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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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三つ子の魂

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「世の中を舐めている。」とか「若いのに生意気だ。」とか「貧乏人を馬鹿にしている。」とか20代からずっと良く言われた。批判とか教育という意味で多分上司や目上の人はそう教えているつもりだったのだろう。でもこちらの考えは違う、「オメーに教わる事はもう一つもねえんだよ。金がないのがその証拠だろ?説得するなら俺より金を儲けてから言えよ。」そう顔に書いてあったと思う。実に喰えないガキだったねと自分でも思う。
「若造に舐められるような甘い仕事してんじゃねえよ、ボケ」「年だけ喰っていつまでオメー貧乏でアホなんだよ。」「貧乏人を馬鹿にしているんじゃねえよ。貧乏が嫌なら少しは頭か身体か使って働けよと小馬鹿にしてるんだよ。」と心の中で吐き捨てていたんだろうと思う。
ガキの頃から 仕事=金儲け という定式で育ったから(小商いをする商人の息子だったからだろう。)成果のないものは仕事ではない。つまりそれは大馬鹿の時間つぶしだと思っていた。今は金にならないが立派な仕事があるというの知っているが、自分にはする気もないししたくもない。元々、仕事は大嫌いで、チンタラ空いた時間はただただ本を読んでいたいという男なのである。人生は嫌いな事をするほど長くもないし、時間やエネルギーには限度というものがあるからコスパに合わないことは仕事としてはしたく無い。仕事以外ならコストなんて関係ないから、好きなだけ贅沢をする。金はそのための必要条件だから作れば良いというだけの事。棺桶には持って行けないものを必要以上に作るのは時間とエネルギーの無駄だから馬鹿らしいからやる気が当然起きない。

 ということで2週間ぶりに函南図書館に行って、8冊返却して6冊またお借りしている。
新刊があったので2冊借りたが、再読用の小説もある。文学は良いなあといつも思うが、金儲けより上等な気分になれるのだから、こんなに楽しい時間はない。
働かなくても生きていけるだけの金があると、余計なわずらわしい世辞を一切しないで済むから気楽だと思う。そうやってもう20年チンタラ行きて来た。健康ならもうしばらく出来るだろう。健康寿命が男は70歳だからあと10年あるか?タバコ吸っているから5年引くとあと5年か?まあもう大してしたい事があるでもないので良いかなと思う。孫も生まれたし、子供は片付いたし、イイカゲンでデタラメやった割には遺伝子は残ったのだからそれだけで上等だと思う。それでも息子がまた結婚するらしいので、相手の両親と挨拶をしてくれと面倒な事を言うので、週末は東京だ。「行きたくねえなあ、、心筋梗塞で死んだ事にしてくれない?」とマダムに言ったら叱られた。

、、、「大体だね、2度目の相手が7歳下の初婚だろ?イイ線いってるよね、オラ、また若いネーチャン騙して俺は知らねえよ、泣かれても」と思うが俺の女ではないから勝手にやってくれ。「こっちに火の粉がまたかからんように願いたい。60過ぎたら親は死んだと思えと言いたい。親孝行がしたくなったら金モッテコイ!そうだね黄色いランボルギーニと黒いフェラーリ乗りてえな、儲けたらお前の会社の経費で落とせよ。」
若い時に生意気だったガキは、爺になっても多分喰えないんだろうと思う。三つ子の魂というのはホントよね。

