉でも底値の現物買い玉ならそのうち上がる。だってインフレで通貨が膨張しているのだから時間が立てば当然だ。だから急いではいけないとクドイ話をするのだが、ド下手で欲張りの人ほど急ぎたがる。彼らにつける薬はない。破産しても多分直らない。博打好きというのはそういうものだからだ。それでも4回人生で破産して立ち直った林さんのような人もごく稀にはいる。それ(誤った行動)を直すのに彼がしたことは2分割の基礎練習だった。これが苦しくて続かないのである。失った金の大きさは自分の馬鹿さ加減と綺麗に比例する。それを認めることからしか立ち直れないのがこの仕事の苦しい所なのだろう。去年大損した人は売り玉を踏め。そこからしか再起は始まらないと思う。

のぞき趣味

イメージ 1
相場戦略研究所の総長のブログに一日の生活の概要が書いてあった。ブログはのぞき趣味と書いたがそのとおりだ。僕とは大きく異なるのに驚く!まず起床と就寝が5時間はズレている。(笑)僕はぐーたらで相場を重視した生活をしていないし、大体売買の頻度がおそらく数分の一か数十分の一だろうと思われる。月に少ない時は数回しかない。つまり何もしないで見ているほうが僕は多いのだ。場帳の手書きというのも違うな。総長は実に細かくリズムを取っているのだろう。一日のうちでも寄り成りもあるが、指値で後場寄り、大引け前と細かくザラ場を追っている。リンダラリーの短期売買の本にあったスイングトレードという奴だな。その人也のやり方であるからコメントしないが、僕は後場寄りは試しは追っかけ気味で落とすことはごくたまにあるが、大半の玉は朝の寄り成り一本にしている。酒田ならそれが自然だと思うせいもあるが、面倒なのが理由の大半だ。とにかく寄り成りなら値は一本で間違いが少ない。毎月ある程度の利益を出すにはこういうやり方になるんだろうと思われる。小動きの通い相場なら逆行3−5本の反対売買が細かく取れるのだろう。僕なんか居過ごしばっかしだ。(笑)
 4時起床で9時には就寝というのは中々真似出来る事ではない。僕は9時起床、25−26時就寝ぐらいが多いから逆転している。風呂は同じぐらい好きなようだが、酒は僕は飲めない。事務所があるなしも関係があるかな?彼のジャズは僕の読書と同じで趣味だろう。趣味の比率が多いのは同じだな。折れ線は2本と少ないのは何故かな?手間というほどの事も無い。僕は面倒だから毎週末にまとめて5日分80本ほど書くが2時間もかからない。大抵はどれも同じようなリズムになることが多いようだ。突っ込みはわかりやすい。月に1回ぐらいしかないので僕のほうが天底狙いの当て物臭いね。(笑)突っ込みを買えても今はほとんど戻りを僕は売らない。玉を溜めて放置が多い。玉帳を書くのが面倒だから半年ぐらいは、ほとんど書きたくないせいもあって、連休前とか年末とかにまとめて落として一気に書く。あまり値は気にしていない。利食いが出来そうな物は区切りのためにドカッと落としてしばらく休む。まあ好みということだろう。林サンに言われたのが「ゆっくりと売買しなさい。休みを入れなさい。」の2つだった。あれからもう18年ぐらい立つ。そのころ言われたことだけなるべく守れるような売買をするようにしている。
 現在のように指数が先物で踊るような動きの時でも、低位株は連れ安と連れ高が少しはあるが、大半はリズムの3手5手の反復で小動きであり、むしろほとんど動かないと言って良い。ちょうど2012年の春崩れた後の4−10月ぐらいの動きを50−100円上にズラした値動きになる。言ってみれば我慢比べで、動き出すまでは玉を適当に散らして溜める、その後の価格革命(俺が言うんじゃないよ、林サンが言ったの)を取れないと何をしているかわからないと思うので、利食いを入れないのだが、まあ革命がないかもしれないからどうでもいいけど、、。事実2012年は何もしなかった。動きが無いと2−3年は持ち出しの生活が別に不思議ではないというのが当たり前になっている。だって取れない時は取れないし、少しとっても意味がないから、いろいろまとめて1000万以上の利食い以外はあまりしたくなくのだ。