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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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欠陥マンション

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熱海でも噂の欠陥(?)マンション。谷に建てているのでジメジメして湿気が多く
地盤が緩い。地元の人は誰も買わない。

 欠陥マンションの報道が毎日ある。杭がどうの、セメントがどうの、旭化成がどうの、三井住友建設がどうの、三井不動産レシデンシャルがどうのと悪者探しに大騒ぎしている。少し前のアネハの欠陥マンションの問題でも立て替えの話が出ていたから、こういう問題は大小にかかわらず、業界では繰り返し頻度の問題で当然起きる事だろうというぐらいしか言いようが無い。個人は運の善し悪しと選択眼という事だが、新築のまだ建ってもいないものを買うという事は常にこういうリスクがあるという事だから、少し注意して中古物件の評判の確実性を確認して買ったらそんな事にはならんだろう。
日本人は異常に新しいもの好きだ。評価が定まっていないものに大金を投じるという習慣はオバカのする事だから、安いものなら笑って済ますが、大事なものはそうはいかないというのが世界の常識だろう。『日本の常識は世界の非常識」なんだね。ハルトモさんがネットでなんか安いPCの関連品なんかの余計な無駄使いをしているけれど、多分無駄だと最初からわかってしているのだろうと思う。まあ無駄使いが趣味なんだからどんどんして欲しい。反面、不動産とか車とかはシビアーな見方で買うんだろうと思うから、評価(ものの見方)は商売人の見方なんだろうと思う。
「物を見る目」というのがない消費者が多すぎるから業者に舐められているに過ぎない。人生で一番高額な買い物を失敗したら、多分その人の人生は経済的に失敗に終わるだろう。やり直しが利くほど利口でパワフルならそんな取らないで済むリスクは元々負わないからだ。まあ「良い鴨」だったと言う事だね。僕は一級建築士の友人がいるので物件を見る時は同行していただく。「どうですか?」と聞いて「ダメ」と言われたら買わない。見る目が僕より確かだからだ。あとは値段の問題で現金で買えるものしか買わない。不動産は買った後にもコストがかかるから、税とか補修とか改装にも金がかかるのを承知で買うのが常識だろ?車だって同じ事だ。買値の2−3倍はかかるつもりで買えば間違いは起こらないと思うよ。
最大手でも、比較的高額物件でもやるという事は、まあ業界がイイカゲンだという事と納期の問題でキツいとそういう事になりやすいという事だろう。3000棟の調査をしてさて何割ぐらいで出るのかね?と興味しんしんだ。
 37歳で35年ローンで3000万借りて買ったというオバカなリーマンがいたが、こういう人は死んだ方がマシな金銭感覚だねと思った。発想が欠陥マンションそのものだから救いようが無いと思う。50歳でリストラされたら、ローンだけ残って自己破産まっしぐらというケースだろう。6000万で買って10年住んで売ったら2500万が良いところだろう?ローンが2500万残ったら足が出る。72歳まで仕事があると考えるリーマンの常識ってどうやって出来るのだろうと不思議でならない。経営者的な感覚からは40歳以上の人間は僕ならまず雇わないし、酷使に堪えないのでコストが高いのだから使い切ったら棄てるという選択枝以外にはあまりないのだが、有能な人ならそもそも人に雇われるという選択を取らないだろうと思う。どうでも良い仕事(誰でも出来る仕事)なんだから、安いほうが良いに決まっている。コストに見合う生産性を叩ける人しか必要がないのがそもそも仕事の仕組みなのは資本性なら当然の前提だからだ。「やり手」のいない仕事しかプレミアムはつかないのね。
 人気のあるものは割高で人気のない物は割安であるというのは、何でも同じ事だから、株だろうが家だろうが車だろうが、仕事だろうが、人気のない物を買って、人気のあるものを売るのが「商売の基本」なんだが、そういう基準で物を動かすという生活態度を守れば誰でも豊かに生活出来ると思うが、90%以上の人は真逆の事をして貧乏になっている。頭がオカシイと言う他ない。企業活動とは、「人気のない物をいかにも人気があるように演出するとか人気が出るようにもって行く」事だろうと思うからだ。だから個人の物の仕込みは不人気の時期と物に決まっている。
 省エネで安いエコカーや軽が人気で売れたが、一体ガソリン代なんていくら変るのだろう?プリウスやアクアに乗っていて年間仮に50万節約出来たにしろ、事故って死んだら元もこもない。ぶつかった時にまずは死なない事が一番重要だろ?と思うのね。死んで金が残るほどの損はないんだろ?使い切れないというのは大損という事よ.(爆)使いきれない金なんていくらあっても無意味だから、そんな事に時間や労力を使う事自体が人生の無駄だと僕なら思うな。あ、、。「お墓に金は持って行けません。」からねえ。美味しいものを食べて、素敵な服を着て、快適な家に住んで、ラクチンで好きな事だけして暮らしを楽しんで、それに飽きたらハイ、さよならが一番だろうと思う。

