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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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差異と反復

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5541 試し玉

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5541  50年グラフ  大きな往復2回半


 長い月足グラフをずっと多枚数継続して書いている人は、かなり同じ銘柄がそろそろ買ってもいいかなというような、結論の一致を見ることが多い。例えば、僕とベトナムさんとmmokoさんは、ここまで師匠が同じ人で同じような方法で(同じ教科書で)習って相場をやっているから、全部とはいわないが大体同じような銘柄を同じようなタイミングで「いいかな?まだかな?」と疑り出す。というのは、個人の変動感覚というのは実に個人的な好みの問題もあるし、そもそも3人とも銘柄については10年も20年も付き合いのある、以前に大きく取ったような実績のあるものが繰り返し売買の中心になることが多いから、結果銘柄と時期が似たようなタイミングになることが多いのだと思う。

 それでも僕は疑り深いほうだし、慌てて大きな玉を作るようなことをする必然性がもうないから、それこそ不真面目に、適当に、取れたら取れたで良いし、遅れたら追っかけで入れば良いし、曲がれば落とせば良いだろ?ぐらいにあまり神経質に狙い定めてピリピリと理想を追うような買い方や売り方をしない。その反面、自分のタイミングというのは感じが重要だと思うから、一銘柄に狙いすまして試し玉を建てるなどというような緊張を伴うような事は絶対にしないで、3つか4と適当の月足の良いのを選んで、毎月ダラダラと突っ込みや押しを分割で拾って、戻りを値幅なんて無視してドンドンと落とす。3000円でも2000円でも利食いで破産した相場師はいないのだから、3週ひっぱって2万は取れるなと感じてもどんどん回転させてしまう。3−4銘柄を上限で5枚ぐらい、くるくると小技で転がしていると、ピアノを連弾しているような自分の好みのリズムとインターバルが生まれることがあって、そういう調子の良い時だけ、本玉に進む。利は試しでは期待できないのだから、本玉をキチンと建てるタイミングがぴったり合うように、試しを毎月建てたり、落としたりしながら、自分の中の時間が煮詰まるのを待っているのだ。
 5541は長い付き合いで、僕は先月も今月も試しを拾って、戻りを売った。
そもそも大天井から10年かけて典型の3段下げをするような大振りの人気銘柄だからファンも多い。業績は天と地を往復するような激しい変化率だから、あっという間に無配で大赤字に変化するような気性の激しさだ。だから、ちゃんと道具を完備して、常に試しでご機嫌を伺っていないと大きな玉を建てるのは危険なのだが、僕もベトナムさんも大天井から3段下げきっちり10年目なんて、典型的な大底付近(と思われる)はどうしても「やはりここは少しは出ないとグラフの意味がないだろう」ときっと思っているのだろう。アマチュアのど下手な人でも僕のブログを見て同じ銘柄を買ってみたりもするのだが、ちっとも利食いで終われない。それは玉の操作がど下手というかど下手にさえ届いていない酷さと感覚のなさに起因している。僕が5−6回もクルクル利食いをする間にマジ1回も仕切れない。(爆)「オメー、どこ眼つけてんの?」というかきっと盲より酷いんだ。何も見えていないし聞こえていない。

 5541は現在300円を割るととたんに下げのピッチが落ちて、「コツンとくる」ような音がする。(笑)そう書くと場帳や折れ線など道具のない人は「本当に音がするのですか?」とマジな顔で聞いたりする。僕には確かに何度もコツンという音がするのだが、質問者には音が聞こえないらしい。きっと同じ銘柄を同じタイミングで売買しても、きっと100対1ぐらいでその音が聞こえない人と僕とは利食いの回数も幅も異なると思うが、それはこの音が聞こえるかどうかにかかっているのだ。
だから練習の目的は、利食いに最初は置くのではなくてこの「コツンという音」が聞こえるようになるまで、場帳と折れ線と2分割の損切りを反復することにある。鈍感な人ばかりだから3回や5回では無理だろう。30回、50回とやって、1度でも「コツン」という音を聞いたらそいつは少し脈があると思う。50回やって50回とも10円の損なら50万、20円の損なら100万の損だ。それぐらい練習代を支払うつもりがないと逆張りの上達なんて夢のまた夢であると思う。だから損が苦しくて「ナンピン買い下がり」が習得できない人の割合が事実9割以上なのだろうと思う。300名ぐらいを同じ方法で教えて、できたのは8名しかいなかった。こんなものなのね。でも草野球のピッチャーから甲子園に行く人の割合よりは少しは多いんじゃね?(爆)

10回に1回できると9万の損と1万の利でマイナス8万だ。100万有れば12回練習できる。
その12回の反復の練習の損と利の経験の中で、どんな感覚的な差異を彼が感じ取ることができるのか?
その一点に彼の相場師としての彼の浮沈のすべてがかかっている。
 そこを軽々通過した人には札束の詰まったジュラルミンのトランクがきっと待っている。(笑)

ローカリズム宣言

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赤 8411   青 8617
平時の鞘は30円前後、現在50円なので復帰を期待して8617を買う

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1311  core30
調整は二段整理4週で終了か?新値に進むと青天井だが、、


