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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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07年製の550CL  5.2万キロで快調です。

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05年製AUDI A6 4.2 AVANT    6.2万キロでも快調です。

M  人間の先祖が樹上から地上に降りてきたとき、二足歩行を始めると同時に、まずは群れを作りました。なぜなら地上には天敵が多い。単独では危険です。つまり群れることは人間の本能です。そして日本人は、その本能が突出して強い。つまり集団との親和性がとても高い。だからこそ共同体における異物への排除意識が強い。個としての確立が弱いからこそ、親兄弟へのバッシングに転化しやすい。集団性が高いからこそ、共同体内部における同調圧力がとても強い。
 そんな日本で、オウム事件があり、そして3.11が起きた。9.11後のアメリカが好例だけれど、大きな事件や事故が起きた時、人は集団としてまとまりたくなります。不安や恐怖に連帯して対峙しようとする。これは本能的な衝動です。
 でも集団には暴走というリスクがあります。イワシやカモや羊の群れもそうだけど全員が同じように動き始めます。違う動きや思考をしずらくなる。その瞬間に異物となるからです。そして誰かを異物と認定する側は、共同体における多数派として、より連帯を深めることができる。要するに学校のいじめと同じ構造です。
 同時に集団は、これも9.11後のアメリカを考えればわかりやすいけれど、集団外部に敵を求め始めます。敵と戦うにはその集団はまとまらなければならない。逆に言えば、まとまるために悪の存在が必要になる。こうして無理矢理に敵を設定します。ならば愛するものを守るためには攻撃するしかないという論理が立ち上がる。先制攻撃が正義になる。こうして自衛や大義を理由にした戦争が始まります。

H  中世末期のヨーロッパではペストの大流行によって全人口の3分の一が命を落とし、そこに戦争や飢餓などが追い打ちをかけて、キリスト教の信仰自体が崩壊しかけました。そうした窮地のなかでどうやって共同体はその秩序、連帯を確保したかというと、新しい価値観を作ってみんなで信じる、というふうにはしばらくならなかった。森さんが指摘なさったとおり、「悪」と対峙することで連帯感を保ったわけですね。本能的、とおしゃいましたが、まさにずっとある現象だと思います。
 東京電力の問題、そして大津のいじめの問題、それぞれに対する世間の反応は、同時代にいると気づきにくいですが、30年ぐらい後になって振りかえれば、今回の震災と関連ずけられるような気がします。つまりどちらも、権力者が何かを隠しているのではないかということで、みんながワーッと盛り上がって加熱している。その背景には、3.11を機に社会の不可視的な部分での変化があるように思えるんです。

M  もっともわかりやすい異物は、集団の決めたルールに背いた人です。つまり犯罪者。だからこそ集団化とともに厳罰化が進行する。罪と罰のバランスが急激に変わって行く。
 1991年から地下鉄サリン事件が起きた1995年までの5年間の死刑判決と、2001年から2005年までの5年間の死刑判決の数を比べると、後者が3倍です。最高裁の司法研修所によれば、近年の死刑判決の割合は、戦後の混乱期並みに増加しているそうです。
 こうした厳罰化の一方で、この国の犯罪総数は年々減っています。殺人事件の認知件数は1954年をピークにして、その後はほぼ毎年のように戦後最小を更新しているし、人口比においても日本の殺人事件は、アメリカのほぼ10分の一で、平均すればEC諸国の3分の一です。つまりこの国の治安は、世界でトップクラスで良好です。ところが体感治安は悪化する一方です。実態と感覚がとてもねじれた状況にある。この大きな要因はメディアにあるけれど、3.11によって集団化が促進されることで、ーーー絆はまさしくその象徴ですが、さらにそうした傾向が進むのではないかと危惧しています。
 集団は強いリーダーを求める。号令が欲しくなる。3.11直後の東京と知事選挙、そして大阪市長選挙の結果を見れば、その傾向が明らかに現れています。

M  唯一の原爆被爆国でありながら世界第三位の原発数を保有しているこの国は、いろんな意味で極端な国です。敗戦国から一転して驚異的な経済成長を成し遂げながら、世界初の公害といわれる水俣病を引き起こしました。神話に端を発する天皇制がいまだに続いていて、明治期には国家神道で全体主義の時代もありました。集団化と相性がいいからこそ付和雷同や一極集中的な現象が起きやすく、人類のネガティブな属性がとても頻繁に現れます。(まったく自覚がないのが超フシギ! 爆)あまりにシニカル過ぎる逆説だけど、何かを書いたり撮ったりするうえでは、極めて刺激的な場に僕は身を置いていると思っています。

