広島空港では、樽につめたカキを売っている。朝、東京をたち、昼のあいだ広島で人と会って、夜、東京で新鮮なカキを食べることができる。そして、広島のテレビと東京のテレビは、同じ西部劇をうつしている。昼、話しあっていた広島の人間と東京の人間が、夕暮れに、さよならと挨拶し、夜、広島と東京で、おなじテレビを眺めているわけだ。こんなことは、いま、誰もが考えてみることで、とくにショッキングなことではない。日本じゅうが、いまや、隅からすみまで結びつき、統一され、単純化されている。1965年の日本は、百年前の慶応元年のひとつの小さな村落ほどにも、狭くなっているというべきかもしれない。
しかし、この日本でおこる、重要なことからツマらないことまで、なんでもテレビで見て知っていられるあなたは、この数週間でおこった、広島での、二つの死、若いふたりの人間の死のことを、ご存知ないはずである。ところが、この、結びつけられたふたつの死において、第一の死は直接、日本という国家に責任があり、第二の死も、もし人間的な心をもった日本人なら、やはり国家にその責任があると感じるにちがいない、そういう死であった。
第一の死は、吐気と関節のすさまじい痛みにせめさいなまれての死であったし、第二の死は、若い娘の穏やかな、そしてもっとも絶望的な自殺であった。
広島に、四歳のとき被爆した、二十三歳の青年がいた。かれがハイティーンになったとき、白血球がふえてきたので、かれは原爆病院にはいった。専門の医師たちは、かれが白血病にかかっていることがわかっていた。宇宙飛行の時代であるが、血液のガンといわれる白血病は、いなまお、致命的な不治の病である。白血球の増加をくいとめ、一時的に病気の『夏休み』をまねきよせることはできる。広島の医師たちの努力は、いま、この白血病の夏休みを、2年にまで引き延ばした。しかし、夏休みがおわれば、再発した白血病は、絶対に、確実に、人間の命をうばいさるのである。
青年はこの仮の回復期のあいだ、就職したいと希望した。医師たちは、この青年がそういう病気にとりつかれていることを秘密にして、(そうでなければ、青年の希望はかなえられなかったであろう)印刷会社にポストをみつけた。青年は職場で評判がよかった。ライフ誌が愉快に働く青年のことをとりあげ、明るいヒロシマという印象の記事をつくったほどであった。そして、かれは楽器店につとめている二十歳の娘と、愛しあい、婚約した。
しかし、2年の猶予期間のあと、青年は吐気になやむようになって、病院にかえり、死亡した。
1週間たち、青年の婚約者が、原爆病院の看護婦詰所に、ツノをはやした強そうなシカと、愛らしい小さなシカのひと組の置き物をもって、お礼にきた。彼女は平静でしっかりしていた。しかし、翌朝、娘は睡眠薬を飲んだ自殺体として発見されたのである。
おなじころ、東京では、日本政府が原爆の直接の責任者に勲一等旭日大綬章をおくり、官房長官は、にっこりとしてこんなことをいっていた。
「私も空襲で家を焼かれたが、それはもう20年も前のこと。戦争中、日本の各都市を爆撃した軍人に、恩讐をこえて勲章を授与したって、大国の国民らしく、おおらかでいいじゃありませんか」
ぼくは、数年前、愉快な明るい被爆青年の写真と記事を目にしたことをおぼえているアメリカのライフ誌の読者に、二年にわたって、あの青年とその恋人にどのようなことがおこったかをつたえたい。官房長官には『もう20年も前のこと』に、現にいまこのように悲惨な苦しみが、苦しまれていることをつたえる。
白血病で死んだ青年には、まだほんの幼児であったかれに、いわば白血病の種子をまいた原爆にたいして、戦争にたいして、戦争をひきおこした国家にたいして、賠償を請求する権利がある。戦争についての責任はかれにはなかったのに、二十年後、かれは個人的に、その生命をかけて、犠牲となったのだ。もちろん、青年は拒否するだろうが、国家はこのような青年にこそ勲章を授与すべきであった。
しかし、青年にあたえられた本当の勲章は、かれを愛している娘の後追い自殺だったのである。二十歳で、すなわち戦後にだけ生きて、まさに戦争とは無関係だった娘が、国家にかわって、やはり個人的に、その生命にかけて、みずからを青年のための勲章としたのだ。彼女にもまた、戦争と国家にたいして、婚約者をうばわれた悲惨の賠償を請求する権利があったのに、この若い娘は、死にあたっていささかも国家を非難しなかった。十日間をへだてて、おたがいに沈黙したまま、恋人たちは死の国へ歩み去ったのであった。
