八坂神社の大枝垂
この「存在したいという貧欲な意志」は、それが共有なものであるという事実とまさにかかわりがあるのだが、熟慮したり、干渉したりする意志とはまるきり似ていない。それは、死を前にした盲目的大胆さとしての意志であり、凶悪な砲火に直面する者の例にならって、大部分は偶然に依拠しなければならない。曖昧な情熱が全体の思わぬ出現に対して要求する解答を、ひとり運まかせの動きが与えることができる。立派なゲームも、カードがよく切りまぜていなかったり、あらかじめとりそろえてあるようなときには、いかさまになりかねないのであり、値打ちはない。ゲーム者の決断自体、相棒たちの手を知らぬままに運まかせでなければならない。愛される存在たちの秘密の力や、彼らの結合の価値もまた、前もって決められた決断や意志の結果であることはできぬ。売春とか結婚とか以上に恋人の世界は、ゲームの世界よりもさらにいかさまにゆだねられているのだ。下心など持ていない人物たちの無邪気な出会いと、絶え間なくペテンと掛け引きを駆使する恥知らずなコケットリーとの間に明白な境界はなく、そこには数多くのニュアンスがある。しかし、素直な無意識だけが、恋人たちがお互いをみつける奇跡の世界を征服する力を持っているのだ。
この偶然の「恐るべき」帝国から顔をそむける大勢の人々のことを、たちまち長い苦悶におちいることなしに思いうかべることは不可能である。この大勢の人々は、全くの話安全な生がもはや計算と適当な決断とだけにしか依存しないことを、要求しているのだ。しかし、「ただ死によってのみ量られる」生は、恋人たちやゲーム者たちがするように、「希望と恐怖とのほのお」をかいくぐって心を燃やすということの無くなっている人々から逃れ去る。人間の運命は、気まぐれな偶然が事を計るのを望むのだ。理性が偶然の豊かな成長とひきかえにするものは、もはや身をもって生きるべき一つの冒険ではなく、実存のはらむ諸々の困難の、空虚かつ端正な解決なのである。何らかの理性的な目的をめざしてなされる行為は、奴隷的な盲従を受けた必要性に対してなされる応答にすぎない。僥倖の魅惑的なイメージの追求をめざしてなされる行為だけがほのおを範として生きたいという欲求に応える行為だ。なぜなら、バカラのゲームのテーブルを前にして、心を燃やし、自殺にいたるまで精魂を使い果たすのは、人間的な事だからである。よしんばカードが好運もしくは悪運の衰弱した一形式を出現させるのだとしても、それらのカードが表しているもの、金を与えたり失わせたりするもの、は、やはり運命を意味するという効能を所有している。
ジョルジュ バタイユ「魔法使いの弟子」より転載
僕が年をとって、あまり先が長くはないねと感じ始めたからかもしれないが「ユマニズム」の限界が不思議に当然のように身にしみるのは、不幸な事件や事故や災害が起きても、ちっとも人間は上手に対応できないばかりか、むしろ人間こそが一番下手なのじゃないのかと疑い出したというせいもあるんだろう。
20世紀の偉大な思想家という意味で、あの世紀の大秀才のミッシェルフーコーが最も読み込んだ一人がバタイユなのだろうと思う。「呪われた部分」という僕たちの自覚が静かに覚醒する時、秀才は沈黙することを賢明と感じ始めるのだろう。八坂神社の大枝垂を4年ぶりに見たが、桜守のおかげで元気に蘇ったようだ。特に何をするでもないのだが、1日1日をゆっくりと噛み締めるような気持ちで過ごせたら良いなと思う。少々、肉体的にはキツい作業などもしてみると「生きている」という実感が湧くから不思議だ。婦人雑誌を呼んで、3分の早歩きというセット歩行を続けていると、発汗によってTシャツにどれぐらいの汗のシミが出来るのか、それがどれほどの筋肉痛を引き起こすのかがよくわかった1週間だったようだ。 |
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