みなさん、こんにちは。内田樹です。
今回は「ローカリズム宣言」というタイトルで、地方移住、定常経済などにかかわる文章をまとめて本を一つ作りました。本の素材になったのは、この本の出版社が出している『TURNS』という雑誌で二年ほどにわたって連載したインタビュー記事です。
TURNS』というのはUターン(生まれ故郷へ帰還する)、Jターン(生まれ故郷とちょっと違う土地に住み着く)、Iターン(都会に住んでいる人がぜんぜん縁のない土地へ移住する)という三種類の「ターン」のことです。この雑誌はそういうふうに「ターン」して、地方移住をめざす人たちのための情報誌です。
最初に『TURNS』から取材のオッファーがあったときには、この世にそんな特殊な読者を対象にした特殊な雑誌があるなんて知りませんでした。どこにも広告も出していない、名前も知らなかった雑誌にそれなりのニーズがあるということにまず驚きました。実際に地方移住するかどうかはさておき、「地方移住という選択肢を検討する気になっている人たち」は僕が考えているよりもはるかに多いらしい。
それを聞いて、まず「ああ、日本人もけっこう健全なんだな」と僕は思いました。
それは2011年の東日本大震災で露呈した都市文明の脆さと、とりわけ原発のメルトダウンによる環境破壊に対するごく自然な反応のように思えたからです。そういう動きが出てこなければ、むしろおかしい。
資本主義の終焉が近づき、今までのような都市生活はいずれ継続が困難になる、そういうふうに思う人が少しずつではありますけれど、しだいに増えてきました。もちろん、まだ圧倒的に少数派です。
そもそも資本主義経済がもうすぐ終わるかも知れないなんてことは新聞やテレビのようなマスメディアは絶対報道しません(だって、それは「そのうちわが社は消滅するかも知れません」という話なんですから)。ネットは速報性・拡散性優位のメディアですので、こんな複雑な話は扱えない。
ですから、「資本主義経済はもうすぐ終わるかも」というのはごく少数の学者やエコノミストの書くあまり読まれない本をたまたま手に取る機会がなかった人を除くと、「なんか、ふっとそんな気がしてきた」という直感以外には根拠のないアイディアなんです。でも、そういう直感を信じて、生き方を変える人たちが日本列島全土に同時多発的に登場してきた。たぶん、その数はこれからどんどん増えてくるでしょう。これはもう後戻りすることのない、歴史的必然だと思います。
でも、どうして経済システムのようなある意味で価値中立的で、誰も人為的に操作することのできない自律的な仕組みが「命数が尽きかけている」ということが直感的にわかるんでしょうか。
株式市場における投資家の行動は予測不能です。市場における消費者の購買動向も予測不能です。為替の仕組みや中央銀行の動きも変数が多すぎて予測不能です。要するに、経済体制が明日どうなるかということについては、これを一元的に管理している人も機関も存在しないので、「誰も知らない」ということです。ときどき啓明結社とかフリーメーソンとかユダヤの国際資本とか、そういう秘密組織がすべての経済的できごとを陰で操作しているという「陰謀論」を語る人がいますけれど、残念ながら、そういう理論は「世界のすべてのできごとの背後には神の摂理がひそんでいる。すべては神の意思だ」というのと同じく、今日の魂の安らぎを与えてはくれますけれど、明日何が起きるかについては何も教えてくれません。
ところがなぜか人間は直感的にこのような予測不能の、複雑怪奇な事象の本質が「わかる」ことがある。少なくともこのままの事態が続くと、自分にとって「よいこと」が起きるか、「よくないこと」が起きるのか、それがひらめくことがある。

「そういうこと」ってあるよな、と思ったのは、去年の春にイギリスに行ったときのことです。これは「マルクスのゆかりの地を訪ねる」という変わった企画のツァーで、その中で、マルクスが『資本論』を書いた時代のイギリスの工場労働がどういうものだったかを知るためにリヴァプールの産業博物館を訪れたことがありました。この産業博物館には産業革命のときの紡織機械がずらりと並んでいて、ときどきガイドさんが工場の仕組みを説明しながら、その機械を作動して見せてくれるのです。これがすごかった。
何十メートルもある紡織機械が一斉に作動して、それをわずかな人数で操作する。子どもたちが機械の下に潜り込んで、素早くを掃除する。少しでも気を抜くと機械に巻き込まれて手足が切断される。そういう非人間的な機械なんです。ところが、そういう機械にはあきらかに表情があるんです。機械を設計した人間がその機械がどういう本質のものであるかを知って、それを表情として与えてしまった。意識的であったか無意識的であったかはわかりません。でも、あきらかにそれらの機械には表情があった。
H・R・ギーガーという画家が『エイリアン』というSF映画のクリーチャーのデザインをしたことがあります。「バイオメカノイド」というのがその怪物のコンセプトでした。機械と生物の合体したものです。きわめておぞましい造形で、映画を見たときに僕はギーガーという人の作家的独創性にほとほと感服しました。でも、リヴァプールで紡織機械を見たときに、それらの機械がエイリアンの造形の原型だということがわかりました。人々を休みなく働かせ、生気を奪い、収奪し、場合によっては殺す機械にはそれにふさわしい醜悪で禍々しい「顔」があるべきだと考えた技師たちがいたのです。
「ラッダイト(luddite)」をご存じでしょうか。19世紀はじめのイギリスに登場した産業革命に反対した労働者たちのことです。彼らは機械によって職を奪われたことを恨んで、工場に乱入してさまざまな機械を叩き壊しました。イギリス政府は工場の機械を破壊したものは死刑に処するという過酷な政策でこれに応じましたが、ラッダイトの運動はそれにもかかわらず全土に広がりました。僕は高校の世界史でラッダイトのことを知ったときに「変なことをする人たちだ」と思いました。機械なんか壊してもしょうがないじゃないかと思ったからです。機械は価値中立的で、何の感情も意思も持たない、ただの道具です。機械の発明は、人間知性の発達の成果であって、それを憎むという心性がまるで無意味なものに思えました。でも、リヴァプールでほんものの紡織機械を見たときに、ラッダイトの気持ちがふっとわかりました。それはまさに「禍々しい顔」をした機械だったからです。システムを停止させるだけなら、資本家たちのオフィスに乱入して、帳簿や書類を破り捨てれば済む。あるいは工場法制定運動を通じて労働者を保護する法整備をすればいい。でも、ラッダイトたちはまず機械に憎しみを向けました。それは機械が生き物の顔をしていたからです。おそらく技師たちは「憎しみを向けることができるほどに擬人化した機械」を無意識のうちに設計してしまったのです。