100円で1枚10万円だから1000万なら100枚が100円取れる必要がある。昨年5月以来、そういう値動きになった低位株は上げではほとんどない。(秋に建設があったが)節税のために12月に落としたが、それがなければ建設以外はキープだったと思う。まあ結果は同じようなもんだろうと思うけど。それでも8013ナイガイみたいに夏に55円で買って12月に118円で売って倍加したものも少しはあった。これもまた100円割れから買い下がり枚数を5倍にして待機中。同じ物を何回も何回もやるのはうねり取りの特徴だが、つなぎはしない。面倒だから、、。売買をゆっくりするのには邪魔だし、それで食えるのだからそれでよしと思う。時間が立つのが早いと感じるのは年のせいだと思う。彼は僕よりほんの少し年下だったと思うがまあ同じようなもんだろう。年というのは生きて来た年数で58なら1/58 40なら1/40と年が分母になる早さの感覚に近いと言われているらしい。100だと20の人の5倍速く感じるそうだから、すごいもんだ。もう2週ほどで静岡は桜が咲くらしいから、あっと言う間に夏がくる。レンジの下限付近で小動きだから、そのうち煮詰まれば動くのだろうがそれはいつになるかはわからない。我慢比べの前半ということだろう。2005年は8月から動いた。まあ上げ相場だとすれば揉みの日柄は似たようなものだろうと当てずっぽうで何もしない日々が過ぎて行く。春がダメなら夏がある。夏がダメでも秋がある。それがダメでも正月がある。とどんどん利食いは後回し。(笑)なんか遠藤サンみたいになってきちゃったがまあいいかと思っている。彼は半年ぐらいかけて仕込み2−3年して2倍以上になって出来高が底値の20倍ぐらいを目処に仕切っているようだ。かなりゆっくりした売買で資産を作った人だが、バブルのピークで30億だそうだ。そんな大金を何に使うんだろうか?
 4年ほど前に猫塾の生徒が林サンに会いに行って来た話を聞いた。ちょうど林サンが大きく曲がって2009年春に底を打って少し戻した時だった。「僕はもう間に合わないが、君はこのまま続ければ上げ相場を大きく取れるだろうな。基礎的なことをしっかりとやりなさい。」そう言われたらしい。その後、震災があって更に突っ込みがあって底練りが長引いたが、林サンは12年の2月に亡くなったから上げを見られなかったということになる。少し無念だったのかもしれない。でも自分の死期を正確に意識していたんだろうと思われる。上手い相場師でも相場の時間と自分の人生の時間が噛み合うというのはなかなか難しいのだろう。1989年末から23年間相場は下がり続けた。1/4世紀だ。だから多くの日本人投資家は大きな上げ相場を知らない。戻りは何回かあったが規模も期間も短命だった。それぐらい大きな構造的な変化が市場で起きたということである。一番の変化とは日本人がリスクを取らなくなったという点だ。個人、法人、金融機関すべてが株の保有比率を極端に下げた。CASH IS KINGという債券の時代だった。ピムコの経営陣が現在ゴタゴタしているのを知っているか。世界最大の債券ファンドのボス2人のゴタゴタでピムコは揺れている。片方は退任した。マイナスとなったファンドから資金が大量に逃げ始めているのだ。つまり債券の時代が終わりつつあり株式と不動産の時代がやってきつつあるという証拠だろう。グレードローテーションである。金利や緩やかに上昇する時はインフレの始まりである。ディスインフレから軽いインフレへ、すると金融の判図は逆転していく。今はそれを静かに待っている時間なのだろう。長い長いグラフをゆっくりと眺める。1973年から書いている40年の月足グラフを見ながらそんなことをフと思う。これからも僕の売買は多分ゆっくりとしたものになるのだろう。年も取ったし、、(笑)
イメージ 1
