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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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猫の林住期

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秋にもある熱海の花火


 知らない間に定年が65歳に上がっている。年金支給を遅らせるためだろうが、
企業のほうもそれで採算が合うのだろうか良くわからない。でもどこでも
管理職は実質55歳前後で役職定年になるのが大企業では一般的になっている
し、55歳で部長だったひとが56歳で平に降格で、以前の部下の下で安月給
で仕事をしたり、子会社に飛ばされたりするのは普通な事になっているようだ。
都会では鬱屈したおじさんはこうやって大量に自動的に生まれるという事だろう。
右肩上がりの成長経済を前提にした社会の仕組みが全部成立しなくなっても、
それになんとかすがりつくことを大半の人が希望する。それが惰性社会という
ことで現代日本の特性の一つだろう。大きく変化することを死ぬほど怖がるから、
ギリギリまで何もしないで、ついに臨界に達したらいきなりメルトダウンする
というどこかのお馬鹿な国の原発のような仕組みに社会全体がきっと出来てる
のかもしれない。

 その点、今回の天皇の早期引退希望宣言というのは画期的だ。「出来ないこと
を無理にさせるんじゃねえよ。出来る奴がやれよ。」という事でまことに合理
的である。馬鹿正直に真面目腐ってできもしなくなった無能な老人が居座るとい
う醜い構図がオリンピックの醜態になったのだろうが、ああいうのは226事件
じゃないが天誅が下るほうが国家のためだろうと思うね。

誰でも個人差はあるものの、老人になれば体力も気力も落ちるのが当然だから、
今までと同じように生活することは無理である。現在の自分に見合った生活を
すれば無理が減って楽なんだが、人間は慣性の法則があるのか若いときと同じ
ようにしようとして失敗するんだろう。子供が育って大人になれば親の養育の
役割は終わるのだから、あとはどう静かに死ぬかという具体的な時間まで快適
に過ごすかということを正面から考えて実行したら良いと思う。

五木寛之の受け売りだが、仏教に林住期という時間概念がある。

家族が育って
養育の義務を終えた初老から病気で倒れて死ぬまでの10年ほどの時間を都市や
都会から離れて自然の中(インドでは林の中)で静かに暮らして死の時間帯を
ゆっくりと待つという人生の熟成の時間帯という概念だ。実に豊かに自分の生と
死を真正面から見つめて捉えてるなあと経済なんてみみっちい事だけに拘る日本
人と比較してインド人は偉大だなあと思ったのだ。どうしても島国根性というのは
何をやらしてもチマチマとしてみみっちいという貧乏性が目につくなあ。もっと
大陸的にドーンと豪快に生きることが何で出来ないのだろう?

僕は56歳の時に震災を経験して具体的に自分の死をイメージしたので、それ
ならインド人のマネをやってみようと考えて熱海から車で30分ほどの三菱地所
が昔開発した函南という場所の別荘地に広めのフラットを買った。4500区画
に1600人が住んでいる老人ばかりのリゾート地で文字通りのいわば姥捨山で
ある。
標高が700メートルもあるので、駿河湾と富士山が一望できる豪快な景色の中
で鳥や虫の声と四季折々の草木に囲まれた森と林の生活だ。社会と隔絶した温泉
湯治の静かな生活で、まったく商業施設がないから、15キロ走らないと貨幣を
使う場所がネット以外には存在しないという、東京都中野区のマンション暮らし
とは全く異なった環境に猫と二人で入ったことになった。

