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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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「お金儲けはいかがわしい」40年ほど前に大学に入ってすぐの一年生の時に相場を始めて、まぐれで帝石で当たって200万ぐらい儲かった時からずっとそう思ってここまで生きて来たように思う。もともと相場を始めた理由が、彼女に振られたというプリミティブなものだった。貫一お宮じゃないけれど、少年は純情で少女は常に合理的だ。だから小説を読むと常にどんな時代でも男はこれに苦悩してきた。クレオパトラとシーザーの時代から村上春樹の「ノルウェーの森」まで大差ない。恋をすることは苦悩の連続である。苦悩することの快感と言ってもよいぐらいだ。だからエネルギーがないと恋ができない。この男女の非対称性がなかったらこんなに世界中の男が仕事に熱心になることはきっとなかっただろう。だから神様は「反復と差異」をよくご存知だったと思う事にしている。「逃走線の彼方にはとびきりの美女がいる。」そんな幻想一つだけで単純な少年たちは死ぬまで金儲けといういかがわしい仕事に病み付きになる。(笑)
2本の似たようなジーンズを持っている。(本当は20本以上はあるけど、、)左はRRというブランドで16オンスのユーズド加工をした
日本製の素材=カイハラ社のセルビッジ織機で織ったもの 縫製と付属品はアメリカ製、ラルフローレンの最上級ブランドでお値段は480ドル。右はUJというブランドで14オンスデニム同じくカイハラのセルビッジで少し軽い素材だ。縫製は中国、付属はおそらく日本だろう(YKKファスナーと思われるが表示は無い)。ユニクロの商品でお値段は3980円だったはず。シルエットはほとんど同じで、使用感は無論UJのほうが日本人の体型を統計して作られているから履きやすい。松下の冷蔵庫のような履き心地と言うか、そこにあるのを意識しない、ある意味良い商品である。さて値札を外して、オネーチャンにどちらが欲しいと聞いてみる。間髪を入れずにセンスの良い女は左と言う。それこそ見た瞬間に「左」と言う。「右」というような女と深い関係になっては絶対にいけない。その男は必ず不幸になると僕は思う。だから僕は少し仲良くなると必ず買い物に付き合う。「何か欲しいものない?」そういって試し玉を打つ。
 女という動物は男より感覚的な生き物だ。遺伝子でも染色体が1本多いから、欠陥品の男と比べて安定性に富んでいるし、第一子供が産めるという決定的な機能が優れている。だから土台、競争になんか最初から成りっこ無いのである。ここを理解できないと始めからボタンの掛け違いになってしまう。だから結婚のような長い時間を一緒に生きるような相手とは、その点で食い違うと不幸が待っている。大半の女は「左」と思っているのだが、男の懐具合を勘案して遠慮して「右」という。これは日本女性の慎ましい美点のように思われるかもしれないが、後で大きな誤解を男に与えてしまう。「そうかこいつは右でいいのか」と思えば、男はあまり働かないだろう。男が少し賢ければ、「両方ください。」と言って「交代で使ってね。どちらも似合うと思うから」そう言って受け取る女なら間違いがないだろうと思う。
480ドルと3980円。12倍の価格差がある商品だ。どちらがたくさん売れるかは言うまでもない。高い方は売れないから着ている人が少ないことになる。100分の一か1000分の一だろう。見た目でわかる人は業界人とファッションオタクだけであろう。それでも着ている女本人だけには必ずわかるのだ。「私のジーンズ500ドル。彼が買ってくれた500ドル。」これはテキストで解釈すると次のようになるのかもしれない。「500ドルのジーンズなんてカッコイイけど馬鹿らしい浪費だわ。自分のお金だったら絶対買わない!でも彼がどうしても買ってくれるっていうから買ってもらちゃった。私ってラッキーかな?でもこれのほうが私には似合うものね。それにしても彼ってそんなにあたしが好きなのかな?自分は安物のジーンズはいてるくせに無理しちゃってさ。」恋をするのはこういう多分3行分長いテキストを彼女に考えさせることができるかどうかの500ドルの投資だという事なのである。若い時でもおっさんになってもそういう事がわかるような人は相場の上達がきっと早いだろうと個人的には僕は思う。ベトナムさんなんかその典型だろう。相手のツボがどこにあるのかは、ご婦人も相場も猫も大きな差はないと思うから。ご婦人も猫も値動きもじつにランダムで動物的で奔放である。論理的な動きとはならないことが大半である。力ずくで追いかければ逃げるし、無視していれば寄ってくる。多分、他者との関係性という因数をどう見ているのか、どのように入り込んだら相手に受けれ入れられるのか、どのようにこちらが引けば相手は出てくるのか、どれぐらい待ったら相手はじれてくるのか。そうした量と時間とタイミングと間合いの因数分解なんだろうと思う。