リアリストの本性

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 中国の景気が相当悪いんだろうなあと思うのは、鉄、非鉄とか海運とか実需がすぐはっきりと現れる景気敏感株の下落を見ていると思う。こういう素材産業は裾野がとても広いから消費や設備投資全般が世界的規模で拡大していかないと稼働率が上がらないから単価急落、在庫増、評価損の急増というプロセスとなって儲からない、数量が物をいう産業だろう。半年ぐらいであっという間に半値に叩かれたりする。だから業績相場の後には通常は逆金融相場(景気が過熱して金利が上がって株価がそれを先取りして崩れる)があって、弱い戻りがあって、今度はその後本当の不景気があって暴落して底練りに入るという値動きのプロセスを踏むというケースが一般的だった。
 ところが今回はまだ金利が上がるどころか量的緩和を日本、欧州、中国としている最中なんだか景気敏感株がどんどんと下がるという事になっている。粗鋼生産能力が国内需要の3倍、世界の6割近くもある中国が3年分の在庫を持っているという事だが、ブラジルとか資源国が不景気になって量的に荷動きが鈍くなって(海運不況)、原油の値段も下がるということでいっこうにインフレ期待が実需(物のレベル)では起きてこない。一方、世界中の中央銀行がドンドン金を刷るからベースマネーは倍加、3倍化しているがマネーストックはほとんど増えない。つまり貸し出しが増えないのは別段金利の問題ではなく(だってゼロかマイナスなのね)需要が無いからだ。実物投資をする先が無い。どんな商売をしても物を作るかぎりは儲からない。つまり資本主義はこの時点で既に「死んでいる」という事でもある。だから余剰資金はバブルになる以外に行き場所が無いという事で、資産インフレ、実需デフレというメビウスの帯みたいな不思議な構図がもう20年以上も反復されてきたのが経済の実体なんだろうと思う。だから株価なんて一番反応しやすいジャンルでは四半期ごとの決算で何割も値動きが出るという事になる.更に為替が絡むから、円安になれば内需は交易条件が悪化して輸入物価はインフレになり、一方2割も構成比がない輸出は価格競争力が上がるからたんまり利益が生まれて株価が上がるということになる。300円ぐらいだった冨士重工が5000円に化けたりしたわけだ。
 2012年秋頃から始まった今回の上げ相場は、低位株の小型のものの多くはわずか半年程度の上昇で13年5月ぐらいで目先天井してしまって(それでも値は4−5倍になったものも多かったが)、その後はダラダラと売られるという動きになっているものが月足グラフを手書きすると多いように思う。大回り3年というが、そろそろ目先天井から2年半がたつから、突っ込みで安値を取るかなと思って見ているのだが、そうそう安値を取るような動きのものも多く無い。(年初来安値は前年14年を下に切るものはチラホラあるが。)値はまあ別として、はやり日柄がもう少しかかって、動きの癖が変るという事が起きないと、低位の出番は来ないという事なんだろうと思って、まあ暇だからチンタラほとんど戻り売り以外は何もしていない。

