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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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下田公園 あじさい祭り  30万本の競演!

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堂ヶ島の奇岩群と海岸線

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小アジ寿司とかさごのみそ汁  2000円


 遊んでばかりいて何ら仕事らしい仕事(日本的常識で言えば金儲けの事)をしないままに62歳の誕生日が来て、誕生日の当日は僕は友人夫妻と4人で平日の昼間から伊豆半島を大きく一周して230キロのドライブをして紫陽花をたくさん見てきた。西伊豆は久しぶりで(土肥の夕日は多分3年ぶりだ)、それでも小アジ寿司とカサゴのみそ汁という郷土料理なんかを夕飯に食べたのだが、友人もおよそ20年ぶりだったというから、寿司屋の親父は現在72歳だという。彼の奥さんは年上で80代だろうが、今も現役で料理をしている。僕の親の世代の日本人は死ぬまで働くのがきっと趣味なんだろうと思う。価値観の差異が世代差なのか、個人差なのかはわからないが、同世代の友人知人でも働くことが僕の周囲では好きな人が多い。怠けるということが値打ちだと考える人のほうが稀なのだろうと思う。でもこういうマジにドマジメな人の作る現代資本主義日本文化が子供や孫の世代では絶滅に危機に瀕しているという現実に対して自覚のない若い人ばかりがなんでこんなに多いのか?説明できるような利口な人は実は少ない。(爆)疲れた働きアリを食うのはいつもキリギリスなんだろうねと思うが、、。
神話の読解を小学生ぐらいから教えたほうが良いのだろうと僕は思うね。
 今年は土肥の街では新生児はたったの二人しか生まれなかったということで、若い人がどんどん土地から離れて、老人もどんどんと死んで街が毎日確実に消滅していくのだそうだ。十年前には30軒もあった民宿は、ことしはたった3軒に減ったそうである。日本の差し迫った現実は東京や大阪の大都市にいても理解できないのだろうときっと思う。

 先月からずっと転載している大江のテキストは50年前、1969年ごろの日本の有り様なのだが、当時は2017年の現在を想像することも困難だったのだろう。大江も石原も存命だが、彼らの考えているような日本は生まれていない。さて8月から偶数月に年金をくれるらしい。こういう老人が人口の3割以上もいるのだからいずれ年金制度はもたないだろう。大幅な増税が待っているだろうと思うな。
 

