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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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拡大家族

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サンビーチの夜景

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伊豆山唯一の 甲

どうやら4人目の孫が3月には産まれるらしい。息子の嫁さんが妊娠したらしいので、これで我が家は娘が3人、息子が1人と子供を産んで、僕の孫は都合4人になるんだろう。今の所2対1で女子多しだが、果たして2対2になるか 3対1になるかと興味しんしんなんだが、女系が滅法強いので、きっと1対3になるんだろうと思う。
するとまた男子に圧力がかかって、きっと苦労の耐えない人生になるんだろうと思うが、まあ家系的宿命と諦めて頑張れと言う他無いね。(爆)妻の母がまだ85歳で健康なので、4代の女が我が家にはいるという事になる。壮絶というかたしかにスゲーんだね。こういう世代間の重複期間が長い家族というのは、常識とか金とか決まりとか論理とか感じとかは全く役にたたなくて、ただそこに数が存在するという存在感が集団の行動の支配的ルールになるので、自分の思ったようには物事は全く進まない。まとまる筈もないのだから、強引に一本化して文句が少ない方法論を取る以外にないのである。例えば料理。
 何かの記念とか会合とかで、何を喰うのか?というのでも85歳の老人と6歳の子供で意見が一致するはずないので、勝手に適当に僕が強引に決める。ただし全額僕が払うから文句を言わせない。「嫌なら喰うな!」で済ましてしまうのだが、男が一人しかいないとそれが不思議に通るのである。この点、仮に僕が金がないときっと困ったことになるだろうと思う。誰かに借りるか貰うかすれば、その人の意向を重視するということにきっとなるんだろうからね。
 それでも義母は85歳で天然だが、認知判断は僕の実母の85の時よりしっかりしているし、少々歩行が時間がかかるけれど、要支援1程度だから、健常な生活が出来るという意味で偉いなあと思う。とても僕はマネできないだろうと思う。あと24年たったら生きているとは思えないからだ。85歳で孫が4人、曾孫が4人というのは実に生命力としては優れた家族なんだろうと思う。それだけとっても幸福な家系という事なのだろう。とりあえずみんな元気で餓えないで健康に生活できているのだから、それ以上の贅沢を言ってもしかたがないね。

お盆休みだし。みんな帰って一人暮らしだし、少し歩くかなあと5日ぶりにナイトウォークに出た。いつもの長いコースを逆回りで歩くと携帯のデータでは13049歩、8190メートル、33階(1階は3メートル)歩幅62センチ、歩行時間147分となった。ゆっくりと鼻呼吸で歩いているが、下りの階段と昇りの坂道という普段と逆の廻りかたのほうが呼吸は楽な気がする。
サンビーチは観光客が花火をして遊んでるし、普段より人出が多い。伊豆山で唯一営業している「甲」という居酒屋の前を通過した。怪しいライトの店だね。欲しいものが無い暮らしというのがもうしばらくずっと続いている。
なんとかGQとかを見てひねり出すことを考えているのだが、見た瞬間は良いねと感じても持続性が無いので一晩寝ると忘れてしまうのだ。まあ切実さの無い欲求というのは実現しないでもちっとも困らないので役にたたないねえと思う。

ベトナムさんが来た

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夏の熱海は大賑わい大賑わい

 ベトナムさんが来た。奥様同伴で日本人では珍しいなあと思った。大半の人は僕に家族を見せてくれない。500人くらい相場関連でお会いした事があるけれど、ご家族の顔を見たのはこれが最初だから、お互いきっと変人なんだろうと思う。僕は自分のマダムを平気でどこでも同席させる(というかオレだけ旨いもの喰うなと叱られるからいつもどこでもついて来るのね、、)から、大半の知人は僕のマダムを知っていることも多いのだ。夫婦で考える事もする事も180度逆方向の事も多いから意見は異なる事が大半で一致する事があまりないが、それでもなんとか不思議に35年も続くという事は、ある種の諦観がきっとお互いあるんだろうと思う。でないと喧嘩ばかりすることになる。そう言えば喧嘩をしていないなあ随分と長い間。なんか文句を言われたら「ああ、すいません」とアヤマッチャえば、その場はなんとか収まるもんだし、その場が収まると忘れっぽいので後を引かない。老化と言えば老化だろうが、まあ細かい事なんてどうでもいいや下らんなあときっと思っているから「ハイ、ハイ」と言っておくに限るねと思う。話が早いし、抵抗がなく物事がスムーズに転がるからだね。

