ハレなネーチャンは踊る
笛と太鼓の競演
それを今度は下げを取るための売りを 同じ規模で同じようなやり方やったってダメに決まってるじゃん 上げ相場を買いで大きく取って、下げ相場も売りで同じだけ取って なんてできるもんはそうそうおらんで 得手不得手ってもんもあるし 得意っちゅうわけでもないけど、素人さんはやっぱり買いの方がやりやすいでしょ
まあ仮に自分で得手不得手を自覚できる人なら 不得手なことはやらんことだね
でも売りもできんと... と思うなら得意の?買いの時の1割2割の規模でやるとかね
猫次郎さんがよく馬鹿でも取れるって言ってるよね 確かにね馬鹿なら取れるんですよ でも自分が馬鹿以下だって気付いてない人がいるんだろね 彼から見れば多分僕も馬鹿の部類だと思うんで だから馬鹿でも取れるって言ってるんだと思うよ
まあ僕はギリギリ馬鹿の部類なんで 真似して少しは取れてるけど 馬鹿以下のもんが そうか馬鹿でも取れるのかって思って真似しても それはちょっと違うと思うんだね なんかまた変な質問してる人がいたけど、そんな質問する程度ではまだ馬鹿にもなれてないんじゃないの?って思うんだけどなあ... なんて馬鹿の独り言でした。
(ベトナムさんブログより 無断転載)
昨夜は熱海に「こがし祭り」という一年で一番熱海が賑やかというお祭りに初めて出かけてみた。30年来の友人のご夫妻と国道の縁石に座って2時間ほど、御神輿や山車を見物した。普段は老人しかいない熱海の町が、どこにこんなにたくさん子供や若い元気で美人のネーチャンがいるのだろうというぐらい凄いことになっていて、ハレとケの差異というのは凄いもんだね感じいった次第である。 この祭りが終わると熱海の夏もすぐ終わると友人は言ったが、まだ7/15で梅雨も明けていない。日柄というんのはそういうものなんだろうか?
さてベトナムさんから「馬鹿と馬鹿以下の区分」についての経験哲学的な実証分析があった。テキストの解釈というものは、長年当人のテキストをずっと異なる文脈で限りなく反復することからしか到達し得ない理解であるという仮説に僕は賛同するほうだが、実はテキストの書き手の意志を率直に現してるはずのテキストの真意は、やがてそのテキストの書き手本人ではなくて、連綿と続く書き手の経験の系統に由来するという理解のしかたに到達して久しい。無責任な言い方と聞こえるかもしれないが、僕がミッシェル フーコーのテキストを引用して構造主義的な論考を頻繁に引用するのは別にイヤミでしているわけではない。分析や推理ではなく、確率の思索や論考でもなく、実行によって構想するという点を持って、僕とベトナムさんは実に良く似た相場へのアプローチを事実取っている。それは「生活の技術」という点で、実に慎重であると同時に疑り深い自分を知っているという事でもあるんだろう。
それはポジションサイズとかグラフの枚数とか、反対玉の手仕舞いの日柄とか細かい所作や動作の部分に表れる。
「神は細部に宿る」そう言った天才を僕は実に優れていると感じるから、その細部に関しては生き残るためには疎かにはしない。ところが、インターネットという代物は突如だんまりと冷やかしで見ていた人が、自分の思惑と異なる結果に遭遇すると慌てて出て来ては変な質問をして、それに「あたかも正しい答えがあるかのような期待」を表明したりもする。「馬鹿でも取れると言ったろ?」という事なんだろうが「そりゃ馬鹿以下じゃとれんわな」というお答えが彼の説明だろう。然りと言う他無い。細部が疎かでは神が宿る余地は全く無い。これを馬鹿と鴨の差と僕はいう。
夏は祭りの季節だ。祭りの夜は一気に盛り上がる。これをハレという。でもそのハレの後は結構寂しい秋の気配が続く。祭りが永遠に続くことはない。酒田の3手5手というのはそういう継続性という時間の成り立ちの経験則なのだろう。300年や500年では人間の本性は変らないと僕は思う。だから多分も先物も似たように動くのだろう。
「鴨は来るな!下手がウツル」と書いてもやはり来るものは来る。ある意味でお客さんが無限に来るという意味で、広告効果はコスパが高くこのブログはグローバル資本主義の成立に大きく貢献しているとも思う。でも実は猫はホントはアナーキストなのね。(爆) |
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