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揚げ竹輪が冷めるのを待つ猫


 広島空港では、樽につめたカキを売っている。朝、東京をたち、昼のあいだ広島で人と会って、夜、東京で新鮮なカキを食べることができる。そして、広島のテレビと東京のテレビは、同じ西部劇をうつしている。昼、話しあっていた広島の人間と東京の人間が、夕暮れに、さよならと挨拶し、夜、広島と東京で、おなじテレビを眺めているわけだ。こんなことは、いま、誰もが考えてみることで、とくにショッキングなことではない。日本じゅうが、いまや、隅からすみまで結びつき、統一され、単純化されている。1965年の日本は、百年前の慶応元年のひとつの小さな村落ほどにも、狭くなっているというべきかもしれない。
 しかし、この日本でおこる、重要なことからツマらないことまで、なんでもテレビで見て知っていられるあなたは、この数週間でおこった、広島での、二つの死、若いふたりの人間の死のことを、ご存知ないはずである。ところが、この、結びつけられたふたつの死において、第一の死は直接、日本という国家に責任があり、第二の死も、もし人間的な心をもった日本人なら、やはり国家にその責任があると感じるにちがいない、そういう死であった。
 第一の死は、吐気と関節のすさまじい痛みにせめさいなまれての死であったし、第二の死は、若い娘の穏やかな、そしてもっとも絶望的な自殺であった。
 広島に、四歳のとき被爆した、二十三歳の青年がいた。かれがハイティーンになったとき、白血球がふえてきたので、かれは原爆病院にはいった。専門の医師たちは、かれが白血病にかかっていることがわかっていた。宇宙飛行の時代であるが、血液のガンといわれる白血病は、いなまお、致命的な不治の病である。白血球の増加をくいとめ、一時的に病気の『夏休み』をまねきよせることはできる。広島の医師たちの努力は、いま、この白血病の夏休みを、2年にまで引き延ばした。しかし、夏休みがおわれば、再発した白血病は、絶対に、確実に、人間の命をうばいさるのである。
 青年はこの仮の回復期のあいだ、就職したいと希望した。医師たちは、この青年がそういう病気にとりつかれていることを秘密にして、(そうでなければ、青年の希望はかなえられなかったであろう)印刷会社にポストをみつけた。青年は職場で評判がよかった。ライフ誌が愉快に働く青年のことをとりあげ、明るいヒロシマという印象の記事をつくったほどであった。そして、かれは楽器店につとめている二十歳の娘と、愛しあい、婚約した。
 しかし、2年の猶予期間のあと、青年は吐気になやむようになって、病院にかえり、死亡した。
 1週間たち、青年の婚約者が、原爆病院の看護婦詰所に、ツノをはやした強そうなシカと、愛らしい小さなシカのひと組の置き物をもって、お礼にきた。彼女は平静でしっかりしていた。しかし、翌朝、娘は睡眠薬を飲んだ自殺体として発見されたのである。
 おなじころ、東京では、日本政府が原爆の直接の責任者に勲一等旭日大綬章をおくり、官房長官は、にっこりとしてこんなことをいっていた。
「私も空襲で家を焼かれたが、それはもう20年も前のこと。戦争中、日本の各都市を爆撃した軍人に、恩讐をこえて勲章を授与したって、大国の国民らしく、おおらかでいいじゃありませんか」
 ぼくは、数年前、愉快な明るい被爆青年の写真と記事を目にしたことをおぼえているアメリカのライフ誌の読者に、二年にわたって、あの青年とその恋人にどのようなことがおこったかをつたえたい。官房長官には『もう20年も前のこと』に、現にいまこのように悲惨な苦しみが、苦しまれていることをつたえる。
 白血病で死んだ青年には、まだほんの幼児であったかれに、いわば白血病の種子をまいた原爆にたいして、戦争にたいして、戦争をひきおこした国家にたいして、賠償を請求する権利がある。戦争についての責任はかれにはなかったのに、二十年後、かれは個人的に、その生命をかけて、犠牲となったのだ。もちろん、青年は拒否するだろうが、国家はこのような青年にこそ勲章を授与すべきであった。
 しかし、青年にあたえられた本当の勲章は、かれを愛している娘の後追い自殺だったのである。二十歳で、すなわち戦後にだけ生きて、まさに戦争とは無関係だった娘が、国家にかわって、やはり個人的に、その生命にかけて、みずからを青年のための勲章としたのだ。彼女にもまた、戦争と国家にたいして、婚約者をうばわれた悲惨の賠償を請求する権利があったのに、この若い娘は、死にあたっていささかも国家を非難しなかった。十日間をへだてて、おたがいに沈黙したまま、恋人たちは死の国へ歩み去ったのであった。
 だからといって、この若い恋人たちが、国を愛して、その犠牲となったのかといえば、それはまさに真実の逆であろう。青年はすでに国家が、かれの白血病のためになにもできないことを知っていたからこそ、沈黙していたのである、このにがい沈黙。
 娘はもっと徹底的に、自分にとって、日本という国家をふくめてこの世界全体が、死んだ青年ひとりの価値にあたいしないとみなして、自殺したのである。死んだ青年のかわりになるものを、国家とこの世界が、自分にあたえることなどできはしないと感じて、彼女は死を選んだ。国家とこの世界全体に背をむけ、死んだ青年の価値が決してふたたびこの国、この世界に見出せないことを、身をもって示したのであった。
 もし、国家の代表とこの世界全体の代表が、広島の楽器店をたずねて、お嬢さん、死んだ青年より、国家とこの世界が、すなわち生きている者たち全体のほうに価値があると認めて、生きのびてください、と頼んだとしても、彼女は拒否したのであろう。いやです、いまとなっては、日本もこの世界すべても、自分には関係ありません!と彼女はいっただろう。本当にこの青年の死後、彼女には、日本という国、20世紀後半の世界、そのすべてが、いかなる価値もないものだったのだ、彼女は自殺によって、それを確実に語った。この絶望した娘のヒロイックな自殺のにがい味、、、、。
 青年の肉体に白血病の種子をまいた核爆発物が、なお世界政治の主役でありつづけるいま、この地球上の誰が死を決した娘に、あなたはまちがっている、といえただろう?われわれもまたにがい心で沈黙する他ないではないか?
 日本という国家にたいして、自殺したヒロシマの二十歳の娘のように壮絶にでなく、さしせまった抗議の声によってでもなく、日常生活のなかで不自然ではないほどの響きで、いやです、自分はあなたと関係ありません、と愛想づかしをいう権利もあることを、日本の戦後世代は、知っている。そして、ぼくはそれを、戦後の民主主義時代の、いっとう有益な知恵であると同時に、いっとう厄介な知恵であろうと考えている。