 大阪を5時に出て10時過ぎには沼津の伊豆屋という天丼屋にいたというから強行スケジュールで、全く徹夜で夕方6−8時過ぎまで網代で魚の食事をして、そのまま9時−1時半と400キロを走って帰ったらしい。タフだねえと思った。僕も京都まで走ることもあるけれど1日で往復は体力的に無理だねと思う。昔は徹夜で東京から九州まで走って、関門海峡の朝日を見たような事もあったけれど、最近は6時間ぐらいが安全運転の限界だなと前回の京都行きで感じた。事故ったら人様に大迷惑をかけるから、安全第一で行くに限るね。それでも深夜2時過ぎの新東名はスカスカだから最高速テストにはうってうけで、オービスがないからパトだけ注意すれば楽しく走れるねえと思う。ドイツ車って全部250キロの最高速自主規制をしているから、高性能を買っても加減速以外の性能差ってほとんどないのね。1000万する車で250出ない車は多分無いですよ。

 材料とか銘柄とかは全くの相場の話の対象にはならないんだね。なるのは道具とか道具の作り方とか数量とか方法論、あるいは建てと資金量と時間の受け止めの個人差とかそういう事を少し話すことはあっても、ポジショントークなんて無意味だし、未来なんてわかりっこないのでまあ適当ですね。なんか月足を見て、大きなサイクルが来るたびに、日本の資本市場の体力とエネルギーが毎回下がっていったのねえと50年の長期グラフを眺めながら嘆息するような午後だったと思う。

 きっと日本だけが指数の(225やトピの)最高値を30年近くも更新できない理由は、個人資産の中で証券保有の構成比が外国比で低いことに主因があると思うのだが、それが今後大きく改善される余地はあるんだろうか?という問いに「無理だろ?」と若者を見て思うんだね。人口と欲望と所得が縮小し続けているのだから、平均値としての資産は時間とともに減少する。水野和夫が「国貧論」を書いているけれど、資本主義の終焉とはそういう結果になるという事だろうと思う。従って主義を数値化した資本市場が減衰するという事実が、毎度日本だけでは先行して1990年から表れている。つまり相場をやるなら「売り」有利な状況がずっと続いているという事だと思う。

世界史を見ても、世界の頂点にたった国(あるいは帝国)が一端崩れると再興した例はないから、日本の工業力が再興することも頂点に再びたつということも起き得ないんだろうと思う。結局は資本の金融市場化に失敗したという点が日本の資本主義の敗北の最大因だったろうと個人的には思う。まあしかたがないね、農民の国だったのだから、、。(今もそうだし。)

猫の通院

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17センチのアワビ 9600円

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昨夜はアワビステーキとアワビ丼(シャンパン付き

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リビングから見る花火

 余りに暑いので猫が不調になった。腎臓の機能低下があるようだ。食欲が無くてゴハンを食べない。14歳だから老化が進んでいるし、虫歯で良く噛めないから元気がない。体重が4.1キロとぐっと痩せてしまったので、点滴や注射や血検査と大わらわで通院している。とにかくケージに入れるのも大変で泣きわめくので消耗してしまう。
医療費は人間より高いから1回行くと4−5万かかるから、相場師でもないとおいそれと病院にも行けないだろうなと思う。

とにかく熱海も暑いがそれでも駅前より山頂は3度ぐらいは低いからなんとかエアコンでしのいでいるが、午後は西日の直撃で温室状態になる。日没でぐっと下がるが当面午後はお昼寝タイムとなる。

なんか暑いので全く外出する気がしないので、3−4日に1回ぐらいしか外に出ない。冷蔵庫の在庫を食べて生きている。
花火を見ながら、下田で買った巨大アワビ(直径17センチの10年もの)をステーキにしたアワビどんぶりなんて喰っている。猫の食欲が落ちるというのに僕は全く落ちないで腹が減るのは、禁煙しているせいだろう。とにかく腹が減るのだねえ。困ったものだ。
まあ贅沢だがたまには良いかねと思う。大阪は「食い倒れ」というけれど、そういう事もあるのかもしれないと思う。

