富の利用法 1
ラテンアメリカ諸国が合衆国より経済的に遅れているということを説明するのに、人々がかわるがわる援用したのは、風土、スペインの植民政策、ラテン的性格、植民地生まれの白人の無為などである。他にもあらゆる種類の原因が考慮されたが、いずれも、考慮することがやはり周到なことであるにしても、経済面におけるその影響が直接的であるとは思われないようなものばかりであった。ところで、その際、賭博についてもやはり考慮してしかるべきであろう。この賭博は、ヨーロッパ人のする非生産的なことの方が多い貯蓄よりも、むしろ北アメリカ人のする生産的な浪費と対立する。賭博は最初から、自由に処理出来る金を蓄えるというような経済的体質を禁じるが、だからといって賭博が動機であるような消費というものが、何においてであれ経済の発展に役立つということもまたありえないのである。賭博というものがもともと非生産的なものであり、盲目的で短気な欲求に完全に従属したものである以上、それは、当然のことながら、賭博者とは反対の格言に従うすべての人々の怒りと軽蔑を買うことになる。そしてこの反対の格言とは、例えば、ベンジャミンフランクリンの次のような忠告であるが、マックスウェイバーのような人たちはそこに資本主義の精神そのものを認めている。
『時は金なりというのを覚えておけ。1日10シリング稼ぐことが出来るであろう人が、半日散歩したり、部屋で怠けていたりすれば、その楽しみのために6ペンスしか使わなかったとしても、さらに5シリングを使ったーーーむしろ水の中に投げ捨てたーーーと計算しなければならぬ、、、、。金には生産能力と受胎能力があることを忘れるな。金は金を産み、金の子孫はまたその子孫を産んで、これが果てしなく続く。5シリングは6シリングに変り、さらに7シリング3ペンスに変り、さらに変り続けて1ポンドにまでなる。金は多くあればあるだけさらに多くの金を産み、従って利子もますます早く増加する。一匹の牝豚を殺す者は、千匹にもなるはずのその子孫を滅ぼすのである。5シリングの貨幣1枚を殺す者は、それが産み得たであろうすべてのもの、すなわち積み上げられたポンドの柱を、いくつもいくつも全部暗殺するのである。』
しばしば引用されるこの文章の中で、フランクリンは絶対的な貯蓄、つまり、ただ金を徹底的に貯蔵するだけで過度の消費と同じようにあるいはそれ以上に金を殺すことになるような貯蓄を讃美しているのではない。逆に、彼は金に最大限の生産的効用を与えることを要求しているのである。フォードが、富むために手段として慎ましい節約のかわりに浪費を奨励した時、彼はフランクリンのこの考えを裏切ったのではなく、むしろそれに従ったのである。こうした教えの中にある精神は、消費材の購買欲を刺激し、それが生産全体を増大させる傾向を持っている。事実、需要の増大は消費者の欲求を絶えず刺激し、また彼らを満足させるような商品をいっそう安い価格で供給することを可能にする。また一方で、需要は消費者をさらに豊富な食物とより快適な生活とに慣れさせることによって、彼ら自身により一層の生産能力を付与することになるのである。
これに反し、賭博においては、金が何ひとつ生産しないのみならず、生産を妨げさえもする。稼いだ金を賭けてしまう者は何も買うことができず、そのために消費を抑制するーーー貯め込むだけで使わない守銭奴と同じくーーーことになり、その結果として、生産を低下させる。そのうえ、ラテンアメリカで見られるように、賭博者が自分の好きなことのために食物の質や量までも犠牲にするようなことになれば、やがて彼自身の労働力が低下してくるであろう。こうして賭博者は二重に生産を制限する。そなわち、購買力が無いので、供給される物資を拒まざるをえないからであり、また慢性的な栄養不良のために充分に働くことができないのである。(続)
富の利用法 ロジェ カイヨウ「本能」その社会学的考察 より転載