 自分を疑うという行為の意味はリアリストの動作なんだと普段から思うから、それが相場師の場合には「買ってダメなら売ってみな」という行為に直結するんだろうと思う。人気で値が動くという特性を考えると、この人気とは婦女子のスカートの長さのようなもんだから、あまり合理的な理屈は無くていつの時代だってきっと「カッコイイかどうか?」にかかっているのだろう。だから相場を少し上手くなるのには、こうした婦女子の意味不明のカッコヨサみたいな事に敏感でいる必要があって、それには是非そういう敏感な婦女子を周囲に置いておく必要がある。
我が家のマダムはもう出会って35年が経つが、未だにトレンドとかカッコとかスタイルとかにメチャクチャウルサい。かつては伊勢丹の鴨であった時期が長かった。だが「伊勢丹じゃ素敵なものがちっとも売っていない」という事に10年ぐらい前からなって、現在ではもっぱらユークスという海外通販サイトでイタリーやフランスからお取り寄せして服を買っている。その非合理を満足させるために日夜金儲けに邁進していたのが俺の一生だったかと思うほどで、スゲー女に捕まったものだと思うのだが、でも自分でお願いしてそうなったのだから責任は無論自分にあるわけだ。「相場も女も自己責任」という原則なのは言うまでもない。昨今、離婚が全世代で激増している主因は、この「自己責任」を放棄した結果の出来事という事なんだろう。どちらかが放棄したかは別として、まあ多分両方ともなんだろうと思う。喧嘩両成敗というから一方的にどちらかに問題があるというよりは、多分お互い様という事が多いんだろう。神様みたいに間違いをしない人間なんているはずも無いのだから、お互い相手の間違いだけを指摘批判するだけでは甲斐が無い。自分だって相当間違いをしているはずなんだから、お互い様である。その上で「まあ、そこんところは」と譲歩してとか無視してとか見ないフリをしてとかいうのが成熟した大人のお行儀であると思う。
「東京でアタシのお花のアレンジは一番カッコイイ」と多分マダムは思っているんだろうから、売れない花屋をワガママにもう10年もやっているのだね。大体土日は営業しないなんて小売業があるのかよ?客を舐めているとかしか言いようが無いが、土日に金を使うのは貧乏人(平日は会社で仕事をする人)だからそんな人を相手にしても可能性がないと思ってそうしているんだろうと思う。特級主婦というのは「自覚が無い」という事で、まあそれでいいんじゃいのと思う他ないのである。
 このマダムが、僕が月足とか折れ線グラフを更新している時に、数年に一度たまにチラッとグラフを遠目から見て「心電図が止まってるね。」と笑う時が買い時なのであるが、これが外れた試しがほとんどないのだね。マダムは経済とか株とか相場とか無縁で一切何も知らない女であり、相場なんて競馬と同じ博打だと多分思っているのかもしれない。そんな女が俺より(物事の見方が)上手いとホトホト自分が嫌になるのだが、事実なんだから「物は見えているようで全く見えていない」という反省しきりという人生なのだろう。

 さて練習生のために少しクドイおせっかいを書くと、「心電図が止まってるね。」というのは値動きが無い状態である。月足でも折れ線でも同じ事で、下の方で横にツーーーーーと動かない。こういう状態になれば、どこを買っても同じである。まだ多くは無いが、そういう横にツーーーーーと動かない状態の少し前を見てみると、大半で上下に一定のレンジで上げ下げを反復しているはずだと思う。安値を切り下げるのが特徴で低位の500枚ぐらいの30年を見れば気がつくだろう。その手前の動きは、「突っ込みと戻り」の反復が数回必ず起きていると思う。
だからこちらの動作は「つっこみを引きつけてゆっくりと買い下がり、戻りを素早く外して、詰まればドテン売り越し」が日常的な短期の操作ということになる(リズムとかうねりとかを取る場合)。500枚を見るのは当然、自分で道具がないと確認さえ出来ない。それをマジに実行しないからわからないという事になる。観察しようにもその観察する対象を自分で作らないかぎり「感覚がどうしてできるんだ?」と思わない人間の思考ってなんだろうと思う。まあアメーバだから所詮こんなもんかといつも思うのね。
 そういう観察がある前提で僕のテキストを読まないと「意味不明でハアアーー」となるんだろう。当然、こちらはある前提で書いているのだが、その前提がある人は見る所ベトナムさん一人だけだから、意味が通じないという事になるんだろうと思う。だからテキストをどう読もうと怠慢な人には全く意味を持たないことにどうしてもなるのだろう。相場の空気なんて全く読まんで良いから、ちゃんと日本語ぐらいは読めと言いたい。