 戦前の、絶対的な天皇主権の巨大なツバサのもとでは、ここにひとりの愛国的な人間がいるとしても、かれには、その愛国心が、国家に縛り付けられている自分の、奴隷の本能なのか、自分が主体的に自由を選んだ、人間らしい意志なのか、はっきりとしないところがあったにちがいない。江田島に展示されている特攻隊員たちの遺書が、いかにもムゴタらしいのは、この奴隷の本能と人間らしい意志とか、あからさまにまじりあっているからである。
 戦後の日本人に、愛国心を見出すことが、たとえ困難であるにしても、(困難であるかもしれないといのは、非常時よりほかの時代において、愛国心は体温のようにありふれた、めだたぬ状態にあるからである。愛国心の温度が上昇し、発熱状態にいたらないからといって、それがうしなわれているのではない。むしろそれは正常かつ日常的な状態で、機能をはたしている)われわれは、いったん見つけることのできた愛国心には、保留条件ぬきの評価を与えていい。
 それは国家に縛られていない自由な人間が、主体的に自分の意志において選んだ、価値ある愛国心であって、奴隷の習性とは無関係だからである。これは、愛国心をいだく国民のがわでも、ともに、誇らしく気持ちのいいことではあろう。われわれがもっとも根本のところまでは、国家に縛りつけられていず自由であり、愛想づかしの権利もある。という戦後的な知恵の、いっとう有益なゆえんだ。
 ところで逆に、それが、いっとう厄介な知恵、重いハンディーであるとみなすゆえんは、自由な状態が、つねに不安をともなうものであるからである。
 ぼくの友人のひとりが、ある日、ぼくにこう言った。
『おれは、大学を卒業して六年、かなりちゃんとした会社の課長補佐だが、つまり、いちばんありふれた小市民なんだが、なんとなく宙ぶらりんな、こころもとない気分だね。そして、最近のおれの口癖、
ゾクシテイナイなのさ。』
ゾクシテイナイ?それはなんのことだと、ぼくはたずねた。
『属シテイナイ、だ。朝、新聞を読む。除名された共産党員が新しい党をつくる、と出ている。そこでおれは、自分が共産党にも、その分派にも、属シテイナイ。選挙では、無所属の、感じのいいやつに投票する。
 会社への電車のなかで、おれは週刊誌を眺める、創価学会の大運動会のグラビアがある。そこでおれは、自分は創価学会に属シテイナイ、と考える。次の選挙で、おれの気にいっている無所属の候補者は、公明党にはじきだされるだろう、という気がする。だからといって、おれは自分の一票よりほかの、いかなる票に働きかけてみる気持ちもないというわけだ。天皇家のグラビアもある。おれは天皇家を頂点とする感情的なピラミッドに属シテイナイ。
 仕事をやっている時にも、自分は本当には、この会社に属シテイナイ、と感じるし、北朝鮮の映画を見る集いにひっぱってゆかれたりすると、この新しい朝鮮人たちがその国家に属しているようには、おれは日本に属シテイナイ、と思うのさ。おれはジャイアンツのファンだが、後援会には属シテイナイ。いったい、おれのような、属シテイナイノイローゼは特別かね。もっとも、ノイローゼが昂じて、首をくくるようなタイプにも、属シテイナイ』
 だからといって、かれがひとつの政党なり宗教団体なりに参加し、なにものかに属することを望んでいるかといえば、実際はそれはそうでないのである。かれはそういうかたちの自由が性格に合う男だし、おそらくこの性分は、日本全国の、数の上ではどのような『属している』人より多い筈の『属していない』小市民一般のものであろう。かれは自由な状態に漠然とした不安を感じてはいるが、自分がそういうタイプの自由よりほかの状態は望んでいないことも知っているのである。もし、かれを旧体制の軍隊のごときものに強制的に参加させたとすれば、かれはたちまち、束縛サレテイルノイローゼにとりつかれてしまうにちがいない。
 しがたって、なにものにも『属していない』数千万の小市民とともに、かれは、そうした『属していない』状態を、あらためて自分の態度として意識的に選びとるほかに、覚悟のきめ方はないはずであろう。そのように『属していない』人間として開きなおってみれば、われわれ『属していない』人間たちにとってなにひとつ、『属している』人間たちに劣等感をいだかねばならぬ理由はない。戦後の日本の民主主義時代というものは、旧日本的な、さまざまの束縛からわれわれを解放して、大量の『属していない』小市民をつくりだすことで始まったのではないか。
 明治百年をひかえて、1965年はナショナリズムのよみがえりを多くの人が問題にする。そういう年であることだろう。それはすでにここ数年、あるいは無邪気に、あるいはウサンくさい手つきで、たかめられてきた機運である。
 日本という国家に、本質的に離れがたく縛りつけられていると感じる人間の、戦前以来のナショナリズムが、古典的かつオーソドックスな様相をおびて、まず復活し、権利を主張している。日本という国家から切りはなされれば死滅するほかない、そういう器官みたいなものとして自分自身を考える種類のナショナリズム、しかし、われわれ数千万の『属していない』小市民は、いったん国家から自由である者の感覚をあじわったのだから、すくなくとも理不尽に自己犠牲を強いるナショナリズムに熱を上げることはないだろう。いったん、熱狂するにしても、熱はすぐさめるだろう。
 オリンピックの『東洋の魔女たち』の練習法は、小市民の生活のモラルにも影響をあたえているように見え、大松監督の本は小市民の人生指南書となったが、われわれ小市民は、大松監督のように『オレについてこい!』と叫びたいのであって、忍従し克己する六人の娘たちのように、黙ってついてゆこうとしているのではない。数千万の小市民の日常生活に、オリンピック優勝のような劇的瞬間はないこともわれわれはよく知っている。
 こうしたナショナリズムが、『属していない』小市民の思想でないとすれば、そこにはナショナリズムの反対語、インターナショナリズムの思想が存在しているのか?ぼくはそうでないと考えるものである。
 われわれは、自分が日本という国家に愛想づかしする権利をもっていることを知っているが、しかもなおごく少数のインターナショナルな例外者をのぞいて、日本にとどまっている。すなわち、われわれは自分の自由な意志において、日本人であることを選びつづけているのだ。そこには、戦前のナショナリズムとも、逆のインターナショナリスムともちがう新しいナショナリズムが根をはり、幹をのばしううるはずではないか?
 ぼくはそのようなナショナリズムをこそ、自分の国家への態度としていたいと思う。そしてぼくは、国家の責任と帰すべき白血病に苦しんで死んだ青年を愛して、日本に愛想づかしをしたばかりか、この世界全体にも別れを告げた、ひとりの二十歳の日本人のことを記憶したいのである。もし、あの真摯な娘が婚約者をうしなったあと、なお日本人として生きつづけることに希望を見出す国家のイメージが実在すれば、そのような国家こそが、新しいナショナリズムの頂点にひらく花であろう。