年を取ると一日が実に早い。一日だけでなく、1週も、1月も、一年もあっと言う間に過ぎてしまう。朝起きて、風呂に入ってコーヒーを飲んで、PCを立ち上げてゆっくりとブランチを作る。食べて少し本を読むともう12時だ。20分ぐらいニュースを見る事も週に1回ぐらいはある。
何か食べて日向で寝転んで本を読んでいると春の日差しにすぐにうとうとする。猫が隣に寄って来て一緒に昼寝をする。するとすぐに3時だ。さあ、場帳を書くかと思うが、4000番台ぐらいになるとまたすごく眠くなる。しかたがないから風呂に入るか、マッサージチェアで30分ほど休んで、コーヒーの飲んでだらだらしながら、なんとか毎日250銘柄ぐらいを5時か5時半ぐらいまでに仕上げる。それからゴミを棄てに行ったり、郵便物を取りに行ったりする。その後、夕食を作る。大抵簡単なものしか作らない。30分ぐらいで作って食べると7時を過ぎる事が多い。それからブログを書いたり、また本を読む。12時か1時ぐらいまで風呂に入ったり、だらだら本を読んだりの繰り返しである。テレビを見る事はまず無い。週に数回は車に乗るが、そのうちの2回はマダムの送迎であるから、自分のための外出はせいぜい1回ぐらいしかない。天気が良いと3−5キロぐらい別荘地を散歩するが、寒い時期はあまり気が進まない。大体、月に2−3回図書館に行くのと月に3−4日グラフを一日中書いているということくらいしか特別な事は無い。それでよくブログのネタがあるなと自分でも不思議だ。外食は買い物のついでに行くぐらいで、月に数回だろう。こんな単調な生活で金をどう使えば良いのか?考えて見るまでもなく、月に5回外出してもそのつど10万ずつ必ず買っても50万だから、そんな魅力的な商品は沼津や三島や熱海には売っていない。昨日も外出したが、買ったのは本屋で雑誌を1冊買っただけである。1260円。柴田元幸の出している創刊2号のMONKEYという文芸誌だ。ライターが良い。創刊号はポールオースター特集だった。翻訳物を中心に書き下ろしもある。村上春樹も珍しく書いている。
 考えて見ると高額な消費は全部WEBでしている。去年はマダムが50万ほどのベッドを買ったのと40万ほどの書架を買った。いずれも無垢の木製が欲しいというので揃えた。僕が買った物は全部10万円以下の小さなものばかりのような気がする。携帯とかサングラスとか時計とか石油ファンヒーターとかせいぜい数万円だ。服もカジュアルばかりだから単価は安い。ユニクロのデニムは3900円だしマーガレットハウエルのシャツだって12000円だ。マダムの数分の1数十分の1の単価ばかりである。本当はマダムが花屋を辞めたらもっと旅行に行ったり遊びに金を使えるはずなのだが、何故か仕事が楽しいらしくてなかなか辞めない。普通の退職した夫婦みたいに豪華旅行なんかしてみたいが、相手はそうでもないのだろう。猫の世話はどうする?ちゃんと手配済みだ。近所の弟子の火星人はそのために仲良くしている。マダムはもう10年以上花の仕事をしている。好きな事をお互いにして来たので合わせろと言っても聞かないし、続かないはずだから本人の希望に沿ったスタイルでないと長続きしないだろう。自分もそうだからよくわかるのだ。こうやって何一つ生産的な事もしないし、他人様のお役にも立たずに、のうのうと暮らしている。労働倫理の埒外にいるから、まさに猫と同じであると自覚している。労働者でなくなってから随分と時間がたったので彼らの気持ちがわからなくなっている。もともと多分わかってはいなかったろうが、ますます火星人か猫のようになってきた。投機は労働か?個人の金なら否であろう。労働規則が当てはまらないからだ。投機は数年がかりの猛獣狩りに似てるんじゃないか?失敗すると命が無いが、しとめると大儲けだ。ほどほどというのは実に少ない。大きな相場を1回取るとリーマンの一生分以上の金になる。殺るか殺られるかしかない。そこが緊張があって良い。