車が無いと不便で買い物も病院も図書館も行けない。マシな外食をするには往復で
40キロは走るという都会では考えられない生活で、自炊の比率は95%以上に
なった。東京では4割ぐらいだったと思うので、食生活は全く変わったと思う。
伊勢丹と高島屋が近所にないという生活がこんなにシンプルで質素で金がいらない
生活だとういのはやった人しか理解できないだろう。でも人はそれに対応していけ
るのだ。出来ないならとっくに死んでいるという事である。
まず車の運転と感覚に変化が出る。タイアのグリップと操舵感が敏感化している。
路面からの感じが脳にダイレクトに伝わって、エンジンの燃焼状態がよくわかる。
きっと振動とか音とかが田舎は少ないせいだろう。あと空気が綺麗だから、振動
とか波動の伝達にノイズが入りにくいという微妙な差異がきっとあるんだろうと
思う。そういう感じの伝わりにくい車に乗れば死ぬということで、よく高速を逆走
している人はそういう感覚がもう喪失しまった人たちなんだろう。ターボとか
スーパーチャージャーとか過給器のついているエンジンを僕が嫌いな理由はその入力
と出力の関連性の不自然さにきっとあるんじゃないかと思うね。

人生をじっくりと楽しむというのは凄く贅沢な時間と経験だから、「金」なんて
交換価値以外にはほとんど無いものを無限に拡張すれば幸福になるなどいう馬鹿
げた幻想を持つことがいかに自分の人生を貧しくしているのかにきっと気がつくん
じゃないのかな?目的(生きる事)と手段(労働と金)のはき違えをしている人ば
かりが都会にはウヨウヨいるんだねえ。資本主義では生きる事は無関係な事に浪費
することで成り立つ幻想の欲望の世界なんだが、田舎にリアルにそんなものは無い
のですね。



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湯河原の南インドカレー    1500円


 今年6つ目の台風が上陸しそうだ。現在四国沖を東北東に向けて日本列島の太平洋岸に沿って東進しているので、今夜遅くとか明日の朝とか伊豆や関東に到達しそうな勢いだ。前回は天城山で12時間で400ミリの降雨量という事で、観測史上最大の雨だった。こんなに振ったら事故が起きないほうが奇跡だろうと思う。そんな規模で人間はインフラ整備をしていないからだ。
事故が起きるとみんな「想定外」っていうけど、そもそも人間のする想定ってそんなにお利口じゃないんだね。だから逃げるという当然の行為を無視して手遅れになる。自分を絶対安全と思っていたら人は何もしないだろうが、そうやって生死が別れて行くのだろうと思う。
 雨がすごく強いので、前回もそうだったが今後も継続的に何度も河川の反乱と土砂災害などが広範囲に起きる可能性が高いと思う。静岡県は昨夜は富士市に避難勧告が出ていたが土砂崩れの危険性だという。川沿いとか低い土地の人は高台の避難所に躊躇無く早めに避難をしておかないと増水してからでは手遅れになるのは岩手県の老人ホームの9名水死のニュースを見ても明らかだろう。

 自然と都市というのは実に難しい位置関係の問題だと思う。僕は養老孟司さんのファンだから、脳科学についての彼の知見に脱帽する。都市とは人間の脳が作った理想の時空間であるという。人間は自然を作り替えて自分たちの都合の良い理想的な快適時空間を作ろうとして都市を作ってきた。そこでは自然を徹底して排除して脳の中にある総ての理想を時空間に変える。電気を作ることで昼間の明るさを24時間に延長してしまったし、冷暖房を作ることで快適な温度と湿度の一定のしのぎやすい空間を作って四季を無くしてしまった。高い建物や地下に建物を作ることで、上下方向に生活空間を何倍、何十倍にも拡大した。電子技術を使用してバーチャルな市場を作り上げて、世界中の通貨や株価か金利を交換している。つまり脳の中で考えたことを全部都市という場所で具体的なモノに置き換えてそこで安全で快適で効率的な生活をしようとずっと数千年もかけて積み上げてきたという事だ。脳の中の幻想をいつの間にか実現化してしまう所が人間の欲望の凄いところであり、例えば車や飛行機や船というのは人間の足に替わり何十倍、何100倍の速度と距離を移動できる機械だし、パソコンや携帯電話は手や目や耳や口の延長としてどんな遠い場所の人とも即座に交信や会話が出来たり、意志を複雑に伝えたりすることが出来るようになった。