H  僕はやっぱり文学の存在意義みたいなことをよく考えるのですね。文学は一個の体験です。で、社会の矛盾を描いて、ある人の心を強く動かしたとします。その心を強く動かされた人が、そのもやもやした気持ちを解消しようとした場合、結局は政治プロセスのような、社会に対する具体的な働きかけに結びつくしかない。でもなんか文学ってそんなものかなあ、って疑問に思うんです。つまり、そういう社会改良という意味では、文学よりジャーナリズムのほうがはるかに有効なのではないかと。それは、3.11以後の感覚かもしれない。
 だから、社会問題では解決しきれないものを汲み取って描くというのが、文学の役目の一つではあると思うんです。といって例えば、東日本大震災を描いたとして、そこには確かに文学の固有性はあるのかもしれないけれど、それを読まされた人はどうしたらいいかというと、結局はその人が救われるような社会の変化を望むしかないわけですよね。つまり最終的には社会的な問題に回収されてしまう。
 それをやるのかどうか考えて、僕は結論として、存在論というか、昨日まで隣にいた人が消えているというのは何なのか。という方向に進むことにしました。それは社会が変わろうと、法律が変わろうとか解決しない問題ですから。というかむしろ、社会と法律の根本にある問題です。

H 平野啓一郎
M 森 達也    
フィクションとノンフィクションは「死」をどう紡ぐか  より転載

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 今週はずっとエッセイを数冊読んでいる。平野啓一郎、池澤夏樹、梨木香歩、中上健次、柴門ふみ、エドワードサイードと全く脈絡はないのだが、まあ関連性があるとすれば、柴門ふみを除いてみんなリベラルでリーダブルという事だろうかというぐらいか、、。
なんか世界中で頭に血が上ったような人たちが多くてぶっそうだよねと思うと寝起きがわるい。自分の言い分を全部通そうとすれば摩擦が起きるのは自然な事だから少しはお互いに遠慮をすれば良いのに、大人げないなあと思う。グローバリズムが行き着く所まで行き着いて、その反動場面がきっと既に始まったという舞台に世界がいるという事なのだろうが、経済よりも先に政治のほうが舵を切ったという場面なのかもしれないな。
 世の中が忙しすぎて感情的になっている理由は、多くの人があまり深く考えもしないで条件反射的に物事に反応するという動作が主体になってきた証拠なのだろう。メディアの功罪と一言で括ればそういう要素は高いのだろうから、社会と関わりを捨てて生きればどうでも良い事だねと白けた気分で居られるが、こういう時は同質化圧力の強い日本人は不安定で特に危ない状態だろう。全体主義のファシズムでは日本とドイツは立派な前科があるのだから、特にそのファシスト岸信介の孫、阿部晋三が首相なんだから特段の注意が必要な時期だろうかと思う。戦争をやりたくって仕方が無いようなファシストになんで5割以上の支持があるのか理解に苦しむが、ボスの程度は国民の程度の反映でもあるのだろうから、まあ日本はこんな最低の程度という自覚は必要なんだろうなあ。阿部を支持する人たちは、その爺さんの岸を知らんだろうし、それは近代史を知らんという事でもあるのだろうし、いざ戦争が始まってみれば一番に困る人たちなんじゃないの?とも思うんだが、、。
平野と森の対談のように、だんだんと日本がマズい場面に接近しているように僕には見えるが、仮に戦争をして一番どこが利益になるのか、何処の損失が一番大きいのかを冷静に考えると、日本の失うものがすごく大きいことに誰でも気がつくだろうと思う。仮に半島で戦争が起きて、中国が自衛のために戒厳令を引いて外国資産を国有化で凍結でもすれば、中国国内の日本企業の設備は全て接収されるという事になるから日本の国際展開している製造業の打撃は前回の大戦以上の損失という事が起きる。共産主義なのだからヤル気になるばやるだろう。そのための軍隊なのである。
 それにしても前回の大戦で負けた国、日本、ドイツ、イタリアは戦後の復興で実に良い自動車を作ってきたし、現在でも中国を別にすれば素敵な車を実際にきちんと作り続けているなあと思う。一方勝ったほうの国、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアの自動車はひどいよねえ。なんでこういう結果になるんだろうか?国民性と一言で括れない要素が他にあるんじゃないかね。自動車生産とファシズムは親和性がきっと高いんだろうが、その種の論文を未だ読んだ覚えが僕にはないから、誰か頭の良い人が本を書いてくれると良いねえと思っている。ハルトモさんなんてその業界に長くいらしたのだから、ご意見をお伺いしたいものだねえと思う。20世紀は自動車の世紀だった。個人レベルの人間の生活様式を貧富の差は別として大きく地理的にも時間的にも変えたのが自動車というアイテムだった。自動車は自由な行動の代名詞としての商品だったと僕は思う。だからリベラルな僕は素敵な車が好きで、いろいろドイツ車を中心にたくさんの車を買って乗ってきたのだろう。それは本を読むのと同じように感覚的には自由な体験だったように思う。
 日本の若者が自動車に乗らなくなったらしい。貧乏で買えなくなったという部分も無論あるんだろうが、果たして金だけの問題なのだろうか?自動車に乗って自分の気分でどこまでも走っていけるという他愛無い自由な気分まで捨ててしまったのだろうか?26歳の時に長男が生まれて必要性から初めて自動車を買った。中古のメルセデス230Eという黄色の6気筒のセダンだった。椎名林檎ちゃんがレコードのジェケットで半分にカットしたあの車である。結婚したばかりのマダムがそれを欲しがったからだが、実に楽しい自動車ライフがそれから始まった。裕福であることの意味を体感したことで僕のその後の人生は実に楽しかったと思う。そういう事を若い人がしなくなったのはとても残念だねと思う。
ちょっと古い欧州車を直し直しブツブツ言いながら乗るのは楽しいよ。壊れるのが楽しいのね。少し暇と金がかかるから楽しいのだけど、そういう快楽をみんな知らないで死ぬのはもったいないねと思うね。効率なんて言っているうちは本質的な上等が何かって知らないって事だろうと僕は思うな。登山で必要でSUNTOっていう安いデジタル時計を4年前に買ったのだけど、それは高度計は別として時間はほとんど狂わない。3万ぐらいだったね。電池は3年は持つよ。一方でジャガールクルトっていうスイス製の金時計はプリウス2台分より高価だけれども、1日7分も遅れる。(爆)でもまあ困らない程度の狂い方だし、困らない程度の僕の生活様式には事実あっているとも思う。効率ってそんな程度の値打ちだね。7分遅れて僕をどなるような人とはつき合わないものね。だから僕は今は生産なんてしないんですよ。労働なんてしないんですよまったく。純粋浪費なんです、快楽の本質とはね。そうそう年金っていう贈与もそろそろ始まるらしいけどね。
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茶蕎麦セットを作った。友人とお昼の会食です。