 想像だが、おそらくローマの平和という時代の市民の生活はこういう売り食いののんきで怠惰な毎日の繰り返しだったのじゃないか?と思う。浴場を作るというのも温泉と似ているし演劇やコロシアムの娯楽はテレビとネットと同じようなもんだろう。馬車で旅行するのは車でドライブと同じだ。スーパーやデパートには世界中からありとあらゆるごちそうやお宝が並ぶのも、ローマ帝国の植民地からの産品より更に徹底してると思われる。金(gold)が無くても円を刷ればなんでも今の所は買えるから買えるうちにじゃんじゃん買うほうがお得である。交換するということに関しての意識が僕は何がお得かという点で婦人雑誌以上の感覚なのかもしれない。減価する通貨で上昇する物と交換するのがインフレのマナーだ。トヨタの賃金がなんとか2700円上がったらしい。もう一桁ぐらい上げてもちっとも困らないはずなのに、トヨタはケチ臭い。社長の顔もケチ臭いツラだ。(御免ね!)スズキはさらに酷い。ベースアップはゼロだという。あんなたくさん軽を売って最高益なのにな。だから資本主義のリーマンは嫌いだな。分けるという意識がきっとないのだな。サラリー以外に収入が無い人はどうすれば良いのだろう?

 きのうからON THE ROADを再読している。青山南 訳の河出書房新社版だ。この出版社は白水社と青土社とともに絶滅危惧種であるが、良い仕事をする。メリールーのような女の子ももういない、、。(残念!!!)
イメージ 1
大震災から3年がたった。被災され亡くなられた多くの方のご冥福をお祈りしたい。未だ仮設住宅で不便な暮らしを余儀なくされている人々が20万人を超えるという。たくさんの予算を組んでみても、金で出来ることには大きな限界があるということなのだろう。納得して被災後の新しい人生をゆっくりと進んで頂きたいと思う。残された人たちのそれが役割であると思う。
 大きな被害ではなかったものの、僕も3階に住んでいたから大きな揺れにあって、なんとかテレビが倒れないように支えていた記憶がある。キッチンの戸棚が全部開いて、マダムの大切にしていた食器の大半が割れた。すごい音がして次々に皿が床に落ちて激しい音がして、猫がベッドの奥に逃げ込んでしばらく出てこなかった。そんな冗談のような被災で済んだけれど、結局立ち退きを余儀なくされて東京を棄ててお山の暮らしが始まることになった。こちらから望んでこうなったというよりは、震災に押し出されてなんとなく東京ではない暮らしも良いかという気まぐれであったが、してみるとしなかったら多分一生味わえないような新しい出来事を経験するようになるのだから、瓢箪から駒というのはその通りであると思うこのごろだ。人間の意思などあまり関係なく僕たちの人生は決まって行くのではないかとつくづく思うことしかりで、偶然とか運とかがいかに大きく人生の結果に影響を与えるかを思うと、小さな努力など何になるのかとしばし懐疑的になることしかりである。恐竜が死滅した原因が大きな隕石の落下で生じた酸性雨のせいだというニュースを見たが、あんなに大きく無敵に見えた生物でも自然の引き起こす事件や事故にはどうしようもない。まして人間などどうしようもないことばかりが起きても不思議は無い。だから敵わない相手を見たらすたこら逃げるに越した事は無いし、僕は挑戦などという単語に価値など全く感じたことのないグータラな性格だから、まあゆるくのんびり今後も生きて行くのだろう。一日一日と春めいてくる。今日も晴れて富士山が綺麗に見えた。東京にいた時は、こんなに毎日空を見るような事も無かったし、天気や気温がこんなに意識に登る事も無かった。そもそもハイキングや登山の真似事をすることも無かっただろうし、年間に1000回も温泉に入る暮らしなど有り得なかったはずである。それが住む場所ひとつ変えただけで、人間が変わってしまうぐらいに生活は変わるものだ。それぐらい人は環境に順応しやすい性質を持っているということなのだろう。僕をよく知る人は「あなたはお金があるからそんなに簡単になんでも変えることができるのだ。」というような事を言われるのだが、それは全く違うと僕は思う。