でもやり過ぎるとどこかで無理が起きて破綻する。限界はあって、きっとそれが人間の生物的な感覚の限界という事なんだろう。時速250キロなら制御できても500キロでは出来ないとか?
病気というのもそのやり過ぎの現れみたいなものだろう。20−30代の若い人でもガンになったり脳梗塞になったりするのは、きっとストレスがそれを引き起こしているのだろうし、免疫系が損なわれて本来治るはずのものが治らないという事だろうと思う。
人間にとって一番身近な自然は自分の肉体だ。だからこの肉体の要求を素直に聞き取るというのが一番快適なんじゃないかと思う。暑い寒いから始まって、眠い、疲れた、のどが乾いた、ハラ減ったというような肉体の要求を満たす事が生存の一番大事な事だから、これを理性などという戯言で無視しているとすぐに身体が壊れてしまうのだろう。そういう肉体的な要求は単純なものばかりだから、誰でも容易に達成出来るはずだが、なぜか病気になる人はそれが出来なくなる。眠れないとか食べられないとか。そういう時はきっと心身のバランスが崩れている事が大半だから、都市を捨てて、田舎でゆっくりしていると自然に治ってしまうようなケースが多いようだ。自然治癒力というのがすべての動物にはあるんだろうと思う。

 都市を捨てて田舎にくると夜の時間が長いのだ。午後7時を過ぎるとほとんどの店は開いていない。コンビニが3軒だけ熱海では開いているが、あとはシーンとしている。みんな家に帰ってさっさと飯を食って寝てしまうのだろうと思う。僕は宵っ張りだから午前2−3時までは起きていると
音がしないのであまりに静かで東京との差に最初は愕然としたが、慣れればそれはそれで良いものだ。田舎は人が少ない。だから競争がないといか競争そのものにあまり意味が無い。だからまあ今日一日が過ぎればいいかというようなぼんやりとしたグータラな気分に誰でもなるのだ。せこせこしても何も解決しないのだから、大半のことを諦めて暮らす。それでも何も結果的には困らないことが大半で、実は人間は不幸の大半を自分自身で作り出していることにやがて気がつくことになる。田舎にいると金なんてあっても実際にはほとんど何の役にたたないのでどうでも良くなる。
働くなんて馬鹿らしいことはあまりしなくなると思う。

幸福なブリコラージュ

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浜田とクルーグマンはマジに馬鹿?(笑)

 近代合理性が限界に近づいてもうどうにもならなくなってきている証拠が日本や世界のいたる所で起きている。エンジニアリングの限界という事だろうと僕は思う。それは例えば車とか建築物とか償却が税法上必要な資産価格と用途性の矛盾として現在日本のいたる所で発現しているある種のチャンスだと僕は思うが、そう考える人は実に稀だなと思う。既存秩序の体系の中で生きているとそいう感覚的な事がわからなくなるのかもしれないという仮説を僕は持っているのだ。
原発の失敗とか、9.11のテロとか、リーマンショックによる金融恐慌とか、合理的であるはずの資本主義がちっとも合理的に作動しない状態が実際に頻発している。繰り返し人間はこうやって失敗を続けてそのうちに絶滅するのだろうか?近代技術の知のあり方とは別に、クローズド レビー ストロースは ブリコラージュという概念を提唱した。
 フランス文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 野生の思考』(1962)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。

