欲望する機械
「アンチ オイディプス」においても「アンチロゴスまたは文学機械」を受けるかのように、芸術作品は「欲望する機械」として規定されるだろう。しかし「アンチ オイディプス」では、実在そのものが、欲望する機械として捉えられ、議論全体が、欲望する機械を軸として進行する。芸術作品の規定も、そのような議論の中で理解されねばならない。
それにしても、欲望する機械とは、どのようなものか?そもそも、二つの別種のものであるはずの欲望と機械とが、このように結合されてよいものなのか?これは基本的な問題であり、ドゥルーズとガタリも、「アンチ オイディプス」の中で、その問題に答えている。
注目されるのは、欲望する機械という基本的な設定において、機械論と生気論を乗り越えようとするもくろみが透けて見えることだ。機械論は機械的因果性や構造的統一性を引き合いにだし、そのような統一性により生物をも説明しようとする立場のことであり、生気論とは、生物の有機体としての目的性や個体的統一性を優先させようとする立場をさす。前者の立場からすれば、欲望は、機械的な因果性によって決定されるだろうし、後者の立場からすれば、機械は、欲望の目的のための手段にすぎないだろう。いずれにせよ、機械と欲望、さらに機械と有機体は、たがいに外的な関係しかもちえない。
しかし、このような外在的な関係自体が、実は、機械のマクロ的な捉え方に由来するとすれば、どうだろうか?ミクロ的な捉え方をするならば、区別するのも無意味なほど、相互に内在化されるのではないだろうか?
事実、ドゥルーズとガタリが、機械論と生気論に代えて提案するのは、機械のマクロ的な見方とミクロ的な見方である。マクロな見方によれば、、機械も有機体も、単一体としてしか現れず、統計学的に個体としてのまとまりを示す。反対に、ミクロな見方によれば、機械も有機体も、それぞれの単一体としての統一を奪われ、それぞれの部分相互に、浸透や交通が織りなされることになる。マクロな見方により示される機械の状態は、モル的な状態と呼ばれ、ミクロな見方により示される機械の状態は、分子的な状態と呼ばれるだろう。
ただ、この場合、ドゥルーズとガタリ自身も認める通り、これらの二つの状態は、機械の状態と呼べると同時に、生物の二つの状態と呼ぶこともできる。そこをあえて「機械」というところに、仮説的な選択が働いたと見なさねばなるまい。このように機械状論には、当初から仮説的な方法論という面が濃いということは、念頭に置いておくべきだろう。
欲望する生産
ドゥルーズとガタリは、従来の欲望理解は、欠如の相のもとに置かれていたとする。すなはち、欠如したものを獲得しようとするのが欲望の根本特性と見なされてきたとするのだ。フロイトも例外ではない。無意識の欲望により生産されるのは、実在に欠けているかぎりの幻想とされるのだし、無意識の欲望が経由するはずの去勢幻想も、欠如が威圧的な相のもとに現れるものに他ならないからだ。
これに対してドゥルーズとガタリは、あくまで実在的な生産過程を、欲望のうちに見て取ろうとするだろう。すなはち、無意識の働きを、欲望する生産という、あくまで肯定的なかたちで捉えようとする。
では欲望する生産とは、どのようなものなのか?ドゥルーズとガタリは、それを三つの点から規定している。まず、生産の生産。次に生産の登録。第三に生産の消費である。
生産の生産は、接続的綜合とも言い換えられる。これは、欲望の流れが(これと、あれと)という具合に、(と)を介して次々に組み合わされていくあり方をさす。ここで接続されるのは、流れと切断である.
(猫の注 相場のケースでは仕掛け仕切り休みの事でしょ?)すなはち、流れを生産する機械と、流れを切断する機械が組み合わされ、切断する機械は、今度は流れを生産する機械となり、さらにその流れを切断する機械に接続されるという具合に続いて行く。(注、売りと買いがドテンによって相互を切断し、また連続する)
たとえばミルクの流れは、口によって切断され、胃や腸による切断を経て、肛門によって切断される排泄物の流れとなる。この場合、これらの生産し切断する機械は、器官機械であるが、あくまで部分対象としてのそれであることを銘記しておこう。
登録の生産とは、欲望する機械が、器官なき身体の表面に配分され、登録されるやり方にかかわる。器官なき身体とは、諸器官もしくは欲望する諸機械の有機的組織化に抗い続ける原初的な全体であり、欲望する機械が記号として登録される支持体ともなるものだ。ちなみに、「器官なき身体」という言葉は、アントナン アルトーから借りられている。
登録の生産は、離接的綜合と言い換えられるだろう。それは、器官なき身体上での登録が「これであれ、あれであれ」というかたちをとるからだ。このように、離接とはいえ、「これか、あれか」という二者択一手的なかたちをとるものではない。したがって、この段階で、私は親か子のどちらかであるとか、母か父のどちらかであるとかいった、二者択一を迫られる必要はなく、たとえばアルトーが言ったように、「この私は私の息子であり、私の父であり、私の母であり、そして私である」といった事態も想定されるのだ。
登録は生産に折り重なり、登録の生産は生産の生産によって生み出されてくるのと同様に、消費は登録に続いて起こり、消費の生産は登録の生産によって、しかも登録の生産の中で、生み出されてくる。消費の生産は、登記の表面上に姿を見せる主体に関わるものだ。ここで主体は、いかなる取り分を吸収するかによって、その結果として、自らを明確化する。主体とはいえ、同一性を欠いた主体なのだ。