 だから命題の通り「お金儲けはいがわしい」のである。このいかがわしさとは恋と同じで下心に満ち満ちている。だから面白くてどこか悲しい。「相場で勝った金はいかわがしい。」という労働倫理がこの国では何故か姦しい。事実は相場であれ労働であれ常に金とはいかがわしいものである。そのいかがわしさを人より少し減じたいと望むなら、2本のジーンスを同時に彼女に買う事だ。「あのさ、まぐれで取れちゃってさあ、多分きみは上げマンなんだと思うんだ。だからこれ着てよね。」そいうって君のポケットから彼女のポケットに540ドルが移転する。それに応じて彼女の心から君に540ドルでは買えない何かが「ありがとう」というテキストとともに入ってくる。
たぶん恋というのはそういう始まり方をしたほうが楽しいだろう、染色体の1本少ない年取った雄猫はそう思うのだ。

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神自身、すべての原因であり、因果関係の偉大な主人である、われわれの神は、為すに任せる立場をとり、純粋な偶然と不確実性に、あるいは純粋な誘惑とあらゆることがらに予定された宿命に場所を譲って、退いたように思えるーーーーこうして、バルタザールグラシアンの思想に従えば、人間を永遠に宙ぶらりんの状態に置き、世界をそのひそかな目的地へとむかわせたのだ。神にとって問題となるのは、その意思を世界の上に移転することに他ならない。神の思想を世界の上に移転し、その結果、われわれ人間のことを考える責任を世界の出来事に移転することだーーー人間の思想に、他者の非人称的思想が支配する空間を割り当てるのだが、そこでは、われわれのものとは別の相関関係が作用している。
 それは、偶然にみずからをゆだねることではない。マラルメの定言「サイコロの一振りはけっして偶然を廃棄しないだろう」は、統計的、数学的な視点からは真実であるーーーつまり、いかなる出来事も、他の出来事の連続性を終らせることはできないし、いかなる行為も、それにつづく行為を決定的に拘束することはできないだろう。だが賭博者は偶然を信じてはいない。それどころか、サイコロの一振りごとに、彼は偶然を廃棄するつもりになる。運と手を組むことは偶然に賭けることではない。世界と位相を一致させて、世界のシークエンスとひそかな連鎖を探求し、いわばイニシエーションをみずからに施すのだ。そして、サイコロを投げて賭けに勝つことは、このイニシエーションが成功したしるしとなる。
 賭けの陶酔そのものであるこの至高の感覚は、世界による偶然のゲーム=賭けとあなた自身のゲーム=賭けとの完全な共犯関係の感覚である。世界とあなたとの可逆性、あなた自身の選択と、あなたの力は及ばないが、あなたに合図を送り、苦もなくあなたにしたがう次元の選択との、超自然的な調和の感覚と言ってもよい。この点で、ゲーム=賭けの全責任を引き受けるのは世界のほうだ。世界が賭博者となり、賭博者が世界となる。
 このとき、もはや偶然的な要素は何も無い。世界がわれわれのことを考えるときから、連鎖は確実なものとなるからだ。意思の働きの要素も何も無い。いわば、すべてがすでに望まれているからだ。そして、運はたしかに実体として存在するが、世界とわれわれの、あの共犯関係から発する報酬にすぎない。この種の全面的な交換では支配は両側に及ぶので、賭博者がゲームを指揮していると思えるほどの強運となる。このとき、賭博者は直感的に、思考の全能性の仮説を十全に体験する。フロイトが幻覚と夢のなかに垣間見て、プリミティブな社会の先住民たちが魔術の演出のうちに体験した、あの全能性だ。幻想的な支配などではなくて、幻想そのものの支配である。「私はもはや賭けをしない。私自身が賭けなのだ。」 

 ポールオースターの小説「偶然の音楽」で、ポーカー賭博師のジャックはこう語る。
「俺はいつもその感じがしてくるのを待っているんだ。体のなかでスイッチがオンになるみたいにさ、全身がブーンとうなり出すんだよ。その感じがしてきたら、もうこっちのもの、勝利へ向かってまっしぐらさ。いったんツキが回ってきたら、それを止められるものなんてありゃしない。世界の何もかもが、いっぺんにあるべき場所に収まるみたいに思えるのさ。自分がこう、自分の体の外に出たみたいになって、あとはもう夜通し、自分が次々に奇跡を起こすのを見物しているんだ。もう自分とは関係ないと言ってもいいくらいでさ。コントロールしようったってできるもんじゃない。とにかく考えすぎたりしないかぎり、間違いひとつ犯しようがないのさ。」
もしそうなら、こんな逆説的仮説にちっとも禁じられはしないだろうーーーわれわれのことを考えているのは世界のほうだとまず考えてみるとすれば、世界をコントロールしているのは、たしかにわれわれの思考なのだから。
「人間がお茶を飲むのではない。お茶が人間を飲むのだ」         運命の分水嶺 「不可能な交換」ジャン ボードリヤール 塚原 史 訳 2002