今僕たちは爛熟した後期資本主義社会にいます。経済システムは想像を絶するほど複雑になり、いったい何のためにこれらのシステムが作動していて、いま何をしているのか、もう僕たちには全然わからなくなってしまった。だから、多くの人はそれを自然過程だと思って黙って受け入れている。気象と同じように、降ったり照ったりする。たまに地震があったり、津波があったりして、そのつど人が傷つき、死ぬ。でも、そこには何の人間的意味もないと思っている。
ところが、この経済システムに「顔」を見た人たちが出て来た。19世紀イギリスのラッダイトたちと同じように、科学技術や金融工学の自然な発展過程、個人の善意も悪意も関与する余地のない自然過程と思われたこの経済システムが「禍々しい顔」をしていることに気づいた人たちが出て来た。人間をただ疲弊させるためだけに働かせ、その労働の果実を収奪し、心と体を傷つけ、ついには殺す「邪悪な本性」を見たと信じた人たちが、このシステムが吐き出す「瘴気」が届かない場所へ逃れ始めた。それが今起きている「地方移住」という動きの文明史的な意味ではないかと僕は思います。
この動きの先駆者たちが何をしようとしているのか、なかなか理解が届かないだろうと僕は思います。あるいはかのラッダイトたちのように、政府や資本主義システムによって、あるいはメディアによっていわれなき非難を受けることがあるかも知れません。でも、イギリスでは、ラッダイトたちの戦いをきっかけにして工場法制定と婦人少年労働の規制のための運動が始まり、それがやがて普通選挙権を求める政治運動につながりました。バイロンとシェリーは、ラッダイト運動を人間を収奪するシステムに対する人間の尊厳と自立を追求するものとみなして、それを讃える詩を残しました。
現代日本の地方移住の運動を僕は「資本主義システムの顔を見てしまった人たち」の逃れの旅のようなものと理解しています。彼らの旅が無事なものでありますように。彼らがいつか約束の土地にたどりつけますように。God speed you

 内田樹の研究室より全文転載
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 内田先生と養老先生は東大の先輩と後輩で仲が良い。養老さんは今年80歳になったので「遺言」という本を書いている。その中で少子化について危惧していて、田舎の自然の多い場所に住むしか国民的な解決策は無いと考えているようだ。内田さんも同様に、もう現代の高度資本主義社会にロクな未来は無いから、これからの百年ぐらいは国民全体が撤退戦だと見ているようだ。二人とも「野獣の会」という変人を集めていろいろ面白い意見を言っているが、この国の政党はどれもロクな政策が打ち出せないので、国がドンドンと傾いて行く。まあアメリカの植民地だから、中国と北朝鮮の盾に使われているだけにすぎない。
 都市を捨てて田舎に住むと、人口密度が低いから空間の緊張感や圧迫感とは無縁である。ちょうど、ラッシュ時の山手線の車内と真逆の空疎なスカスカの状態に生活することになるが、誰もいないから緩い動作でゆっくりと時間を気にしないで、天気だけを注意して行動するという変化が生まれると思う。これが人の思考、感情、行動に大きな変化を産む。きっと健康で自然な方向に(つまり本能的な快楽重視の方向に)誘導される。だって人間はもともと自然な動物の一部だったから、それを思い出すだのだろう。そうしないでいる都市住民の大半はまさに「狂う」ようなまでギリギリまで追いつめられているのだ。それは通貨のせいである。都市では通貨がないと生活ができない仕組みができているが、田舎はそれが緩いから、あまりお金が必要ない暮らしなのである。
 都市の大半の人は不器用で無能な人が多いから(ホントにこと書いてご免な)自分の時間を売ることでしか通貨を獲得できないでいる。でも時間を売らないでも通貨を獲得する方法はいくらでもあると僕は思うので、このクドいブログを1000タイトルも飽きずに書いているのだ。
それでも田舎でどうしても少し必要なら、相場で取れば宜しい。

 4本の金融株の折れ線を上げるが鞘の開閉を良く見ると、現在はチャンスの局面である。通常20円程度の鞘が多い8411と8617が50円に開いている。8411が下がりそうか?といえば、やまだ上がりそうであるから、鞘が通常に戻るには8617が激しく上げる以外に方法が無い。だから8617を買えば良いという「自然な結論」が出る。しかも分割で買い下がれば良いから、そういう風に自分の玉が操作できるかどうか。これが相場で金を作るということである。
8617を30枚買って、5週間待って20円抜くと60万円だ。普通の人の月給だろうと思う。それで田舎なら3ヶ月ぐらいは生活できる。年に4回取れば良いのからチャスは結構あると思うな。
時間は有限で一度売ったら取り戻せない。金と頭は生きているうちに使わないともったいないぜと僕は思うな。若者での感度の良いのは、海外の学校なんて行かないと思うね。グローバル人材って体の良い資本主義奴隷でしょ?もうそういうの使いモンにならん時代がすぐそこまで来ているよ。文科省に騙されないようにね。(笑)
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今夜は焼きカレー
是非スキレットを買ってみてください。