消費の生産は、連接的綜合と言い換えられる。「だから、これは、、、、である。」という形を取るからだ。この綜合は、そのつどの消費の終点において、たとえば「だから、これは私である。」と言うほか無い、主体のあり方を指し示す。要するに、残余としての主体、残り物としての主体である。それでも、この主体は、あくまで「私は感じる」というあり方をする。たとえば、「私は神になると感じる」とか、「私は女になると感じる」とかいった具合だ。しかも、それは、しかじかの強度を享受した結果としての「私は感じる」なのだ。
ドゥルーズとガタリは、これら三つの生産、三つの綜合を、エネルギーのあり方によって特徴づけている。まず、欲望する生産の接続的作業がリビドーと呼ばれ、このリビドーエネルギーの一部が、離接的登記のエネルギーとしてのヌーメンに変えられ、さらにこのヌーメンの一部が、消費のエネルギーのウォルプタスに変えられるといった具合だ。ちなみにヌーメンとは、神聖さを表すラテン語、ウォルプタスは、享受を表す、やはりラテン語である。
器官なき身体
器官なき身体は、確かに、全体として規定されるかもしれない。しかい、この全体は、諸部分のかたわらに、ひとつの部分のように生み出される全体だ。この部分のような全体は、諸部分を統一化することも、全体化することもない。このような全体性、横断的な全体性であり、統一性である。
このような全体性については、機械論も、生気論も、いうべき言葉をもたない。機械論と言えば、起源の全体性を想定し、生気論といえば、目的の全体性を想定するばかりだからだ。結局のところ、全体と部分の問題は、生気論によっても、機械論によっても、正しく提起されてはいない。
重要なのは、そのような横断的全体性、かたわらにあるとしての全体性は、多様体としての欲望する生産の規定と不可分であることだ。『一』と『多』とのどちらにも限定されず、どちらも超え出るものとしての多様体だ。
ただ、この多様体は、さまざまな強度からなる多様体である。強度という点からいうと、器官なき身体は、そこから出発して強度が測られる強度ゼロを示す。そのかぎりで強度の母胎だといってもよい。部分対象もしくは器官は、そこから出発して、さまざまな強度の度合い、強度的な諸部分として生み出されてくる。器官なき身体が、生命のもっとも原始的形態として示されるのも、そのためだろう。
「差異と反復」は、「もろもろの事物が、一義的に分割されない一つの「存在」のまったき広がりの上に自らを展開していく」彷徨の配分、ノマド的配分を語っていた。器官なき身体上での欲望する身体のあり方を予告するようではないか?
ドゥルーズの語る一義的存在状でのノマド的配分は、表象=再現前化の規則に従う定住的配分とは異なる。同様に、無意識における欲望する生産のあり方は、表象=再現前化の規則に服しはしないだろう。にもかかわらず、それを表象=再現前化しようとする動きが無意識の生産をおおい尽くそうとするだろう。それこそ、精神分析において、それも精神分析の家族主義において、起こったことだ。ドゥルーズとガタリにとって、家族的ということは、
表象=再現前化の本質に属するからであり、表象=再現前化を優先させることは、必然的に生産を窒息させることになるからである。
「ドゥルーズ ノマドロジー」 篠原資明 より転載
頭の固い人=おマヌケでオバカな人=物事の答えを二者択一的にしか捉える習慣のない人 と話すと疲れるからそういう人はもう来ないでねとお祈りをしていても、投資系のブログを読むような人の大半はそんな人ばかりだから困る。いくら書いても言語が通じないから無視する以外に手が無いのである。
「脳の編成を変える」という事が出来ない人は多分大半がそのうち時間の問題で自己破産したくても出来ないような酷い状態になるのが相場ものの歴史的帰結だというのは誰もがどこかできっと薄々気がついていると思うが、事実を誰も語らないのがこの社会の暗黙の礼儀みたいなものだろう。だって書いたらお客さんが減るからだ。よく新聞記事に事件として出ている、銀行員の横領とか詐欺の原因になっているのが、相場の失敗という話を聞くのは頻度が高い。とにかく「自己責任」の社会なのだから、「美味しいお話」で釣って「墓穴を掘る」ようにリードするのが金融マンのお仕事なのだ。だからテキストをどう読んでみても大半の人は自分でせっせと「墓穴を掘る」。すごく上手くいくのは10万分の一ぐらいの確率なのだ、統計値は。
「脳の編成を変える」というのが、実際にどういう動作と訓練が必要か?という方法論と哲学を僕は一番重要な成功の要素だということを毎度クドクドこうして書いている。それをしても実際は出来ない人の数は出来る人の数の千倍ぐらいにしかならないだろうとも思っている。それでも他に方法を僕は知らないから率直に書いているのだね。
そうやって相場でお金を稼いで一体僕たちは何をするのだろう。一応の贅沢をしたらあとは使い道が余り実際は無いのだね。資本主義の歴史的発展過程の第二段階は専制君主機械という状態になる。日本の場合は明治から再開された王朝による立憲君主制だ。そしてヒロヒトがイヤイヤ人間宣言をするまで、天皇は神と同値だった。ということで専制君主機械を登録するものとして、昭和天皇の和のレシピという本から本日は地味なメニューにしてみる。
我が家の女王陛下がやってくるから、豚の角煮(2時間)、ポテトサラダ(40分)ゴボウの叩き(35分)小松菜のおひたし(20分)赤飯(2時間)と手間を惜しまず作ってみた。原価はせいぜい2000円もしないと思うが5品作るので一日がかりである。だから女王陛下に仕えるノマドライフも結構大変だと思います.(大汗)