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投げるべき砲丸

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太刀魚のピッツア

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シラウオとイチジクのピッツア

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餃子状のチーズとハムのピッツア

 先日、ロンドンオリンピックを撮った映画を見ていたが、その中に、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面が沢山出てきたが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑いをしている女性選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者の様な顔に変ります。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現す。無論人によりいろいろな表情だが、闘志という様なものは、どの顔にも少しも表れておらぬ事を、私は確かめた。闘志などという低級なものでは、到底遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向かうのではない。そんなものは既に消えている.緊迫した自己の世界にどこまでも這入って行こうとする顔である。この映画の初めに、私たちは戦う、併し征服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手たちだけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に征服する、自己を。かような事を選手に教えたものは言葉ではない。およそ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である、芸であります。見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現す。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や昂奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬのか。彼らは征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛り付けられた彼らは言うだろう、私たちは戦う、併し征服はしない、と。
 私は彼らに言おう、砲丸が見つからぬ限り、やがて君達は他人を征服しに出掛けるだろう、と。又、戦争が起きるような事があるなら、見物人の側から起こるでしょう。選手にそんな暇はない。
             (旧カナ使いを現代語に修正したものです。)
       「私の人生観」小林秀雄集  現代日本文学大系 より転載

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 若い人のために参考までに書くと、文中のロンドンオリンピックは2012年のそれではなく1948年の第二次大戦後すぐのそれを指す。この大会には敗戦国の日本は参加を許されなかった。この本の出版は昭和44年(1969年、東京オリンピックの5年後)無論、評論だからそれ以前に活字化されている(昭和22年、45歳の時)と思うが、僕がこの小林の評論を初めて読んだのは1983年頃(28歳ぐらい)だったと思う。神田、神保町の古本屋で見つけて買ってからもう何回再読したか記憶にないほど何度も読むのだが、読むたびに新たにわかる事、感じる事が沢山あって、小林の知性というものは誠に凄いものだなあと感心すること数限りない。天下の秀才である。
 記録映画にはきっとロンドン大衆の観客が熱狂して写し出されているはずで、それは別にこのオリンピックに限らず、全ての国威掲揚をかかげたスポーツの大きな大会では現在も共通して見られる現象だろうと思う。世界レベルで競い合う第一級の個人の自己陶冶の顔とそれを見る大衆の昂奮の顔という対照をもって大衆の愚劣さと個人の聖者のような顔という対比をクールに記している。
 
 「投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬのか。彼らは征服すべき自己を持たぬ動物である。」とあるが、仕事とはまさに僕たちにとっての投げるべき砲丸であるという事だろう。
凡庸な大衆としての自覚ある僕としてはせいぜい自分があまり醜い顔をして仕事をしていない事を祈る他ないが、いちいち鏡を見ながら仕事をするわけにもいかない。それでも僕たちは望めば自分の砲丸となるものを何とか自分の中に見つけて、それに立ち向かう事ぐらいは始めることが出来るかもしれない。
 「ゆっくりと緩く生きる」というようなおよそ反資本主義的な砲丸というもの=つまり逃走線の切片になるということ、おそらくはオーソドックスな手段からは大きく外れるが、そんな事に気がついたのは小林のこの評論を読んだ後、12年ほどしてからだったように記憶している。

 今日は月曜日、マダムと11時まで寝坊していたら友人から電話があった。「せんべいの特売があるから三島に行こう」と彼は言う。「別に煎餅なんて特売で買わんでもいいじゃないか?」と寝ぼけた頭で思いもしたがカヅオ イシグロのNever Let me go。 を何故か思い出した。
そして二組の初老の夫婦はランチに三島でピッツアを食べた。太刀魚とシラウオ。なかなか豪華で美味しいなと思う。

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 ブログは個人の日記のようなものだから暇つぶしに自分のための記録だと思って書き始めたが、ネットは繋がっているからいろいろな人がやって来る。仕組みの細かいことはわからないけれど、写真を取り込んでテキストを書くと、小学生の壁新聞みたいのが出来てこれが結構ハマる。2年弱で630タイトルのテキストだから駆け出しが相場のテキストだけ拾って読むのだって数日は多分かかるんだろう。会社や学校のように内容と成果に政治性がない個人の書いたものだから、本音でないと面白くないしきっと伝わらない。書いている内容の正当性とか善悪なんてどうでもよくて、そのテキストを吐く人物としての肖像がはっきり面白くないとどんなブログも読む値打ちが無いと僕は思う。つまりポイントは差異化ができた人物とテキストか?という事だ。だからその人の生活がどこか魅力がないとブログもそれと同じことになるんだろうと思う。

