富の利用法 2
むろん、賭博経済を決定的な現象として提示するのは馬鹿げたことであろう。賭博経済が貯蓄経済と競合しているところでは、どこでも、それが貯蓄のために一つの手段あるいは餌となっている。従って、今やラテンアメリカが世界経済の中にすっかり組み入れられ、そこでの資本主義的形態の開発が非常に進んで、体制の違いなどはすべて二義的なものでしかなくなっている以上、これらの国々おいて賭博の果たす役割の重要性を誇張して考えるのは適当ではないだであろう。しかしだからといって、これらの国々において賭博というものの占める位置を検討することが、古典理論家たちの視野を広げるのに役立つであろうことには変りはない。彼らはほとんど常に、儲け方だけを考え過ぎて、使い方を考えないし、生産と蓄積の仕方だけを考え過ぎて、富の浪費と破壊の仕方についてはほとんど考えようとしないのである。見落としてならないのは、儲けを絶えず賭博に注ぎ込んだり、あるいは奢侈的で非生産的な用途に当てるという習慣は、それらがひき起こす純粋に経済的な結果は別としても、なお一つの文化の様相を決定するということがままあるということである。
チベットの場合には、国民所得の大部分が莫大な数の僧侶たちの生活を維持するのに当てられるが、それを分析して、ジョルジュバタイユは躊躇無く次のような法則を立てた。『全体として、どのような社会もつねにその生存に必要なもの以上を生産し、自由に処理することのできる余剰を常に所有している。従って、その社会を決定するのは、まさにこの余剰の使いかたである。この余剰こそ、その社会の動乱、構造上の変化および歴史全体の原因なのである。』
実際人口的にも経済的にも成長しつつある社会は、自らが所有している過剰分の用途を選択することによって、その社会の独自性そのものを選択するのである。つまり。その社会は自らの欲するところに従って、軍事的、宗教的、工業的、奢侈的等々、それぞれの色彩を帯びた社会となることができるのだ。チベットは、その点で一つの極端な場合を代表してるが、それはこの国の置かれている地理的な状況のもつ極度の特殊性によって説明される。すはわちこの国は事実上交易を禁じており、またたとえ征服の野心をいだくものがいたにしても、その侵略者にとってこの国はきわめて魅力に乏しい戦利品としての意味しかもちえないといったことである。こうした状態では、通商関係は存在せず、、国防の必要もなく、従って軍隊を維持することも不要なのであって、自由に処理できる過剰分のほとんどすべてを、僧侶という多数の純消費者からなる一階級に捧げることができる。あるいはむしろ、捧げるよう命じられているとさえも言う事ができるのである。その数たるや大変なもので,成人男子の俗人三人に僧侶一人の割合である。暇があって、操正しく、生産と生殖とを進んで放棄しているこれらの寄生者たちが、人口の増加を阻害し、国の資源の余剰を吸収する。彼らの存在たるや、祭りとまったくの無駄である大量の消費、闘技の際の膨大な商品と富の威光的な破壊、戦争と征服、軍備と産業の進歩、豪壮な記念建造物と華麗な芸術など、こうした問題に対して歴史や民俗学の示しているかずかずの尋常な解釈をもってしては、解明することの困難なものであり、またその解明も問題の表面をなでたに過ぎないものとなるのである。
無論これほど特殊な例をわざわざ援用するまでもなく、ことのほか奢侈的で利子付きの貸借を原則として禁じていた中世などの経済において、富の余剰はいきおい、信じている神の栄光のために捧げざるをえなかったということ、またそうした事情があったにもかかわらず、当時建てられた大聖堂が、現在人類の世襲財産の中で無視することのできない地位を占めていることは、誰もが知るところである。同じように、社会階級を区別しようとする場合、月給総額だけでは不十分で、もっと大きな違いは生活様式、すなわち各人が収益をどのように使ってるか、その使い方に由来するものであることを社会学者はよく知っている。肉体労働者とサラリーマンとが同額の給料を得ていることはままあるが、彼らはそれを同じ仕方で稼いでいるわけではないし、とりわけ同じように使っているわけではない。つまり肉体労働者の方はそのより多くの部分を食費として使うが、それに反してあばら屋に済み、衣服はなおざりにする。サラリーマンの方は、もっと良い家に住み良い身なりをするために、食卓のものは進んで犠牲にする。
すでにラスキンはこうした点に注意を喚起して、次のように書いている。
『億面無く言わせて頂くならば、あなたがたのいう経済学は真の経済学ではない。なぜならばそれは問題のもっとも重要な部門、つまり消費の研究をまさしく怠っているからだ。』無論この警告は人々の同意を得た。しかしながらここであらためて、次の点を強調しておくのは無駄ではないだろう。つまり、富の獲得手段についてよりも、むしろ消費の目的について問うことこそが、一方では、自覚されなければされないほどいよいよ危険なものとなる時代の偏見を越えることにつながるのであり、またそれは、文明というものの究極的な目的について本当に深く思いをいたすことの誓いともなるのである。 (了)