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マダムとおばんざい風夕飯を食べる。
レシピは全部「昭和天皇陛下のレシピ」からの引用アレンジ
3品と一汁のご飯が普段の天皇のお食事でかなり地味だったらしい。
マダムには毎週皇后陛下と同じものを献上しようと思うのね。
左から レンコンと豚肉のきんぴら キュウリと茄子、クレソンの酢の物、肉豆腐(伊豆牛肩ロース)、大根の煮物

なおご飯はモチ麦30%です。

 ドストエフスキーがいま再び読まれている理由はいくつかあると思うのですが、一つにはわたしたちが「他者」の問題に改めて直面しているからだと思います。2000年以降、他者の問題を真剣に考える契機が二つありました。一つは9.11の同時多発テロであり、もう一つウェブ2.0といわれるインターネットの世界の出来事です。
 それまでの1990年代は、89年に冷戦が終結し、アメリカの独り勝ちのような時代で、イデオロギー対立や他者の存在に意識が希薄な時代でした。なんとなく、アメリカを中心に世界がまとまり、わかりあえるような幻想があった。また、ポストモダン的懐疑があって、何かを正しいと信じるのが難しく、人生の方向も見えにくい時代であった。
 それが9.11によって幻想を打ち消すような、距離的に圧倒的に遠い他者が、自分たちなりに信じるものをもって登場した。(アルカイダとかイスラム原理主義とか、、)他方、インターネットの世界では、例えば世代といった括りを無効にするような、他者の圧倒的な多様性を経験したんだと思います。
 距離的に遠い他者が来て、他者の多様性も明らかになった時代に、もう一度、他者とどうやってコミュニケーションを取れるのかということを真剣に考える時代になった。
 その時にドストエフスキーに惹かれるのは、それが、最後まで絶対にわかり合えないような他者たちが、自分の信じるものを、あるいは信じ合えないものを語りあっている世界だからだと思います。例えば、『悪霊』を見ても、最後まで誰一人として、「あいつの言うことはもっともだ」ということにはならない。