     『日本に愛想づかしする権利』  大江健三郎  1965
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 1965年は僕が10歳の時で、たぶん小学4年生、現在の僕の初孫と同じ年にあたる。現在8人でチームを組む中野区の地域少年サッカーチームで6年生主体のなかにあっては小振りの身体がいかにも頼りない、そんな年齢である孫の10歳という人生の時間より、大江のこのような尖ったテキストを読み始めるにはまだ10年ほどに時間を要したことになる。事実、僕がこの「厳粛なる綱渡り」という2段組み600ページを超える大判のエッセイ集を買ったのは大学時代の神田の古本屋街だった。
 あれから早いもので既に40年以上がたつけれど、首相が岸信介から孫の阿部晋三に変わってもどうやらこの国のファシズムの権力構造にはいささかの変化もないようだから、日本の大多数には「属シテイナイ」僕としては、生きている間にはどうやら、新しいナショナリズムの頂点に開く花を見る事は能わないだろうという苦い気分にならざるを得ない。

 それでも 竹輪と青のりの天ぷらとかレモンとオリーブ油を使った春キャベツの漬け物やトマトと春野菜とシラスの和風パスタなどをだらだらと順番に作っては食べて、マダムが3本目の赤ワインをあけて前後不覚に陥るころには日曜日から月曜日に日付が変わっている。猫はテーブルに乗って、揚げ竹輪の匂いに誘われているのだろうが、まだ手は出さない。猫舌だからだろうかとも思う。
 だらだらと毎日が過ぎて行くが、これといった目的のない優雅な生活はとても良いもので、30代に訪れたマイアミの老人たちの引退のための街と同じような空気が、この熱海の街にも漂っている。
 
 気候が温暖で人々がゆるやかに生活している熱海という街は、時間というものが停まったようで連続する毎日は気候や天気の変化が緩やかな時にはそれこそ自分が誰であるのかも、いくつであろうかも忘れさってしまうような気分になる。ただしばらくするとおなかが減って、何かを作って食べて、そして暗くなって眠る。風呂に入って眠る。空をみて音楽を聴いて眠る。たまには運転などして疲労したら眠る。僕はきっと資本性社会の忙しい時間に「属シテイナイ」。心配や不安や恐怖や感動にも多分「属シテイナイ」。

ダリ的な誘惑

イメージ 122万円で幸福が買える今年の夏の優れもののスニーカー
鎌倉のスピングルムーブは良い品揃えだ

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野口さんのおつまみ本、すぐれものの欲望である
他人の欲望を手作りするという快楽を知る事は人生の醍醐味なんだと思う

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ひよこちゃんと僕は同じ快楽の教科書を読む
文学的でないテキストにも無論意味がある