こういった種類のテキストは万人向けではたしかに無い。でも同業者向けにたまに相場技術論以外の賭博の形而上学の参考までに上げてみた。僕は学生時代から麻雀ばかりやっていて碌に講義にさえ出なかった不良学生で、大学時代の生活費は麻雀の上がりだったような男だった。だから会社に入っても安月給と同じぐらい上司や同僚から毎月戴いていた。でも一人0君というめっぽう強い打ち手が後輩にいたのだ。彼とその後一時期一緒に会社をやることになったのだが、そのおかげで僕は一切の博打から足を洗った。引きという運について考えさせられたからでもある。こいつには到底敵わないという引きが彼にはあったのだ。阿佐田哲也の麻雀放浪記で眠りながら天和を上がる打ち手が出てくるが、まさにそういう引きが彼にはあった。ラスハイのペンちゃんの7萬を一発で引く。それは技術とか予測とか確率というものがこの世には存在しないというほどの強い引きが毎夜のごとく要所要所で繰り返される。彼と仕事をしなくなって既に25年が経つ。彼の最後は悲惨な精神病だった。多分、引きすぎて壊れたのだろうと思う。それから僕は賭けを一切しなくなった。相場を賭けと思うかどうかは本人次第だろうが僕は賭けとは感じない、そんな時にこのボードリヤールのテキストに巡り会った。と同時にオースターの「偶然の音楽」も同じ時期に読んでいる。不思議な巡りあわせが僕のなかで起きた。
 オースターの小説は、終わったダメな中年男の物語が多い。実に都会的で洗練されたテキストで、いつも柴田元幸が翻訳している。最近ではブルックリンフォーリーズが新潮から出ている。そこには不思議な運の流れというものを文学に変えるオースター独特のテキストがあって、アメリカの力の美学とは無縁の弱者の不思議な息づかいに満ちている。ちょうど30年ほど前に愛読していたアーウィンショーの「夏服を着た女たち」のようにエレガントで少しだけエロチックなアメリカの匂いに満ちている。結局僕たちが追いかけているのは最初はお金と自分では思っているかもしれないが、使い切れないほどのたくさんのお金が懐に入ればそうではないことにやがて気がつくことになるだろうと僕は思う。それはある種の全脳性の持続欲求と言っていいのかもしれない。ある種の全能感を求めて人は多くの犠牲を支払うのかもしれない。強い賭博者には独特の匂いのようなものがある。ちょうど発情期のフェロモンのような誘因を起動させるメタフィジカルなテキストの余韻、、。
面白いことに今日の猫グログの動員はレコード更新の490となった。特別安いとも思えないがまるで偶然の音楽のようだ。「運命の分水嶺」は不思議なテキストで僕を常に魅了する。
 われわれに語りかけるのは言語である。
 われわれを失わせるのは時間である。
 われわれを獲得するのは金銭である。
 われわれをつけ狙うのは死である。

ハルトモさんのこと

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ハルトモさんという偉い人がいる。僕のブログにやって来て、たまに挨拶がわりに何か書いていく。
外資系の立派な会社で偉くなって管理職をされて早期退職して、一転自分が育った施設のようなところの先生をボランティアみたいな形でされている人だ。裕福な人だから現在はお金のために仕事をするのではなく、自分と同じような恵まれない子供たちのために夢を与える仕事を綺麗事でなく持ち出しで実行する男気のある仕事ぶりで、なんか惰性的な官僚的組織に歯向かうのがちょっと趣味みたいな所があって左翼の僕としては好きだなあ、野球でいうと天才肌の清原か桑田君かなあ?群れるのが嫌いな僕などは「頑張れー!」と陰ながら応援したくなる。多分、少しおへそが曲がった部分が似ているせいもあるし、奇遇にも大学の後輩らしいから、彼も当時の明治はアホばかりの一人だったのだろう。「嫌な事は嫌。」そうはっきり主張する人は僕は大好きだ。だって理屈じゃなくて、好き嫌いというのはあるし、その理由なんてないし、それが人それぞれだから面白いんだと思う。彼は立派のお父さんとかお兄さんという役割を仕事にしたいのだ。自分の子供のためにではなく、不幸な子供のために。理念のための仕事である。お金で変えない仕事というお宝を持っている。結局、仕事の満足、達成の欲求が自動的であり他動的であり、協動的である、そういう世界に郷愁があるという、ちょっと任侠の世界に似ている。健さんとか鶴田浩二とか文太とか低音で言葉少なくボソッというのが美学なんて感じの人かなと思う。ちょい悪脱力系の僕なんか「ケ、歯が浮くゼー!」という硬派だろうと思う。そのくせインテリだから少し何かを言いたくなるんだろう。
はるともさんは相場も勝負も無敗(スゲーよね、俺なんか曲がってばかりだよ)の投資家だというからその運を少しわけでほしいといつも思う。そのくせ夢想家で宝くじを買ったりするから理解に苦しむがまあ冗談も好きらしい。彼は子供のころから、本ばかり読んでいた勉強がすごく出来る子供だった。施設出身で大学に行けるというのは、数%という世界らしいから、実にスマートな頭脳の持ち主で、それは論理や思考の展開が物事の本筋を捉えてその本筋に自分の特殊な経験や感覚や勘という要素を踏まえて行動するという生き残りの生存本応が具体化した知恵として決断や行動に通底したことで厳しい世界をくぐり抜けることで研ぎすまされたものなんだろうなと推察している。相場の見方、やり方がそれにきっと現れているんだろう。テキストの読解の多様性と創造性に気がついているからメタフォリカルな書き方をして反応する少ない読者の一人だから、僕も毎日彼のブログを見ている。きっと普通の家庭で生まれた僕には想像できない辛い思いもしたんだろうが、それが身になって成功した人なんだろうと思う。リーマンなんてしないで自分で商売でもすれば大成功するタイプなんじゃないかと思うが、きっとあまりお金に興味がないのかもしれない。山種とか是銀とか牛ちゃんとか相場師で名をなした人も大抵は貧農の次男、三男で丁稚上がりでのしあがる人が多かったけれど、境遇でなくその個人の力と運で伸し上がるというストーリーは端から見ていて気持ちがよい。人間努力は大事です。その努力の方向に個人差があるから多様性が生まれるし、社会が重層的なものにきっとなるんだろう。僕は普通の人がするような努力が嫌いだから、それが出来る人はスゲーなと尊敬するのだ。好きな事しかしたくねえし、それで人生すんじゃうぐらい短いなあと思うから。