蔦屋書店 湘南T-SITE

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tutaya syonan t-site

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インショップのデリでランチ、代官山  OGINO   
1500円 フォカチャとドリンク付き  安い、ヴォリーム有り、実に美味しい!

 今日も友人ご夫妻と4人で湘南のツタヤ書店(0466−31−1515)に出かけた。昨夜のNHKの番組を見て「これは良さそう」と感じて、一度見たいと思ったのだ。私事で恐縮だが、生家が小さな書店だったせいで、無趣味の僕は「本を読む、見る」以外にさしたる趣味が無い。古書店が大好きで、東京から離れて一番寂しいなあと思うのは近所に「良い本屋」が一つもない事だった。ツタヤのこの湘南の店は素晴らしい!どのお茶の水の大書店よりも魅力的な品揃えだった.熱海から70キロぐらいだから、飛ばせば平日なら西湘バイパス経由で1時間だ。こらからちょくちょく通おうと思う。営業時間も朝8時から24時までと長いので夜の時間も楽しめる。インショップでレストランやデリもあるし、カフェも充実しているから一人でも一日ここで遊べるなあと思う。

併設の料理スタジオではオシャレな料理教室などもやっている。企画性が実に高い店舗運営でNKKが特集する意味がよくわかる。今日は チェゲバラの新書を買った。

紅葉始まる

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紅葉が始まった姫の沢公園

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熱海市内を見下ろす丘

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こんな山道が5キロぐらい続く


 熱海でも紅葉が始まった。運動不足なので、また少し歩こうという事で登山靴を引っ張り出して軽いハイキングコースを4キロほど歩いてみた。熱海ー函南を結ぶ熱函道路というすごい斜度の道がある。熱海の梅園から登るくねくね道で、良くブレーキが加熱して事故になる場所だが、それを登り切った場所が「笹尻」という交差点で、それを登ると十国峠までは10分だ。
その途中に「姫の沢」という市立公園があって、ここから日金山への登山道があるので、そこを歩いた。公園までは車で行って、ぐるっ廻って帰る道で、それでもペットボトルの水を2時間で飲み干した。おかげで今日も足の筋肉が少し痛いなあ、、。汗をすごくかくので風呂が嬉しい。
 香港から友人が来て、お土産に月餅をXOジャンを頂戴した。これでひき肉とインゲンの炒めをすると美味しいらしい。
 天気が良いし、気分も軽い。相場も暇でする事が無い。衣類の入れ替えをするのに都合が良い気候だ。革のブルゾンとかコートとかがそろそろ必要な季節になってくるのかな?それでも標高が250メートルと400メートルぐらい下がったから、函南の冬よりも暖かいだろうと思う。
日当りが良いと12月でも昼は暖房がリビングは必要ない。最初にこのフラットを見たのは、去年に12月10日ぐらいだった。サクサをその頃は売っていたなあ。あの頃より現在のほうが安いから、まだ低位株の上げ相場は先なんだろうと思う。