 例えば省エネルギーという発想があって、自動車では電気とかリーンバーンとか燃焼効率を上げてco2の発生を抑える技術が盛んだけれども、原油価格が低下したらエコカーの人気はすぐに低下してしまって、大排気量の車がアメリカを中心に売れているのが現実だ。だれもつまらない車には乗りたく無いという人間の非合理性を考慮していないから変な方向に商品開発が進んで失敗をするという事が事実起きているのだろうと思う。サウジアラビアのガソリンの店頭価格は現在1L22円ぐらいだから、車両価格との対比でガソリンの値段が大きな差異になるとは到底思えないほどである。3000万のランボルギーニの満タン価格が2000円である。これが3000円でも1万円でも豊かなユーザーにはきっと無意味な差異でしかないだろうと思う。ガソリン代なんて月に3万でも10万でもどうでも宜しい。高くなれば道が空いて高速がスカスカになれば時速200キロで走れるようになるんだから、料金で代金を決めても良いじゃないの?合理的でしょ?そうしたらS63AMGみたいな車が売れますよ。http://kakaku.com/kuruma/used/spec/Maker=26/Model=31028/Generation=40526/Sort=u3/
500万もしないで凄い中古が売ってます。プリウスと同じ値段で100倍は楽しいと思うなあ。楽しみのために金を使うようにするのがいわゆる資本主義の本義だろうと思うんだけど、誤解している人が多すぎるね。日本人ってマジ馬鹿じゃないのと思うのね。ガソリンけちって何が楽しいかね?アホちゃうかなあ。文明化とはエネルギーの絶対消費量を拡大化することですね!

 一方僕にとってのブリコラージュという発想は、現在この世の中に既にある不要品の在庫をどう工夫して再使用するか?という視点が主体となる価値観の再構築プロセスを言う.「エンジニアリングが製作したとする合理的な販売価格を真っ向勝負でコケにする」ブリコラージュという反工業思想の実現化を投機の利鞘で賄う野蛮な思想の実現だ。

エンジニアリングの起こした合理的な失敗(笑)を、不要な過剰在庫品で代替することによって現実的には新しい価値観の再構築を実現させてしまうほうがクールでカッコイイというトレンドである。ここでのポイントは、エンジニアリングの産み出す価格は原価に対する利益上乗せ価格であるが、ブリコラージュの価格は市場で値が付く最高価格であって原価や流通コストとは無関係に決まるという点が画期的だ。大半がエンジニアリング価格>ブリコラージュ価格という関係性にある。
 芥川賞を取ったハードカバーは新刊なら1800円だがブックオフだと100円に間もなくさがる。まあ図書館で借りるとタダであるが、、。10年前に2000万したメルセデスも10年で200万ぐらいに下がるが、別段相変わらず早いし快適で故障などほとんどしないし性能の劣化はほとんど見られない。むしろ機械的に慣れが出来て絶好調だったりするから不思議なものである。不動産などもそうで、地価に変化がないのなら建物は償却されるから当然減価して20年でほぼゼロになる。現実的な用途性はまた別で、僕の買ったスコーレなど築24年だが、使用時間は50日ほど(23年間でだ)だから電気と給湯以外はピカピカだった。2億が1000万で売っているという特売だからブリコラージュするとお得でクールだ。半分の面積の新築が現在8000万で売っているのだから、、。似たような便益をどれぐらいのコストで楽しむか?ということは対価の支払いの絶対値なのだから、働く必要性の臨界に激しく作用する。つまりのんべんだらりが僕のように好きならばブリコラージュこそクールな解決法である。


世界中の先進国では過剰に物が余っている状態である。これをデフレというのだ。だから生産を停止して全員が消費だけをすれば、やがて在庫が完売して不足し価格は上昇するだろう。上昇した価格で新規の生産品を販売すればモウケが増えるから賃金も上がる余地がある。だから必要な事とは、生産を停止して全員が猫のように(労働するのを辞めて)浪費することだけに専念すればよい。つまり猫のような暮らしをすれば誰でもウハウハお得だろうという事なのである。遊んでいて豊かになるのだからこんなに良い事は無いだろうと僕など思うのだが真似る人は皆無である。実に変なの?クールでお得な方法論なのにねと素朴に思う。