金があろうが無かろうが幸福な人は幸福だし、不幸な人は不幸である。僕の数十倍のお金持ちの友人が3日前に家に遊びに来たけれど、彼女は幸福そうには見えなかった。旦那さんのDVで5年前から東京港区の数十億の土地や大きな家を棄てて、高輪と熱海のマンションに一人で住んでいる。腐るほどお金持ちで都内に商業ビルをいくつか持ってもいる。だが株屋に騙されて、バブルの時から値嵩株を買わされて数億の評価損を抱えて頭を悩ませている。昨年の株の利食いはたったの40万円だったそうだ。それで何を買ったら良いのかと常に聞いてくるのだ。最初に合った時に、大口資金なのだから、場帳とグラフを買いたらすぐに何億も取れるよと教えたにもかかわらず、相変わらず程度の低い質問ばかりされるのでこちらはうんざりである。一度刷り込みされてしまったひどいやり方でしか相場を張れないというか張ってるうちに入らないやり方しか出来ないのだ。あまりにひどい結果だから、僕に金を預けて運用して欲しいというが無論丁重にお断りした。5億預って3億取って1億報酬を受け取るような金の稼ぎ方を僕はしたくない。金が全くないのならするかもしれないが、金に困ってもいないのにそんな責任が生まれるような仕事を今さらしたいとは全く思わない。1億欲しければ自分の金で取ればよいだけの事だから余計なことは絶対にしない。金のため人のためには働かないのである。
 こういう働かないということも実に重要な事だと僕は思う。人間は働くために生きているというような僕にしてみれば誤った考えや行動の人が実に多い。僕はグータラするために生きているだし、グータラするためにやむを得ず働く必要がある場合があるというだけのことである。グータラできないような不便な生活をすることで金が必要なら、僕はそういう種類の金はいらない。それは僕が少し金があるせいもあるが、あっても無くてもそれなりに快適に生活するやり方を知っているし実行出来るからだろう。有る意味で金は邪魔なのである。いくら金があっても富士山や箱根が爆発し、首都圏大地震が起きたり、南海地震で御前崎が弾けたりしたらすべてがひっくり返り意味が無くなる。だから時を惜しんで金を作るよりも今ある金をそれがおきる前に使って楽しく暮らすことのほうが切実な問題なのである。ビフォーアフターがあるすれば僕たち日本人のアフタークエイクのスタイルとは「享楽的に暮らす」ことの重要さである。そうやって金を使い切ったら、それから先に仮にもし生きていたのならその時にまた考えてら良いだけのことである。金がいるのならそれから稼げば宜しいかと思う。人生は若い時に考えていたより少し長いようである。予定では40歳ぐらいで死ぬはずだった僕はもう58だ。この分なら68ぐらいまでは生きそうだ。すると次の大崩れに間に合うかもしれない。シメシメ、、。

イメージ 1
関川夏央を読んでいる。「やむを得ず早起き」「夏目さんちの黒い猫」週刊ポストのコラムの編集だと言う。週刊誌を読まなくなってどれぐらいたつか記憶が無い。朝日ジャーナルをたしか20代に読んでいた記憶があるが、それ以来ラーメン屋とか歯医者の待合室で文春、新潮ぐらいをパラパラと捲った記憶はある。ただし何がどのように書かれ、どういう構成でどういう編集方針かなどという記憶が全くないので、興味の対象外にずっと居続けていたし、週刊誌と無関係な生活をずっとしていたというのが実情だろう。30歳からずっと通勤が車の時代が続いたせいで本は読めないからだ。反面音楽CDは随分と買った記憶がある。想像だが、週刊誌はサラリーマンの通勤時の暇つぶしという需要主体であろうかと思われる。従って彼らの興味のある記事が中心となろうし、彼らが買いそうな商品の広告が主体となろう。したがってほとんどリーマンでなかった僕が読む機会が全く無かったのは有る意味で当然である。月刊誌なら今でも、芥川賞の月は大抵は文春を買うし、3誌ほどは年間契約で購読する雑誌が送られてくる。ユリイカ、現代思潮なども年間に数回、タイトルを見て本屋で買うことも多い。後はアマゾンで気に入れば古本でも新刊でも手当た次第に何でも買って読む。図書館は僕のデスニーランドで函南町の図書館は昨年新設されたハイテク図書館でじつに素晴らしい蔵書群で固定資産税を払う甲斐があるというものだ。