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我が家で花見
マダムは毎週教室で使っ花材を抱えて新幹線で帰って来る。172センチの大女が大きな花を抱えて通路を歩いて来ると一発でわかる。服もバッグも帽子も、どこか周囲と全く異なるからある意味そこだけ異界として「浮いている」のだが、僕はこういう女が妻で良かったなあとつくづく思う。第一、飽きないしすごく手こずる。何を言い出すかわからないから緊張する。(爆)似ている所が一つも無いから、意見が合うなんて事自体を期待しない。それぞれ好きな事を好きなように自己責任で実行する。よぼど困れば助けるが、普段は放置して好きにさせるのが一番だろうと思う。
本谷有希子の「異類婚姻譚」が芥川賞を取ったが、彼女は本物の天才だ。三島賞、大江賞、野間賞、芥川賞の4賞4冠をさらった作家は過去に一人もいない。ぶっちぎりの才能という事だろうと思う。しかも女優で美女で主婦で劇団の主幹である。才能というのは偏るという見本のような女であると思うが、そういう女が結婚して子供を産んで、旦那と自分の顔がどこか似て来るという小説である。「フムフム、、面白いし、どこか恐ろしい、、」関係性というものは、他人と自分がペアになるという意味で夫婦は特殊で例外なく日常的な出来事であるが、そこでの♀類の所作がどうも日本の未来そのもののような気がする。
とにかく♀が元気である。ハルトモさんの娘さんがバンジージャンプをする絵があったが、「躊躇がない」という一点を持って「越えている」んだなあと感じる。
日曜日は友人夫婦を呼んで、我が家でお花見パーティーをした。ネタは餃子と中華で、お酒は妻しか飲まない。どれでも3時間ぐらいワイワイと楽しくやった。年を取って仲良く家族ぐるみで飯でも喰える友人がいるというのは実に幸福な事だと思う。彼らのせいで熱海に来たようなものだ。熱海には「糸川」という急流があって、散歩をしていると橋がたくさんかかっている。桜も満開だ。
4月の第2週に京都に旅行することになった。マダムが決めた、ひさしぶりだ。 |
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先日若い研究者たちと話したときに、自分の立ち位置はどこかということが話題になった。私は自分の立ち位置を「大風呂敷を広げること」だと思うと言った。「餅は餅屋」、人はそれぞれ自分の得意なスタイルで研究すればよいのではないかと申し上げた。 世界史的スケールで見ると、世界は「縮小」プロセスに入っていると私は見ている。「縮小」と言ってもいいし、「定常化」と言ってもいいし、「単純再生産」と言ってもいい。「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界」というイメージはもう終わりに近づいている。別にそれが「悪いもの」だから終わるのではない。変化が加速し過ぎたせいで、ある時点で、その変化のスピードが生身の人間が耐えることのできる限界を超えてしまったからである。もうこれ以上はこの速さについてゆけないので人々は「ブレーキを踏む」という選択をすることになった。別に誰かが「そうしよう」と決めたわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に同じ行動を取る。今起きているのはそれである。「変化を止めろ。変化の速度を落とせ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージである。 私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsのデモに参加したときである。国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。 メディアは構造的に「変化の是非を問う」ということができない。メディアにとってあらゆる変化は変化であるだけですでに善だからである。当然のことだが、メディアの頒布している唯一の商品は「ニューズ」である。「新しいもの」、それしかメディアが売ることのできる商品はない。「ニューズのない世界」にメディアは存在理由を持たない。「今日は特筆すべき何ごともありませんでした」というのは、生活者にとってはとても幸福なことであるが、メディアにとっては地獄である。だから、メディアは原理的に変化を求める。変化を嫌い、定常的に反復される制度文物があれば進んで手を突っ込んで「変化しろ」と急かし、場合によっては破壊しさえする。そして、メディアで働く人たちは、自分たちが「変化は善である」という定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという事実に気づいていない。 