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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

書庫日記

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運が良ければ、、

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 レクサスの国内販売は決していいとは言えない。2011年と12年にメルセデスベンツやBMWを上回ったものの、13年にはメルセデスに、14年にはBMWにも抜かれ、高級車ブランドで3位に甘んじているのだ。なんとかして今回のRXで巻き返そうというわけだが、その差は言うまでもなくブランド力で、なかなかすぐに埋められるものではないだろう。同じ価格なら、メルセデスやBMWを買いたいという人が多いからだ。「レクサスならではのオリジナリティをちゃんとつくっていき、ドイツ人にレクサスを買ってもらう。それができないと、高級車市場で生き残れないと思う」と福市プレジデントは強調する。そのためにはまだまだやることが多く、レクサスのブランド構築へ向け、これからも模索が続きそうだ。      
blogos より転載
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 ベトナムさんが、いろいろ迷ったあげくLX570という4WDの凄い車を買った。僕は一度もレクサスを買った経験が無い。というか友人のLS600に数回乗ったことがあるだけで、実は日本人なのにトヨタ車を現在まで人生で1度も所有した経験がない珍しい日本人の一人だ。だからトヨタ車のユーザーにいくら今後レクサスをたくさん売っても「レクサスが高級車」になる事はないだろう。日本車で買った経験があるのは、HONDAを新車で2回だけ買ったことがあるが、それ以外はジャグアー、ポルシェ、メルセデス、ボルボしか買ったことが無い。最低が5気筒で8か12気筒の大排気量エンジンにずっと乗ってきたので、酷いと2−3キロしか走らない古い12発の3速ジャガーも含め猫脚は5台ほど乗ったことがある。「時代錯誤」「時代遅れ」「非効率、不経済」である事は無論承知だが、車というのは僕個人にとれば仕事の道具であったためしはただの一度もないのだから(これで直接お金儲けをすることはないから)趣味と生活の足でしかない。だから「僕なりに楽しい、面白い」以外に価値基準は一つもない。そもそも予算の制約はないから、高いとか安いとか燃費や性能は所詮どうでも宜しいというかなり恵まれたユーザーなんだろうと思う。高級車のオーナーは普通の常識なら数台は車をもっているのが当然だから、これで全てのニーズを満たすなどというワガママな客は多分一人もいないと思う。金持ちと貧乏人はそのワガママの尺度が全く異なるのだから、ここを真面目に考えていないと売れる車にならんだろう。最初からボタンの掛け違いをしているよ。だから飛び抜けた特徴が最低限度の必要条件である。
 車の楽しみというのは、「次はあれを買うか、これにするかと下らない勝手な幻想をあれこれ迷って考えている」間が一番楽しいし、それは現在も30年前も同じだから、「わくわくトキメク」かどうか以外に実際の効用が全くないので、美女と同様それにタッチしない事には選択枝にさえ無論入らない。という意味で特段にカッコと幻想が大事なアイテムである。その結果、日本車は全て選択枝からいつの間にか外れてしまった。つまり僕にとっての「かっこ良くて幻想満載の」車が一台もなかったという事である。ここ最近は、F1でメルセデスの勝ちっぷりは圧倒的で、ハミルトンとロスベルグは実に速い。イタリアの跳ね馬は歩が悪いから、理性が情熱に勝る時代という事なのだろうが、なんでトヨタはF1でレクサスを走らせないのだろう。少なくともかつてのHONDAエンジンが大勝利したぐらいには勝てないと高級ブランド構築なんて夢のまた夢だろうし、僕のように試乗する気にさえもならないお客さんの気持ちを変えるのは到底無理だと思う。挑戦しない限り勝つ事は無いし、それが採算に合うかどうかを計算しているうちは目的とする「幻想という高級」を手にすることはないだろう。幻想の値打ちとは「原価と性能」だけでは測れないし達成されない付加価値の事をおそらくは指す。
「LS600は大きくて早く静かなカローラだった。これに乗って僕は愛を語れるか?」と自問すれば「絶対に無理!」という他に言いようが無い。アルチュールランボーもTSエリオットもガルシアマルケスも絶対にこの車には似合わない。仮にそんなテキストのお話をしたら、シラケると思う。よほどの変人で無ければ、刺身にA1ソースはつけないし、冷や奴にタバスコは入れないだろう。それぐらい「愛とミスマッチ」な佇まいというものがこの世には存在するのだと思う。「コラ、トヨタ、暇人を馬鹿にするな!」と言いたい。レクサスの開発陣はラペルラを纏っている女と付き合ったことがきっと無いんだろうと思う。
 こんな風にトヨタの悪口を書くとスクエアなエンジニア多数から炎上の報復を受けるだろうが、レクサスやトヨタの社長は本気で「車の中で愛を語る男」がいるというのを知っているのかしらと思う。高級車の唯一の実用性とはつまり「愛を語れるかどうか?」に僕の場合は尽きるから大きなカローラでは実に具合が悪いのである。「金持ちの暇な男のマーケティングをマジにしてるのかね?」そう逆に聞いてみたい。高級車に乗るということはある意味でリスクではある。それは「少なくとも貧乏人ではない」ことの苦しい証明にはなるかもしれないが「何物かである」という証明には絶対にならない。その証明が男に必要だとすれば、その何物であるかを埋めるのは唯一「愛を語る」という行為である。その語ろうとする愛についてはじめて女は幻想を催すのだろう。狐と狸の化かしあいの道具だという認識なくして幻想を語って果たして意味などあるのかと思う。
1000万する新車のレスサスでなくても七年落ちで10気筒5200のS8を300万ぐらいで買ったほうがきっとコスパが10倍は良いねと僕なら思う。「あのV10のガヤルドエンジンなんだよね、ちょっと免停賭けて新東名行ってみる?運が良ければ三島ー浜松45分でイケルかも?」