仕組み的に見て、閲覧のリンクを辿るといろいろなブログがあるが、「長いテキスト」という特徴のものは、学者のメーッセージぐらいしか見当たらない。きっと僕ぐらい暇を持て余して読書ばかりしている人間は多くはいないのだろうから必然的に多数のブログのテキストは短くなる。言葉というものは全て誰かからの贈り物なのだから、自分に誰かからの大量のテキストが入らないと自分からも多くが出るはずがない。だからアウトプットされるテキストの量は必ずそのインプットに比例するのが自然である。それを昔は「教養」と読んだ。
 一度昨年洒落でグラフの会というのをやってブログ開設を参加条件にしてみたのだが、続いている人は多く無い。多分結果がはかばかしく無くて続けられないという事なのだと思う。比率は10年前の猫塾の時と変化が無いから、相場を初めてそれが仕事として定着するのは相当普通の人には困難な事という事実は変化が無いのだろう。仕事は何で有れ継続性がないと物にならないのだから道具や方法を知ったからといって物になる人が多くは無いという証拠なんだろう。つまりメタメッセージの重要性という事なのだと思う。

 良く見る「内田 樹の研究室」というサイトはかなり長いから読み応えがあって、古典的な読書人のインテリに向けて無意識に書いているというサイトだ。内容はともかくとして一級の教師だから「物事を立ち止まって少し考えてみる」という時になかなか良いヒントをくれたりする。だから気に入れば、僕はその人の本を「全て買うか借りるかして読む」という習慣を20代の学生時代から習慣にしてきたし、そのせいで間接的に随分と仕事をする時に役にたった経験も多かったと思う。
 僕にとっての「仕事」というのはいつの間にか変質して、今を快適に過ごすための暇つぶしになったから、金銭的な事も少しは重要だが、それが多けりゃ多いほど満足するというようなものでは無くなってしまった。人間一人が消費できる物量なんて身体的な制約があるのだから、いかに車が好きでも100台も集めても意味が無いが、資本主義は「蒐集」するという性質から成り立つのだから、人はいつでも金という記号をもっともっとと欲しがるのだろう。金=記号という等式が固まって、無意味な記号<毎日の快楽という不等式のほうがきっと重大になるほど死に接近してきたんだろうと僕の無意識は訴えているのかもしれない。どんな馬鹿でも天才でも「老ー病ー死 」という時間の流れは絶対に変えられないのだから、それを正面から受け止めて逃げないなら、このプロセスの進行を「いかに主体的に快楽するか」というのがスケベで素敵な生き方だねと割り切って生きて行くのが僕はカッコいいなと思っている。まあ人それぞれだから、空気が一致するなどということは有ってはならないはずだし、ウロウロ自分探しなんて無意味なトッポイ事をしているようなオバカに付き合う暇も情熱も興味も無い。養老さんに言わせれば、自分というのは脳が作り出した「意識」なんだから、個性なんてあったら精神病院行きになるに決まってらあという事だ。

 忙しそうに毎日5−6時間も残業して、休みの日は泥のように眠るような勤勉で真面目なリーマンが事実周囲にはとても多いのだ。無理なローンで家を買って子供を私立に入れるためにこれもローンを組んで家族のためとか言って、自分のギャラでは不足するからマダムもパートで働いて結局は家族の事を考える暇さえないぐらい会社人間になっているような人が事実すごく多いのだと思う。そんな無理ばかりを続けていればどこかに反動が出るのが当然で、病気になったりすれ違いで離婚したり、子供が不登校になって就職できずに引きこもりになったりする。不幸が不幸を呼ぶというような事が事実周囲でも珍しく無いのだね。きっとこれは日本人に共通する「みんなと同じでないとマズい」という同質化圧力が強すぎるせいだんだろうと思う。でもそのせいで70年前に「一億玉砕」になったんじゃない?そしたらこんどはまた阿部は「一億総活躍!」だってよ。マジ頭オカシくねえのかよ?と思いますねえ。全部が軍部のせいだけじゃないよね。国民の多数派が馬鹿だからよ。同質化しか安全策を知らないのね。