私たちは「いくらでも変化してよいもの」と「手荒に変化させてはならないもの」を意識的に区別しなければならない。繰り返し言うが、人間が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)は機能停止しないように定常的に維持することが最優先される。「大気が汚染されたので産業構造を再設計するまでしばらく息を止めていてください」という訳にはゆかないし、「教育制度の出来が悪いので、制度を作り替えるまで、子どもたちは学校に来ないでください」という訳にもゆかない。生身の人間を相手にしている場合には軽々に「根本的変化」ということを企てることができない。生身の人間が自然環境・社会環境との間でなしうるのは「折り合いをつける」ことまでであって、それ以上のことは求めてはならない。 それが最も端的かつ病的に現われているのが先に述べた通りメディアである。メディアは「変化」に依存し、「変化」に淫しているビジネスなので、あらゆる変化は、それが劣化や退化であっても、メディアに「ニューズ」を提供する限り「よいもの」と見なされる。だが、彼らは自分たちがあらゆる変化を歓迎する定型的なものの見方に居着いて、自らは全く変化していないという事実は意識化することができない。だから、「ニューズ」を売って生計を立てることがビジネスとして成立しなくなりつつあるという「ニューズ」はこれを取材することも分析することもできないのである。 全国紙の消滅は「たいした変化をもたらさない」と言い放つ人もいる。紙の新聞がネットニュースに取って代わられるだけのことだ、と。私はその見通しは楽観的に過ぎると思う。あまり知られていないことだが、日本のように数百万部の全国紙がいくつも存在するというような国は他にはない。『ル・モンド』は30万部、『ザ・ガーディアン』は25万部、『ニューヨークタイムズ』で100万部である。知識人が読む新聞というのは、どこの国でもその程度の部数なのである。それが欧米諸国における文化資本の偏在と階層格差の再生産をもたらした。それに対して、日本には知識人向けのクオリティーペーパーというものが存在しない。その代わりに、世界に類例を見ない知的中産階級のための全国紙が存在する。それがかつては「一億総中流」社会の実現を可能にした。一億読者が産経新聞から赤旗までの「どこか」に自分と共感できる社説を見出すことができ、それを「自分の意見」として述べることができた時代があった。結論が異なるにせよ、そこで言及される出来事や、頻用される名詞や、理非の吟味のロジックには一定の汎通性があった。この均質的な知的環境が戦後日本社会の文化的平等の実現に多いに資するものだったことについて、すべての新聞人はその歴史的貢献を誇る権利があると私は思う。 新聞の社説は相変わらず「経済成長戦略の必要」を書き続けている。だが、書いている記者たち自身はもう自分の書いている記事をそれほど信じてはいない。もう経済成長はしない。それは「アベノミクスの失敗」というわかりやすい事実としてもう経済部の記者たちには熟知されているはずである。けれども、それについてはまだ書くことができない。他の全国紙がまだ書いていないからである。他が書き出せば、続けて書くことはやぶさかではないが、口火を切って、官邸やスポンサーからの圧力を単身で引き受けるだけの度胸はない。 たぶんこういうことなのだ。商品としての「ニューズ」を右から左に機械的に流しているうちに、彼らはある定型にあてはまる「変化」しか「変化」として認知できないようになったのである。「半年ごとにイノベーションを達成すること」を従業員に課したせいで経営危機に陥ったある大手家電メーカーのことを私は思い出す。イノベーションというのは、ふつうはそれまでのビジネスモデルを劇的に変えてしまうせいで、既存モデルの受益者たちがいきなり路頭に迷うような劇的変化のことを言う。「半年ごとのイノベーション」で収益増と株価高をめざした経営者が思い描いたのは「飼い慣らされたイノベーション」のことであって、その語の本来の意味での「イノベーション」ではない。だから、業界全体を地殻変動的に襲った「野生のイノベーション」には対応することができなかったのである。 取り散らかった話をまとめよう。 グローバル資本主義は「停止」局面を迎えた。何度も言うが、私はシステムの理非について述べているのではない。停まるべきときには停まった方がいい、と言っているだけである。「停めろというなら対案を出せ」と言われても、私にはそんなものはない。すべてのステイクホルダーが納得できる対案が出るまで戦い続けるという人たちはどちらかが(あるいは双方が)死ぬまで戦いを止めることができないだろう。 -------------------------------------------------内田 樹の教室より全文転載