だからといって、この若い恋人たちが、国を愛して、その犠牲となったのかといえば、それはまさに真実の逆であろう。青年はすでに国家が、かれの白血病のためになにもできないことを知っていたからこそ、沈黙していたのである、このにがい沈黙。
娘はもっと徹底的に、自分にとって、日本という国家をふくめてこの世界全体が、死んだ青年ひとりの価値にあたいしないとみなして、自殺したのである。死んだ青年のかわりになるものを、国家とこの世界が、自分にあたえることなどできはしないと感じて、彼女は死を選んだ。国家とこの世界全体に背をむけ、死んだ青年の価値が決してふたたびこの国、この世界に見出せないことを、身をもって示したのであった。
もし、国家の代表とこの世界全体の代表が、広島の楽器店をたずねて、お嬢さん、死んだ青年より、国家とこの世界が、すなわち生きている者たち全体のほうに価値があると認めて、生きのびてください、と頼んだとしても、彼女は拒否したのであろう。いやです、いまとなっては、日本もこの世界すべても、自分には関係ありません!と彼女はいっただろう。本当にこの青年の死後、彼女には、日本という国、20世紀後半の世界、そのすべてが、いかなる価値もないものだったのだ、彼女は自殺によって、それを確実に語った。この絶望した娘のヒロイックな自殺のにがい味、、、、。
青年の肉体に白血病の種子をまいた核爆発物が、なお世界政治の主役でありつづけるいま、この地球上の誰が死を決した娘に、あなたはまちがっている、といえただろう?われわれもまたにがい心で沈黙する他ないではないか?
日本という国家にたいして、自殺したヒロシマの二十歳の娘のように壮絶にでなく、さしせまった抗議の声によってでもなく、日常生活のなかで不自然ではないほどの響きで、いやです、自分はあなたと関係ありません、と愛想づかしをいう権利もあることを、日本の戦後世代は、知っている。そして、ぼくはそれを、戦後の民主主義時代の、いっとう有益な知恵であると同時に、いっとう厄介な知恵であろうと考えている。
戦前の、絶対的な天皇主権の巨大なツバサのもとでは、ここにひとりの愛国的な人間がいるとしても、かれには、その愛国心が、国家に縛り付けられている自分の、奴隷の本能なのか、自分が主体的に自由を選んだ、人間らしい意志なのか、はっきりとしないところがあったにちがいない。江田島に展示されている特攻隊員たちの遺書が、いかにもムゴタらしいのは、この奴隷の本能と人間らしい意志とか、あからさまにまじりあっているからである。
戦後の日本人に、愛国心を見出すことが、たとえ困難であるにしても、(困難であるかもしれないといのは、非常時よりほかの時代において、愛国心は体温のようにありふれた、めだたぬ状態にあるからである。愛国心の温度が上昇し、発熱状態にいたらないからといって、それがうしなわれているのではない。むしろそれは正常かつ日常的な状態で、機能をはたしている)われわれは、いったん見つけることのできた愛国心には、保留条件ぬきの評価を与えていい。
それは国家に縛られていない自由な人間が、主体的に自分の意志において選んだ、価値ある愛国心であって、奴隷の習性とは無関係だからである。これは、愛国心をいだく国民のがわでも、ともに、誇らしく気持ちのいいことではあろう。われわれがもっとも根本のところまでは、国家に縛りつけられていず自由であり、愛想づかしの権利もある。という戦後的な知恵の、いっとう有益なゆえんだ。
ところで逆に、それが、いっとう厄介な知恵、重いハンディーであるとみなすゆえんは、自由な状態が、つねに不安をともなうものであるからである。
ぼくの友人のひとりが、ある日、ぼくにこう言った。
『おれは、大学を卒業して六年、かなりちゃんとした会社の課長補佐だが、つまり、いちばんありふれた小市民なんだが、なんとなく宙ぶらりんな、こころもとない気分だね。そして、最近のおれの口癖、
ゾクシテイナイなのさ。』
ゾクシテイナイ?それはなんのことだと、ぼくはたずねた。
『属シテイナイ、だ。朝、新聞を読む。除名された共産党員が新しい党をつくる、と出ている。そこでおれは、自分が共産党にも、その分派にも、属シテイナイ。選挙では、無所属の、感じのいいやつに投票する。
