三島野菜というのが静岡県では最近人気が出た。鎌倉野菜とか三浦野菜とか地物の野菜というものもブランド肉や魚と同じで、土,水,日照,肥料など産地の違いによって、おなじものでも味が随分と変わる。裕福で食にうるさくなって舌が肥えると必ず良いもの旨いものしか欲しくなくなるから、野菜ならまずなるべくとれたての朝摘みのものが欲しくなる。
口に入れた瞬間に鮮度がバレルからだ。だから大資本が集合的に販売するものよりも、農家が小規模に自分用に作ったものの残りを売るようなものほど無論旨いという事になる。僕の近所の平井精肉店が売っている伊豆牛や沼津の愛鷹牛という牛も油が甘くて美味しい牛肉だ。こういうのは伊勢丹で売っている松阪牛とはかなり意味が異なると思うのだ。ブランド性が低い割には内容が濃いのでコスパが高い実用性と味や風味の特性が想像以上に優れている。
良い野菜は料理の必要性がほとんどない。ただ薄くスライスして、オイルか酢と塩を軽くまぶすだけで素晴らしいサラダになる。クレソン、トマト、キュウリ、レタス、パープルオニオン、ゆずなどを1ミリにスライスしてバルサミコとオリーブオイルと塩、コショウでバリバリ食べる。加熱すると酵素が壊れるので生でサラダが一番良い。リンゴ、柿などフルーツも薄くスライスして加えると豪華なフルーツサラダになる。
カットやスライスの角度と方向で味はすごく変化するから包丁やナイフの良いものが必要になるから、料理はまず道具とその手入れが大事だねとも思う。
東京に暮らしていて、伊勢丹と高島屋、紀伊国屋でしか買い物をしないとそういう細かい事を知らないままでいることになるが、住む場所を変えるといろいろわかる事が出てくる。田舎の効用という事でもあるんだろう。外食をしてプロが作ったものだけ食べていてはわからん部分だろうとも思う。下手でもまずは自分で作ってみることからしか始まらない部分があるのだ。
このように毎日がすごく自由でそれでも小金があって働く必要性が全く無くなると、金の使い道だけに少し頭を使った地味な暮らしでも事実上は王侯貴族のような豪華で贅沢な暮らしが安いコストで可能だから、周囲の必死に汗水たらして寝不足でヒーヒー言いながら借金をして金儲けに疲労している大多数を見ると馬鹿だねとマジに思う。金は使うから意味があるものでそれに使われてるうちは終生貧乏なままだろう。溜めても溜めてもキリが無い。つまり欲望と恐怖は無限で無意味だから、そういうことをしていると人生が無駄で終わると思うね。
農産物直売所が人気があるのは当然で、それは売っている品物が優れているからである。という事でドライブに出れば、農協とか販売所とかをネットで必ず検索して立ち寄る。名産品とか特産品とか農産物の加工品などでもかなり場所によっては特徴があって、昨日行ったところは「生湯葉」が特産だったので1パック買ってみた。京都などと比べると値段は1/3 、1/4でやはり田舎は物価が格段に安いのは、貨幣経済と遠い位置にあるからだろう。ここにポスト資本主義の成功のヒントがあると思う。
モモやリンゴ,梨や葡萄などのフルーツも地物には素晴らしい品種がある。その土地でしか売っていない少量生産の宝石のような希少種だ。昨日は渋柿を2個180円で買ったが、これは10日間放置しておくと素晴らしい甘みが生まれて渋が消えるという品種だ。
1996年をピークに人口が減少し始めた日本では、従来の成長を前提とした社会の仕組みにことごとく無理が生まれて社会全体が激しくきしみ始めている。全員が頭の切り替えが必要だが、ほとんどの人は未知の事態の発生についていけないからどんどんと既存の仕組みが壊れていく。弱い部分や組織、人から崩れていっているのが現状だろう。非婚、離婚の増加などは好例だと思う。所得が低下してますます再生産不能状態だ。まさに人間社会が仕組みとして壊れているのだ。「鬼十則」なんてマジやっているとお勉強が少しぐらい出来ても自殺することになってしまう。これをお馬鹿と言わず何と呼ぶのか?(爆)
最初に簡単に壊れたのが雇用と家族だった。生産向きに作られ編成されていた核家族があっという間に現在破壊されつつある。それが素直に人口減少に直結しているが、解決法は誰も見いだせないままだ。先進国が共通して同じ現象に陥って解を見いだせないままでいる。ところがどこにでも強い個人や家族は不思議に生まれていて、ハイブリッドで増えている例外的なケースが生まれている。その差は何だろう?無論彼らの方法論は逆バリである。例外的な方法しか例外的な結果を生まないという当然の法則性なのだ。誰も怖くて出来ない事をやった人だけが生き残るという事なのだろう。
物事を生産からではなくて、消費から見ると「たくさんの時間を働く必要なんてホントにあるのか?」という根本的な疑問にたどり着く。モトからマックスウェイバーこそが頭が狂っていたのじゃないか?と思ってみたりもする。それよりガルシアマルケスや中上健次を読んだほうが数倍為になると感じたりもする。先週3冊ほどTSUTAYAの湘南Tサイトで本を買ったのだが、どれも緩く楽しく生きるスタイルの本だった。完全にお金を小馬鹿にした社会というものがあっても良いというそういう種類の本である。まさにマジックリアリズムとは贈与と近親相姦の連鎖の世界なのかもしれない。禁忌の世界が死に行く資本主義の未来を唯一救うのかもしれない。
僕は20年も前から全くと言って良いほど労働しないでそれでも大半の人より多分裕福に暮らせているのはとっくに金を作る事をどうでも良い人生にとってはほとんど無駄な事だと思っているからだろう。時間を仕事用には使わない暮らしになって久しい。もっと好きな事に使うほうが人生が充実するからだ。ちんたら拘束されずに遊んで自由に暮らすのが一番である。反対に一日中眠るのも惜しんで働いても貧乏な人がいる。なんでそういう人はそんな事になるのだろう。きっとよほどの馬鹿か無能という事なのだろうが、まあそういう人がいるせいで僕のような人がいるのだろうとも思う。多様性原理とでも言うのか?どちらが多いのかと言えば、僕のような人はほとんどいないのが現実だ。みんな毎日ピーピー言ってけちくさいライフスタイルが多いのだ。昼飯に5000円払うような友人は一人もいない。多くの人がワンコインのコンビニのマズい弁当を食っている。そんな添加物満載の豚の飯以下みたいなもの食っているとすぐに病気になって後悔する事になるのは確実なのだがねえ、、。もう僕の周りで5人も死んだよそういう人が。自殺2、ガン2、心筋梗塞1となっている。仕事と食事のせいだろうと思う。夕飯に高いワインを空けるような友人もいない。何を楽しみに彼らは生きているのだろう。大きくて素敵で豪華な外国車を数台乗っているような友人は一人しかいないが、彼も会社の経費で乗っている。個人ではいないのだね。生きて元気なうちしか特に金を使うような楽しみかたは出来ないのだが、大半の人は貧乏性でそれが出来ないのである。こいつらマジにアホちゃうか?と思うんだが、、。