福井の松葉ガニ届く 茹でて食べたがめんどくさいね。
散歩でも絶景に出会う。歩いていないと気がつかないこともある。
グランピングとかキャンピング、ドライビングとサイクリング、登山やハイキングと、自分の体力を基礎に道具を使って自分の操作で旅行するようなアクティビィティーが全世界的に活発だと思う。
飛行機や船や鉄道の旅は、他人任せの移動の旅だが、トレンドははやり自分の身体と頭脳や知覚による自分の意志と手段で移動する楽しさにあると思う。運転とか操縦とか歩行とか自分で自由にリスクを取るという部分が楽しさの秘訣なのだろうと思う。人生がすごく物理的に伸びて60−65歳で定年になっても健康な人が多いのだから、とくにそういう世代の人たちは人生を楽しく遊ぶということが実に重大な社会にとっての価値であると思うからきばって遊んでほしいなあと思う。出来る人(能力と意欲のある豊かな人)しかこういう事はできないのだ。だから貧乏性を直してどんどん浪費をして楽しく生活しようではないかと僕は浪費のすすめをずっともう10年以上も書いている。普通の人が大きなメルセデスに乗れば1000万、素敵な温泉リゾートマンションを買えば2000万普段の生活よりも多分余計に金を使う。その分が所得の移転が起きて、経済にプラスになるだろう。
別段凄い場所、行くのが実に困難な場所である必要なんて無い、自分の体力や道具に応じたごく普通の隣町でも観光地でも良いし、なんなら普通の国道や県道や旧道や獣道でも宜しい。要は行く人、移動する人が楽しいのならどこでもなんでもアリなのだ。あまり目的指向ではなく、なんとなくやっていると自然にやっている事自体が楽しくなってくるような体験的、発見的な快楽と言えば良いのだろうし、ほとんど工夫次第ではお金がかからないのだから暇と健康でさえあれば誰にでも可能な民主的快楽であると思う。
ノマドライフというのはつまり平たく言えばそういう価値観の人の事だと僕は思う。何かに束縛されないで自由に移動することが好きな時に出来る人。
「モノより事」というコピーがあったが、快楽と欲望が変質した証拠で、有り余るモノや金にうんざりとした豊かな末期資本主義社会に生きている人たちの必然的に行き着く場所ということになろうかと思う。「何もしないことが特別に意味が有る」ということは、常に何かする事を強制されるような息苦しい生存のための仕組みがこの世界には既に組み込まれているからなのかもしれない。だから「何もしないで」生きられる人は特別に贅沢な事であって、それは結局は時間的な自由以外に優れた価値がもう無いという結論でもあるのだろう。労働が価値だという19世紀の通念の限界がそこにはあるのだろうと思う。欲望も快楽も集団幻想であるのなら、僕たち個人それぞれにに残されているのは身体的な(フィジカルな)快楽を体験によって還元する以外にリアルな手段を持たないということでもあるだろう。
死ぬほど働けと脅されて毎日ボロ雑巾になるまでこき使われている人が、数日何もしないでぼんやり海でも見ながら温泉にでも入って美味しいものでも食べてゆっくり眠りたいというような欲望は当然だろうと思うし、熱海に人が集まっているのはきっとそんな人が増えたからなのだろうと思う。そうやって元気になったら同じ場所にいるのは飽きるから、ぼちぼちどこかいつもと異なる場所に移動して他の景色を見てみたい、ほかのごちそうも食べてみたいというのは人情なんだろうと思う。ハルトモさんは車中泊をするためにマットや布団を買って、RVの後部座席で車中泊をする工夫を道具でしているようだし、実際に深夜の道の駅やサービスエリアでは、たくさん車中泊をしている車を見かける。キャンピングカーではない普通のワゴン車だったりする。
ジャックケルヤックのオンザロードはアメリカを車と徒歩と鉄道でくるくる巡る放浪の旅の物語だった。日本は狭いから高速道路なんて使ったら北から南の端まで多分2−3日で走れてしまうだろう。もっとゆっくり走るなら、国道や県道を海に沿ってぐるっと一周するようなのんびりとした旅が良いねと思う。列島を1回転すると外周で6000キロぐらいにはなるのかな?1日200キロなら30日で回転できる。そういう旅もそのうちしたいねえと思います。 |
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