生き残る人とそれ以外

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ケツはこんな感じ

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ツラは地味

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標高300メートルのケアハウス  津波見物が出来ます


 広域防災に関しての討論会を国営放送でやっていた。首都圏の大型河川の一つが(荒川とか利根川とかだろう)たったの1カ所でも堤防が決壊すると、東日本大震災以上の大規模被害(水死の発生だろう)が確実に起きるというショッキングな予想だった。東京のゼロメートル地帯に住んでいる人(葛飾、荒川、北区など)のほぼ全員が逃げ遅れて水死するという事である。名古屋なんてもっと地盤が低くて酷いからトヨタ関連なんて全部水没だろうねと思う。
 群馬大学の防災専門の教授が「広域に逃げる手段が誰にも無い」ということで、台風とか地震、大雨、高潮、津波など100年に1回とか500年に1回というようなスケールの災害に東京という街は耐えられないそうである。5年前の地震で「なんとなくヤバイよ」という強い危機意識が僕にはあって、もっと安全でお気楽で楽しい場所=函南、熱海 という選択をしたのは合理的な選択だったんだなあといつもながら「良いカンカク」を常に僕はしているなあと自慢しているのだ。同じように感じても、多くの人(98%ぐらい)は行動出来ないで手遅れになる。経験上僕の周囲で成功できない人の主因はこの行動特性の遅延にあると僕は思うね。知っていても行動できないマヌケと馬鹿ばかりという事だ。

 猫とその家族はさっさと熱海に避難して、残りの人も高台の安全な地区の安全な高度(マンションの3階以上とか)に逃げているので、寝ている間にそれが起きてもすぐには死なないねとは思うが、堤防決壊で数日で30万人が水死するとすれば「東京は一旦は売りもち」だねと僕は思う。災害が起こりそうな前にじりじりと下げて(他の市場 NY、ロンドンが上がってもだ)、事件事故が起きてからは暴落でしばらく市場が閉鎖になるんだろうと思う。兜町も低い場所だから冠水したら市場再開は当面絶望的だねと思う。代わりにシカゴの先物が徹底して売られるということが当然起きる。上場企業も倒産多発で日本経済はしばらく心肺停止ということに数ヶ月から数年はなるんじゃないのと僕は思う。225か16000円くらいから3000円ぐらいまで暴落して強気の全員が破産する。日本の戦後資本主義が完全破壊されて「そして強気が誰もいなくなった」というようなことが東京で起きるかもしれない。そこからは買いにドテンだねとも思う。
水害、地震、原発事故、津波という複合大災害で日本の主要都市がゼロになる。すると膨大な復興需要が当然起きるだろう?大相場が仮に今後の日本で起きるならそういうシナリオが一番妥当性が高いんじゃないのかなあと思うのね。だからその手前は暴落がないとつまんないでしょう?そう僕は思うんだが、悪魔の声ですねえこれ。


 死んだらいくら金があっても意味が無いけれど、生き残った人には金がいる。住居、衣料、食料、移動手段、商売道具とみんな金がかかるのだから、それには他人様を出汁にしても稼ぐ以外にはないのだから、「空売り長っパリ」というのが当面は良いんじゃないのかとも思う。(当たらんでも知らんよ、無論)
事件事故の発生当時は緊急的に通貨は使用価値が多分ないから、現物の有る無しが決定因である。食料、医薬、水、エネルギーなど切実だ。回復までの数週間分の蓄積がモノをいうだろう。買いだめする事だね。
今回車を増車したのは、1台400−500キロ走れるとして2台なら延べ1000キロの航続が可能だと思ったせいもある。荷物が積めて車高が10センチ上げられて4WDでオフロードもそれなりに走れる能力ということである。1台で90リットルのガソリンだ。2台で180リットル。補助ガソリンタンクも数個買おうかと思っている。20L入りの携行タイプで2000−3000円で売っている。40Lなら300キロぐらいは走れると思うし、ガソリンで発電する発電機にも使える。防災では電気の有る無し、水の有る無し、移動手段の有る無しが決定因になるから、買っておくというのが大事で使わないで無駄になるほど良かったという事なのだ。これを使用する事態が起きたという時点で、日本はもうダメという事である。