彼はお金は家族を養うためのものでそれで十分と考えているのかも。乗馬をしたり、ゴルフをしたり、スキーをしたりと生活を楽しく満喫する活動的なブログは、きっと体力も人一倍優れた人だろうなと勝手に想像する。100歳まで俺は生きるなんて豪語する奴はそんなにいないもの。そのくせなんか秋葉のオタクみたいな趣味なのか、パソコンとか携帯とかのディティールのああだこうだと細かい部分にこだわる。つまり道具の重要性にうるさいということなんだろう。僕のテキストは実に長いし、こんな長いだらだらしたテキストのブログはほとんどないと思うが、彼のブログも長いほうだ。きっと宿直とかあるらしいから、そういう時間にあれこれ考えて書くのだろう。ブログというのは読み手のノゾキ趣味の欲望充足であり、書き手の露出充足という2方向の機能を持っている手段だが、テキストはある程度の長さと論理とディテールが無いと意味を救えない。時間と反復性、差異性も重要で書き手と読み手のキャッチボール的な交換もごくたまには起きる。時々そういう基礎の基礎を全く理解していないドアホが事務的な質問なんかすると「オメーなんか俺の視界の中にはないよ」と大抵は無視するが、それはこちらにはそちらが視界に無いという事をそちらが意識もしていないという無知に起因する。コミュニケーションとは最初から片務的なもので、こいつは何を社会で習ってきたのだろうと呆れるしかない。知性は平等を排するという論理にたどり着かない人とは接触したくない。時間の浪費だから。
ブログを解説すると良いこともある。そのせいで同業のプロのブログを見ることもできるし、相場研以外でも2名はそういう人のリンクに繋がったから、幸運だったと思う。べつにこの年になって、他人様の相場がどうのこうのはお互い既に今更ないし、お互い縁があって因果な商売しているけれど、ガッチャわないように楽しく暮らそうねぐらいの時候の挨拶のようなもので訪れるのだ。「元気が一番、ネーチャン2番、
お金のことはいろいろあるわな、、」で宜しいと思う。

具体的なやり方

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銘柄選択と仕掛けのタイミングというのにも好みと慣れがある。詳しくは基礎を学ぶために林サンや旭さんが書いたFAIクラブの教科書をまずよく読むことだろう。実に詳しく買いの片張りの基礎の基礎をしかもリスクの少ない簡単なやり方を書いているから、それで数年自分でリズムやうねりを上げだけ取ってみて、その後自分なりのやり方に固まって行くというのが初心者にとっては確実性の高い練習法である。旭さんは500万ぐらいで始めて3億になったということだ。すごい努力をした女性で尊敬する。実に真面目を絵に描いたような人柄で僕には真似できない。読んでいない人は読むと良い。『やさしい低位株投資」という本で研究所で売っていると思う。僕は脱アマ相場師列伝の銀流しの安さんの印象が強烈でできるならそういうメタフォリカルな相場師になりたいと思った。猫を可愛がるような玉の操作というのが素敵でだから猫次郎という名前にしたのだ。感覚の人、悦楽の人である。だから苦労なんて感覚的にしたくない。きっと動物に近いのだろうと思う。動物は貯蓄をしない。腹が一杯な時は寝ているその日暮らしのボヘミアン。
今日は僕のやり方を少し具体的に教えよう、真似る必要は無いし、多分真似は初心者では無理だろう。でも基礎を10年ぐらいしたら少し似てくる人も出るだろう。読んでもチンプンカンプンというケースも多いだろう。そういう人は旭さんを読みなさい。あれはわかりやすいから。
現在僕は会報を取っていないから、クラブがどんな銘柄を選んでいるかは全く知らない。2000年から2年ほど取っていた時に買い銘柄で成功したものに3107ダイワボウがあったので、そのグラフを例に上げる。それから10年経ったが今も良いタイミングにあると個人的には思うし、試しを建てて落としたところだ。さてそろそろ本玉を行くかなというのはグラフと場帳の感じからの感覚的な判断である。