久しぶりに内田さんが吠えているを読むと僕は実にホッとする。どちらかと言えば、グリーバル資本のサイドでちょこちょこしている僕の仕事ではあるのだが、「世界の終わり」は近いねえという感想を同じ程度には僕もずっと前から持っている。
オルタナティブは無いし、別段そんなものが必要だとも思わないが、どうせ制度疲労が激しいものはそのうちに自然に壊れてしまうのだろう。だから阿部のやっていることはある意味自虐的に制度疲労を自分で無意識裏に加速しているんじゃないの?(爆)と感じたりする。
3年か5年ごとにバブルが繰り返し起きながら、それが弾けてデフレになる。今回は原油というバブルが弾けて、新興国の通貨や生産がポシャった。需要が不足して作り過ぎが在庫がはけないから、全世界的に価格低下が起きる。失業が増える。賃金が下がる.金利が上がらない所に持って来て、アメリカだけが金利を上げる。方向が逆だから、どこかで破綻がまた起きるから「売っておく」ほうが安全だろうと感じる。いつでも買えるのだから(後で安くなって売れ残った捨て値で叩いて買えば良いから、、)急ぐは無いし、急いだら負けだねといつも思う。
日本の長期金利が20年間も2%以下で固まってしまった。生産構造と金融構造が完璧に破壊されてしまったから、再生するには世代の全的交替が必要だろうと思われる。
震災と原発という契機によって、それが静かに始まったのかもしれない。震災から5年が過ぎて、W底になって下に抜けるのか?とチャートを眺めていると面白い。人口減少社会の日本が6000万程度まで変幻するのには40年かかるのだろうが、この間、僕たちに一部はマイダスタッチで触れるもの全てが黄金に変化して塗炭の苦しみを味わうのだろうと思う。
苦しい時の神頼みという言葉があるが、来宮神社が込んでいる理由はきっとそんな事なのだろうと思う。
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シャブシャブの夕飯
「働く必要が全く無いほど常に金がある状態」というものの善し悪しはある意味考えものではある。切実感が無いから世の中の事に無関心になるし、第一何をやるにしても経済的な動機が薄いのだから、結果にほとんど拘る必要性がない。毎日が素敵である事という些末な個人の快楽と快適のみを基準に暮らせば、どうしても視野は狭くなるという弊害も生まれるんだろう。読書を人10倍ぐらいは僕がしているというものも、人間の思考の領野が素敵に毒されているという自覚がどこかにあるのかもしれない。1月ぶりに通院して昨日で完治していると医師の診断が出たが、同じように喫煙をすれば5年で同じ状態に戻ると言われた。別段、現在禁煙をしていて不都合は「肥る」以外にはないので、その肥り方が異常でない限りはこのままタバコは止めるかもしれない。
運動する、おいしい食事を自炊する、温泉に入る、睡眠をたっぷりと取る、好きな本を好きなだけ読む、以上の5つを毎日しているが、平日はこれに場帳を書く、週末は折れ線を書くという少しだけ金儲けの要素が加わる。別にもうする必要も無いのだが習慣化しているからタバコと同じで続けているというだけのことだ。動作は同じだが、建て玉の数量がぐっと減少したから(1/20ぐらいだ)成果もごくわずかでしかないが、それでも老人には使い切れない量になってくる。
土曜日はごちそうを作る。マダムが帰ってくるので、普段よりも品数を増やす。
1 アスパラの塩漬け
2 ゴボウの味噌漬け
3 キュウリ、大葉、ショウガの塩揉み
4 豚バラ肉と野菜(レンコン、菜の花、シメジと舞茸)のシャブシャブ
5 締めはウドン
材料費で3000円ぐらいだと思う。大体容易するのに3時間ぐらいはかかるのね。9時に帰ってくるから4時ぐらいから始める。浸けるという時間は最低でも1−2時間は必要だから、そうなる。
だから4時までに、散歩と風呂の掃除とルンバと洗濯とは完了しておく必要があって、土曜日は折れ線もあるので結構忙しい。それでも合間、合間に本を読めるから細切れの時間をやりくりする主婦の時間割を覚えた。何かを覚えるには「教科書」を選ぶ目が優れている必要があるが、そういうのは「センス」なんだろうと思う。
感覚的に美しいものがポイントである。例えば酒田の逆張りはバランスそのものが美しい。
1− −1 1− 1− 2− −3 2− 5− などリズミカルに玉が動く。
3000円の食費と3000円のワインとなら毎日1万円も取れば多分おつりがくるだろう。年金生活では無理な事が、相場なら容易に達成できるが、その相場が上手い人は1000人に多分一人だけ。
僕は毎日5万円の利食いがメドだから快適な生活が永久に可能ということになる。物価が5倍になっても大丈夫、年金がゼロでも大丈夫、つまり社会の仕組みと無関係に自由であるという点だろう。 |
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