 内田先生も書いているけれども、起こりうる事態を楽観視しないでシビアに考えて具体的な対処をすぐにする。
多くの滅びる人は住む場所とする仕事の質をゼロベースで変え直してみるぐらいの柔軟性がないから生き残る筈が無い。非連続的な明日を考えるような発想と知性の地平が広い人しか結局は残れていないというのが進化論の結論だろうと思う。その基礎になるのは個人のカンカクという他に言いようが無いと思うのだ。
明日と今日の連続性が無くなる世界を想像してみると良いね。つまりドテンが出来るかどうかということ、逆張りが常に出来るという事が生き残りの鍵なんだから、そういう楽しい暮らしをしたら宜しいと思う。

経済的だと言って軽自動車を買うような人は、必ず高速を逆走して事故る。2000万する外車に乗って逆走するようなケースを僕は一度も知らない。何故か良く考えてみよ?と思わんかねえ。馬鹿ではそういう車を買えないからである。
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椿と菫

50代男性のための雑誌に書いた結婚論

『困難な結婚』についてインタビューがあった。50代男性のための媒体で、「そういう人たちにアドバイスを」というリクエストだったので、「発想を切り替えないとこの先は生き延びられませんよ」ということを書いた。ちょっと口ぶりがきつ過ぎたかも知れないけれど、インタビューに来た編集者たち(全員女性)は深く頷いていた。
雑誌に書いたものをすこし添削したものをここに掲載しておく。


そもそも結婚は、幸せになるためにしているのではありません。夫婦という最小の社会組織を通じた「リスクヘッジ」であり、安全保障の仕組みなのです。病気になったり失業したり、思いがけない事態になったときに、1人では一気に生活の危機に追い詰められますが、2人なら何とか生き延びられる。お互いがサポートできる。それが結婚の第一の意味です。

かつては、地域社会や血縁集団が確立していて、その中で夫婦という単位が機能していました。普段は不満の多い夫婦でも、夫が親族のややこしい話を丸く収めたり、妻が地域のもめ事で絶妙な差配をしたり、夫婦がチームとして成熟する機会がありました。そうやって、異性愛とは別のレベルに「バディ」としての信頼感が育まれたのです。
今の50代が不幸なのは、地域や血縁システムが崩れ、夫婦単位で行動して、「バディ」の見識や力量を目の当たりにする機会がほとんどなくなってしまったことです。それでも、自営業の夫婦でしたら、「連れ合いがいてくれて助かる」という実感が日々得られるでしょうけれど、勤めに出ていると、配偶者は支援者というよりはむしろしばしば「自己実現の妨害者」として登場してきます。お互いをしみじみ頼りになるパートナーだなと感じることが日常生活のなかではなかなか経験できません。

かつては定年まで働き、満額の退職金をもらうのが当たり前でしたが、今は人件費削減のために、役職定年がどんどん前倒しされています。大手でも大半が55歳で事実上リタイアし、先には昇進もない、責任ある仕事もないというきつい立場に追い込まれています。先行世代のキャリアパスが全く参考にならない雇用環境に投じられている。「不機嫌なおじさん」が激増しているのは、たぶんにそのせいなんでしょう。
でも、それは彼らの属人的な資質ではなく、あくまで制度の問題なんです。この間まで「部長!」とか呼ばれていた人が目下の人間に軽く扱われるようになった男の屈託を配偶者は理解してあげてほしいですね。気の毒な立場なんですから。