これも1965年からの50年グラフで、現在は1983年からしかヤフーファイナンスでは資料が取れないが、それでも宜しい。まず30年を書いてみたら良い。赤いボールペンが3つ、グリーンが一つ置いてある。グリーンは当時林サンが買い銘柄に選んだタイミングで、まさに暴騰直線の神業だったが、まあまぐれ当たりという幸運だろう。赤いタイミングは、目先のどん底から少し上がって押し目を作っている所だ。僕はどの銘柄もこういう場所が特に好きだ。最安値から1.5−2年程度戻して押した所。ちょうど戻りの途中で何本か短陰線を引きながら戻す過程で短陰線7−8本目ぐらいの場所を指している。どん底からその前の高値ぐらいまで一旦戻る、そこで少し揉んで押しを見せる。いわゆる初押しから2番目の押しぐらいのタイミングになりやすい。300枚も長期グラフを書くと、下げ方、底練りの形、戻りの形、その後の押し、力動的な上げ、天井、暴落という循環で大半の低位株が動くという現象がほとんど共通して観察されるはずで、業種、業績、金利、利益にほとんど無関係で動く様が確認出来るだろう。つまり人気の盛り上がり方こそが全てを決めるという事である。ここまでは長期グラフを300−400枚書けばどんな馬鹿でも分かる。
さて上げを取るなら上げるという現象を数値で確認する必要が有る。具体的に言えば年間最安値が年を追って切り上がる、高値も切り上げるというのが基本の上げのスタイルだから、グラフでそういう場所を見れば良い。赤の左の1983年からの上げ、中央の赤の2003年からの上げ、右の2011年からの上げの3つが類似性を持って視覚的に確認できると思う。さて次は試し玉だ。のんきなやる気の無い試しというものもある。
2011 3.23  165 −1
               −3
     3.25  175 −2a
2013 5.2   183 3−
     12.17 199 3−   
2分割の試しを2口座でやっているのでわかりにくいが170円の買い平均を2年以上ほったらかして昨年5月と年末に落とした。試しだから利益が目的ではない。たったの20円の6枚で飯が食えるはずはない。それでも一旦は仕切る。持続した、あるいは仕切った感じが重要で、この感じだけで僕は飯を食っている。いわゆる変動感覚の確認作業である。が試しというのはそういう個人的な感覚の確認で、しかもゆっくりと建ててどうなるか見ている。12年の夏の安値が11年の原発事故の安値を切らないか?切らなかったから持続した。切れば損切りした思う。この間6ヶ月周期で短い陰陽線の繰り返しで底練りをしている。それが分かれば良い。切らなかったという事で底が入ったろうと見当をつけて他の低位株を50枚ほど少し建てた。つまり3107で他のものの代わりに使っているということだ。低位は大体同じような動きになりやすいからだ。30も40もやればいちいちそれぞれを試すのは手間だからだ。各銘柄10枚ほど安値で仕込み始める。8803とか8585とか8303とか6701,6703などの主力を中心にした。どれもその後3−4倍に化けている。つまり当てずっぽうの3107は試しとして有効だったという結論になるだろう。これで取らんでも他が取れればよいのだから。
一方3107は70円上げて50円押す。80円上げて60円押すという繰り返しをしている。本玉を入れるのは上げの値幅が出る前で良いから現在は丸だが、回転が始まりそうなら40枚という決めた量まで一気に入ることになるだろう。ポツンと買って放置して溜めるという本玉の入れ方の事もあるし、試し玉の感触で引きつけてから一気に建てるという時もある。上げというのは最初は値幅が出ないし時間がかかるが、最後は棒上げになることが低位株の値動きの癖であり、昔の仕手株系のものはそれが極端になりやすい。だから僕の選ぶものはそういう化ける癖を持ったものばかりをくるくる回転させるという好みになってしまった。これも僕個人の好みとやり方ということで自然にそうなった。結果的に上げ相場はそういうやり方が合っていると自分では感じている。ベンチマークのtopixを大きくアウトパフォームしているうちは多分変えないだろうと思う。別に運用競争には興味は無いが方法論として有効という事だからだ。
3107に代表される主力以外の低位株は現在出遅れの典型だから次の上げは大きく派手になる可能性が高い。買われていない分手垢がついていないからだ。初回の相場で最も上げたのは業種で言うと、不動産、証券、その他金融だと思う。金融相場だから資産性の高い物が本命となるのは当然で今後も中心になるだろうが、初動の上げが極端に短期で大きかったためにその後の調整に現在日柄を要している。深押しで目先の強気の振り落とし。手垢を落とし切ったら嘘のように動き出す。そんなグラフが多いと思う。それはこのグラフで見ると1982−84にかけての線組に極似している。目先の高値から月足陰線で7−8本目で押し目完了といういう線組である。ちょうど目先の高値から1−1.5年ほどで調整が終わり出直るという動きになりやすい。これを2段整理、新値2段整理という。今回もまた3月には8585,8589,8617ともに陽転した。これらはポツンポツンで定量建てが終わって上げ待ちの状態にある。本玉を建てるかどうかという手前は試し玉を建てる、落とすということをしてみる。それは感じを見るためであり、その感じとは値動きのリズムの感じ(3手5手とか)、値動きの強さの感じ(20円上げて10円押すとか)、値動きのインターバルの感じ(8週上げて4週押すとか)というのを場帳と折れ線で確認しているからだ。それで良いなと思った物を定量まで建てて行く、しかもゆっくりと日柄をかけて建てるのが基本形である。3ヶ月から半年ぐらいかけてポツンポツンとやる気のない建てである。ゆっくりと建てる、みんなが投げる時は建てるというのが癖だ。最初は−1で良い。−1 −1 −2 −1 −1 −3 −5 −5 −10 −10 ぐらいの型が僕は多いと思うが、急げば−5 −5 −10 −20となる。
