健康寿命という言葉があるらしい。つまり老人が介護や援助なしに一人で健康に快適に普段通りの日常生活が出来る年齢ということで、日本は男性71歳、女性75歳といずれも世界でナンバーワンであるらしい。長寿でしかも健康寿命が長いというのは、実質的に楽しみの時間をたくさん取れるのだから、平均がそうなら個人差はさらに大きいから篠田さんみたいに凄い人は103歳でも健康で元気でバリバリの現役だ。きっと彼女は生きることそのものが毎日快楽で楽しいからだろうと思う。山中湖で毎日時間ごとに姿形を変える富士山の佇まいを見るだけで幸福な気持ちに満たされると自伝で書いている。優れた先輩の言う事を聞くというのは保守の伝統だと思うが、何が優れているかという視点は個人差が激しいから、僕はリベラルな個人の力を一番重要視する。それで今まで間違ったと感じたことがほとんどないという経験からである。優れた個人は凄く稀だが確かにいるのだ。
認知症で寝たきりになって100まで生きても楽しいとは僕にはどうしても思えない。かえって生きるのが苦しいんじゃないかと思うのだ。老人は残った時間をどれだけ健康に楽しく充実して生きるかに幸せの質はかかっていると思う。お金の要素は思ったほど高くないのだから、金が無いと悲観する必要はない。喰えればそれで宜しい。それより何をどう誰と一緒に喰うかのほうが金より数倍大事な要素だと思う。
一方で30−60代までの死亡原因の一位は常に自殺である。これはきっと心が病んで(身体もたぶん多くの場合病んで)自死するということで、生きるのを自分で諦めてしまう。きっと競争が激しいという事もあるんだろうが、競争すれば勝敗が出るのは当然なのだから、僕に言わせれば負けるような競争なんて一切逃げてしなければ良いだけだろうと思う。
受験競争、就職競争、出世競争、結婚のための競争とかストレスになりそうな事は全部避けて暮らせばストレスは減る。過当競争をして有利に仮に物事が進んだとしても大して成果は大きく無いのがリーマン日本社会の特徴だから、適当に手抜きでスイスイやるほうが楽だろうと思うのだ。馬鹿正直にやって報われるのは完全競争が担保された社会だが、日本はそうではない縛りだらけなのだから割り切って犬をやるしか手が無いのである。犬をやれば無論ストレスフルで直ぐに病気になるか死にやすい。別に大金が無くてもどうということは無い。大金がかかりそうな事をしなければ良いだけだろうと思う。
物やサービスの価格は大半が需給によって市場で決まることが多いのだから、衣食住全てのコストの大半は需給で決まる。したがって、人が欲しがらないものは売れないから当然コストにかかわりなく安いという現象が一般的である。銀座の鳩居堂前の地価が一番高いのは、人出が一番多く物を売るのに有利だからだろう。一方地方都市はシャッター通りで借り手がいないから、住居費や地価は安いのだ。だから金がないのなら、不便で人気の無い場所に住むと安上がりで、そういう場所で出来る仕事を探せば良いということになる。大半の人は勤め人だから通勤の理由から便利な場所が良いと思えば、同じような場所になるから高くなるが、そうでない仕事をすれば良いだけだろう。50年も前は、リーマンがそんなにたくさんいたわけでもないし、多くの人が農業をまだしていたはずだ。最近は一部で、一次産業に人が戻る傾向が生まれてきたし、晩年の菅原文太は山梨で農業法人をやっていた。俳優業が嘘くさいという事で辞めてしまったのだろう。玉村豊男なんて40歳から百姓を始めている。やる気があればやり方はなんとかなるものである。
人の評価なんてどうでも良いと思えば、自己満足や家族の満足が全てであるはずだが、自分が何に満足するのはわからないという馬鹿げが現象が起きるから、広告代理店がきっと大きな商売になるんだろうと思う。
56歳で初めて都会以外に住んでみてわかった事がたくさんある。頭で考えて想像していた事と実際に実行してわかった事に大きなギャップがたくさんあったし、その一番大きな部分とは「時間と人の気持ち」の関係性という事だ。人の少ない別荘地に一人で(猫はいるが)しばらく住んでみると、周囲には誰も知っている人がいないから、自分だけがなんとか呼吸していれば良いということが生存の最低条件である。それには車の運転が出来ること、(眼と四肢に特段の異常がないこと)、料理が出来ること、掃除と洗濯が出来ることという4点が最低限必要だ。全てが(運転は別として)昔からの奥様の伝統的なお仕事である。だから女性は長生きできたのかとやっとわかったのだ。金儲けの仕事はその次のことで、成果は公共料金と食費をカバーすれば済んでしまう。税とか車とか少しは他にもいるがまあ贅沢さえ言わなければ大した金ではないから、生活保護費(東京で13万か)ぐらいあれば生きるだけならなんとかなるのだ。ミニマムの暮らしである。別に不愉快ではないし、シンプルでそれはそれで中々楽しくて良いものだ。宅配が発達したから必要なものは全てネットで簡単に安くて便利なものが買える。でも一人で暮らすとそんなにたくさん物が必要にはならないと思った。身体は一つしかないので、身体の限界が欲望の限界に嫌でもなるし、個人の欲望なんてタカが知れていると思う。だから金の必要性が都市部の数分の一になってしまう。住居費なんて数分の一で住むし、外食したくても店がないのだから、金があってもそもそも意味が無いのだ。
経済学に外部性という言葉があるが、田舎の暮らしは「資本制社会の外部性」という部分がまだかなりあるのが新鮮である。金ではどうしようもない事が都会よりも多いから、自分でなんとかしない限りはなんともならない。でも自分で出来ることはタカが知れているから、なんとか出来ないことは致し方ないと諦めが容易につく。ある意味、悩みというものが存在する余地が余りないのだ。
昨晩は一級建築士の友人夫婦が遊びに来た。それでゴハンを作って食べて一緒に遊んでいた。お土産に藤稔の特大を頂戴した。昭和天皇の和食レシピという事で、合い挽き肉が450グラムあったので紫蘇を使ったハンバーグにポテトサラダ、豚汁、キャベツの漬け物を作った。洋食屋さんの定番のようなメニューだが、一人でゴハンを食べるより数段美味しいし楽しい。コストなんて4人分で多分2000円ぐらいしかかからないと思う。だから幸福というのは時間と質の問題で金の量の問題とは異なる場合が多いということだ。でもそれはある一定の基盤の上に成立している。ホームレスでは多分無理で40坪の広さと快適なリビングと家具とキッチンがあって初めて成立する。だがそれも選びようによっては都会と比較すれば激安で手に入る。選択という質の問題で、質とは個人的な比較感覚の問題である。
仮に現実の自分の生活が不愉快だとすれば、それは自分の選択の質が失敗だったという事実があるのだろう。選んだのは自分以外にはいないのだから、失敗したと思えばやり直しをすれば宜しい。一時的な損切りが多分出るだろうが、死ぬほどのことには多分なるまいと思う。美味い洋食屋が熱海にないという事が自分が美味い洋食を作る動機になるという意味で不便を楽しむことが出来るようになる。これを外部性の効用と僕は呼んでいる。時間が豊かにある人にしか出来ない楽しみの質であると思う。 |
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