専制君主機械

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欲望する機械
「アンチ オイディプス」においても「アンチロゴスまたは文学機械」を受けるかのように、芸術作品は「欲望する機械」として規定されるだろう。しかし「アンチ オイディプス」では、実在そのものが、欲望する機械として捉えられ、議論全体が、欲望する機械を軸として進行する。芸術作品の規定も、そのような議論の中で理解されねばならない。
 それにしても、欲望する機械とは、どのようなものか?そもそも、二つの別種のものであるはずの欲望と機械とが、このように結合されてよいものなのか?これは基本的な問題であり、ドゥルーズとガタリも、「アンチ オイディプス」の中で、その問題に答えている。
 注目されるのは、欲望する機械という基本的な設定において、機械論と生気論を乗り越えようとするもくろみが透けて見えることだ。機械論は機械的因果性や構造的統一性を引き合いにだし、そのような統一性により生物をも説明しようとする立場のことであり、生気論とは、生物の有機体としての目的性や個体的統一性を優先させようとする立場をさす。前者の立場からすれば、欲望は、機械的な因果性によって決定されるだろうし、後者の立場からすれば、機械は、欲望の目的のための手段にすぎないだろう。いずれにせよ、機械と欲望、さらに機械と有機体は、たがいに外的な関係しかもちえない。
 しかし、このような外在的な関係自体が、実は、機械のマクロ的な捉え方に由来するとすれば、どうだろうか?ミクロ的な捉え方をするならば、区別するのも無意味なほど、相互に内在化されるのではないだろうか?
 事実、ドゥルーズとガタリが、機械論と生気論に代えて提案するのは、機械のマクロ的な見方とミクロ的な見方である。マクロな見方によれば、、機械も有機体も、単一体としてしか現れず、統計学的に個体としてのまとまりを示す。反対に、ミクロな見方によれば、機械も有機体も、それぞれの単一体としての統一を奪われ、それぞれの部分相互に、浸透や交通が織りなされることになる。マクロな見方により示される機械の状態は、モル的な状態と呼ばれ、ミクロな見方により示される機械の状態は、分子的な状態と呼ばれるだろう。
 ただ、この場合、ドゥルーズとガタリ自身も認める通り、これらの二つの状態は、機械の状態と呼べると同時に、生物の二つの状態と呼ぶこともできる。そこをあえて「機械」というところに、仮説的な選択が働いたと見なさねばなるまい。このように機械状論には、当初から仮説的な方法論という面が濃いということは、念頭に置いておくべきだろう。