 I大出のM銀行のエリート支店長(役員さんよ)が引退してさ、7年前にべラビスタを売ったのね。管理費の維持が出来なくなってね。そのご夫婦が去年桃を買いに山梨に行った時にたまたま現地で一緒になった時コロナに乗っているのね。僕とは16歳差で年上なのだけど、相手もマダム連れてるのね。その彼女のお洋服と僕のマダムのお洋服は見れば誰でもわかるぐらい程度の差があるのね。そうコロナとメルセデスCLぐらいの差なのね。すると途端にお二人ともツンケンするのよ。「別にそんなツンケンしなくたって良いじゃない?自分より年下の人が羽振りが良いのが気に喰わないという事でしょ?でも羽振りって年とは関係ないでしょ50も過ぎてりゃ。して来た事の差が結果の差なんだよね。マジこっちは感じ悪いよね。ふたりで良い年こいてツンケンするってことは貧乏が惨めという証明でしょ?」と誰でも思うよね。そうじゃなくて「素敵なお車!こんど乗せてね.」って言えば1週間でも1か月でも好きなだけ貸してあげますよ。豊ってことはそういう事でしょ?っていうのが日本一の大銀行の支店長の元役員夫婦でもわかっていないのね。豊っていうことは例えば高い車に乗ることじゃないのよね。みんなが欲しがるような事をしてそれを人に分ける与えるリスクを取れるぐらいどうでも良い事としてその人が受け止めるって事なんじゃないの?わかってはいたんだけれどね、大銀行の社員教育ってこの程度なんだあと悲しい気分になったよね。こんな人の下で働く若い人は実に可哀想だよねと思います。でもそういう人の下に長くいると若いのもまた同じ顔になるんだね確実にさ。偏差値教育の弊害じゃないのこれ?と僕は思いますねえ。思考の射程が狭すぎるって事なんですね。自分で金払って経験しないでわかりっこないでしょ?

 自分の価値観がいつの間にか他者によって常に同質化圧力にさらされているという自覚がないのだろうと思うね。資本主義の本質は外延化でしょ?つまり「早く、遠くに」という速度とベクトルなのだよね。でも多者がそうならこちらは「ゆっくり、近くに」という反対の差異化をしたほうが現実は有効なんじゃない?という事ぐらいは常に頭の片隅に置いてゲームをしないと「鴨」になるんでしょ?でも大組織にいたらそんな事はきっと考えもしなくなるんだろうと思うね。群れから外れた途端に裸で喰われるただの鴨っていう自覚がないからこちらは随分と助かっているねえと思いますマジ。