ゆっくりやるのは難しい。どうしても急いて早くなる。林さんが僕の玉帳を1分見て言ったのは「もっとゆっくりとした売買をしなさい。あと休みを入れなさい。」そう指摘されてから18年経つが、まだ未だに早いと自覚している。それぐらいゆっくり操作するのは難しいと思う。
どんな建てでも最初に −1 −1と等分割をやるのは感覚のためであり、それが100枚でも1000枚でも−1−1の変形でしかないのだ。だから−1でつまずいたものは利でも損でも落として休む。3401が失敗して休んだ例である。−1の後に下値に−1が入らない。欲張り過ぎたタイミングでもう自分の感覚が狂っているという自覚があるから入らない。他に合うものはいくらでもあるのだから縁がないものは外すということである。やれば無論利食いにはなるだろうが、それではベストの感覚とズレが出る、それがその後の命取りという場面を何度も経験すれば、手が合わないものは怖いから近寄らないという慎重さが生まれる。つまり好きな女としか寝ないという慎重さなんだな。3401は連続陽線の線組でじり高だから逆張りに合わないというか深押しがないから僕のように新値5−8本で入るような逆張りには向かないということだ。これも操作の癖と相手との相性の問題の好き嫌いであって、善し悪しではないから誤解しないように。ベトナムさんには手が合うが僕には会わないだけの事である。初心者の頃から力づくで相場を張って取るのに慣れてしまうと失敗した時は致命傷になるという経験を一度でもすれば臆病に、慎重になるものだ。このように好みと癖というのは人それそれだから、自分也の感じとやり方を10年ぐらいかけて固めていくというのが仕事の本質的な目的である。固まれば結果的にアホでも金になる。固まらないと一時的に1−2億は出来てもすぐに曲がってお釈迦になる。それには10年ぐらいの時間や経験がどうしても必要だから、大きな上げと下げが嫌でも必ずやってくる。つまり空売りでないと取れない時間帯が必ず2−3年は挟まるのだ。だから枚数は少なくても良いから必ず初心者の時から売りを覚えるという必要に迫られる。山種が2−2を外す練習を最初からさせたのはそういう理由だ。グラフを見ればどんな銘柄も周期性のあるものは上げの時期より下げの時期のほうが絶対時間は長いのだ。しかも天から一気に崩れるという共通性がある。大半の初心者は買いでコツコツ儲けを積み上げてもここで9割以上が即死になるのである。上げが下げに、下げが上げにあるいは保合いに変わる周期は3ヶ月およびその整数倍である。最近の低位株は6ヶ月が多いが、これもいつ変わるかわからない。だからそういうタイミングは特に注意が必要なのは言うまでもない。折れ線を20−30本長期に(10年分ぐらい)書けばそういう動きがすぐにわかるはずである。だから道具の整備は基礎を身体で覚えるのに必須の条件であり、その受け止め方が強いほど感覚の醸成は早まる。グラフと場帳が手書きが必須なのは手で書くと身体的な行為のほうが目で追うだけより数倍受け止め方が強いからだ。鼻差、首の差一つで数千万、数億変わる世界だという自覚が初心者には全くないのだから時間の問題でお釈迦になるに決まってる。マグレは何度も長くは続かないのである。感覚が全ての仕事なのだから4本値を書くと同時にもう勝手に身体が−1とか1−とか動いているようになるまで書くというのが量的な練習の目処である。考えて建てているようでは感覚は出来ていないと思われる。立花さんはそれを反射と言った。値動きに対して勝手に身体が動くようになるまで基礎の分割の練習を何度となく繰り返し練習する。大きな上げや下げの必要は無い。100−200円のもので20−30円変動して5−10円抜ければそれで満点なのだ。利食いの感じ、損切りの感じを重ねていく。仕切った感じを重ねて行くことで自分のタイミングのズレを波に合わせて行くのが初歩の上達のコツだ。3手押して5手上げたとして、2手と3手目で買い、陽転して5手で仕切れるか、そんな単純な事が技術の本質である。簡単そうに見えるが個別に動きが異なるからなかなか最初は合わないのである。自分で実行してみれば実感できると思う。猫塾で特訓コースを作って月一で京都と東京で会合しながら60名に手取り足取り教えてもなんとか出来たのは3名だけだった。率だと5%だ。そんな比率でしか出来るようにならないのである。一々箸の上げ下げまで指摘してもこういう結果なのである。だから理屈で相場を張ればすぐに曲がるのだ。ニュースや新聞は見るなというのはノイズになるからだ。値動きだけ見て動くのが相場師の仕事の本質なのである。それがマジ出来ない人ばかりなのである。だから大卒はアホばかりという印象。何故か関西の人のほうが良い結果だった。