毎年20万円を支払っているがお釣りがくるほど僕はたくさん本を借りる。スーパーマーケットの次によく行く場所が図書館なのだ。年間で300や400は最低でも本を読むという習慣は、この仕事になってからずっと続いているようだ。それはほとんどTVとかDVDとかを見ないせいもあるだろう。山の暮らしは静かだから時間だけはたっぷりとあって、リビングのソファでも床暖房の上でも、ベッドの中でも家中のとにかくいたる所に本があって、並行して3冊ぐらいをいつも読んでいる状態が普通の僕の暮らしだから、何かを読むのは好きなのだが、見るのはそんなに興味が強くないのだろう。雑誌は本と比べて写真が多いから視覚的な感情がまずファーストインプレッションとなる。ところが文字とかテキストはそうはいかない。構成があり、文体があり、主題がありと印象というのは写真とはまったく異なるじわぁーというものとなるから、速度的に異なるし、面的な構成で印象を植え付けるという手法を取れないことがかえって読み手の力量と書き手の押し売りとの駆け引きが面白いと言える。テキストは読み手によって、解釈も印象も独自にアレンジメントされていくのだから、書き手と読み手のダブルバインドによる切断を経て始めて意味を救う。本が売れなくなったのはこういうまどろっこしい事を現代人の大半がする暇が無くなったせいだろう。絵のほうが受け取るだけで楽なのだ。easyな方向へ商売が傾くのは資本主義の必然であると言える。左翼の僕は読書によって資本の運動にわずかに抵抗している訳だ。(笑)
 さて関川だが、団塊世代の自己批判書という辛口コラムを体裁に纏って、偽悪的な文体が人気の理由なのかなと感じる。時制は過去形で書くことで、歯切れと断定を旨とする。まあコラムだから長文ではないし、スパッと書いた方が印象に残るという目的に合致しているから当然だ。話題は政治がかなり多い。流行ものも少し入れる。鉄道ファン(鉄ちゃん)らしく、廃線めぐりなんかして紀行文もかかさない。飽きさせないしクドくもないからさっぱりとして料亭の薄味の割烹というぐらいの味付けを意識して書いているのだろう。苦みと辛みを主体に、甘さは極力控える。そんな印象である。報道される内容を裏側から取材して実はこうですという暴露ネタを入れながら、業績なり人となりをあぶり出すという書き方はなかなか鋭い。ただし読者を意識してか、あるいは彼自身のせいかは別として、視線のリーチが都会、しかも大都会東京の外には届かない。話題は届いても視点の軸は都会の文明と都会の発想をはみ出すという事が無いのだ。これは有る意味で不幸だろうと思われる。同じ時間で、同時にドナルドキーンと瀬戸内寂聴の対談集を読んでいるのだが、人間社会をあぶり出すには人間以外=つまり自然を対峙させるほかにない。その他者との関係性において始めて自己は他者性の中にも自己を見いだすという意識が生まれる。その生まれ方に日本人独特の何かがあることに気がつかない、あるいは気がついてもあえて書かない。都市とは養老さんに言わせれば脳が作り出した理想区間である。それだけを書いてもちっとも面白くもないし人間などたかが知れているからである。自己批判する団塊世代があと30年ほどで死滅したらどんな未来が君を待っているか?関川はそれを示そうとはしていない。諦めるのはまだ早くないか?
友だち
白猫次郎
白猫次郎
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(16)
  • pka
  • ベトナム
  • 妻田北
  • kurisan
  • ホウセン
  • rem。
友だち一覧
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

開​設日​: ​20​13​/1​2/​21​(土​)

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事