平和な夕暮れ

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「海は広いな、大きいな、」
そんな童謡があったね。久しぶりに湯河原に来てスーパーアマーケットの屋上駐車場から海を見ている。僕のフラットからも熱海港が見えて、時々フェリーや大型客船が来ると汽笛を鳴らすことがあるから、毎日海と山と空を見てぼんやりと時間を潰す。不思議なもので、こうやって海を見ながらタバコを吸うと何故こんなに美味いのかと思う。同じ空気のはずなのにね、、。いや、波打ち際だと少し塩分があるのかな?
 人間が作ったものではないもの=自然を見ていると何故かホットすることが多い。天気の良い日はテラスに簡易ソフアーを置いて、日向ぼっこをしながら本をよく読む。空気の匂いとか風の匂いとか、虫や鳥の鳴き声とかがかなりするのに最初は驚いた。人間よりも木や虫の数のほうが断然多いのだろうと思う。一部で紅葉も始まった伊豆山や日金山は目の前にある。多分天気が悪い日には見ないことが多いからだろう。実は僕は台風ハイで、凄く強い台風がやってきて、電車や高速道路が停まったり洪水になったり、あるいは火山が噴火したりすると、被害者にはお気の毒だとは思うが「もっと荒れ狂って頂戴!素敵!!!」と心のどこかで思っている自分をいつも見つける。野蛮人なのかもしれないなあとも思うが、別段腕力なんて全くないし、体力だって人並み以上にはあるとも思えない、どちらかと言えば非力で運動嫌い、スポーツもしないし本ばかりをいつも読んでいる初老の怠け者だ。
56歳まで田舎というものがどういう所かはほとんど知識も経験もなかったし、魅力も特段感じなかった。ただ震災という外部的な要因から、たまたま縁があって静岡県に住むようになった。東京と比べると、温泉があって物価が安いなというぐらいしか知らなかったし、今でも良く知らない事のほうが多いが、仕事に地元が特に関係あるわけではないから、日本ならどこでも良いと思ってここに住んでいる。考えたら今年で結婚して34年が立つが、マダムと離れて生活するのは今回が初めてだったのだ。家事なんてそれまでちっともした事が無かったから、当初は困ったこともいくつかあったが、なんとなく出来るようになるのは人間には適応する力があるという証拠だろうと思う。

 同時代の自由業の人はどんな事をしていのだろう?熱海には町田康というパンクな芥川賞作家が住んでいる。彼のマダムはペットのトリミングのお店をしているが、その店にいつもメルセデスS55が止まっているから彼の車だろう。中年の自由業は同じような車に乗っているのだなあと思った。彼の猫シリーズは全部図書館で借りて読んだが、やはりいろいろと街や周囲を探検したようだ。湯河原の記述も飲み屋中心にあるし初島にも函南のオラッチェにも言ったテキストがあったから、付近でうろうろしているんだろう。行く場所が東京のようには無いのだからどこかですれ違っているのかもしれない。
 インターネットで宅配が普及して田舎暮らしは随分便利になったはずだ。何でも売っているし、価格サイトの影響からか値段もこなれているからお金さえあればほとんどの物が手に入る。生活用品ならなんでも売っているし、アマゾンなら翌日には届くからとても便利になった。便利すぎて過剰サービスなんだろう。パナソニックのマッサージチェアだってネットで買ったら、配送元は大阪で2日で届いた。近所の電気の安売り店より宅配のほうが安いのね。店舗を構えると固定コストがある分だけきっと割高になるんだろうと思う。アマゾンは小田原にデポがあるから熱海は特に配達が早いと思う。食品から本、文具、清掃用品、米、猫関連、水と重い物はみんな宅配が安くて便利だ。

 東京近郊には3000万人が住んでいるが、熱海は3.7万だそうだからほぼ1/1000しかいない。デパートも映画館も無いし、本屋だってロクなものはない。それでもなんとかなるのは図書館があるせいだ。特に函南図書館は去年できたハイテク図書館で蔵書も素晴らしく質が高いから税金を支払う甲斐がある。月に2、3回は必ず行く場所の一つになった。あと10年仮に健康に自分一人の力で生きられるとすると、残り時間は520週ということなる。僕の折れ線グラフは幅が70ミリだから8枚弱という事だ。そんなに先でもないねと思う。息子が33歳になってまた結婚するらしいから、多分また孫が数年以内に新たに産まれるという事なんだろう。世代がこうやって回転していく。すると4−5人は孫が出来るという事か?孫はウルサイし猫を虐めるからあまり来て欲しく無いなあと思うが、そう思うとやって来るのが不思議なものだ。僕は自分の祖父を一度も見た事がなかったから、長生きをしているという事なのだろう。

 1週間に一度、こうしてどこかで食料品の買い出しに出る。今日は刺身の4点盛りで刺身定食だから、猫もきっとカンパチと中トロと真鯛に満足するだろう。ああ、そろそろ日が暮れる。
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