会社への電車のなかで、おれは週刊誌を眺める、創価学会の大運動会のグラビアがある。そこでおれは、自分は創価学会に属シテイナイ、と考える。次の選挙で、おれの気にいっている無所属の候補者は、公明党にはじきだされるだろう、という気がする。だからといって、おれは自分の一票よりほかの、いかなる票に働きかけてみる気持ちもないというわけだ。天皇家のグラビアもある。おれは天皇家を頂点とする感情的なピラミッドに属シテイナイ。
仕事をやっている時にも、自分は本当には、この会社に属シテイナイ、と感じるし、北朝鮮の映画を見る集いにひっぱってゆかれたりすると、この新しい朝鮮人たちがその国家に属しているようには、おれは日本に属シテイナイ、と思うのさ。おれはジャイアンツのファンだが、後援会には属シテイナイ。いったい、おれのような、属シテイナイノイローゼは特別かね。もっとも、ノイローゼが昂じて、首をくくるようなタイプにも、属シテイナイ』
だからといって、かれがひとつの政党なり宗教団体なりに参加し、なにものかに属することを望んでいるかといえば、実際はそれはそうでないのである。かれはそういうかたちの自由が性格に合う男だし、おそらくこの性分は、日本全国の、数の上ではどのような『属している』人より多い筈の『属していない』小市民一般のものであろう。かれは自由な状態に漠然とした不安を感じてはいるが、自分がそういうタイプの自由よりほかの状態は望んでいないことも知っているのである。もし、かれを旧体制の軍隊のごときものに強制的に参加させたとすれば、かれはたちまち、束縛サレテイルノイローゼにとりつかれてしまうにちがいない。
しがたって、なにものにも『属していない』数千万の小市民とともに、かれは、そうした『属していない』状態を、あらためて自分の態度として意識的に選びとるほかに、覚悟のきめ方はないはずであろう。そのように『属していない』人間として開きなおってみれば、われわれ『属していない』人間たちにとってなにひとつ、『属している』人間たちに劣等感をいだかねばならぬ理由はない。戦後の日本の民主主義時代というものは、旧日本的な、さまざまの束縛からわれわれを解放して、大量の『属していない』小市民をつくりだすことで始まったのではないか。
明治百年をひかえて、1965年はナショナリズムのよみがえりを多くの人が問題にする。そういう年であることだろう。それはすでにここ数年、あるいは無邪気に、あるいはウサンくさい手つきで、たかめられてきた機運である。
日本という国家に、本質的に離れがたく縛りつけられていると感じる人間の、戦前以来のナショナリズムが、古典的かつオーソドックスな様相をおびて、まず復活し、権利を主張している。日本という国家から切りはなされれば死滅するほかない、そういう器官みたいなものとして自分自身を考える種類のナショナリズム、しかし、われわれ数千万の『属していない』小市民は、いったん国家から自由である者の感覚をあじわったのだから、すくなくとも理不尽に自己犠牲を強いるナショナリズムに熱を上げることはないだろう。いったん、熱狂するにしても、熱はすぐさめるだろう。
オリンピックの『東洋の魔女たち』の練習法は、小市民の生活のモラルにも影響をあたえているように見え、大松監督の本は小市民の人生指南書となったが、われわれ小市民は、大松監督のように『オレについてこい!』と叫びたいのであって、忍従し克己する六人の娘たちのように、黙ってついてゆこうとしているのではない。数千万の小市民の日常生活に、オリンピック優勝のような劇的瞬間はないこともわれわれはよく知っている。
こうしたナショナリズムが、『属していない』小市民の思想でないとすれば、そこにはナショナリズムの反対語、インターナショナリズムの思想が存在しているのか?ぼくはそうでないと考えるものである。
われわれは、自分が日本という国家に愛想づかしする権利をもっていることを知っているが、しかもなおごく少数のインターナショナルな例外者をのぞいて、日本にとどまっている。すなわち、われわれは自分の自由な意志において、日本人であることを選びつづけているのだ。そこには、戦前のナショナリズムとも、逆のインターナショナリスムともちがう新しいナショナリズムが根をはり、幹をのばしううるはずではないか?