K  聴きいってしまいました。いわゆるドストエフスキーブームの渦中にいると、見えないものもあります。そういう意味で、平野さんの分析は興味深いですね。
昨年(2008年)6月、秋葉原で無差別殺人事件が起きましたが、平野さんの小説『決壊』の刊行もちょうど同じ時期でしたか。

H  そうですね、事件の二週間後ぐらいでした。

K  『決壊』も無差別殺人を扱った作品ですが、ネット社会の闇に蔓延する悪意、あるいは犯罪と赦しといったアクチュアルなテーマを盛り込んだ傑作だと思いました。秋葉原事件との関連から平野さんも発言を求められたんじゃないかと思います。
 事件の一ヶ月後、実は私はNHK文化センターの講座の最終回で、「もう『カラ兄』の時代は終わりました。これからは『罪と罰』の時代です」と宣言しました。それは秋葉原事件の恐ろしさが『カラ兄』を凌駕してしまったからです。
『カラ兄』のテーマは「父殺し」です。この「父殺し」は少なくとも人間の普遍的なテーマとして存在していても、われわれのこころの内部では世代を越え、父という観念が恐ろしいくらい退化してしまった。とすると「父殺し」は現代においてどれくらいインパクトをもちうるか、という点に疑問を感じはじめたのです。
 『罪と罰』といえば、「ナポレオン主義」という選民思想にかぶれ、金貸しの老女アリョーナとその年の離れた義妹リザヴェータを殺害したエリート青年ラスコーリニコフが、一人の優しい娼婦ソーニャとのふれあいによって罪の意識に目覚めるというのが、ごく一般的な理解です。しかし、私が翻訳を進める中で感じたのは、青年の傲慢さよりも運命の力、神の力あるいは神の悪意です。
 秋葉原事件によって露呈した恐ろしさとは、自分が犯した罪の少なくない部分が運命の領域に属しているにもかかわらず、それを人間が個人としてすべて引き受けなければならないということの恐ろしさといってもいいでしょう。

H  『決壊』を書くときに、自分なりに悪の問題について考えようと思っていました。しかし、小説家としてやればやるほど、取り組み甲斐が無いのが、実は悪の問題じゃないかという気がしたんです。
 悪という問題は、神秘化してしまうことが一番よくない。悪というのは、いくつかの問題が複雑に絡み合っているので、できるだけ具体的にアプローチしていくほうが現実的にはいいはずなんです。
 しかし、悪のわからないところを神秘化して、それに取り組む作家も善の側の人間として神秘化される、あるいは悪に理解を示す人間として神秘化される。これが一番よくない。精神医学や社会学など、さまざまな分野が具体的に悪の問題にアプローチしているなかで、文学が神秘的な
悪というものをある種捏造して文学のテーマにするというのは、何かすごくつまらない気がしました。(きっと1Q84などの村上春樹文学批判って事だろうかね。猫の勝手なコメントなんだが、、、爆)
 ドストエフスキーの小説を読んで、悪の問題が本当に出てくるのかと考えるわけですが、結局、ドストエフスキーの世界は、悪の問題を扱っているというよりも、ものすごく単純化すると、信じるか信じないかという、そのいずれかの世界なんじゃないかと思ったんです。何かを信じるか信じないかという地点から世界が立ち上がっている。
 現在のように、何を信じていいのか、何に寄り添って生きて行ったらよいのかわからない時代には、ドストエフスキーの世界はインパクトを持っているじゃいないかと思います。

K  いま、信じるか信じないかということをおしゃったけれども、『罪と罰』は、読者が信じることなくして本当に読むことができるのかどうか。つまり、作品には神の問題が出てくるのに、神の存在を信じずには読めないだろうと思います。
 60歳になった私は、神という存在をどこか意識できるようになった。病的な自尊心をもってしまった一人の青年が、なぜ罪を犯すかというとき、ドストエフスキーが描こうとしているのは、半分かそれ以上、ある意味で神の悪意ともいうべき部分なんですね。
 こういう読み方は、キリスト教が普遍的な力を失った時代の後では、ナンセンスだとされてきた。しかし9.11以降、いわば神と人間が剥き出しに対峙する時代になってきて、ドストエフスキーの読みかえが必要なんじゃないかと思い始めたんです。
 ラスコーリニコフは殺人を犯しても全く反省していないし、どこが悪いのか、と完全に開き直っている。この徹底した反省のなさにものすごいリアリティーを感じるのです。