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戻り天井から10年押してW底形成後、煮詰まっている。
10倍化けならこういうのはどうか? もう書くのは3回目だけど、、

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w底の典型
どんな馬鹿での1000枚ぐらい長いのを書くと「底型とは何か」が体感できる。
金が切実に欲しいのなら見ているだけではダメで自分で書いて感じろということだ。

 インテグラルな現実のもうひとつの側面は、すべてが統合された回路のなかで機能することである。情報、そしてわれわれの頭のなかにおいて回帰する映像が支配するとき、コントロールされたディスプレイでは、雑多な要素の無媒介的な集合が生ずるーーー円環状に作用し、ライデン瓶のようにそれ自体に接合し、そしてそれ自体にぶつかる事物が一点をめぐって動きまわるのだ。それはすべてのコラージュによって、またそれ自体の映像との混同によって確認されるという意味での完全な現実性だ。
 この過程は、視覚的、メデイア的な世界において、だがまた日常的で個人的な生活やわれわれの身振りや思考においても完成にいたる。この自動的な屈折は、いわばあらゆる物を自分自身の上で焦点を合わせることによって固定することで、われわれの世界の知覚にまで影響する。
 これは写真の世界でとりわけ認められる現象だ。そこではあらゆるものがただちにある文脈、文化、意味、観念を奇妙にまとい、あらゆるヴィジョンの力を奪い、盲目の一形式をつくりだす。ラファエル サンチェス フェルロシオ が告発するのがこれだ。「ほとんどの人が気づいていないが、恐ろしいかたちの盲目が存在する。それは注視し、眺めることを可能にするが、注視することなく一度に眺めることを妨げるものだ。かつて事物はそうであった。つまり人はそれを注視せず、眺めることに満足していたのである。今日ではすべてに表裏ができてしまい、純粋かつ直接的な衝動はどこにもない。田舎が、”風景”、すなわちそれ自体の表象になったのもこのようにしてである、、、」。

 この意味で、美学的になったのはわれわれの知覚そのもの、直接的な感受性である。視覚、聴覚、触覚、われわれのあらゆる感覚が語の最悪の意味で美学的になってしまった。事物についてのあらゆる新しいヴィジョンは、それゆえ世界をその感知可能な幻想(それには回帰がなく、回帰する映像もない)に戻してやるため、回帰する映像を解体しヴィジョンをふさぐ逆転移を解決することからしか生じない。

 鏡のなかで、われわれは自分を自分の映像と差異化し、また自分の映像との間で、開かれたかたちの疎外や戯れに参入する。鏡、映像、視線、舞台、これらすべては隠喩の文化につながるのだ。
 一方、ヴァーチャル性の操作においては、ヴァーチャルな機械のなかに一定のレヴェル没入することで、もはや人間と機械の区別がなくなる。つまり機械はインターフェイスの両側にあるのだ。もしかしたらあなたは機械の空間でしかないのかもしれないーーー機械の仮想現実、機械の鏡に映ったオペレーターとなった人間だ。
 このことはディスプレイの本質そのものに起因する。鏡に彼方があるようには、ディスプレイに彼方(奥行き)はない。時間そのものの諸次元も、現実の時間において混じりあう。そしてどうのようなものでもヴァーチャルな表面というものの特徴は、何より空虚な、それゆえ何によっても満たされうる状態でそこにあるとすれば、現実の時間において、空虚との相互作用に入るのはあなただということになる。

 機械は機械しか生みださない。コンピューターから出てきたテクスト、映像、映画、言説、プログラムは機械の産物であって、その特徴を兼ね備えている。つまり人工的に膨張されられ、機械によって表面をぴんと張られる。そして映画は特殊効果を詰めこまれ、テクストは冗長さと冗漫さを詰め込まれるのだが、こうした冗長さは何としても作動しようという機械の狡猾な意思ーーーこれが機械の情熱だーーーと、このように無制限に作動する可能性にオペレーターが魅了されることに原因があるのだ。
 暴力とポルノグラフィ化された性のうんざりするような性質はそこからくる。これらは暴力や性の特殊効果でしかなく、もはや人間による幻想の対象でもなくなって、単なる機械的暴力なのだ。プログラミングしか行わない、ヴァーチャルに「知的」な作用因からなる作品としてテクストは、そこからくる。
 