欲望する生産
ドゥルーズとガタリは、従来の欲望理解は、欠如の相のもとに置かれていたとする。すなはち、欠如したものを獲得しようとするのが欲望の根本特性と見なされてきたとするのだ。フロイトも例外ではない。無意識の欲望により生産されるのは、実在に欠けているかぎりの幻想とされるのだし、無意識の欲望が経由するはずの去勢幻想も、欠如が威圧的な相のもとに現れるものに他ならないからだ。
 これに対してドゥルーズとガタリは、あくまで実在的な生産過程を、欲望のうちに見て取ろうとするだろう。すなはち、無意識の働きを、欲望する生産という、あくまで肯定的なかたちで捉えようとする。
 では欲望する生産とは、どのようなものなのか?ドゥルーズとガタリは、それを三つの点から規定している。まず、生産の生産。次に生産の登録。第三に生産の消費である。
 生産の生産は、接続的綜合とも言い換えられる。これは、欲望の流れが(これと、あれと)という具合に、(と)を介して次々に組み合わされていくあり方をさす。ここで接続されるのは、流れと切断である.
(猫の注 相場のケースでは仕掛け仕切り休みの事でしょ?)すなはち、流れを生産する機械と、流れを切断する機械が組み合わされ、切断する機械は、今度は流れを生産する機械となり、さらにその流れを切断する機械に接続されるという具合に続いて行く。(注、売りと買いがドテンによって相互を切断し、また連続する)
 たとえばミルクの流れは、口によって切断され、胃や腸による切断を経て、肛門によって切断される排泄物の流れとなる。この場合、これらの生産し切断する機械は、器官機械であるが、あくまで部分対象としてのそれであることを銘記しておこう。
 登録の生産とは、欲望する機械が、器官なき身体の表面に配分され、登録されるやり方にかかわる。器官なき身体とは、諸器官もしくは欲望する諸機械の有機的組織化に抗い続ける原初的な全体であり、欲望する機械が記号として登録される支持体ともなるものだ。ちなみに、「器官なき身体」という言葉は、アントナン アルトーから借りられている。
 登録の生産は、離接的綜合と言い換えられるだろう。それは、器官なき身体上での登録が「これであれ、あれであれ」というかたちをとるからだ。このように、離接とはいえ、「これか、あれか」という二者択一手的なかたちをとるものではない。したがって、この段階で、私は親か子のどちらかであるとか、母か父のどちらかであるとかいった、二者択一を迫られる必要はなく、たとえばアルトーが言ったように、「この私は私の息子であり、私の父であり、私の母であり、そして私である」といった事態も想定されるのだ。
 登録は生産に折り重なり、登録の生産は生産の生産によって生み出されてくるのと同様に、消費は登録に続いて起こり、消費の生産は登録の生産によって、しかも登録の生産の中で、生み出されてくる。消費の生産は、登記の表面上に姿を見せる主体に関わるものだ。ここで主体は、いかなる取り分を吸収するかによって、その結果として、自らを明確化する。主体とはいえ、同一性を欠いた主体なのだ。
 消費の生産は、連接的綜合と言い換えられる。「だから、これは、、、、である。」という形を取るからだ。この綜合は、そのつどの消費の終点において、たとえば「だから、これは私である。」と言うほか無い、主体のあり方を指し示す。要するに、残余としての主体、残り物としての主体である。それでも、この主体は、あくまで「私は感じる」というあり方をする。たとえば、「私は神になると感じる」とか、「私は女になると感じる」とかいった具合だ。しかも、それは、しかじかの強度を享受した結果としての「私は感じる」なのだ。
 ドゥルーズとガタリは、これら三つの生産、三つの綜合を、エネルギーのあり方によって特徴づけている。まず、欲望する生産の接続的作業がリビドーと呼ばれ、このリビドーエネルギーの一部が、離接的登記のエネルギーとしてのヌーメンに変えられ、さらにこのヌーメンの一部が、消費のエネルギーのウォルプタスに変えられるといった具合だ。ちなみにヌーメンとは、神聖さを表すラテン語、ウォルプタスは、享受を表す、やはりラテン語である。

 器官なき身体
 器官なき身体は、確かに、全体として規定されるかもしれない。しかい、この全体は、諸部分のかたわらに、ひとつの部分のように生み出される全体だ。この部分のような全体は、諸部分を統一化することも、全体化することもない。このような全体性、横断的な全体性であり、統一性である。
 このような全体性については、機械論も、生気論も、いうべき言葉をもたない。機械論と言えば、起源の全体性を想定し、生気論といえば、目的の全体性を想定するばかりだからだ。結局のところ、全体と部分の問題は、生気論によっても、機械論によっても、正しく提起されてはいない。
 重要なのは、そのような横断的全体性、かたわらにあるとしての全体性は、多様体としての欲望する生産の規定と不可分であることだ。『一』と『多』とのどちらにも限定されず、どちらも超え出るものとしての多様体だ。
 ただ、この多様体は、さまざまな強度からなる多様体である。強度という点からいうと、器官なき身体は、そこから出発して強度が測られる強度ゼロを示す。そのかぎりで強度の母胎だといってもよい。部分対象もしくは器官は、そこから出発して、さまざまな強度の度合い、強度的な諸部分として生み出されてくる。器官なき身体が、生命のもっとも原始的形態として示されるのも、そのためだろう。
「差異と反復」は、「もろもろの事物が、一義的に分割されない一つの「存在」のまったき広がりの上に自らを展開していく」彷徨の配分、ノマド的配分を語っていた。器官なき身体上での欲望する身体のあり方を予告するようではないか?
 ドゥルーズの語る一義的存在状でのノマド的配分は、表象=再現前化の規則に従う定住的配分とは異なる。同様に、無意識における欲望する生産のあり方は、表象=再現前化の規則に服しはしないだろう。にもかかわらず、それを表象=再現前化しようとする動きが無意識の生産をおおい尽くそうとするだろう。それこそ、精神分析において、それも精神分析の家族主義において、起こったことだ。ドゥルーズとガタリにとって、家族的ということは、
表象=再現前化の本質に属するからであり、表象=再現前化を優先させることは、必然的に生産を窒息させることになるからである。      
           「ドゥルーズ ノマドロジー」 篠原資明 より転載

