人間は「何かになりたい動物」なんだろうと思う。猫や犬はそんなことは多分考えない。彼らは腹が減った、喉が乾いた、暑い、寒い、眠いぐらいしかきっと感じないし考えない。
40歳で引退して相場師になろうと思った時の僕の動機は実に不純で「グータラしながら贅沢したい、しばらく。」という具体的に動物的な事だった。贅沢ならそれまでも随分と年齢的な事を考えれば贅沢三昧の暮らしだったから、本当はグータラという部分が最も重要だった。だからグータラして貧乏でも実は良かったのだが、妻子がいるとそうも言えない.(だって気が弱いのね、笑)なにせお姫様のような美女にお願いして結婚してもらったし、可愛い子供も二人生まれた(小学生だったかね)から。これでも一応は人の親だから、妻が豊な気持ちで生活できて子供が育って新しい家族を持ってと人並みの幸福(?)が実現出来れば十分それで満足だったから、足りない要素は僕のグータラの時間という事だった。結果は、具体性があったおかげか20年間グータラしっぱなしで達成しているように思う。これ以降も多分くたばるまでグータラしっぱなしだろうと思う。他にしたい事がないからね、、。
贅沢というのは生まれた環境や習慣にもよるのだから、一概に大金があれば良いという単純な事でもないし、金と時間と教養と知性がないと正直人生をたっぷりと楽しめないと思うので、個人のバランスは当人次第という事だが、僕のケースは 1 時間 2 教養と知性が優先したと思う。
1、2を達成するのには、普通の勤め人では最初から無理なのは分かっていたから選択枝には最初から無かったと言える。時間があると本を読めるのと旅行もできる。だから僕は普段は活字中毒と言えるほどこうして毎日本ばかり読んでいるから、他の人が何を感じ、考え、書くかという事を人の数十倍も数百倍も読んでいるという幸福な時間をこの20年ずっとやってきたように思う。読書というのは場所と時間をワープした頭の中の旅である。どこをほっつき歩いても最後は即座に戻ってこられるという点でリスクはほとんどないし、成果も満足も人にはわからない。脳が満足するかどうかという個人的な事である。大阪や京都在住の作家の小説は東京の作家のそれよりもエキゾチックな民族性があって興味深いとか、北海道や東北の習慣や気候に影響された文体は迫力があるとか、そんな金になんて絶対ならない事をぼんやりと考えて一日を過ごすが僕なりの幸福という事でもあるのだ。高村薫が「晴子情歌」で青森の鯵が沢を書けばいつでもジャガーですっ飛んで行ったりする暮らし、それが僕の具体的なグータラだ。大間のマグロは旨いねとか。誰も禁止とか規制できない気ままで自由で豪華な暮らしという事。
人間は「何かになりたい動物」だとすると、その何かが具体性がないとそもそも努力に方法が見つからないと言うのが実際だろうし、その何かが常識的に実現可能性がないと努力に意味があるとも思えない。「鳥のように空を飛びたい」と思った人がいたとしても背中に羽は生えないだろうから、飛行機やグライダーの操縦を訓練するしかないという具体性という意味だ。
僕の場合は「グータラしたい」というどちらかと言えば、「何か具体的に有用な行動を必ず避ける」という変な目的だったから、「猫の真似」というヒントを得た。とにかく、好きなだけ好きな時間に寝て、喰って、排泄して、少し遊んでまた寝る。でも、この有用な事というのは、人間社会においては大半が経済的な事である場合が多い。というのも物資やエネルギーが貨幣を通じて交換される仕組みというのが僕の生まれる前からでき上がっていたからだ。この既存秩序というのは「ムカつく」場合が結構多かったから、反乱とか革命とかが周期的に起きてきたんだろうと歴史を読むと納得する。 事実、実験的に労働組合でストライキを長期に打ってみて、そうか革命とは破壊であると実感したのだが、さてその後の再生というのはなかなか疲れる。それが理由でグータラしたくなったのだから、、.(爆)
さて物資や食料やエネルギーが過剰にあって一体誰が困るだろう?デフレというのはモノが多すぎて余る状態だ。本当なら誰もが働かないで余ったモノを使えば良い状態のはずだ。市場に価格変動機能があるのなら、作らないで使えばそのうち余剰は無くなって価格の反転が起きるという仮説があるだろう。でもちっとも反転は起きないのは、いつも使うより多く作るからなんだろう。その作るという事に多くの人は時間とエネルギーの大半を投入して疲労しているように見える。それって本質的に逆じゃないの?という素朴な疑問を持つ人はほとんどいないのは何故だろう?きっと歩いている人が馬鹿だから?と思うようにもなった。
「グータラしながら贅沢したい、しばらく。」という僕の具体的な欲求は、そういう状況に対して人類の合理的な結論ではないのかとも思うが、賛成派は少数なんだろうと思う。だって実際に日本では価格反転が20年以上も一向に起きないということは、誰もが働きすぎて作りすぎている現実が変化しないからだろう。勤労=美徳という脳内イメージが固着して(こびりついてと言うほうがニュアンスが近いか?)飢えという恐怖がDNAに刷り込まれてきたせいだろうとも思う。集団主義の慣性という病理は、特段ドイツ人と日本人の特徴かね?とも思う。
「勤労は美徳である」というイデオローグと「戦争は平和である」というイデオローグ。前者はキリスト教の労働観、後者は1984年のビッグブラザースと阿部ちゃんのイデオローグ。
どちらも何か変だねと僕は感じる。両者はきっとどこかで通底しているかな。グータラしているとそういうイデオローグを避けたいねと思うようになった。 |
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