 とはいえこれは、語や概念の魔術的な陥入を用いてできる自動記述とはまったく関係ない。機械的テクストにあるのはあらゆる可能性の自動偏差だけだ。
 自己の固有の客体との相互作用というめまいと同時に、自分の可能性の技術的限界まで達していないのではないかという不安なめまいをオペレーターのうちに引き起こすのが、そもそもテクストや映像についての理想的なパフォーマンスというこの幻想、この終わりなき修正の可能性なのだ。
 実際のところ、あなたがたに話しかけるのはヴァーチャルな機械であり、それがあなたがたのことを考えるのだ。
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 そもそもサイバー空間のなかに、何かを真に発見する可能性があるだろうか。インターネットは自由と発見の心理的空間を偽装しているにすぎない。実際インターネットは、拡がりはあるものの慣習的な空間を提供しているだけであり、オペレーターはそこで既知の要素、すでに確立されたサイト、制定されたコードと相互作用を行うのだ。検索パラメーターを超えて存在するものは何ひとつない。あらゆる問いに、予測された答えが割り当てられている。あなたは問いかける者であると同時に、機械の自動応答機でもある。コード作成者であると同時にコード解読者であるあなたは、実のところ自分自身の端末なのだ。
 これこそ、コミュニケーションの恍惚だ。
 もはや面と向かう他者はいない。目的地もない。どこでもよいのであり、どんな相互作用因でもよい。システムはこうして終わりも合目的性もなく回転し、その唯一の可能性は無限に続く内向きの旋回である。そこから生じるのが、麻薬のように作用する電子的相互作用の心地よいめまいだ。中断することなく、そこで全生涯を送ることができる。麻薬それ自体も、閉じられた回路における狂った相互作用の単なる完璧な例にすぎない。

 ネットワークの精神的ディアスポラ 3     
    ジャン ボードリヤールより転載
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 今夜は手抜きをして「焼きカレー」を作った。冷蔵していたビーフカレーのルウーを使って、エンジンという自動車雑誌を定期購読した時にオマケでもらったアメリカ製の厚手のスキレットに、冷やご飯を敷いて、その上に今日は軽く茹でたブロッコリーを4房、そこにルーをかけてその上にピザ用のチーズをたっぷり乗せる。これをケチると美味しくないからこれでもかぐらいに乗せる。そしてオーブンを220度に加熱して12分ほど焼く。すると熱々の焼きカレーができる。
これは焼いた感じとチーズの混ざり具合で、通常のビーフカレーとはまた別物の美味しさがある。それはライスが鉄板でカリカリになるせいだろうと思う。残り物の再利用なのだが、まったく別の料理になるから、料理とはまさに化学だなあと思う。
 このスキレットという鋳鉄製の分厚い小さなフライパンのような食器は昔、カウボーイが使用した屋外用の万能調理食器である。実に熱の伝導が素晴らしい。いろいろプロがこの調理器を使用したレシピを考えていたので勉強になった。お国が違うと同じ材料を使用してもまったく異なった風味とか出来映えの料理になるから面白い。

 世界が効率を求めてどんどんと分業化されすぎて、いつの間にか人間は自分の手足や感覚を使って、事物を作ったり使ったり楽しんで遊んだりしなくなってきた。「食べて、寝て、出して遊べ」ばそれで人間の生活は完結する。なのに、それ以外の余計なことばかり増えすぎて、人間は不幸になったとフランスで一番賢いレビーストロースという学者が指摘している。構造主義の頭領だが、アマゾンの奥地でフィールドワークをして「悲しき熱帯」を書いている。
 反面、日本ではサイコパスの若い女子が「コンビニ人間」を書いている。コンビニは究極の分業形態の極地だから、そこで売っている弁当を食っているとそのうち人間は人間でいられなくなるんじゃないか?僕はそう疑っている。僕の毎日の目的は、コンビニで売っている弁当よりいかに無駄に高価でも旨い弁当を作るか?が楽しい日課になっている。だからコンビニではドーナツしか買わない。
 今日は1日かけてまた月足グラフを仕上げた。8089は良い煮詰まりかたをしているように思う。今月から場帳に加えて、多分新年から買い始めるかと思う。

 これから咲見町の友人のマンションの大浴場に温泉を借りにいく。車で5分の場所で、当家の温泉よりも温度と塩分濃度が高く、湯量が豊富なので週末の気分転換にはもってこいだ。友人は熱海に二軒マンションを所有しているので、二軒違う温泉に僕はタダで入れて貰えるのがラッキーだ。大きな風呂だが平日の夜はほとんど貸し切りになることが多い。
養老孟司さんの新刊「遺言」をざっと読んでみた。面白いからおすすめだ。人類と日本の子供たちの幸福について書いている。僕がボードリヤールを転載する理由と同じだと思う。


 
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リゾートは実際の土地公示価格にかなり先行して上げていると思う
やはり震災が大底だった。僕は大底で一つ買って3年で売ったが、まだ底だった。
現物の上昇がはっきりしたのは昨年ぐらいからだ。インフレ資産を買えということである。

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僕のマダムは毎年こういうオレゴンから届いた材料でクリスマスリースの作り方を教えている。


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養老先生が「遺言」という新刊を出した。最後に言いたいことは、都市の人口空間がまさに過剰で全都市住民が病気になる一歩手前で社会が狂っているということだ。

定年退職でもして時間ができたら田舎やリゾート地でゆっくりのんびり暮らすのも良いと思うな。贅沢なものは一つもないが、緩く生きてゆくのは身体の負担が少ないよ。田舎にいると大金なんて人生に必要ないなとシミジミ思うなあ。
過密で繋がり過ぎの環境を離脱すると世界が変化すると思うな。