富の利用法 ロジェ カイヨウ「本能」その社会学的考察 より転載
「金で人を釣る」というようなゲームが選挙の前になると露骨に出て来るようになるのだろうが、今回の自民党は「低所得の年金受給者に一律3万円支給する」というよな陳腐な内容のものだった。これはつまり貧乏老人を一人3万円で釣るということだが、「そうかあ、老人票というのは3万円なのか?」と老人の命の値段の相場を知って愕然としている。まあ人頭税という税金があるが、この逆バージョンで民主党の「子供手当」というのも同じ措置だが、どうせなら将来のある人に金を配るほうがこの国の未来のためには効果的なんじゃないのかね?とまるで愛国心なんてないノマドの猫が言っても説得力がないのだが、まあそんな季節ではある。
国であれ、事業体であれ家族であれ、一つの経済体が活動すると、余剰を産むそれと不足を生むそれが結果的には出るのだろうが、その集合としては日本は常に「余剰」を産んで来たと思う。新聞を長く見ていれば誰でも知っている。だが、全体では生産過剰による余剰の発生が、分配法の問題で個人または小さな経済体では不足になる比率が実に高いというのもこれまた事実なのだろう。
「自分はそこそこ豊であると考える人は全体の2割程度」という調査があるし、「自分の将来に経済的な不安がある」という人の比率は9割に近いという調査もある。まああまり困っていない人はきっと統計からは実際には1−2割という所なのかもしれない。
朝早くから起きて、混んだ地獄の通勤電車に乗って、面白くもなんとも無い会社に通って働いて、雀の涙のような月給を貰って、深夜になるまで残業してヘトヘトになって帰宅する。だから休日は本来は泥のように眠りたいが、家族の事を考えるとそうも言っていられないから、どこかに遊びに行って夕飯でも外食して帰宅する。そんなローテーションの反復を延々としている人がきっと都市部では多いのだろう。こういう種類の人々は、生産も消費も全く自分では何も考えないで惰性でやっているのだろうから、きっと調査では9割の方に分類されることは間違いないだろう。それでもたまに相場を教えてくれというような人が来て、その人たちは堅実にとりあえずは貯蓄して株式を買うぐらいの余剰があるからそういう行動になるんだろうと思われる。貯蓄とは使い切れなかった金だからだ。ところが不思議な事に、無理に消費を削って、本来消費するべき金を削ったような貯蓄で相場をしてみても、ほぼ全ての人がその金をすぐに失うという事が起きる。ダイエットでリバウンドという反転効果があるらしいが、それと同じで無理に絞り出したような種類の金は結局続かないという事なのだろうと思う。
ラスキンの言う消費の研究を怠っているからつまり彼らは文明の究極的な目的を理解できないという事が起きるわけである。文明などど大げさなものでなくても宜しいが、普通の動物の生存の目的は何か?と言えば遺伝子を残す事以外にはあるはずもない。つまり生殖と繁殖を置いて他にないのだから人間もまずはそれだろう。それが出来ないでは生きている意味があるとも思えない。だから「若いネーチャン」は世界中どこでもプレミアムがつくのだろうし、それは生殖と繁殖の対象として「好ましい」と♂が本能的に感じて行動するからに他ならない。だから価値(金でも権力でも財宝でも)は必然としてこの種の生殖と繁殖の付近に集まらざるを得ないという当然の運動の性質を持っている。結論としてお金儲けがしたいなら会社になんて行っても全くの時間と労力の無駄で、もっと真面目にネーチャンの研究をしたほうがずっと儲かるに決まっていると思うし、だから僕はネーチャン向けの雑誌なんてものを年間購読なんかして、おばさん趣味で出来る部分を真似っこなんてして面白がっている。ジャムなんてもう30年ぐらい食べた記憶がないが、雑誌に書いてあると「作ってみるか、孫にでも。」と思うようになるし、一つ鍋でもカレーでも上手い具合に出来るようになれば今度は少し高級な道具や材料が欲しくなるものだ。そうやって何かに自然にハマっていくことが本来消費というものの本質的な部分の持つ特徴であり、性質であるから、「面白い」「興味深い」「違いが分かる」=つまり差異化しやすいという現象と結びつく。だから豊かな1−2割の人の消費というのはこの種のプレミアムの要素が常に満載で、「安いもの」なんて探さないし、欲しがらないし、興味が無い。だからこそ金がそこにやってくる(まさに向こうから自然にやってくるのである)。つまりお金というものの動線が見えている人になるという事なのだろうと思われる。後は梃の原理で、逆張りクルクルが上手くなると大金はあっという間に出来てしまうものだろうと思うのね。
「女性美とは何か?」という本質的な問いを課してみると、一つの答えは表面的な幻想の成立にあるのだろうと僕は昔から感じている。 DAVID HAMILTONという写真家がその具体的な答えを出しているが、彼の美しい写真集は猫の図鑑と同様、いつ見ても飽きない。まさに富の利用法の優れた一例である。