以上が僕の具体的なやり方の概要を理屈っぽく説明してみた。本人はこんなこと実際はかけらも考えないで感覚張りで動く、休むしかしていない。だがそういう動きに結果的に総合してなったというのは、道具の整備と基礎の繰り返しの無限とも言える反復の成果であるのは俺が言うんだから間違いない。俺に出来て君に出来ない理由があるのか?多分、やれば誰にでも出来る、時間は無論かかるし、かったるいのは当然だが、、。俺で18年だし、ベトナムさんは俺より頭が良いから13年だし。するかせんかは自分で決めろ。方法なんてちゃんと基礎さえすれば何でもいいんだよ。要はそれをするかどうかだけのこと。
現在は安値にある低位株は暴落の心配は当面ないから買いの片張りで取るのが楽だと思うが、数年後には当然ヤバい時間帯になるだろう。その時は休むという選択肢が最も重要である。その後の下げを空売りで取るにしても天井圏は一旦休みを入れる。林サンは1988.5−8.5の1年を休んだ。まさに天才である。あぶない感じがしたんだろう。指数は上げても値が伸びないのが嫌な感じだったと思われる。この天井付近の(1988.5月頃)あぶない感じだけで彼の相場師としての評価の大半は決まったと僕は思う。その後のドテンまでの1年の休みが相場師としての真骨頂であると言える。

桜の下は死屍累々

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ダイヤランドの桜もついに満開となった。この別荘地は三菱地所が1965年から開発を初めてバブルのころは最盛期で億を超える物件がバンバン売れたらしい。
ご多分に漏れず、その後の不景気で廃屋同然で放置されている物件を業者が捨て値で買い取って新たに分譲している。土地価格は山だから実に安いのだ。坪2−3万で仕入れて8−10万で売っている。それでも公園が6カ所ぐらいあって桜、梅などをたくさん植えているし温泉契約をすればいつでも給湯してくれる。道沿いにも桜と紫陽花を植栽して花がいつでも咲いているのは心が和んで嬉しい。富士山がどこからもかぶりつきで見えるというのは何か実におめでたい気分になるものだ。そのくせ別荘地だから固定資産税がバカ高いと理事会でクレームをつけたらしいが、三島税務署はガンとして評価減を認めないという事だった。まあ無理も無い。こんな山の上まで水道を引いて近所に派出所や消防を置くコストを考えれば当然という事だ。第一、別荘を買うのは大抵が都会の金持ちや企業だから、そこから取っても別に腹は痛まないということである。コストというのは考えものである。つまりコストが高いということは、所有にどうしても経済的な制限がかかるから、貧乏人排除というと語弊があるが、結果的に金が余って使い道のない人しか買わないという事になる。維持にもそれなりの高めの費用がかかるから、年に数回しか使わないなら、豪華ホテルのスイートに一泊30万払ってもそのほうが安上がりということになりかねない。定住ならこんなに安い所は無いと思うが、別荘だとかなりゆとりのある人しか持てないということになるんだろう。引退した経営者ばかりの山になるのだ。最近、沼津から伊豆縦貫道路が沿長されて函南役場のそばまで伸びたから、東名経由で自宅から都心まで80分ぐらいで着くようになった。と言っても無論違法速度で走っての話だが。夜は特に新東名は空いているしオービスも今の所無いので、助かる。東京往復はいつも午後10時以降と決めている。
 僕のマダムは東中野で ON FLOWERS という小さな花屋をもう9年も娘と一緒にやっている。アレンジメントレッスンを主体にした予約中心の花屋なのだが、それでも仕入れに毎週水曜日の朝3時から太田市場に言ってたくさん花を仕入れてくる。毎週、毎週よく続くものだと感心しているのだが、週末は土曜日に小田急ロマンスカーでやってくるので、熱海か函南の駅まで迎えに行くことになる。大抵2−3泊して月曜か火曜に帰るという繰り返しの遠距離通勤なのだ。まあ変わったカップルということになるんだろう。それでも田舎と都会と両方の良い所を満喫できるからマダムはご機嫌が宜しい。温泉に入って、ワインを好きなだけ飲んで、僕の作ったヘタクソな料理を食べて、昼まで寝て、また風呂に入るの繰り返しだから、まあ極楽という所なんだろう。たまに三島や沼津に買い物に言ったり、気が向くと御殿場のアウトレットに冷やかしに出かける。そういう時は荷物持ちと支払いが僕の担当というわけだ。出来たら運転免許を取って欲しいと思うのだが、一向に教習所に行く気配がない。好きな車を何でも買ってやると言っても運転はしたくないだろう。酒が飲めなくなるし、、。彼女のために僕は今までジャガーを7台、メルセデスを5台、ボルボを1台、HONDAを2台、ポルシェを1台買ったと思う。多分2億ぐらいは車で遊んだと思うが、その分日本の色々な所を走れて幸福だった。北海道も3回ほどフェリーで青函を渡って3周したし、九州も行った。京都はほぼ毎年桜か紅葉の時期に出かける。ハイアットが常宿で割烹に3−4軒行く事が多い。唯一行ってないのが四国である。四国は大江健三郎の生地があるので、そのうちあのオオバアの神話の森と河を見たいなと思っている。四万十にも行ってみたいと思う。