夫婦の問題については、愛が足りないとか気配りがないとか、あるべき夫婦に比べてうちは・・・というような「ファンタジー」を語っている余裕はもうありません。今すぐに備えるべきは、75歳以降の老年期の貧困問題です。
おそらく今の50代の相当数は70代にはシビアな貧困問題に直面することになると思います。年金制度は崩壊しているでしょうし、健康保険料も介護保険料もはるか高負担になっているはずです。株を持っていても世界経済の先行きは不透明ですし、銀行に預けても利子はゼロ。人口減少によって、都心を除けば不動産の値崩れは不可避です。
社会の変化の最大のファクターは人口減です。今から15年で人口は1000万人減ると予想されています。鳥取県が年に1つずつ消える勢いでの人口減です。短期間に社会制度が土台から変わってしまう。根本的に変わってしまうんです。それは確かなのに、まだ「成長戦略は」とかいうような世迷い言を口走っている。現役の50代の多くは、「そんなことは知りたくない」とばかりに耳をふさいでしまっています。人口減、それによる市場のシュリンクという平明な統計的事実さえ直視しようとしない。

こう言ってよければ、彼らには不安はあるけれど危機感がない。
右肩上がりの時代に育ち、バブル期に就職し、上に従い、体制に順応することで出世してきたせいで、その成功体験に居着いて、そこから出られない。でも、危機感を持たない人間はリスクヘッジを考えない。そこが問題です。
ヒッチコックの映画『サイコ』に「金で幸福は買えないが、金で不幸は追い払える」というセリフがあります。家庭内で「お金がない」というのは、あれば回避できたトラブルに日常的に悩まされるということです。お金がないことから始まるトラブルの深刻さは家事分担でもめるのとは比較になりません。
ですから、老境の後退戦に備えるのが急務です。一番大事なことは配偶者との相互支援体制を確かなものにすることです。まずは現実認識を共有する。それぞれ職場の雇用状況や業界の今後などについて積極的に情報を開示し、配偶者はそれに耳を傾ける。その上で「何とかせねば」「何ができるか」を考える。お互いの社会的機能を見て、どう分業していくかを考える。
第二に、先行世代を参考にしたキャリアパスからの発想の転換を図ること。例えば、転職ではなく転業の可能性を検討する。都会ではいくら職探しをしても、加齢とともに賃金水準は下がり、それにつれて生活の質も下がらざるを得ない。縮小再生産のスパイラルに入ってしまう。
でも、人手が欲しい地方では、いま自治体がいろいろな移住支援策を実施しています。都会にいても前職とは比較にもならないような待遇の仕事しかないということであれば、いっそ体が動くうちに頭を切り替えて、Iターン、Uターンを選択をするという人はこれから増えてゆくと思います。
超高齢化のせいで、職業上の空白があちこちにできつつある。転業のチャンスは探せばたくさんあります。
生き延びるために一番大切なのは、ネットワークです。都会から帰農した若者たちに聞くと、日々の生活必需品はほとんど物々交換やサービス交換で手に入るそうです。市場経済と直接にはリンクしていないから、不況になろうと株が乱高下しようと、生活の質は急激には変わらない。生活の安定を考えるなら、地域共同体や親族共同体の相互扶助ネットワークをしっかり構築するのはありうる選択肢の一つだと思います。
とにかく性別も年齢も、社会的ポジションも違う人と連携するネットワークを形成すること。メンバーが多様である、ニッチを異にしていること、得意技がそれぞれ違うことは安全保障の基本中の基本です。階層や職業が同質的な人々とだけの集団には危機耐性がありません。
生き延びるために必要なもう1つは、いかに愉快に、機嫌よく生き延びるか、です。不機嫌では想像力も知性も働きません。
悲観的にならない、怒らない、恨まない。そういうネガティブな心の動きはすべて判断力を狂わせます。危機的状況下では判断力の正確さが命です。にこにこ機嫌よくしていないと危機は生き延びられません。眉根に皺寄せて、世を呪ったり、人の悪口を言ったりしながら下した決断はすべて間違います。すべて。ほんとにそうなんです。不機嫌なとき、悲しいとき、怒っているときには絶対に重大な決断を下してはいけない。これは先賢のたいせつな教えです。
まずは配偶者との関係を穏やかで健全に保つこと。そのためには、自分が機嫌よくしていることが必須です。「バディ」として選んだその人と、夫婦というチームを成熟させ、安全保障を堅固にする。貧しくても、物心の不如意があっても、とりあえず「何とかなるよ」とにこにこ笑っていられるような、「機嫌のよい夫婦」にしか「夫婦が機嫌よく暮らす未来」は築けないと思います。ご健闘を祈ります。 