夏の贅沢

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和風肉料理 野口洋光

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みぞれ肉うどん 

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日本文学全集 池沢夏樹編集

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 喰って寝て運動して排泄する。この反復が全ての生命個体の一生である。これ以外に大きく重要な価値は生命体という意味ではあまりないとホンネで思うので、あまりいろいろを真面目に考えても意味がない。
捕食する、されるという位置関係が複雑に変化する環境を「社会」と我々は呼ぶ。
仕事、金、趣味とか基本以外に重大なものは、仮に質量的な意味で満足しているのなら、余分にあっても意味が無いから邪魔だねとも思う。良からぬ事をするために(意味の無い奢侈とか政治的な贈与とか)金があってもいつかは飽きるからどうでも良くなる。audi s8という車があるが、5.2Lの10気筒エンジンが4L V8ターボにサイズダウンした。スペックはパワー、トルクとも上がったが「乗った感じ」は別物である。感じが重大な人にとっては無意味に堕落したモデルチェンジだから僕は新しいのは全く欲しく無い。金を貰っても乗りたく無いね。だから5.2の旧車を地味に探してどこで整備するか苦労してもどうやってそれに乗ろうかと無駄な努力をするのが趣味なんだろうと思う。RS6アバントの5L v10エンジンのほうが更にアバンギャルトだからそっちもイイねと思う。ハテ困った。(笑)こうやって困るためにきっと奢侈はあるんだろうと思う。

 例えば僕は無趣味だから、人をからかうために必要な事は何だろう?と思う。金や名誉やモノに拘る人は結構多いから、文学とか車なんて材料に使用するのにはウッテツケかもしれない。文学的な事というのは、ある意味で政治的、ある意味で感覚的、ある意味で知性的な要素が満載だから、傾向は党派を暗喩する。リゾームの茎がいくつも林立する現代という中にあって、「僕」というナラティブで語られた大江健三郎の文学は僕の高校時代からのステムの一つであったように思う。「同時代ゲーム」を先日再読(もう6回目かね?)したが、新たな共感や理解があるという事は嬉しい限りだね。池澤夏樹が編集した日本文学全集が河出書房新社から配刊されるようになった。図書館で大江健三郎を借りて来た。これでじっくりと夏休みを楽しめる。

 手仕事が重要であると弟子や生徒に口を酸っぱく言ったことが以前はあったが、もうどうでもいいやと思うようになった。わかる奴は言わんでもわかるし、そういう奴しかきっと残らないし、事実残っているのはそういう奴だけである。料理人は手仕事だから、細かく丁寧だ。「分けとく山」の野口洋光さんは、優れた料理人である。その優れた部分とは、無論ミシュランの星を取るというレベルの手仕事の秀逸さにもあるが、それ以上に彼の料理に関する哲学と道具にある。「和風 肉料理」という家庭画報の別冊を読んで、牛シャブを乗せたみぞれ冷やしウドンを作ってみたが、これにはおよそ1時間が必要である。彼のレシピを忠実になぞるとどんな簡単なものでもおよそ最低でも1時間は必要で、数品つくれば半日仕事になる。でも質という事を重要視した豊かな生活をしようという趣味的な哲学があるなら、当然必要な時間ということになる。
 彼の考える日本料理においての「肉」という素材は 「箸で切れること」が「最低限度の料理の強度」という事だという事に驚いている。そこに日本という独自の国民性と箸という道具の関係性があるのだが、その強度に辿り着くために野口式のレシピの本質的な意味があるのだ。まあ自分で苦労して何度か失敗しながらやっているとマシなもの、旨いものがそのうち出来て来る。だから料理というのは実に楽しいスポーツのようなものだと思う。
 原価1700円の肉ウドンを家庭で自作して食べる。こういう贅沢が僕は気に入っている。
イメージ 1貧しい老人たちの現実