 最近このような愉快な芸術的体験を味わったことがない。ダリは、ぼくの個人的偏向に満ちた、絵画への様々な欲求を、ことごとく、十全に、満たしてくれる気がする。実際ぼくは、この信ずべからざる画期的なダリ展の会場を出たとき、贅沢きわまる精神分析治療をうけたあとのような気分で、解放感とここちよい疲労とをからだじゅうの筋肉やら内蔵やらにやどしていた。精神分析治療といえば、ダリの心理的趣味はあまりにも喧伝されているわけだが、いま、あらためて、このフロイト=ダリ的タイトルの絵画群をながめていると、20世紀の二人の巨人のロンドンにおける出会いが、いかに希有のものだったかが切実に感じられる。全世界的ブームのあと、この50年間に少なくとも表向きには、ほとんどの芸術家がフロイトを捨てた。ところが、ダリだけはいくつもの戦争をこえてフロイトへのかわらぬ執着をもちつづけてきたのだった。その持続はやはり感動的だ。フロイトが、つねにあまりにも明快であったように、ダリもまた、時どきこっけいに感じられるほどにも明快である。「ザクロの周囲を一匹の蜜蜂が飛んだために生じた夢から眼醒める一瞬前」という絵画など、あからさまで正直で、興ざめするほど説明的そのまま、圧倒的な魅力だ。ぼくはダリほど明快な韜晦家を知らないが、それはかれがフロイトの気真面目な弟子であって、そしてまた実際的なアメリカ人に数多いファンをもっていることの理由をあきらかにするものであろう。
 個人的偏向を告白すれば、ぼくは古典の時代の精緻を極める写実的技巧が好きだし、雄弁に意味を主張する絵、エロティックな情念にあふれた絵、大仰なグロテスク趣味、ユーモアなどが好きだ。そしてそれらは残念なことに現代絵画がおよそ放棄しさった諸性格である。ところが、ダリはそれらすべて、かれ独自の美点として顕現する。「恋愛感情を表現する二個のパン」の偏執狂的な克明さときたら!そこに描きだされたパンとパンくずを見つめていると、美しいものをながめている満足感の底に、なにか奇妙なおかしさと恐怖心の触手のごときものがうごめきはじめる。われわれが一個のパンのような「物」すら、実際には知りつくしていず、支配しつくしていない、ということへの恐怖心は、いわば実存的な反省にかかわっているが、それはそのまま最も人間的なユーモアにつながるものであるだろう。サーバーによれば、英国人のユーモアは、平凡なことを大事件のようにあつかうことで生じるというのだが、ダリのパンもまた核爆弾のようにうやうやしくたてまつられて鋭いユーモアを発揮し、核爆弾そのものの恐怖もまた、背中あわせにひらめかすのである。
 写実的技巧はパンのような単なる物質について発揮されるのみならず、「水の影に眠る犬を見るため非常に注意ぶかく海の皮膚をもちあげる少女である私」の、遠方では海そのものであり近くでは水色のシーツのような「海の皮膚」の美しさを保障する技巧ときたら、それもやはり超写実的としかいいようがない。
 ダリのもっとも直裁なエロチックの情念は、妻ガラの裸体に豊かにあるれている。それはロレンスがえがきだす最も女性的な瞬間の女のイメージを彷彿させることがある。そして「犀的な兆候」は愉しい、そのすばらしい技術!
 20世紀のような平均化の時代に、まぎれもない天才的巨人であろうとすれば、それはつねにじこっけいだし気違いじみている。ところがダリは、自分にむけられる他人の目のなかのこっけいさと気違いじみた感じを、その数百倍にも拡大再生産して、演じぬくのである。まさに20世紀むきのダリという天才的巨人をもつことは、今日の地球人全体の幸福というべきであろうとぼくは思っている。

    「ダリ」  大江健三郎  『厳粛なる綱渡り』1965年より転載

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 野口真紀さんという料理研究家の「きょうのおつまみ」(主婦と生活社、1200円)というレシピ本でマダムのおつまみをずっと今月は作っている。本には130種類の簡単で美味しいおつまみのレシピが乗っていて、麦酒、ワイン、焼酎、日本酒、紹興酒や白酒にぴったりの素敵なレシピが満載で、一品が30分から1時間以内で出来るので、おばんざいのように大皿で作って4−5人でシェアしてワイワイ食べるのに適している。マダムは夏になると白ワインが増える。性格に計ったように毎日1本空けてそれで上機嫌が出来上がり僕たちは正しい家族として手をつないで眠る。糖と油を減らして野菜を増やす。すでに30種類ぐらいは作ってみたけれど、どれも薄味の上品な一皿が多い。誰にでも好かれる味のバランスというのは、きっと彼女の才能が日本人の伝統的な好みをベースに組み立てられているせいだろうと推察する。

 僕はマガジンハウスの雑誌やムック本が日常的な暇つぶしだから、&Premium やクロワッサンは実際によく買うのだ。料理、掃除、ダイエット、ファッション、旅行、映画、音楽と女性誌は盛りだくさんで暇が潰れて宜しい。お金をどっぷり必要とする階級的趣味志向の世界。現代の婦女子の選り分ける♂の生殖の最初の踏み絵!!もう随分以前から物にも事にも興味がどんどんと薄くなってきて困ったねえと感じるようになってからもマガジンハウスの物欲てんこ盛りの社会性というものは実用的で便利で人気がある。台所=キッチンというのはデスクよりも数段と愉しい具体的な物理要素が満載であるから、僕はコンビニで買い物をする人の感性を基本的には感心しない。大衆受けする感覚(味覚や視覚、嗅覚)とはダリと正反対であると思うからでもある。餌食になる人と餌食にする人の差異とは一体何だろう?便利を否定する所からしか差異化はきっと開始されないのが暇な人しか知らないという事実でもきっとあるんだろうかと思う。
人肉を食うということは人類共通の伝統的なタブーなのだが、そのタブーを犯すことが資本性社会の差異化の特徴であるという理解をしている人はきっと日本人にはほとんどいないのだろう。資本性社会とは2割が残りの8割を食うという幻想で成立する神話構造なのだから、教育の基本はその訓知の徹底であると言って良いが、基礎教育は欺瞞だらけなのは当然といえば当然で適合が不能な人から自殺していくのがこの国の成り立ちの一面でもある。