                                                                                 内田 樹の研究室より転載=================================
相変らず仕事のし過ぎの内田節の爆裂で、家から出ない知の伝道師は本を今年もたくさん書いている。内田さんは最初の結婚に失敗して、娘を自分一人で育てた大学教授である。全共闘の闘志として活躍してから東大を出て、学生革命運動をしていたから企業に就職なんて出来ないと思って、友人と翻訳会社をやって当てて(アーバントランスレーションを平川さんとやった)、それから大学院に行ったのだろう。神戸の女子大に拾われて仏文の教師になったマジめな合気道の武道家である。
 自分の信じた好きな事、得意な事を仕事に出来た人は本当に幸福な人生を送れると僕は思う。たとえそれが経済的に恵まれた結果にならなくても、好きな事で生きて行くというのは毎日が気持ちが豊だから、お金の有る無しなんて気にならないんだと思うし、事実金が気になるぐらいだとしたらきっとそれはそんな好きな仕事でもないんだろう。好きこそものの上手なれということわざがあるが、好きな事は誰もが人一倍熱心にやるのが普通だから自然に上達が早まって、ますます好きになるという好循環が起きるから、「天職」に自然になっていくのだろう。

 結婚についての彼の意見は実に現実的で身も蓋もないと僕は思うね。多分、現在の50代の夫婦は金銭と時間と気持ちのゆとりが全く無い人が大半で、そういう人はファンタジーを語る余裕が無いという現実に押しつぶされているということだろう。しかしだからこそファンタジーを語る必要があるんじゃないのかね?と僕は反論したいと思う。そのファンタジーの核心に存在するものは、間違いなく新しい生命という事になる。すべての生物はそれが誕生と生存の動機だからだ。
世の中がああなる、こうなるという雑多な情報があって、仮にその大半が悲観的な情報だとしても、それを自分で消化して乗り越えていくというのが具体的な個人の生活という事だろう。それは10代だって80代だって同じ事だ。だから自分の出来る範囲で活躍するという事が大切で、その活躍のやり方の技術と水準というのが個性と能力という事だろう。
内田さんはリーマンが長かったからか、定年後には悲観的意見だが、それは年金とかぶら下がりを前提に発想してしまうからであろうし、合気道塾は持ち出しだろうから、彼は本の印税で喰って行くという事なのだろうと思う。
景気が悪くなって、人口が激減して、消費が縮減して、日本が沈んでいくのなら、そういう沈んで行く環境で何が最適な選択かという新たな前提で思考してみる必要があるんだろうが、未だに「成長」とか「発展」とか有りもしない大きな物語を狙うから大失敗が続くという事なんだろうと僕は思う。「世の中はお先真っ暗だけど、オレだけはウハウハ」という前景を担保するにはどうするのか?共食いとか鴨を喰うとか、生存競争が激化するところに群れ全体を放り込むというような戦略が必要ではないか?というのが常識的な思考だろうともう20年も前から僕は感じているから、こんなブログをずっと書いているわけだ。
「あいつが出来るのならオレも出来るだろう」という思う人が増える事を祈っている。そう君なら出来るかもしれない.(爆)

敬老の日というのがあるらしい。今年は9/19 月曜日だそうだ。孫からそんな爺さんにお祝いが届いた。満面の笑顔の女子2名である。椿(姉)と菫(妹)のパッツン姉妹で、女系家族がまた続く。
「爺ちゃん、金くれ!」そう笑っているようにも僕には見えるが、、、。あと10年か20年したら鹿島田真希のような女子になるんだろうね、末恐ろしいなあ、、。
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