僕たちの失敗

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 塩昆布 900円、丹波大粒黒豆800円、鮨はね(海苔)2600円、超辛口塩シャケ1000円。合計5300円ぐらい。これが昨日東京で僕が買った「快楽のお土産」の値段だった。つまり「お持ち帰りが可能な」東京でしか手に入らない幸福を感じる触媒としての商品やサービスの総計である。安いとか高いとかいうことは僕にはよく分からないし、「すごく美味しい」という感覚の経験から「値段がいくらでも多分いつも買う」年末の商品群の一例だ。これらの商品は熱海では一切売っていないし、ネット通販でも多分売っていないから、現地に出向いて購入する以外に方法論が無い。だからか土曜日の築地場内はごったがえてしている。大和鮨は待ち時間4時間という盛況らしい。外国人が多いように見える。場違いなCLだと恥ずかしいなあと思う。
 午前8時37分、東京駅丸の内のシャングリラTOKYOの地下駐車場に入ると、赤いスカリエッティー612とイタリア、白いフライングスパー、黒いクアトロポルテが止まっている。新型のS63もほぼ同時に入った。高額な車がちゃんと数台は朝から停まっているという点で、東京は順調に廻っているのかのな?と少しは安心したいと思う。ペニンシュラかと思ったら実はシャングリラのPiacereで朝ごんを食べるというイベントだったのだ。毎度忘れっぽいというよりは間違いやすいこのオツムどうしてくれようと思うが、早起きが大嫌いな僕がそれでも渋々それをしたのは付き合いは大事だねと思うからでもある。豪勢な朝飯を食べたが、友人が奢ってくれたのでいくらだったのかは知らない。きっと1万円はしないのだろうと思う。エッグドロワイヤルという給仕長のお薦めの卵料理は素敵に美味しい。オマール海老を1匹使ったポーチドエッグで自分では絶対にこんな風には調理できないだろう。自分で料理をするようになると、プロの仕事の高度さが少しは理解できるようになるから、ごちそうの楽しみは少しは増える。「経験」ってそういう側面の効用だろ?といつも思う。ここの朝の名物はフレッシュなメロンジュースだということで一杯ごちそうになった。青臭く無いから完熟ものだろう。オレンジジュースも戴いたがこれも酸味と甘みのバランスが絶妙で寝ぼけた頭に喝が入るからよい。パルマのハムもアラスカのサーモンも高級だねと思うから、美味しいものを食べる快楽が確かに凝縮されている。金で買える快楽というのはこんなモンなんだろうと思う。なんか村上龍のポルノ小説みたいなテキストになって下品だねと思うが、どこかのお笑い芸人が書いた「火花」という中編は「限りなく透明に近いブルー」依頼の200万部超えのヒットになったらしいから、文学賞を作る意味は少しはあるんだろう。本を読まなくなった日本人が少しは反省するきっかけになったら良いのにね。
 築地場内の「マグロ解体ショー」では通路に人だかりが出来てうまく前に進めない。それでもそのマグロ丼が2000円だか、2500円だか知らないが、あの大きなマグロを大きな包丁で切り分けていくという風景に人は感動を覚えるのだから、百聞は一見にしかずだ。出無精で本ばかり読んでいたら資本主義は駆動しないのだから面倒がらないで外出しないとマズいのだろうが、この種の楽しみは飽きるし疲れる。東京でそんな生活をしていたのはわずか4年ほど前だった筈だが「今は昔」になってしまった。お金が無くても田舎暮らしは困らないから、まあどうでも良い事に思えるのは年をとったせいだろう。お登りさん丸出しで、東京スカイツリーの駐車場に入る。このスロープは5メートルあるような全長の車の回転を意識して作られてはいないのだろう。東武鉄道の役員はどんな車に乗っているのだろうか?三代目になると根津は自分では運転しない人なのだろうと思う。
 山谷には簡易宿泊所というのがある。1泊2200円と書いてある。こういう環境でコーヒーの聖地と言われる「カフェバッハ」を開いたのはどんな理由があるのだろう?ブレンド760円という場違いな値段にもかかわらず、入店するのに30分待ちは当たり前、日本中からコーヒー好きが集まるから、なんと豆だけで年間3トンも小売する。コーヒーは第三世代といわれるブームになってきたが、アメリカで現在ブームを巻き起こしているブルーボトルのオーナーが日参して入れ方を学んだという曰く付きのペーパーフィルタードリップの店である。幸運にもカウンター席で入れ方の見本を拝見した。豆は14−16グラム、湯音は76度、湯量は160グラムだ。160グラム、蒸らしは30秒で4湯で入れ切る。なるほど手際が良い。
多焦点レンズを4時間使うと頭痛がするようになるがそれでも「日本戦後史論」白井聡/内田樹を読む。3回目だ。僕たち日本人が過去と現在に行って来た失敗の本質の認識論だから、再読の必要性があると僕は感じているのだろう。僕の冬の一日はこうやって過ぎていった。