 日本人で良かったねと思う時には、例えばスタイリッシュで背が高く色白で目がパッチリとしたロングヘアの美人(異邦人)というのが僕の女子の好みなのだが、好運なことに僕は25歳の時その要素の98%ぐらいを満たすマダムに偶然出会ったのですぐに「結婚してください」とプロポースをしたのだった。出会って3ヶ月目だったと思う。お願いすれば許諾されるということは欲望に素直な男は事実得をするという事だ。こういうことは人よりさっさと早く決定しないと他の人に取られてしまうから早い者勝ちに決まっている。つまり大半の欲望的な出来事はすぐに決める人が最も良いものを取れるというのが順列組み合わせで自分が有利な選択が出来る世界という事なのだが、料理とか仕事とかお金とか遊びとかも同じような要素が高い選択ジャンルだろうと思うから、なるべく良いねと感じたら急いで全部手早く手広く手にする必要があるんだろうと思う。慎重さとはつまりババを引く!
何かを手に入れるのには大抵はお金が少しは必要だと思うから、すぐに買うことが出来る現金がつねに豊富にある人が幸福を手に入れやすいという構造で社会は成り立つのだろう。幸福とは所詮どこにも貯蓄の要素はないはずで、日本人の貯蓄好きは幸福とは縁遠い性質ということになると僕は言うのだが、信じる人は実に少ないのは何故だろう?多くの日本人はたくさんお金を貯めると幸福になると信じているのだ。こいつらマジ馬鹿じゃないの?と常に僕は思うな。自分の頭で考えて徹底して実行するという事を実際にしたことが多分ないのだろうと思う。自分でマックスウエイバーを一度も読んでもいないのに効率などと人は言う。
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今夜はホームパーティー 8時から蛍鑑賞会が梅園であります。

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島田市立バラ園

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丸山製茶の日本茶カフェ

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50畳の大広間、自然薯の丁字屋

  先月は半年ぶりに4100の試し玉を建てて蓋をしている。
249   −1 と買って  258  1−と翌日蓋。都合 1−1のポジションのままで一月放置した。別段安値の持ち合いで284まで1割戻して上げ詰まりの感じで、今後のした抜けを待っている気の長い話しではある。急いで売買してもどうせ多くは儲からんのだからまあ気長にポツポツとチャンスがあれば拾えば良い。
 2012年から理想的な3段上げをしている低位株も無いではないが、実に少ないのだから、投機熱が日本株に押し寄せているような盛り上がりは今はない。

 まあなんとか30年も成長しないGDPと個人所得の減少、人口減少はこれから50年で本格化していくのだし、円高と人件費の削減のための海外生産が本格化して、なんと百貨店の国内売り上げはピーク比で4割減というのだから、庶民の大半は不景気が常態化してしまったようで、どうやら階級社会が日本でも定着しそうな勢いだろう。国内の不動産の15%が現在空き家だそうで、2030年には1/3がそうなるということで、個人資産の大きな割合が不動産といういびつな日本人の資産構成は今後、老人を中心に大幅な貯蓄不足や破産が起きることが確実だろうと僕は予想している。

 田舎のホームセンターに行くと500円の中国製のビーチサンダルを売っているが、一方で200万とか150万円のイタリア製のクロコダイルの靴を何足もオーダーで作る人がいる。
 1000円か2000円のデジタル時計を売っている反面で500万とか1000万の手巻き時計をいくつも持っている人がいる。単価で4000倍ということで、同じ惑星の同じ国家の人類でも、行動も思考も感性も甚だしく異なる世界に住んでいるということが起きているが、不思議に豊かになった僕には一向にその自覚はないんだね。

 孫に夏の服を御殿場のアウトレットで買って、マダムにも夏の麻の服をプレゼントして
島田という場所の大きなバラ園を見に行って、帰りに400年続いている丁字屋という自然薯の飯屋に寄った。天井に広重の東海道五十三次の版画が飾ってある。僕は関西弁のえげつない娯楽小説を10冊ほど読んでいる。黒河博行はそれでも直木賞を取っている。探偵小説でもヤクザ小説でも、関西弁のわずかな差異?(河内弁とか京都弁とか広島弁とか)が売りなんだろうと思う。どうしようもないオバカな男というのは確かに面白いね。同じ犯罪小説でも高村薫が書くと大阪人でもこんなに変わるということは、性差という他ないんだろうか?