ぼくはそのようなナショナリズムをこそ、自分の国家への態度としていたいと思う。そしてぼくは、国家の責任と帰すべき白血病に苦しんで死んだ青年を愛して、日本に愛想づかしをしたばかりか、この世界全体にも別れを告げた、ひとりの二十歳の日本人のことを記憶したいのである。もし、あの真摯な娘が婚約者をうしなったあと、なお日本人として生きつづけることに希望を見出す国家のイメージが実在すれば、そのような国家こそが、新しいナショナリズムの頂点にひらく花であろう。
『日本に愛想づかしする権利』 大江健三郎 1965
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1965年は僕が10歳の時で、たぶん小学4年生、現在の僕の初孫と同じ年にあたる。現在8人でチームを組む中野区の地域少年サッカーチームで6年生主体のなかにあっては小振りの身体がいかにも頼りない、そんな年齢である孫の10歳という人生の時間より、大江のこのような尖ったテキストを読み始めるにはまだ10年ほどに時間を要したことになる。事実、僕がこの「厳粛なる綱渡り」という2段組み600ページを超える大判のエッセイ集を買ったのは大学時代の神田の古本屋街だった。
あれから早いもので既に40年以上がたつけれど、首相が岸信介から孫の阿部晋三に変わってもどうやらこの国のファシズムの権力構造にはいささかの変化もないようだから、日本の大多数には「属シテイナイ」僕としては、生きている間にはどうやら、新しいナショナリズムの頂点に開く花を見る事は能わないだろうという苦い気分にならざるを得ない。
それでも 竹輪と青のりの天ぷらとかレモンとオリーブ油を使った春キャベツの漬け物やトマトと春野菜とシラスの和風パスタなどをだらだらと順番に作っては食べて、マダムが3本目の赤ワインをあけて前後不覚に陥るころには日曜日から月曜日に日付が変わっている。猫はテーブルに乗って、揚げ竹輪の匂いに誘われているのだろうが、まだ手は出さない。猫舌だからだろうかとも思う。
だらだらと毎日が過ぎて行くが、これといった目的のない優雅な生活はとても良いもので、30代に訪れたマイアミの老人たちの引退のための街と同じような空気が、この熱海の街にも漂っている。
気候が温暖で人々がゆるやかに生活している熱海という街は、時間というものが停まったようで連続する毎日は気候や天気の変化が緩やかな時にはそれこそ自分が誰であるのかも、いくつであろうかも忘れさってしまうような気分になる。ただしばらくするとおなかが減って、何かを作って食べて、そして暗くなって眠る。風呂に入って眠る。空をみて音楽を聴いて眠る。たまには運転などして疲労したら眠る。僕はきっと資本性社会の忙しい時間に「属シテイナイ」。心配や不安や恐怖や感動にも多分「属シテイナイ」。