MEMORIY WALL ANTHONY DOERR

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 「読み終えて茫然とした。こんなことが可能なのかと。時代も舞台も異なった老若男女を自在に描くドーアの筆は、魔術的な域に達する。急速に失われていく記憶は人の思惑を越えて引き継がれ、形を変えてつながっていく。描かれるのは、人間になど関心のない自然の姿だ。そんな無体な自然の中で、記憶が居場所をつくり続ける。もし人が自分自身でしかありえないなら、このお話が書かれることはなかったはずだ。自然も自分も以前と同じであるはずなのに、世界の見え方がはっきりと変る。」                
                                                                              円城 塔


 アンソニー ドーア の「シェルコレクター」を読んだのは、浜松の喫茶店だったと思う。ロードムービー“ON THE ROAD"を見るのに、わざわざ200キロもかっ飛ばしてそこまで走ったのだ。冬の夜だったと思う。2年か3年前だったろう。久しぶりに凄い短編に巡り会った昂奮で脳が痺れた。まさに魔術的な品質であると断定できる。こんな繊細なアメリカ人がいるのかともう一度、アメリカ文学を見直したというのが正直な所だ。
 魔術的という表現は、僕の大好きな ガルシア マルケスの 時間重層的なリフレインの空想力、個人を越えて、家族も越えて、民族も越えて、他者と自己という区分を越えて言語も越えて一つの連なる種としての記憶の連鎖の物語であり、音楽でもあるような散文の塊である。
 「自己同一性を越えた世界は実にヤバイでしょ?」
まさに損得とか命とか倫理とか言語とか責任やら権利やらはどうでもよいグチャグチャの混沌世界だから、激しく魂と身体が欲情する魔術と言える。それを物語にした作家ということだが、マルケスとドーアはタッチは異なるが、効果は限りなく近いと僕は感じた。

 「メモリーウォール」は記憶に関する6つの短編からなっている。まずは気楽に読んでほしいなあと思う。
「痴呆とか分裂症とか妄想とか.社会から見た個人の記憶に関する諸問題とは何か?」という記憶に関する物語だから、誰にも関係するが、恐らく誰もが考えないようにしたい問題でもあると思う。仮に自己同一性を否定したら、近代の諸法規のシステム自体が成立しない。昨日犯した僕の窃盗は僕の今日ではないし、昨日の僕は今日の僕とは明らかに異なるという世界の出来事である。ただし、人類は諸法規のシステム自体ができ上がる以前から存在していたのも事実であるから、ある意味でこれは文字文明を跳躍するロングパスだとも言えるのだろう。世紀を越えてミレニアムを跨ぐ人類の時間への飛躍と言って良い圧倒的な広がりを視点のどこかに備えているという点が圧倒的な文体で静かに僕たちの全ての価値観をあざ笑う。

流れが変る?