今夜はホームパーティーだ。おばんざいを7品ぐらい作ってみる。土曜日に昼から5時間料理をするのが僕のお仕事である。

 海老のアヒージョ、ブリの自然薯かけ、ひじきの煮物、小松菜の胡麻和え、豚肉とジャガイモの煮付け、茄子とキュウリの浅漬け、しらたきの明太子和え、これに茹でたブロッコリーとブレッド&サーカスの厚切り食パンをこんがり焼いて、アヒージョのオイルをつけて食べます、白ワインと冷やした日本茶で。
 カフェ伊豆山の初夏の老人向けご飯です。

陽物神譚

イメージ 1達磨山レストハウスから見下ろす駿河湾と富士山、このアングルはNYの写真展で金賞を受賞した日本のアングルだそうです。確かに圧巻!!

うっすらと富士山が霞んで左に見えますね。

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ここが僕の行きつけの肉屋  平井精肉店 伊豆牛が買える唯一の店
大仁という場所にあります。飼料が良いと肉の味は全く変わりますね。

 世界に昼と夜とがあり、季節に春と秋があり、方位に南と北とがあり、人間に男と女があるのは堪えがたい。
この国には懐疑主義と詭弁とが茸のように根強くはびこっている。屈辱である。おれはひとりの皇帝として、唯一神たる玉ねぎの司祭として、孔雀神のふたつの乳房を憎まざるを得ない。いま、豹の毛皮と鼈甲の寝椅子に凭れて休らっているおれの耳に、あたかも戦雲を告げるシンバルとシトラスのひびきのように聞こえてくる物音は、奴隷たちの手で破壊されている壮麗な孔雀神殿の壁の崩れ落ちるひびきである。おれは接骨木の髄を耳の孔に詰め、その上に蜜蝋でぴったり蓋をした。すでに忌まわしい音は水オルガンのくぐもり声のようにしか聞こえない。おれの心は平静である。
 二ヶ月以前、アレクサンドリアの医方博士を七人招いて、秘密裏におれはある種の切開手術を受けた。さよう、おれのからだに女陰を穿ったのである。すでにおれは男にして男ではなく、かつ女にして女でない。男にして女である。すなわち両性である。ああ、存在と所有の完璧な無差別、両性の絶対的一如をあれほど希ったおれの、何というこれは成功であったろう!おれはこの手術を受けて後、王宮内の異端神像を集めた陳列室の中から古い一体のバビロニアの両性神像を見つけ出し、宮廷内の雲斑石の噴水のわきにこれを据えて、日夜飽かず眺めてきた。すると、だんだんおれはこの神像に酷似してきたような気がするから妙ではないか。おれの容貌に色濃くあらわれはじめた古代アッシリア王サルダナバロスさながらの放逸さと気だるさの表情、肉感的な唇のたるみ、拡がった鼻翼、エロスの頭部に似て弦楽器の弦のような重いちぢれ毛にかこまれた狭い額、たえず内部に視線を向けた暗鬱な神秘家の瞳、蒼い血管が葉脈のように這っている艶のない半透明の膚ーーーすべてこれらの徴候は、おれの東法的な血の遺伝に加うるに、十九年の遊惰な頽唐生活の賜物というべきであるとはいえ、おれはそれをバビロニアの両性神像において初めて確実に識って、身ぶるいした。それは美しいというべきであろうか。少なくとも男性美の規範からも女性美の規範からも永遠にはずれるこの美学の形式は、おれを俟って初めて実在の人間に完全に具現されたのではなかろうか。かつてポリュクレイトスの規範は、ギリシアの壮丁のゆるやかな厚みのある胸の上に、若い処女のほっそりした咽喉を接いで得もいえぬ美を実現し、ハドリアヌスの解放奴隷は、エロスとウラニアのトルソオの下にふくらみの目立たぬ少年の腰をもち、癇癖の皇帝を慰撫したが、彼らとて、おれの手に入れた純粋な地上の神のかたちのエッセンス、支配と服従とにこもごも身をゆだねることを得さしめるセックスの神秘の奥義ーーーすなわちセックスを否定するセックス、永遠の愛の火を保つ唯一無二の形式ーーーをおのれの肉身に表現するすべとては、これの望むべくもなかったのではないか。さよう、すでにおれは人間にして人間ではない、玉ねぎの中の神なのである。
 しからば、玉ねぎとは何か。陽物以外の何ものでもない。陽物はおれの器官であると同時に、おれの熱望である。玉ねぎは強大な陽物である。それはおれの巨大な熱望である。それは愛なくして愛を行うことを得さしめる、絶対に秘跡としての性格をもたない秘跡である。それは神聖な猥褻である。それは至高な原理へのセックスの絶対的隷属であり、セックスそれ自体による至高の原理の創造である。それはまた痙攣する精神であり、戦慄する物質であり、、、、それは、、、
 ところで、告白してしまおう、おれはこの玉ねぎの内部にある狡猾な仕掛を隠しておいた。幾重にも層をなす純金と象牙と碧玉で構成された材質の中心に、魚の目玉のように小さな一つの空虚をひそかに残しておいたのである。この秘密は事にあたる数人の彫刻師にしか知らされてはいない。小さいながら、この空虚こそ、玉ねぎ全体のもっとも枢要な部分にあたる。かつまた、それはエジプトのガラス器の中の一粒の気泡のごとく、神聖なるものの内部に包蔵された一つの邪悪であり、淫猥なるものの中に封じ籠められたいわば一つの正義である。説明しよう。ーーーやがておれの時代から一千年の歳月が流れ去った後、世界はあたらな文化と新たな神々を迎えるであろう、かかるとき、この時を支配すべき未来の皇帝は、おれの玉ねぎに無残な槌の一撃を加え、これを打ち砕かんと欲するであろう、そして確実に打ち砕くであろう、そこまではよい、だがそのとき、(未来の皇帝よ、思い知るがいい!)台座の下に打ち砕かれ飛散した虹の破片のような玉ねぎの外皮の中心に、何ものによっても破壊される懼れの絶えてない永遠不易の真珠「空虚」が、玲瓏たる虚無の笑いをりんりんとひびかせて、谺のように鉄槌の下から躍り出、きらめきながら大地に跳ね返るのを見るであろう。この虚無の真珠は、何ものを以てしても粉砕され得ないであろう。ーーーおお、この妙案に考えおよんだとき、おれはできうることなら一千年を生き永らえて、このおれの古今未曾有の聡きたくらみの成果をば、われとわがまなこにしっかりと刻みつけたいものと、どんなにか思い焦がれたものであろう。そして、もしさような情景に際会することがおれに肉身に許されるならば、おお、おれはどんなにか涙を流して笑うことでもあろう!