 頭の固い人=おマヌケでオバカな人=物事の答えを二者択一的にしか捉える習慣のない人 と話すと疲れるからそういう人はもう来ないでねとお祈りをしていても、投資系のブログを読むような人の大半はそんな人ばかりだから困る。いくら書いても言語が通じないから無視する以外に手が無いのである。
「脳の編成を変える」という事が出来ない人は多分大半がそのうち時間の問題で自己破産したくても出来ないような酷い状態になるのが相場ものの歴史的帰結だというのは誰もがどこかできっと薄々気がついていると思うが、事実を誰も語らないのがこの社会の暗黙の礼儀みたいなものだろう。だって書いたらお客さんが減るからだ。よく新聞記事に事件として出ている、銀行員の横領とか詐欺の原因になっているのが、相場の失敗という話を聞くのは頻度が高い。とにかく「自己責任」の社会なのだから、「美味しいお話」で釣って「墓穴を掘る」ようにリードするのが金融マンのお仕事なのだ。だからテキストをどう読んでみても大半の人は自分でせっせと「墓穴を掘る」。すごく上手くいくのは10万分の一ぐらいの確率なのだ、統計値は。
 「脳の編成を変える」というのが、実際にどういう動作と訓練が必要か?という方法論と哲学を僕は一番重要な成功の要素だということを毎度クドクドこうして書いている。それをしても実際は出来ない人の数は出来る人の数の千倍ぐらいにしかならないだろうとも思っている。それでも他に方法を僕は知らないから率直に書いているのだね。
そうやって相場でお金を稼いで一体僕たちは何をするのだろう。一応の贅沢をしたらあとは使い道が余り実際は無いのだね。資本主義の歴史的発展過程の第二段階は専制君主機械という状態になる。日本の場合は明治から再開された王朝による立憲君主制だ。そしてヒロヒトがイヤイヤ人間宣言をするまで、天皇は神と同値だった。ということで専制君主機械を登録するものとして、昭和天皇の和のレシピという本から本日は地味なメニューにしてみる。

 我が家の女王陛下がやってくるから、豚の角煮(2時間)、ポテトサラダ(40分)ゴボウの叩き(35分)小松菜のおひたし(20分)赤飯(2時間)と手間を惜しまず作ってみた。原価はせいぜい2000円もしないと思うが5品作るので一日がかりである。だから女王陛下に仕えるノマドライフも結構大変だと思います.(大汗)
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深夜に良く死ぬ人が出るパサディナマンション

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KICHIのタルト 400円で美味しい!(イチジクとナッツ)