H  平野啓一郎     K  亀山郁夫
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 文学のお話をしてもきっとそれに興味があって普段日常生活で考えるような人は1割ぐらいじゃないのかねえと思う。それぐらい文学というのはお金とは遠い世界のような気がする。書籍も雑誌も売れなくなって文学で飯などまず食えないから職業にするような人は実に奇特だし、事実僕も文学部に本当は行きたかったのだが、父親が文学部だと学費を出さないとごねたので仕方なく商学部にしたのだ。べつに今なら法学でも経済でも何でもよかったと言えば言える。
亀山郁夫は1949年生まれのロシア文学者で名古屋外語大学長、平野は1975年生まれの京都大卒の小説家、まあ親子ほどの年齢差があっても話はかみ合っているという点で両者ともにインテリであるという事だが、この種のお話しは難解だから流行らない。

 ツイッターの文字制限以内でないと95%ぐらいの人は読まないという習慣が徹底してしまったという事らしい。だから逆説的には文化度も二極化が加速するのが当然で、知識もそうなる。それで10年か20年すると5%と95%では会話がきっと全く成立しなくなる。「決定的な他者」というものがこうやって自然に出来上がるのだろうかとも思う。
なんかきな臭い感じがしてきたせいか、息子が粉ミルクと水をアマゾンで送ってきた。戦争になりそうなら妻子を疎開させる気になっているのだろう。近い戦争は70年ぶりぐらいという事だから、有っても無くても可能性ぐらいは疑っておいたほうが良いようで、日本でも核シェルターの生産が間に合わないそうだ。
 それでも熱海は桜も終わって新緑の季節がやってくる。桜の次は藤とツツジと紫陽花という順番になるんだろう。百合が咲くころにはずっと暑くなる。毎日、料理を作る事と本を読む事しかしていない。それで気がつくともうそろそろ5月になる。ただぼんやりとゆっくりと生きているが、そろそろ半袖の季節なんだねえと思う。
半年で7000キロぐらい走ったAUDIのアイドリングが不安定なのでなじみの修理工場に出した。イグニッションコイルとプラグ8気筒分を交換したら安定した。ダイアランドの友人がどうやら息子の家に合流して暮らすことになるらしい。73歳だから心臓と視力の低下が激しく、運転がそろそろヤバいということで大事を取るのだろう。
老化には個人差が激しいのだろうが、渡辺淳一に言わせると70歳を過ぎると内蔵機能の低下が一気に進むらしい。それによって免疫力が低下して随所に疾患が発生していく。まあ多臓器不全というのが進むのが加速するのだろう。寿命という事で受け入れる他にないのだから、そうなる前にやりたい事はみんな済ましてしまうことが良いのだろうと思う。
もうそんな事も僕には多くは無いような気もするのだが、、。料理はマダムの役にたつので喜ばれるので楽しいね。なんでも地味に基礎をコツコツやるのが上達の秘訣だと思う。
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時間差でバイカイ  コツンから再度暴落してちょーだい!!

米軍が北朝鮮に軍事力を行使する場合に、出撃や後方支援の拠点になる在日米軍基地では、有事を想定したとみられる動きが出ている。

 岩国基地(山口県岩国市)では海兵隊のF35B最新鋭ステルス戦闘機が爆弾の搭載訓練を、嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)では戦闘機などが一斉に出撃態勢を取る訓練を14日までに行った。

 米海軍によると、太平洋では横須賀基地(神奈川県)を拠点にする米第7艦隊の管轄エリアで展開中の空母カール・ビンソンとは別に、空母ニミッツが航行中。政府関係者は「カール・ビンソンに加えて、複数の空母が日本近海に追加派遣される事態になれば、米国が軍事行動を取る可能性が高まる」と話した。

 海兵隊によると、岩国基地では6日、F35が精密誘導爆弾を搭載する訓練を行った。F35に詳しい航空評論家の青木謙知さんは、海兵隊が公開した画像から「『GBU32』と呼ばれる重さ約1000ポンド(約450キロ)の精密誘導爆弾の模擬弾を使った訓練だろう。誘導装置は実弾と同じものが装着されている」と話す。

