07年製の550CL 5.2万キロで快調です。
M 人間の先祖が樹上から地上に降りてきたとき、二足歩行を始めると同時に、まずは群れを作りました。なぜなら地上には天敵が多い。単独では危険です。つまり群れることは人間の本能です。そして日本人は、その本能が突出して強い。つまり集団との親和性がとても高い。だからこそ共同体における異物への排除意識が強い。個としての確立が弱いからこそ、親兄弟へのバッシングに転化しやすい。集団性が高いからこそ、共同体内部における同調圧力がとても強い。
そんな日本で、オウム事件があり、そして3.11が起きた。9.11後のアメリカが好例だけれど、大きな事件や事故が起きた時、人は集団としてまとまりたくなります。不安や恐怖に連帯して対峙しようとする。これは本能的な衝動です。
でも集団には暴走というリスクがあります。イワシやカモや羊の群れもそうだけど全員が同じように動き始めます。違う動きや思考をしずらくなる。その瞬間に異物となるからです。そして誰かを異物と認定する側は、共同体における多数派として、より連帯を深めることができる。要するに学校のいじめと同じ構造です。
同時に集団は、これも9.11後のアメリカを考えればわかりやすいけれど、集団外部に敵を求め始めます。敵と戦うにはその集団はまとまらなければならない。逆に言えば、まとまるために悪の存在が必要になる。こうして無理矢理に敵を設定します。ならば愛するものを守るためには攻撃するしかないという論理が立ち上がる。先制攻撃が正義になる。こうして自衛や大義を理由にした戦争が始まります。
H 中世末期のヨーロッパではペストの大流行によって全人口の3分の一が命を落とし、そこに戦争や飢餓などが追い打ちをかけて、キリスト教の信仰自体が崩壊しかけました。そうした窮地のなかでどうやって共同体はその秩序、連帯を確保したかというと、新しい価値観を作ってみんなで信じる、というふうにはしばらくならなかった。森さんが指摘なさったとおり、「悪」と対峙することで連帯感を保ったわけですね。本能的、とおしゃいましたが、まさにずっとある現象だと思います。
東京電力の問題、そして大津のいじめの問題、それぞれに対する世間の反応は、同時代にいると気づきにくいですが、30年ぐらい後になって振りかえれば、今回の震災と関連ずけられるような気がします。つまりどちらも、権力者が何かを隠しているのではないかということで、みんながワーッと盛り上がって加熱している。その背景には、3.11を機に社会の不可視的な部分での変化があるように思えるんです。
M もっともわかりやすい異物は、集団の決めたルールに背いた人です。つまり犯罪者。だからこそ集団化とともに厳罰化が進行する。罪と罰のバランスが急激に変わって行く。
1991年から地下鉄サリン事件が起きた1995年までの5年間の死刑判決と、2001年から2005年までの5年間の死刑判決の数を比べると、後者が3倍です。最高裁の司法研修所によれば、近年の死刑判決の割合は、戦後の混乱期並みに増加しているそうです。
こうした厳罰化の一方で、この国の犯罪総数は年々減っています。殺人事件の認知件数は1954年をピークにして、その後はほぼ毎年のように戦後最小を更新しているし、人口比においても日本の殺人事件は、アメリカのほぼ10分の一で、平均すればEC諸国の3分の一です。つまりこの国の治安は、世界でトップクラスで良好です。ところが体感治安は悪化する一方です。実態と感覚がとてもねじれた状況にある。この大きな要因はメディアにあるけれど、3.11によって集団化が促進されることで、ーーー絆はまさしくその象徴ですが、さらにそうした傾向が進むのではないかと危惧しています。
集団は強いリーダーを求める。号令が欲しくなる。3.11直後の東京と知事選挙、そして大阪市長選挙の結果を見れば、その傾向が明らかに現れています。
M 唯一の原爆被爆国でありながら世界第三位の原発数を保有しているこの国は、いろんな意味で極端な国です。敗戦国から一転して驚異的な経済成長を成し遂げながら、世界初の公害といわれる水俣病を引き起こしました。神話に端を発する天皇制がいまだに続いていて、明治期には国家神道で全体主義の時代もありました。集団化と相性がいいからこそ付和雷同や一極集中的な現象が起きやすく、人類のネガティブな属性がとても頻繁に現れます。(まったく自覚がないのが超フシギ! 爆)あまりにシニカル過ぎる逆説だけど、何かを書いたり撮ったりするうえでは、極めて刺激的な場に僕は身を置いていると思っています。
H 僕はやっぱり文学の存在意義みたいなことをよく考えるのですね。文学は一個の体験です。で、社会の矛盾を描いて、ある人の心を強く動かしたとします。その心を強く動かされた人が、そのもやもやした気持ちを解消しようとした場合、結局は政治プロセスのような、社会に対する具体的な働きかけに結びつくしかない。でもなんか文学ってそんなものかなあ、って疑問に思うんです。つまり、そういう社会改良という意味では、文学よりジャーナリズムのほうがはるかに有効なのではないかと。それは、3.11以後の感覚かもしれない。
だから、社会問題では解決しきれないものを汲み取って描くというのが、文学の役目の一つではあると思うんです。といって例えば、東日本大震災を描いたとして、そこには確かに文学の固有性はあるのかもしれないけれど、それを読まされた人はどうしたらいいかというと、結局はその人が救われるような社会の変化を望むしかないわけですよね。つまり最終的には社会的な問題に回収されてしまう。
それをやるのかどうか考えて、僕は結論として、存在論というか、昨日まで隣にいた人が消えているというのは何なのか。という方向に進むことにしました。それは社会が変わろうと、法律が変わろうとか解決しない問題ですから。というかむしろ、社会と法律の根本にある問題です。