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熱海の花火 グランドフィナーレ

>世の中間違っているとか、おかしいとか、そういうことを思っている人間というのは、それは多い気がわたしはしていてみなどこか態度にでている。人生がうまくいかないのは自分のせいでなく世の中がおかしいからだ、とこれは100%世の中のせいにするというわけでもなく声高に叫ぶ気もないが、ただ心の中にはなんかそういう気分があることはある、、と言うとこれは幾ばくか同意する人は多いかな? 違う言い方をするなら、「自分はそんな贅沢は言う訳じゃないが、でももう少し楽な暮らしをするだけの当然の権利はあるだろう。」という思いである。これだとかなりしっくりくるだろう。だがはっきり言って、これは自分がうまくいかないのを他のせいにしているし、自分自身が工夫して変わろうともしていない、とわたしは思うのね。世の中には、楽しくやっている人間もいれば、苦しくやっている人間もいる。いろいろいるわけだ。では仮に言うとおり、世の中間違っているとしても、そこまでわかっているなら、自分の暮らしは自分でどうにかすれば良いわけで、 世の中間違っているからって自分が苦しくなる必然性はないように思う。

わたしも世の中は間違っているという気分は持っている。だからおかしいと文句を言うのではなく、状況認識としてそれを認めよく観察するということだ。そうなると間違っているほうが、それだけ抜けやゆるみがあるということだから逆にやりやすいくらいという面もある。別にずるをするとか抜け駆けするとか、そんな意味じゃなくて、よく観察してよく考えてそしててきぱきと行動に移す、ということである。つまり自分の暮らしは自分でなんとかするということである。
                                                  ハルトモさんのブログより無断転載

 彼のブログはほぼ毎日読む。年齢が近いとか住んでいた場所に御縁があるとか大学が同じだとかなんか不思議なご縁があるんだろうと思う。お仕事の種類は全く異なるし、僕は大組織の成功法則なんて微塵も知らないし、すごくワガママで生意気だったから組織内の競争は全くダメなタイプなので個人で好きで出来そうな事だけに絞って仕事をしてきたので、組織内の競争の事は全くと言って良いほどわからない。それでも大学の同窓とかかつて勤めた会社の同期や先輩上司、後輩との付き合いは少しはあるし、業界(百貨店と雑貨業界)の知人は多いから(多分相場関係の30倍はいるだろう)、よくリーマンの愚痴は聞く機会があった。
彼らの『でももう少し楽な暮らしをするだけの当然の権利』というのは組織内の比較感からきっと生まれているのだろうし、それ以外の社会の事(例えば相場師の事、勝負師の事、純粋な商売人に事)を知らなすぎるなとも思う。僕の知るリーマン全員が甘いというか温いというか、『金の有る無しがそのまま生きるか死ぬか』みたいな切実感がない。だから下らん事で失敗するし無駄が多いとも思うが、他人事だからどうでも良い。
「仕事は結果を見ればわかるから、良い年をこいて金が無いというだけで全員が大した事はないねえ、、」と思っている。馬鹿でないなら金という最低限度の事ぐらい何とかするのが大人としては当然であると若い時からずっと思っていたから、大半の貧乏人は無能か怠惰かアホのいずれかあるいは全てだという認識はずっともう40年も変化が無い。生まれが貧乏でも能力があれば成功するという意味でハルトモさんはその好例そのものだ。「近代」とはそもそもそういうモノである。だからスタートがもっとマシだったら、多分もっと化けたかもしれないが、それは仕方のない事=運命だろうと思う。自分でどうしようも無い事とどうにかなる事とがあって、金の事、女の事(生殖の事)は自分でどうにかなる事の一つだと僕は思う。
 世の中(環境)がどうであっても、能力と運(当然運のコントロールは最大の能力のひとつだろうと僕は思うが)があれば成功できる。成功の基準は当人の基準で宜しいが、一般的には健康で人間の再生産が出来て家族が豊かに暮らせる事、金の心配がいらない状態という事だろうと思う。額ではなく、質なのだろうと思う。質に満足していれば、不平は出る筈が無い。この不平が出る要因は、自分の欲望の質量をを自分でわかっていないという理由が大きいだろう。比較感でしか自分の位置を見た事が無い=偏差値的な発想だとそうなると思うね。偏差という発想そのものが群れとの偏差なのだから、質とは無縁だ。群れそのものが腐っているのだからダメに決まってラということだ。
いろいろな老後があるんだろうが、これを見れば仕事の結果はするにわかると思う。
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