贅沢好きの女と暮らすのは男の欲望を刺激するという意味において仕事の成果にドライブを嫌でもかける事になる。多分同期の男と比べて僕の所得は相場師になる前でも5倍はあっただろうと思うが、それはマダムの贅沢好きのせいが半分以上だったのだろう。彼女はシックでエレガントな物が好きだ。身長が172センチもあるから伊勢丹やバーニーズで売っているようなフランスやイタリーの商品しか似合わない。自分だけの欲望だったら僕が身体を壊すほど働くはずもないし、第一欲しいものなど今だってほとんどないのだ。だから一人ではなく家族という付帯条件をあえて持つ事で男は(最近は女も)負荷をかけて力を増幅させるのだろう。金がないから子供が生めないというのは単なる無能な泣き言であって、子供が出来れば嫌でも金がいるから親は働かざるを得なくなるというのが実情だと思う。必要額に応じて嫌でも仕事を選ばざるを得ないと思えば、どんな仕事だって金になるならするようになるだろう(違法な事は別だが)。同期の5倍ギャラをくれるような会社なんてあるはずもないから、自分で会社をしたまでのことなのだ。必要は発明の母であるというのは本当だ。32歳で3000万のギャラと2000万の交際費にでかいメルセデスやジャガーという暮らしになってもだからあまり嬉しいとは思わなかった。本当にしたいことが実は相場師だったからである。
 ロットに慣れが出来るというのはある意味で習慣だろう。1000万も一億も単なる記号でしかない。失うのが怖ければそれ以上は張れない。単なる記号だから、記号自体には意味など無い。記号は交換して初めて価値を持つ。だから記号を蓄積するような事に何の意味が有るかという部分で多分僕は少し変人なのかもしれない。相場師の値打ちは記号を作り出す事でそれを蓄積する事ではない。林サンと僕が異なるのはこの点だろう。技法ではない、哲学の差なのだ。積分と微分の差と言って良い。だから稼ぐとすぐに使うという習慣にしたから大して金などないし、そんなにたくさん欲しいとも思わないが、それでも地味に暮らせば一生使いきれないぐらいの金は自然に出来てしまった。欲望と体力は年とともに段々と衰えるし、かといって同じ仕事を繰り返し続けてやばれ馬鹿でも少しは上達するから毎年作った金を使い切るということはもはや不可能と言って良い。相場師に定年は無い。だが金を使うのにも体力や根性がいるのである。反面記号を作るのはそれなりに少しずつだが上達する。記号という規模のロットに慣れが出来ると何億建てようが怖くもなんともないし何億とれてもあまり嬉しいとも思わない。相場はゼロサム世界だから僕の取った分の反対側で首を吊る人が増えるだけの事だからというシラケた勝利感であまり嬉しくもないのだ。でもそうなると金は勝手に向こうからやってくるのだろう。「こんにちわ、金です。」とか言うように。
相場は勝負事だから倫理の入り込む余地などないのは当然で金が全ての世界である。ある意味で公平な評価基準で男らしい。初心者は格好の鴨なのは永遠の事実だから、まず礼儀として「やめておけ」と言うことにしている。それでも止めろと言われて止めるような奴はもともと相場など張りはしないのは自分のことを考えると当然だから、実はこうなのだというハンデを知らせるのは先輩としての礼儀だろう。やり方も知らずに死んで行く人が9割以上なのだし、大半がハコテンになる。マグレで上げ相場をしばらく取れても天井で張ってその後の暴落でオケラになる。資金管理とつなぎや空売りが出来ないからである。家族がいれば悲惨なことになるのは確実だ。だから一旦男が(今は女もそうか)自分で決めて入った世界なのだから、仕事に妥協するようでは直ぐにオケラになるのは当然である。弱肉強食の保険ゼロで自己破産さえ効かない世界という覚悟なしで相場をしてはならない。資金管理が甘かったり張りすぎればすぐにお陀仏となる。自分の欲望と恐怖のバランスゲームなのである。金のない初心者が1000万を単なる記号という処理を出来るかと言えば出来まい。その心理だけでもう既に負けているのだが、その自覚は大きくなって初めて分かることである。林さんの弟子でプロになった人はそれでもかなりいるだろう。彼らも何度も苦汁を飲みながら大きくなった。おそらく読者の数%もいるかいないかだろう。高校球児でプロ野球選手になった比率とそんなに変わらないのじゃないかと思う。そのなったプロ野球選手の練習量を想像して見て欲しい。片手間でなれるほど甘くない。ゴルフでも野球でもスケートでも彼らは身体的に特別な才能と技能を持ってる。相場師は身体はそれほどの特性は必要ないが、その分変動感覚が必要とされる心理の仕事だから難しいのだと思う。だから不幸にもこのブログを見てプロを目指す若い人がいるとしたらそういう覚悟なしに仕事をしても意味が無い。引退族には薦めない。後の無い金で勝てる世界ではないからだ。リーマンしながらも薦めない。時間と体力と気力が保たないからだ。相場を真剣にやればリーマンがおろそかになる。それでもしようとするならば、最低限僕が実行した道具の整備と日々の基礎練習をたっぷりとやってから初めても遅くはないだろう。基礎が無いと逃げられないからである。
相場とは損切りである。それだけ出来れば死なない。死にさえしなければ、そのうちいつか当たる。当たるまで金が保たないから死ぬのだ。生き残りの要諦は「投げと踏み」に尽きる。それさえ出来るようになればプロで生き残れると思う。
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