 嘉手納基地では12日、航空戦力を一斉に出撃させる訓練が行われ、所属の戦闘機や早期警戒管制機などが滑走路にずらりと並び、発進態勢を取った。同基地の空軍特殊作戦群は昨年10月、敵地に部隊を運ぶ輸送機「MC130コンバット・タロン」を韓国に派遣し、訓練をしている。 
  時事通信より転載
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 なんか半島情勢がいきなりきな臭くなってきたようだ。核実験が実行されると空爆という事もあり得る選択肢だろうという発言がトランプからもあったし、事実シリアでは59発ぶち込んだのだから冗談とは言えまい。その点がオバマと異なるトランプの決断の個性という事だろう。国連決議も無くいきなり空爆ということは完全に侵略を始めたという事で、イラクの時と同じになった。これの後方支援を自動的にするというのが阿倍の考えだというのなら、当然の事として北とドンパチになると東京や日本の米軍基地はミサイルの標的になるんだろう。仮に戦術核が東京投下となると50万人が死亡という計算らしい。おいおいマジかね?と思う。
日本株は当然、一旦は総売りというのがまあ普通のシナリオで半値になれば225で10000円ぐらいがあっても何の不思議も無い。ということで半年ぶりにコツンの手前で1−1と時間差でバイカイを振って試し玉としてみた。  (258)1−1(250)
 このままダアーっと50円か100円が突っ込んで走るとチャンス到来という事だが、そんなに上手く行く事は稀だと思う。べつに材料はどうでも良いんだが、値動きが近い戦争というのは70年ぶりだからボラが上がるんだろうとは思う。リーマンクラスの変動値が出るかもしれないね。
カールビンソンの日本海到着は23日頃だというが、新月の日が暗いからここで一気に空爆という事もあるかもというシナリオで相場は既に走っているような下げ方になっている。

4100は3月中が今年の高値だから3ヶ月として6月中旬にコツンと突っ込み150円ぐらいがあったらおもろいなあと思います。(期待し過ぎかねえ、、)
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伊豆高原 さくらの里 夜桜ライトアップ

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リビングから眼下に見える伊豆山の桜

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神田川の桜  先週木曜日

東京都台東区の白鬚橋(しらひげばし)近く都道で13日午後11時半ごろ、タクシーが歩道に乗り上げて約500メートル暴走、居合わせた男性警察官(22)と自転車の女性(41)がはねられてけがを負った。いずれも命に別条はないという。乗客の女性(31)も車外に飛び降り、軽傷を負った。
 警視庁向島署は同日、タクシー運転手の男(81)を自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致傷)容疑で現行犯逮捕した。容疑を認め「すみません」と話しているという。
 署によると、タクシーは走行中に信号無視を繰り返し、現場近くの交差点で信号待ちをしていた車に衝突して一度停止。危険を感じた乗客の女性はタクシーを飛び降りたが、男はそのままタクシーを発進させて歩道に乗り上げ、歩道にいた警察官と自転車の女性をはねたという。
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 少子高齢化社会で労働力不足を女子と高齢者で補おうとすれば、現実には様々な弊害が生まれる好例だろうと僕は思うんだが、なんでヨイヨイの81歳まで爺さんや婆さんが働かなくては生きて行けない情けない社会を日本人は戦後設計してしまったのだろう?という本源的な反省が国民一般にない限り、正解などあるはずもないねと思う。
 資本性社会の労働が間違っているというのが結論なんだが、それを修正しようともしないから、月の残業が100時間(過労死ラインだろ?)なんてお馬鹿なことを未だに議論している経団連ってキチガイ集団なんじゃねえの?と思う。いくら馬鹿な奴が集団で長時間労働したってもとが馬鹿なんだから仕事がはかどるはずがないだろ?
 働かなくては生きて行けない社会そのものがダメなんですよ。実現すべきは働かないでみんなが幸福に生きていけるような社会っていう設計じゃないとダメで、まず仕事をしない、働かないことからしか始まらないでしょ?と僕は思うねえ。こんだけ機械が発達して最近じゃAIなんかも随分と良くなってきたんでしょ?だから機械が生産して上手に財を分配すれば誰も働かなくて生きていけるんじゃないの?政治の役割って本来そういう事なのでしょ?
 4月は花見をして酒飲んで、旨いもの食って、ネーチャンとイイ事して「春ですねえ!花が咲いて良いですねえ。」って言っているうちに5月になる。老人にはそんな暮らしが良いですよ。花見をしながら温泉入って、昼寝して、料理を作って読書して、それで過不足なく生きて行くような老人が増えるのなら、何も運転で人をひき殺すような事はおきませんからねえ。

 なんで日本のリベラルってそういう方向で政策論出せないのかしら?蓮舫ってアホ?