 テクスト、あらゆる「バーチャルな」テクストについても同様だ。これは合成映像のように加工され、もはや視線あるいはエクリチュールの超越生とは何の関係ももたなくなる。いずれにしても、ディスプレイを前にすると、テクストはテクストとしてではなく、イメージとして知覚されうようになる。ところがテクストとディスプレイを、テクストとイメージとを厳格に分離することによって、エクリチュールは相互作用でなくひとつの完全な活動となるのだ。
 同様に、観客がどの役割を完全に果たすためには、舞台と客席とが厳密に分離されていなければならない。ところが今日では、すべてがこの断絶を無化する方向に向かっている。すなわち、スペクタクル内への観客の没入、実演劇場、ハプニングなどだ。
 こうしてスペクタクルは懇親的、相互作用になる。スペクタクルはその絶頂を迎えたのか、あるいは終焉を迎えたのか。全員が役者になってしまったら、もはや行為も舞台もなくなる。それは観客というものの死だ。
 美学的幻想の終焉。

 実のところ、距離を介入させて引き離し、有性化し、超越化させ、昇華させ、変形させるのにあれほど苦労したものすべてが、今日では絶え間なく混同されつづけている。現実性から引き剥がされたあらゆるものが、現在強制的に実現されているのである。そうしたものを奪いとり、実行可能にする技術はつねに見つかることだろう。「あなたは夢見た。われわれは実行した」というわけだ。あれほど苦労して破壊したすべてのものを、今日人びとは夢中になって復元している。実のところ、これは巨大な還元主義、巨大な修正主義なのだ。

 バーチャル性ーーーデジタル、コンピューター、インテグラルな計算ーーーの領域では何ひとつとして表象可能ではない。そこは舞台ではなく、距離もなければ批判的あるいは美学的視点もない。これは完全な没入であり、このメディア的領域からやってくる無数の映像は、表象の秩序ではなく、コードの復元と視覚的消費の秩序に属している。それらの映像はわれわれを教化せずに情報を与える。また、それらから何らかの感知できる現実性へと遡ることは不可能だ。政治的なものの現実性ですら不可能だ。この意味で、戦争すらもはや表象されえず、戦争の不幸に加え、それを出来事のハイパーヴィジュアルにもかかわらず、あるいはそのせいで表象できないという不幸が生じる。イラク戦争と湾岸戦争は、そのことをはっきりと示した。
 批判的知覚、真の情報が存在するためには、映像が戦争とは異質なものである必要がある。だがそうではない。(あるいはもはやそうではない。)すなわち、戦争の凡庸化された暴力に、まったく同じぐらい凡庸な映像の暴力が加わるのである。戦争の技術のヴァーチャル性に、映像のデジタル的ヴァーチャル性が加わるのだ。政治的争点を超えたところで戦争を現実の姿、つまり世界的次元での暴力的な文化的同化の道具として捉えるなら、メディアと映像とは戦争のインテグラルな現実の一部をなす。それらは力による同一の均質化の、より巧妙な道具なのだ。

 このように映像を通じて世界を再把握し、情報から行動、集団的意志へと移行することが不可能であり、またこのように感受性が欠け、人びとを動かすことがない状態において問題とされるのは、全般的な無感動や無関心ではなく、単に表象のへその緒が断ち切られてしまったことなのである。
 ディスプレイは何も反映しない。あたかも裏箔のない鏡の後ろにいるようなものだ。あなたは世界を見るだろうが、世界はあなたを見ず、見つめもしない。だがオブジェのほうであなたを見つめるときにしか、あなたはオブジェを見ることはないのだ。ディスプレイはあらゆる二者的関係を遮断する。

 そもそもこの表象の不能によって、行為が不能になるだけでなく、情報の倫理、映像の倫理、ヴァーチャルとネットワークの倫理をじゅうぶんに完成させることが不可能になる。この方面でのあらゆる試みは必然的に失敗する。
 残されているのは映像の精神的ディアスポラと媒体の常軌を逸した性能だけだ。

媒体と映像とのこうした優越について、スーザンソンダクが見事な逸話を残している。彼女は人類が月面に着陸するところをテレビで見ているのだが、その場所に居合わせた人びとは、自分らはこのお話の全部を信じているわけではないと言う。彼女が「じゃあ、あなたがたは何を見ているというの」と問うと、彼らは「私たちはテレビを見ているんですよ!」と答えたのだ。なんと言う事だろう。彼らは月を見ているのではなく、月を映している画面しか見ていないのだ。彼らはメッセージを見ているのではなく、映像しか見ていないのだ。
 だが結局のところ、スーザンソンダクの考えとは反対に、意味の帝国を信じているのはただ知識人だけであり、「ふつうの人びと」は記号の帝国しか信じていない。彼らはずっと以前から現実性をあきらめてしまっている。彼らは身も心も見せ物的なもの(スペクタクル性)の側に移ってしまっている。

 主体と客体とを区別する線が潜在的に消滅してしまっている相互作用的世界について、どのように考えればよいだろうか。
 この世界はもはや反映されることも表象されうこともありえない。それは脳の操作とディスプレイ画面のそれとが区別されなくなった操作によって屈折したり回折したりするだけだ。脳の知的操作それ自体がディスプレイ画面になったのだ。