マルセルモース、ミッシェル レリス、ジョルジュ バタイユ、ロジェ カイヨウそれにブルドン、エリュアール、ツァラなどシュールレアリズム運動の参加者のテキストを真面目に僕が読むようになったのは、仕事が暇になって困るぐらい時間が出来た28歳ぐらいの時だった。書き起こされたテキストは主に1950年代、まさに僕の産まれる前のテキストだったが、時代は学生運動が敗北してそんなテキストを読むような人種は、フランス文化のポスドクぐらいしか需要は無かった時代だったろうと今なら思うが、当時の僕は何故友人たちはその種の本を読まないのか不思議でならなかった。戦闘や政治闘争ののエッセンスが凝縮されているのは、大衆心理と統治者の権力と権威についての記述がまさにこれだというほど鮮やかな切れ味で描写されていたからだ。それ以降経営をする時にこれはすごく役にたつことになった。
「知恵」が具体的な金に換わるという事を知ったのだろう。
実はこの時に僕は個人的に労働運動に被れて、80人の会社で非管理職63名を総員参加させた会社創立以来の労働組合をたまたまゼロから作ることになり、その初代委員長に就任することになった。毎日がサボタージュの立案で、当時の社会党の顧問弁護士のY氏と懇意になったのがきっかけで、労働運動でよく発生する刑法違反の事例と判例を教わったり、オルグとの会合やデモの支援以外にはあまりする事もなかったので、神田神保町の古本屋街に出かけてよくサボっていた。ロジェ カイヨウを僕が最初に手にしたのはその頃で、この「本能」はそれ以後日本では1991年バブル崩壊と同時出版ぐらいだったように思う。
それ以前から相場はしていたし、取ったり取られたりの当て屋だったが、30歳手前で相場で年間1000万ぐらいの利食いがマグレで出来たような年もあったから、給料や思想なんて実はどうでも良かったし団体交渉なんてストレス解消のためのスポーツのようなものだった。その頃僕が乗っていたのはメルセデスの20年落ちの230Eという縦目の可愛いセダンだったが(林檎ちゃんが後にハーフカットしてPVに使ったのと全く同じ色の車)、労働組合の大会にメルセデスで行ったのは当時は僕ぐらいしかいなかった。政治的主張とライフスタイルが矛盾しているという事でよく周囲から笑われたものだ。車とは当時は「階級の記号」そのものだった。それ以来、階級の記号を悪魔的に使用するというような悪戯が僕の悪い趣味にずっとなっているが、この趣味には結構今でも有効性があって、勝手に相手がそう感じるという変な効果があるようだ。人は見た目によく騙されるが、実は人は騙されたがる動物でもあるんだろうと思う。だから女子は同様に何歳になってもせっせと自分の女を売るために化粧やオシャレをするんだろうと思う。いや自分さえそれで騙しているかのような気もするが、、。
久しぶりに本棚からこの本を引っぱり出して目についた部分=賭博と消費と生産の関係性
を引用しているが、当時の僕はこのテキストに衝撃を受けてアジア的儒教思想の限界を知ったと言える。目から鱗が落ちるというやつである。日本人のほとんどが知らない間に同質化圧力に晒され続けると目の前の上司のような下らん男になるのかという気付きがこの本にはあったから、それから貪るように彼のテキストに夢中になったように思う。
別段、これが西欧では特別な考えではないし、日本ではごく少数派なのだろうが、左派の政治経済思想はこの種の考えをする社会党左派(フランス)などでは当たり前の前提でさえある。後日それを知ったのは、家族の成り立ちについてエマニュエルトッドが書いた「ソビエトの崩壊予測」の正確性に衝撃を受けたからでもあるんだろう。
僕は南米文学が大好きで、その後長らくマルケスやリョサのテキストの中にある「魔術的空間と時間」の虜になるのだが、大陸に住む人と島国に住む人の環境的差異こそが実はその鍵なのだろうと考えるようにもなったのだろう。さて明日もこのテキストの続きを転載する。日本の現代人の感じかた、考え方と大きく異なる部分が多いと思うが、善し悪しという事ではなく日本以外の多くの国、地域、民族、言語の諸空間と諸時間において、彼らがどういう種類の思考の射程を持っているのかを知った上での結論をどう個人で導くのか?という問いが具体的な
差異化の方法論の端緒となったのは言うまでもない。
「富の利用法」という誰にでも必要な手段を一度正面から考えて見るきっかけになればと思う。
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