僕の短い東京ライフ

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たんたん亭 ワンタン2種(海老と肉)チャーシューメン味玉入り  1740円

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デパ地下和栗モンブラン  680円

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賑わう歌舞伎町午後9時日曜日  ゴジラがチョロっとビルの上に、、

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予約の取れない四川料理  天府ファン
安くて旨いです。実に辛いです。

死ぬまで煙草を吸い続ける
── 政府は受動喫煙対策として、一部の例外を除き公共施設の全面禁煙を盛り込んだ健康促進法改正案を提出する方針です。愛煙家の西部さんにお話を伺いたい。
西部 まず言っておきたいのはだな、杉原くん、この俺様に禁煙なんて詰まらない問題でインタビューするとは何事か(笑)世界が文明の危機に直面している今、そんな問題を議論している暇があるのか(笑)まあ禁煙問題もその一端ではあるから、煙草から話し始めて文明を論じましょうか。
 僕が煙草に手を染めた、というか口を染めたのは高校時代のことですね。正直に言いますが、なぜ煙草を吸い始めたかといえば、不良っぽく生きたかったからです。エスケーピストというか、昔から親父の命令、先生の指図から逃れたい、エスケープしたいという気持ちが強かったんです。だから煙草を愛したが故に吸い始めたわけではない。吸う前に愛せませんからね。
 それ以来、眠っている時と拘置所の厄介になっている時以外は、片時も休まず煙草を手にしてきたと。その意味じゃニコチン中毒者に分類されるんでしょうね。
 一度、ある禁煙反対集会で漫画家の親友と同席したことがあった。最初の登壇者が彼だったんだけど、漫画家だからセリフが短くて、「煙草を吸わない奴はバカでしょ」と一言だけ言って終わった。その次が僕の番だったから、彼の言葉を説明しました。
 人間関係は常にある種の緊張や危機を孕み、絶えず不安定に揺れ動くものである。近づいたり振り放したり、仲良くなったり喧嘩したり、理解したり誤解したりね。こういう人間関係の本質を見るに敏なる者は、間合いの取り方というものを尊重する。ある時は打ち解けた態度で冗談を飛ばし、ある時は神妙な顔付で議論に臨む。しかしながら、どれだけその技法に熟練しようとも、人間には神様よろしく思い通りに他者との関係を操作することはできない。
 そうすると、どうしても補助剤が必要になる。僕の経験上ではアルコールも結構ですが、スモーキングはそれ以上に有効な代物です。したがって煙草に反対する者は、かかる人間関係の本質に鈍感であり、その複雑さや奥行きを把握する感性のない人種で、利口馬鹿が多いと言わざるをえぬ。
 ところが、どうも中学高校の罰則は生徒がアルコールを飲むよりニコチンを呑む方が厳しいらしい。喫煙は社会常識から逸脱したいという反社会的傾向があるなんて考えているんでしょうね。
 だから僕は人間関係の妙を弁えず、煙草の功利も知らないで喫煙に反対する連中のことを「鬱病型ヒステリー性パラノイア」と診断しています。パラノイアは偏執狂という意味です。ご承知のように、世界で最も著名な禁煙運動家はアドルフ・ヒトラー君だったんですね。まさにヒステリックな偏執狂です。
 まあこの病は全世界的な現象だから、僕如きが「禁煙ファシズム」だと批判しようが、「愛煙家レジスタンス」を結成しようが、どうしようもない。だから運動会の東京招致に熱狂し、それに合わせて禁煙全面化だと騒いでいようが、僕の知ったことではない、どうぞご自由にと言うしかないね。
 僕は受動喫煙の害なんてほとんど嘘だと思っているけど、ちょっと道路を見てごらん。現代は猫も杓子も自動車に乗る時代で、車が昼夜休まず走り続けているでしょう。で、煙草一本吸うのに大体2〜3分ですが、車は2〜3分走ると煙草1000本分に相当する環境汚染を生み出しているんですよ。
 世界中で片時も休まず排気ガスを排出している車を非難せず、一本の煙草を吸っている我々に目くじらを立て、受動喫煙の害を喚く。そういう木を見て森を見ない連中には付き合っていられるかと。
 ニコチンはアルツハイマー病とパーキンソン病に効き目があると言われているけど、僕の経験上もそう感じるね。アルツハイマー病は頭の麻痺、パーキンソン病は身体の麻痺です。これらは僕のような後期高齢者が家族や社会にかける迷惑の中でも大きいものだし、自分自身も「哀れな往生際だな」と思う。だから今後世の中がどうなろうとも、僕はいかなる手段を使おうとも喫煙できる場所を探し出し、必ずや死ぬまで煙草を吸い続ける。その固い覚悟は何十年も前から出来ているんでね。