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 先週ぐらいから少し低位株の流れが変わったかね?と場帳を書くと感じている。
今日も意味なく4112がストップ高しているが、なんかストップはすごく久しぶりだ。今年初めの中越パルプを利食いしてドテン空売りして以来かね?売る方が回転が速いので相場をやっている気持ちになりやすいという事もあって、真面目に買ってもいないし、まだもう少し後でいいやと思って空けているがまあ6枚とみみっちい買い玉をいつ買ったのかもう覚えていない。2009年から3回目ぐらいの買い玉だったろうと思うがよく覚えていない。ティアックとかナイガイとか駒井ハルテックとかオリコとか三菱紙とか100円以下の低位株がぴょこぴょこかなり出来高を伴って戻しているので、年末相場はボロ株に一気に流れが変わるかね?と期待半分で全部放置プレーになっている。
 この1年ぐらいはひよこちゃんとシホさんの練習に付き合ってリズムとうねりで適当にクルクルしていたので、知らないうちに結構上げているんだなあと人事のようなもんで、まあどうでもいいかなと思う。指数で見たら、2014年10月の16000から今年6月の21000手前まで5000円幅の往来だから、クルクルのうねり取りをしているのが正解だったという結論になるが、低位株は全く動きが異なる。大半が2013年5月高値から下げっぱなしで半値に叩かれているのが大半だろう。8585は420円が160まであったし、8617も同様だ。日柄が下げ2年半で止まって、自然にコツンとなって戻し始めているというということか。
 別に直ぐに金が必要はことは全くないのだから、餅代ぐらいは急いで取ることもあるまいと思うとグータラ毎日本ばかり読んでサボっている。熱海も昨日から随分と寒くなってきて、暖房のお世話になっている。エアコンとガスストーブを使って上下で暖めるとすぐにぽかぽかするから、文明は良いなあと思うが、北海道は札幌で40センチの積雪だというから、大雪だ、そんな雪が降れば、ここは孤立集落になって2、3日は閉ざされるだろう。坂が急でタクシーも呼んでも来てくれないのね。FRのメルセデスは全く走れない道なので、できたら4wdと毎年思うのだが、どうもその気にならんで困る。
 友人が喰いシンボで土曜日に上京して世界で一番旨い朝飯を喰おうという話になった。ペニュンシュラの朝ゴハンをもう勝手に予約している。まあ飛ばせば90分で着くんだろうからたまには早起きでもするか。
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 西部すすむと黒鉄ヒロシの対談をyou-tubeで見た。西部すすむゼミナールというMx−TVの録画だ。僕はテレビをほとんど見ない。たまに相撲ぐらいは見るが、他は天気予報とニュースを15分ぐらい気が向くとかけるだけ。あとは大抵頭が痛くなるような番組しかないので、時間の無駄でつまらない。それでもテレビが壊れたら、ちゃんとシャープの液晶を買った。52インチの液晶で、これはネットも見られるから、林檎ちゃんなんかを見るのには中々良いが、3日も見ていると飽きる。コストコで10万円ぐらいだった。10年前の1/3ぐらいだろうと思う。デフレは確実だ。これじゃ多分儲からないなと思う。
そのシャープが液晶投資の失敗で潰れそうだ。シャープに限らずソニーもパナも日本勢はテレビは全敗に近いから、車と電気でなんとかしていた日本の民生品輸出は車だけになった。電気の復活は当面は無いだろうと思う。
「物作りが大事だ」なんて前世紀的な発想を持っている人を見るとホントかよ?と思う。物作り=マテリアリズムは19世紀の工業製資本主義の出発点だから、資本と労働が無限の欲望に牽引されて拡大するという幻想によって成立してきたが、人口が減り始めた日本では疑う人が増えている。年のせいかもしれないが、年を取って全ての物を所有してしまった人間には、強い物質的な欲望はほとんど無くなってしまう。最高の物を手に入れるとそれ以上の物は存在しないから「買い替え需要」しか生まれない。しかし物は丈夫で優れていればなかなか普通に使っているのでは壊れない。20−30万キロ走れるメルセデスでも5−6万キロ走れば飽きて棄てて他に買い替えるというような贅沢で無駄な使用の仕方が日本では普通なんだろうと思う。電気製品も普通は10年ほどは持つんだろう。日本は住宅が狭いウサギ小屋だから、物がゴテゴテ多くて見苦しい。だからなるべく物を増やさないようにしないとスッキリとした空間を確保できない。日本人の平均的な居住面積は一人当たり40平米に満たないそうである。4人なら150平米、夫婦二人なら80平米ぐらいが普通なんだそうだ。僕は独りと猫で140平米だからおよそ4倍の随分と贅沢な広さという事なのだろう。固定資産税がここだけで40万、他も入れると70万近いから、そういう税金を払える人は多くはいないという事なのだろうと思う。不動産屋の親父の話では熱海ではそんな広さの住居は物件の1%しかないらしい。でも物作りが大事なら、その物を置くスペースが無いと物理的に物を作っても置く場所が無い。でもマンションメーカーとか住宅産業とかはそんな面積の商品を真面目に作って売ろうとしているようには見えない。都市部で150平米のマンションは2億ぐらいはするだろう。2億のマンションを買うには4000万ぐらいのギャラがないと無理だと思うが、そんな人はごく一握りだ。だから全員が狭く、遠く、みすぼらしいウサギ小屋に住んでいる。
ゆとりとか余裕とかいうけれど、それは必要性以上に無駄があるという物資的な、あるいは時間的な意味である。100キロで走るには100キロで走れるエンジンとブレーキが必要という意味ではなく200キロか300キロで走れるエンジンとブレーキを100キロでしか使わないという無駄の事を指す。だから効率なんて事とは価値が相反する世界にしか「余裕」なんて本来は生まれっこ無いのは当然なのだ。物とはサイズの特性から成り立つから、資本の特性は常に空間的に拡張を志向してきた、「より早く、より遠くへ」という資本主義のベクトルだ。
 アフリカの奥地やアラブの砂漠にまでテレビと車を売ってしまえば、もう他にお客さんはいない。象やキリンはテレビや車は買ってくれない。それでも買ってもらうようにするために、会社員は涙ぐましい努力をする。それが「日本の物作りの実体」なんだろうと思う。それでも売れにとシャープみたいに「自爆営業」と言って、社員に5万、10万と自社製品の購入を義務づける。「何か、この国や会社の経営者は頭がおかしくないのかね?」と呆れる。
3000億円という大金を突っ込んで亀山に最新鋭の液晶生産ラインを作ってs3年もしないで1/3で中国の企業に叩き売る。償却費がどうやって回収できるという計算をしたのだろうか?どんな馬鹿でも赤字になるようなことを平気でしておいて、今度は債権放棄をしろというのだから、「馬鹿言うんじゃないよ」と銀行が怒るのも当然だろう。