H 平野啓一郎
M 森 達也
フィクションとノンフィクションは「死」をどう紡ぐか より転載
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今週はずっとエッセイを数冊読んでいる。平野啓一郎、池澤夏樹、梨木香歩、中上健次、柴門ふみ、エドワードサイードと全く脈絡はないのだが、まあ関連性があるとすれば、柴門ふみを除いてみんなリベラルでリーダブルという事だろうかというぐらいか、、。
なんか世界中で頭に血が上ったような人たちが多くてぶっそうだよねと思うと寝起きがわるい。自分の言い分を全部通そうとすれば摩擦が起きるのは自然な事だから少しはお互いに遠慮をすれば良いのに、大人げないなあと思う。グローバリズムが行き着く所まで行き着いて、その反動場面がきっと既に始まったという舞台に世界がいるという事なのだろうが、経済よりも先に政治のほうが舵を切ったという場面なのかもしれないな。
世の中が忙しすぎて感情的になっている理由は、多くの人があまり深く考えもしないで条件反射的に物事に反応するという動作が主体になってきた証拠なのだろう。メディアの功罪と一言で括ればそういう要素は高いのだろうから、社会と関わりを捨てて生きればどうでも良い事だねと白けた気分で居られるが、こういう時は同質化圧力の強い日本人は不安定で特に危ない状態だろう。全体主義のファシズムでは日本とドイツは立派な前科があるのだから、特にそのファシスト岸信介の孫、阿部晋三が首相なんだから特段の注意が必要な時期だろうかと思う。戦争をやりたくって仕方が無いようなファシストになんで5割以上の支持があるのか理解に苦しむが、ボスの程度は国民の程度の反映でもあるのだろうから、まあ日本はこんな最低の程度という自覚は必要なんだろうなあ。阿部を支持する人たちは、その爺さんの岸を知らんだろうし、それは近代史を知らんという事でもあるのだろうし、いざ戦争が始まってみれば一番に困る人たちなんじゃないの?とも思うんだが、、。
平野と森の対談のように、だんだんと日本がマズい場面に接近しているように僕には見えるが、仮に戦争をして一番どこが利益になるのか、何処の損失が一番大きいのかを冷静に考えると、日本の失うものがすごく大きいことに誰でも気がつくだろうと思う。仮に半島で戦争が起きて、中国が自衛のために戒厳令を引いて外国資産を国有化で凍結でもすれば、中国国内の日本企業の設備は全て接収されるという事になるから日本の国際展開している製造業の打撃は前回の大戦以上の損失という事が起きる。共産主義なのだからヤル気になるばやるだろう。そのための軍隊なのである。
それにしても前回の大戦で負けた国、日本、ドイツ、イタリアは戦後の復興で実に良い自動車を作ってきたし、現在でも中国を別にすれば素敵な車を実際にきちんと作り続けているなあと思う。一方勝ったほうの国、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアの自動車はひどいよねえ。なんでこういう結果になるんだろうか?国民性と一言で括れない要素が他にあるんじゃないかね。自動車生産とファシズムは親和性がきっと高いんだろうが、その種の論文を未だ読んだ覚えが僕にはないから、誰か頭の良い人が本を書いてくれると良いねえと思っている。ハルトモさんなんてその業界に長くいらしたのだから、ご意見をお伺いしたいものだねえと思う。20世紀は自動車の世紀だった。個人レベルの人間の生活様式を貧富の差は別として大きく地理的にも時間的にも変えたのが自動車というアイテムだった。自動車は自由な行動の代名詞としての商品だったと僕は思う。だからリベラルな僕は素敵な車が好きで、いろいろドイツ車を中心にたくさんの車を買って乗ってきたのだろう。それは本を読むのと同じように感覚的には自由な体験だったように思う。
日本の若者が自動車に乗らなくなったらしい。貧乏で買えなくなったという部分も無論あるんだろうが、果たして金だけの問題なのだろうか?自動車に乗って自分の気分でどこまでも走っていけるという他愛無い自由な気分まで捨ててしまったのだろうか?26歳の時に長男が生まれて必要性から初めて自動車を買った。中古のメルセデス230Eという黄色の6気筒のセダンだった。椎名林檎ちゃんがレコードのジェケットで半分にカットしたあの車である。結婚したばかりのマダムがそれを欲しがったからだが、実に楽しい自動車ライフがそれから始まった。裕福であることの意味を体感したことで僕のその後の人生は実に楽しかったと思う。そういう事を若い人がしなくなったのはとても残念だねと思う。
ちょっと古い欧州車を直し直しブツブツ言いながら乗るのは楽しいよ。壊れるのが楽しいのね。少し暇と金がかかるから楽しいのだけど、そういう快楽をみんな知らないで死ぬのはもったいないねと思うね。効率なんて言っているうちは本質的な上等が何かって知らないって事だろうと僕は思うな。登山で必要でSUNTOっていう安いデジタル時計を4年前に買ったのだけど、それは高度計は別として時間はほとんど狂わない。3万ぐらいだったね。電池は3年は持つよ。一方でジャガールクルトっていうスイス製の金時計はプリウス2台分より高価だけれども、1日7分も遅れる。(爆)でもまあ困らない程度の狂い方だし、困らない程度の僕の生活様式には事実あっているとも思う。効率ってそんな程度の値打ちだね。7分遅れて僕をどなるような人とはつき合わないものね。だから僕は今は生産なんてしないんですよ。労働なんてしないんですよまったく。純粋浪費なんです、快楽の本質とはね。そうそう年金っていう贈与もそろそろ始まるらしいけどね。 |
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