「高齢の方が朝早く起きてしまいやすくなるのは、メラトニンという眠気を誘発するホルモンが加齢によって減少してしまうからです。また体力の低下が、そのまま寝る力も奪ってしまっています。むしろ高齢の方は早寝早起きよりも『遅寝遅起き』のほうがずっと健康にいいんですよ」遠藤氏によれば、早起きすることなく深い眠りを実現する一番の方法は、昼間から夜にかけて、時間を忘れるくらい趣味に没頭することだそうだ。ウトウトしながらテレビを眺めているのは最悪で、例えばプラモデル作りなどの集中力を要する趣味に時間をかけると、朝まで深く長く眠ることができるという。ケリー博士は特に日本社会に対して危機感を抱いている。
「統計的にも、日本人は世界中で突出して睡眠時間が短い。加えて早く起きる人の割合も多い。しかも学校や政府、企業がそれを主導しているように思えます。『早起きは三文の徳』ということわざが日本にはあるようですが、とくに高齢の方には、それは科学的に間違いだということを十分理解してもらいたいです」
健康に長生きするため早寝早起きを心がけようその思い込みが、実は、あなたの命を脅かしている。
「週刊現代」20151017日号より
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 嘘かホントかよくわからないが、日本人の理想習慣の逆説的な指摘だから僕はこういうのを読むとニヤニヤして楽しい。推論すれば、とても教科書的に正しい日本人のリーマンは、早起きして会社で良く働いてクタクタになって、その後ポックリ死にやすいという構図が透けて見える。社会常識で刷り込まれた事を鵜呑みにして実行していると、思いもしないしっぺ返しに合うという「いつもの事だね。」と思う。だってみんなが同じようにする事って大半が程度の低い価値観に合わせている。(オバカを騙しやすいからだね。)「低いほうに合わせないと多数が実現するのが難しい」からなんだろうと思う。その多数が納得するような論理を作り出すのを日本人は「教育」なんて呼ぶが、僕はこれを「訓治」なんて言葉で呼ぶんだね。(爆)世間を舐めてかからないと反論できないという一点をもって判断すると「何が馬鹿げているか」を判断しやすい。つまり「集団主義の実行は集団の利益であり、個体の損失であるケースが大半でしょ?」そういう理屈を「リベラル」と呼ぶのがインテリ世界の常識だと僕は思うのね。
 仮に早起きの働き者のリーマンが、こうして定年までばっちり仕事をして引退して、ポックリ死ねば、社会保障費も年金支給も少なくて済むので「安上がり」だから、文科省、通産省、厚生省が結託して「早寝早起きキャンペーン』をやれば、コストダウンに確実になる。
4歳下の友人が証券会社に勤務している。彼はファンドの卸売りだが、出社はずっと午前7時ぐらいらしい。千葉県に住んでいるから家を5時半には出るという。まだ暗いでしょ?この会社は8時には全員が出社しているというから、株屋(といってもリテールはないのにね)を長くするのはこれだと身体に悪いことになるが、みんながそういう時間配分で生活するのが前提になっていればどうしようもない。多分12時ぐらいには寝ないと身体が持たないだろうと思う。友人の女子の有能なリーマンも同じような時間帯で勤務してその結果「ノイローゼ」になって休職している。つまり身体に悪いことを習慣化していたからだろうと推測するのね。「嫌な事を無理に努力してやれば自殺行為なんですよ」という自分の身体のメッセージを軽視していると誰でもそうなるという事だろ?と思います。もっとグータラ自分のペースでお仕事をすれば良いだけの事でしょ?と思います。
一方で僕はたいてい、2時か3時にそろそろ寝るかね?と読んでいる本を閉じて電気を消す。寝る前に風呂に入るのが、1−2時ぐらいだ。起きて午前11−午後1時ぐらいにまた風呂に入るから1日2回、12時間のインターバルで掛け流しの温泉浴をする。これが唯一の健康法だが、今の所有効で、医者いらずだ。2時か3時に寝て9時か10時に起きるから7−8時間寝ている。「遅寝、遅起き」だから理想的だ!グータラ生活だから、世間とはズレている。だらしないと指摘されるが「それで何が悪い!自分の人生の時間配分を世間常識に合わせて暮らせば貧乏人まっしぐらは確実なのだから、貧乏人が出来ない暮らしをするのが僕には良いんだよ。」と真面目に思っているのだね。こういうのを戦争機械とか逃走線とかノマドライフとか器官なき身体とか呼ぶけれど、一般常識からは「ハア?」だろうと思う。そもそも住んでいる世界が違いすぎるから話がちっとも噛み合ないのですね。まあどうでも良いけどね。
深夜午前1時過ぎによくゴミ棄てに行くのだが、29戸のマンションで明かりのついているのは僕の部屋だけ!老人が10戸は住んでいるはずなのだが一人も起きていない。深夜によく救急車が前の道をサイレンを鳴らして通る。4ヶ月で3回ぐらいあった。付近に大規模リゾートマンション(熱海最大の220戸、定住推定70戸)があるがそこの救急搬送だと思う。心筋梗塞や脳梗塞が多いと思う。せっかく引退して温泉ライフを始めても、昔と同じ習慣だと効果があまり無いんじゃないのか?と思います。

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