 文化的な意味で「同質化圧力が強すぎる」という事を僕はよく指摘するのだが、シャープもパナもソニーも東芝も同じような液晶テレビばかりを作っている。ブランドマークを外したらどこの商品か見分けがつかない。だから過当競争でどこも儲からないで値下げ合戦で共倒れになる。多分、経営者がリーマン上がりのエリートで「人と同じ事をして失敗するのなら、違う事をして失敗するより言い訳がしやすい。」と考えてこんなことにいつもなるんだろうなあと思う他に考えようがないのである。日本のリーマンはどこもクソしかいないという結論だ。差別化した製品=高級品を使ったことがない人が高級とは何かがをわかるはずがないという事だ。
 例えばオーディオなら、バング&オルフセンやボーズやタンノイは見たら素人でもその製品が一目で分かる。カメラでもペンタックスとソニーとキャノンとニコンの見分けはつかないがライカならカメラを全く知らない僕でも見分けがつく。差異化しているから、選択の余地が生まれる。だから差異化した高級品を作るには「いかに同質化から逃れるか」がデザインや品質の特徴になるのはどんな馬鹿が考えても当然だ。そういう当然の事が日本人にはほとんど出来ていない。それで「物作り」なんて言うのだから可笑しくてヘソが茶を沸かずぜといつも思う。
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