  ネットワークの精神的ディアスポラ  2    ジャン ボードリヤール  より転載
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 アプリケーションから覗き見る電脳世界の値動きやテクストという幻想によって、我々の売買が遂行されるようになってから久しい時間が過ぎたように思う。今時、電話で証券売買をするような人は実に稀だろう。経費が余分にかかるし、第一不要な情報でコロッと騙される可能性がグンと増す。おれおれ詐欺とは言わんが、近いものがあるんじゃないのかと思うな。数値の交換される日本の証券市場で、いや世界で一番巨大な金額を交換するマーケットをどう信じて良いものやら、疑り深い僕などはよほど安くならないとまず買う気がしない。評価が確定しない新品はまず絶対に買ってはダメだ。みんなやがて全てが値下がりするだから、買うのなら償却の大半が済んで市場で叩かれでこなれた時価のものに限る。その叩かれた不人気にある種の人気がつく時だけ買ったら良いのだ。だからそれ以外はなんでもとりあえずは全部無条件に売りであると思うな。日本以外で生活しない限りは、円という通貨以外はまず必要ないから、僕は円ベースの証券しか売買しないし、きっとあと10年ほどの人生で海外で生活しなければならないような事態は戦争や大規模な災害以外には起こらないだろうとタカを食っている。まあ北鮮が東京に核ミサイルを直接打ち込んできたらあり得るかもしれないが、それでも日本の他の汚染されていない地域をまず探すだろうから、熱海に打ち込まれて即死しない限りまあ海外生活はしないと思う。だから円以外の通貨はいらない。味噌汁と刺身のない暮らしは嫌だな。

 酒田新値という江戸時代の米相場で出来た売買値動きのカウント技法があるのだが、それに新値13本で一相場が終わるという定石がある。つまり10人のうち13人が騙されると相場は反転するという皮肉でシビアーな数値統計であって、逆張りという玉の操作法はいかに人間の多数派が愚かであるかの歴史的な証明かもしれないなと最近は考えるようになった。その13本で終わらずに、最近では40本を超えても反転しないような動きさえあって、一端流れが出来ると人間は騙し続ける、騙され続けるのをきっと快楽と感じてしまうのだろうかとも思う。まさに世は過剰に満ちている。つまりJBの指摘した通り、不足ではなく過剰こそが問題であると思う。

 結局はどう説明してみても、相場の値動きというのは参加者の売買の動向によって決定される物である以上、人間の習性というもの、人間の価格に関する感覚や評価というものからは所詮免れないものなのだろうという宿痾にたどり着く他ないのかもしれない。だとすれば、相場とは一面的には社会学の反映であるとも言える。

 グラフというのは折れ線での月足でも見えすぎる、というか想像の範囲が広がり過ぎるという弊害が一面にはあって、弊害なのか利点なのかは使い方によるのだろう。その点では場帳は広がりが時間的に限定されているので、日常の売買には実に有効であるというか、これ以外には必要ないとさえ言える。

 相場技法でいうところの波乗り(リズムにしろうねりにしろ)というのは、相手の動きにこちらの動きを合わせるという身体的な感覚技法であるから、まず個々の身体こそが基礎であって、その身体とは波の動きを感じ取る五感(あるいは六感)が基本である。この感とは知とは無関係だが、主として末端(足とか手とか指とか)と脳の組み合わせによって感じ取るものだから、安定して数値を受けとめるための道具が間接的に必要になる。流れがあるものだから、音楽と一緒で旋律のように、この音のあとは次の音が時間的に流れるという特徴が動的であり、極点で反転する反復を無限に奏でるという意味で、「差異と反復」によって構成されるわけだ。だから対象も最終的には「切断」するということになる。
 出動する、離脱する、静観するという3つの動作の組み合わせになるのだが、後ろにいくほど難しいと個人的には思う。何もしないで見ていることほど実は難しいと思う。だから相場の極意は何もしないことにあるかもしれない。

イメージ 1
さびれた伊豆長岡温泉街
平日は誰も歩いていない

イメージ 2
富士宮 ニラ焼きそば
塩胡椒とニラともやしだけのヘルシーメニューだが後をひく

イメージ 3
割安リスト11月  当たるも八卦(笑)

ネットワークの精神的ディアスポラ

ビデオ、相互作用的なデイスプレイ、マルチメディア、インターネット、仮想現実、。相互作用性はいたるところでわれわれを脅かしている。いたるところで、かつては別れていたものが混合し、いたるところで距離が無化されている。男性と女性間、対蹠的な極の間、舞台と客席の間、行為の首謀者たちの間、主体と客体の間、現実とその分身の間で。
 そしてこの項目の混乱、極の衝突によって、いかなるところでも価値判断がもはや不可能になっている。芸術においても、道徳においても、そして政治においてもだ。
 距離、距離の「パトス」の廃棄によって、すべてが決定不能になる。

 出来事とそのリアルタイムの放映とがあまりに接近することで、ある種の決定不能性、出来事のバーチャル性が作り出され、それが出来事の歴史的次元を取り去り、出来事を記憶から逃れさせる。われわれは全体化されたハウリングのなかにいる。
 この雑居性、極同士の衝突が作用するところはでこでも、それが大量に生じる。それは「リアリティーショー」の中にいたるまで見られる。そこでは、生中継の物語やテレビでの直接的演技(所作)において存在とその分身が混同されるのを視聴者は目の当たりにする。
 もはや分離もなく、空虚もなく、不在もない。人々はディスプレイに、障害のないヴァーチャルな映像に入り込む。人びとはディスプレイに入るように人生そのものに入り込む。そしてデジタル配列をなすように、自分自身の生をつないでゆく。

 光景や視線を備えた写真や映画、絵画とは異なり、パソコンのディスプレイやテレビ画像は、一種の没入感、へそでつながった関係、かつてマクルーハンが言っていたような「触感的」相互作用に引き込む。人は流れる映像に、場合によってはそれを変容させるために入り込む。まるで科学がゲノム、遺伝子コードのなかに、身体そのものを変化させるために入り込むように。