  『陽物神譚 』    澁澤龍彦より転載

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 マダムがドライブに行きたいというので午後から修善寺の先の達磨山高原のレストハウスまで走った。先月からテラスでハーブの苗を植えていて、イタリア料理のスパイス材料を揃えているのだが、パセリ、ルッコラに加えてバジルと水茄子の苗を修善寺のカインズホームというホームセンターで買った。広大な売り場面積によくぞこんなたくさんの商品を並べたねというぐらいいろいろある。農機具、肥料、苗、工具、衣服、身の回りのあらゆる生活用品、食料品となんでも揃う。高級品は一つもないけれど、普通に生きて行くのならこれで十分だろうと思う。21世紀の過剰生産の消費文明の必然的結果がそのまま売り場に存在するという意味では、ふと澁澤龍彦とは全く対照的ではあるなとも思う。
面白そうなので洗濯機の水槽を洗う洗剤と漂白剤を買ってみた。どうやら僕は料理と洗濯するのが好きみたいだ。干すのが好き、たたむのも好き。アイロンなしでぴしっと干すのが趣味である。こんな部分はフシギに村上春樹に似ていると思う。きっと大阪のおばさん体質というのが染み付いている年代というのがあるんじゃないか?ブランド好き、元気でケチで楽しい事と美味しいことが好きで仕事嫌い。(爆)
 僕のフラットはパーキングパレットが5枚あってそれが5つと平置きが4つで29台分あるが、いちばん多いのはレクサスが7台もいる。カインズホームは一番多いのは軽トラ。実用と奢侈の形態の差異がそのまま現れる。日本人の標準的な金持ちはレクサスに乗るというのが事実なのだろう。僕は30年前にいやいやクラウンの4Lに乗って以来、国産車には乗っていないので例外的な方かもしれない。みんなと一緒が嫌いなのね。
 昨日は郵貯が失効したメインの銀行カードを届けにきた。磁気が飛んで使えないので再発行というのを初めてしたが3週間ほど不便だった。今時、印鑑と通帳で出金するような人はいないだろう。だから他の銀行のカードで引き出した。

 帰りに平井精肉店で牛肉とチョリソーを買って、となりのユニーの生活倉庫というスーパーで食材を買う。田舎の店はどこも広くて圧倒的だねと思う。東京の数倍あるのは普通だね。伊勢丹2つ分ぐらいの面積だが高級品はまずないね。だから買うものはとても少ない。

 夕飯はおつまみをいろいろ作る。
1 冷やっこ  上手い豆腐を買って、明太子とミョウガのトッピング
2 ほうれん草の胡麻和え
3 2種類の豆(大納言と白豆)のイタリア風サラダ
4 シラタキの明太子和え
5 オクラの梅肉和え
6 姫キュウリの特製味噌ディップ(味噌、マヨネーズ、ラー油のアレンジ)
7 油揚の素焼き
8 うずら卵の麺つゆ煮

マダムは白ワインと赤ワイン、僕はウーロン茶。これでおなかいっぱいで残した。ちょこちょこ90分ぐらい作りながら食べる、作る、食べるという感じだと調理時間が伸びる。野菜を増やして糖質を抑えるのが今月のポイント。


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