 今はタクシーも禁煙だけど、僕はウェルカムです。大体一時間から二時間の禁煙を強いられた後の一服は物凄く旨いからね。よくタクシーの運転手さんに「ありがとう。俺のために禁煙にしてくれているんだろ」と礼を言っているんだよ(笑)まあ、それくらいでやり過ごすしかない。
禁煙運動の本質は生命第一主義・人間中心主義だ
── 禁煙運動の背景には、現代人の死生観が関わっていると思います。
西部 だから僕は禁煙運動よりも、その根底にあるものに対してけったくそ悪く思っている。何か。生命第一主義と人間中心主義ですよ。
 禁煙の背景には健康長寿、もっと言えば不老不死を善とする価値観がある。やっぱり秦の始皇帝が悪かったな、不老不死を追い求めたから。でも想像して見給え、500年経とうが1000年経とうが死ねない人生をさ。無限地獄でしょう。
 そりゃ人間の行動は現象的には変わるが、いくつかのパターンがあるだけで、本質的には何も変わりませんよ。何千年何万年と手を変え品を変え、しかし、とどの詰まりは同じことの繰り返しに過ぎない人間の悲喜劇を見続けなければならない退屈。人生に疲れ果てた徒労感。そして死にたくても死ねない苦痛。死ねない、これが考え得る限り最も強烈な不幸でしょう。
 確かに死にたくないという気持ちは分かりますけどね。人間は生命体だから死に対する恐怖が本能に刷り込まれている。しかしどういうわけか人間には前頭葉というものがあるから、死よりも怖いのは不老不死だと判断せざるべからずなんです。……
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西部は黒鉄ヒロシ同様僕の大好きな老人の一人である。だからまだ二人とも生きているのは嬉しいねと思う。以前に「もはやこれまで」という対談集のテキストを書いたと思う。西田はエスケーピストの大先輩として、元左翼(共産党員)の転向保守主義者として論は立派で尊敬に値する。いちいちの論点は異論百出ではあるものの、僕としては彼の主張の背骨のまっすぐなる所が男らしい!のでどんな無茶筋の主張であっても首を縦に振りたい気持ちにはなる、実に気持ちが宜しいという点でこうした爺の生き方が最高である。
世間には「俺様最高遺伝子」というものがあるんじゃないかと思うが、そういう者は団体生活に元来適さない、自身社会の敵であるという自覚があるのだから、逃避する(エスケープする=ノマドする)という基本性格があるんだろうかと思う。人は誰しも居やすい場所に居るというのがだって自然だからという事ですね。自然な事とは継続性があって事実としては実に強固である。
さてとは言いつつも禁煙を初めてもう1年が経過した。途中で数本、友人から貰って吸ったが実に頭がクラーっとして気持ちよいことこの上ないが、べつに吸い続けていたいもの思わないのだから、禁断症状というのはなかったという事なのだろう。同じように吸っていると(1日25本ぐらいだったか)また3−5年で同じ病状になると医師に言われたので、酸欠であまりに呼吸が苦しいのでそれなら止めるかと思って買わなかったら自然に止めていたということになった。買う場所が実に少ない環境に住んでいた(徒歩圏内にコンビニがない、歩いて最も近い所で35分かかる)ので在庫がないと吸えないという理由が大きかったのだろう。いつも10カートンぐらいカードで買って保管していたというような吸い方をずっともう静岡にきてからしていたせいもある。まだ10年ぐらいは生きられたら良いねとは思うが、認知症などになってあまりに惨めな死に際になるのは嫌だねえと思うから、適当な所をお迎えが来た人は良いねえと思うのよ。その点すごく長寿願望なんて無いですよ。孫が4人いたらもう凄い方だねと客観的だと思うねえ。

東京のさくらでは、神田川添いの桜のトンネルが見事だったし、歌舞伎町の花園神社は満開だった。歌舞伎町にはゴジラのマスコットがビルの天から覗いてたし、外国人の旅行者が実に多かったという印象だ。高島屋の地下で2種類のモンブラン、四川料理の四川ダックというのは初めて食べたが美味だったし、8年ぶりにたんたん亭のワンタンチャーシュー麺味玉入り(1740円)の素敵に美味しかった。僕のつぎのつぎで暖簾が降りたのでギリセーフだった。
欲望をそのまま食事にしたような東京ライフだけれども意味よりも行動のほうが味になるねとも思う。そうだ東京で37冊本を買ったね。

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