  ネットワークの精神的ディアスポラ   1         ジャンボードリヤール
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 蛭子さんという変人の漫画家がいる。眼がほそくて博打好き。大金を一点勝負にかけてほとんど常に大負けをするのが趣味というような人だ。芸能界でもひどく有名らしく、たけしが一番恐れている人なのだという。なんかテレビを着けたら、彼より若いタレントと女優と3人でバスでどこかに行く番組をたまたま見たのだが、そのいい加減さのたたずまいが爆発的に面白い。なんか人生なんてどうでもよいし、どうでもなるさという軽妙な力の抜け加減が絶妙で、世界のすべてを小馬鹿にしたような細い眼が良いのだ。

 彼にいわせると(何か人生相談の答えらしいが、、)やることこが無い時は取り合えず金儲けをして時間を潰していれば人生に飽きないそうだ。そのうち自分のやりたい事が見つかればそれを実行したらよい。自分のやりたい事は大抵は金が必要だから、金儲けをしたことが無駄でなくなる、という事である。誠に合理的な男だなと僕は思った。

 グラフの更新とマダムのクリスマスリースの熱海お教室が重なって、搬入とか送迎とか唯一月の中で一番忙しい月初にまったくもうという1週間をやり過ごして、さて爺になると眼が疲れる、背中が凝るということで、二週ぶりに長岡に岩盤浴に行って40分2セットをこなして、夕飯はラーメン餃子を食べた。今朝はニラ焼きそば(富士宮焼きそばの蒸し麺だ)。いずれも安いがマアマア旨い。

 金があっても爺になると使い道があまりない。で、食いたいごちそうをたくさん日本中で食ってきたから舌は結構肥えているほうだろうが、それに応えるような水準の料理屋はほとんど静岡熱海周辺には無い!きっと静岡県民というのは味音痴と欲望欠如のダブルバインドなのだと思う。浜松か三島のうなぎぐらいしか名産がないのだ。地元野菜とか魚とか食材には事欠かないのに加工と調理がど下手。つまり味のセンスが全くない県民度なんだろう。なんでも砂糖をいれて甘辛くしたら良いとマジで思っているから食えたものではないのだ。きっと百姓ばかりで移動性がないから、旨いものがどういうものかを知らない人の割合がずば抜けて高いのだろう。味音痴!!土地は豊で飢えを知らないから移動に必然性がない。人口の8割ぐらいが地元民でずっと江戸時代から変わっていないかもしれない。高級とは何かなんて事とは一生涯無縁な土地柄なのだろう。こうなると人間は諦めが肝心である。実にそう思うな。

 ノマドライフとはかけ離れた土地に住むと違和感の塊で実に浮いているが、別荘地のリゾートマンションに定住するというのは「都市の飛び地」という扱いだから、地元民には入らない。地域の活動なんて面倒だから参加しないので自由な時間がたんまりある。金も時間もたんまりあるとよからぬ事をする相場師が多いのは、どこかの研究所の総長を見ればわかる通りである。

眠いので少し玉を動かしてみた。
 8303      1820     2-
               1829     1-    と3枚利食いしたのでその分を

3004       1529    -1
5210       188     -1
8617       1545   -1   と3枚分買って当日はスクエア 3−3 これで現金が利食い分増える。

異銘柄3つ分は既に建てている試し玉に下値にナンピンの増し玉で平均値をゆっくりと新安値が出たら増して行く。下値の鞘が限定的な時は(つまり半年安値が前年比で切り上がるような三角保ち合いの末期には)こうして少し動かして感じの強弱や時間の長短の感覚的な差異を受け止めると毎日がしないよりは少し楽しい。分割を基礎からちゃんと覚えることが出来れば、小銭なんていくらでも取れるようになると思うな。(小銭って僕にとれば昔からリーマンの月給のこと)ここでもポイントは売り(利食い売りと空売り)である。売れば資金が出来る。それが利食いであれば枚数が増える。単価と枚数が両方増えれば、かけ算で金は増加する。これを起動させるのがクルクルの技術だよとクドい話しをずっともうここ4年もブログでしているのだが、ようやく3年ぐらい損切りばかりしていた若者がコツを飲み込み始めているようだ。だからペリカン買ってよかったろ?俺は5本も持ってるよ。相場師やろうって奴は人より強欲で金が欲しいんだろうから、大金狙いは当然だろ?プータラ遊びながら何億が取らんとこんなダルい事マジにやれるかよと毎月猫は思うぜ。インクが乾く数秒の間が感覚の永遠なのだよ。ボールペンで書いてる奴にはわからんと思うねえ、、。たった5万ケチって5億人生で損するやつが人口の大半だろ?(爆)金の使い方を貧乏人は知らないの。だから永遠に貧乏なままなのって言ってもきっと僻みが起きるだけだなあ。

安値もいつかは止まるからそれまで平均を下げることが出来るならしておくと気分が宜しい。
不思議なもので、選定している鞘詰まりの末期のものは月代わりで交互に緩く上下するものを選んでいるから、ラジオ体操が頭の部分で音がする。
{かつてマクルーハンが言っていたような「触感的」相互作用に引き込む。人は流れる映像に、場合によってはそれを変容させるために入り込む。まるで科学がゲノム、遺伝子コードのなかに、身体そのものを変化させるために入り込むように。}

また11月の割安リストを上げておく。でもアマチュアが買っても上がらんかもよ。(爆)
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