別に正しくなくても全然構わないから気持ち良く快適に生きたいと思ったのは父親の死に方を見たからなんだねと思う。正義感とか倫理観とかいう相対的な価値観は他動的なものだから、そうじゃなくて自分なりの自動的な価値観や感覚に頼って生活したほうがたぶん毎日が楽しいに決まっている。人を責めるようなお仕事の人は酷く苦しんで死ぬ事が多いと坊主に聞いたが、刑事とか検事なんて職業は酷い苦しみ方をして死ぬ人が多いそうだ。楽しく無いことをすると幾ら仕事でも身体や心がきっと壊れてしまうんだろうと思う。人間は独りでは何も出来ないのだから、誰もが誰かの役にたって(お仕事の効用)その対価の便益を得るのがお仕事の本義だろう。それは主義にかかわらず、歴史的な労働の役割である点に別段異論はない。
だだし需要<生産という時間帯と 需要>生産という時間帯は、生産と需要の持つ歴史的な価値が逆転する。その逆転をリアルに感じるというのはつまり感性とか感覚とかいう事だろうし、その感覚の鋭敏さが「アリとキリギリス」の寓話の意味を逆転させたのだろうなあと僕は思う。そういう小さな物語しか無い時代に生きているという実感が出来た時に僕はいわゆる普通のお仕事(労働者とか経営者とかいうお仕事だ)を辞めてしまった。まあ少し金があったから働く必要性を強くは感じなかったし、10年ぐらい遊んで家族が暮らせるのなら、そのほうが楽しいと思ったからだろうと思う。多分家族は動揺とか混乱したのだろうが、家族の毎日の糧を取って来るのが仮に僕の役割だとするのなら(今はそうは思っていないが、当時はそう思っていた)その必要が当分はないのなら、行動は自然と変化するだろう。快楽や怠惰のために生きると社会との軋轢による抵抗感が生まれる。とにかく毎日プーラプーラしているのだ。場帳とグラフが完備するまでは寝ないでお仕事を好きでやっていたが、まあ1年もネジを巻いてやれば準備なんて楽勝で出来る。その後は暇になるのが相場師だ。
赤いボルボのV70TとかガンメタのダイムラーW6とかシルバーのメルセデスとか派手な外車に乗って、ヒラヒラしたカッコでチンタラ昼から遊んでいても、同期の人は40代だからお仕事の真っ最中で急がしい。すると麻薬の売人とかヒモとかヤーさんとかだろうと思われる。とにかく「忙しくない大人」というのはロクでもない怠け者で忌むべき人種という評価が日本では一般的なんだろうと思う。ども昼間の高級レストラんなんて有閑マダムの巣窟なんだね。亭主が会社で社員食堂でラーメンすすっていてもマダムはレストラんでワインを空けてごちそうを喰っているなんて普通の光景なのだから、まあ女は実利的に男の使い途を知っているということだろう。男の二人連れなんて昼間は50組に1組もいないぐらいだし、いても接待飯なんだね。まあ人様の評価なんてどうでも良いが、自分が楽しいと思う生活をするのは個人の自由なんだから喰うや喰わずでひーひー言っている労働者には偉そうな事は言われたくない。汗水垂らして安月給で働くのだって本人の選択でそうなったはずで別段僕が頼んだわけではないだから「お好きにどうぞ」と言う他無いし、オツムが少しクールなら金ぐらいなんとかするのが資本主義に生きる才能という事だろうと思うから、勤労が美徳なんてショボイ価値観はゴミ箱にとっくに入れていた。
相場師の社会的役割とは何だろう?というような哲学的問いを持つような同業はほとんどいない。つーか、相場師になるような奴はロクな奴ではない事が多いので(自分も含めて経験論から言うが)
ロクデモナイ考えを大抵は持っているだろうし、僕も例外ではない。だから「全ての労働倫理を愚弄する」にはどれぐらいプーラプーラしながら快楽的な暮らしが出来るのかが一応の証明になるんだろうかとも思う。社会的役割とは需要不足の緩和をおいて他にあるようには思えないから、普通の貧乏な人たちには出来ない需要の質量の消化ということだろう。マジな人からするととんでもない価値観の逆転という意味だから、ある意味ジョージオーウェルではないが反語的になる。『戦争は平和である。』だと阿部ちゃんそっくりだが『怠惰は勤労である。』とか『奢侈は美徳である。』とか『貧富の格差は平等である。』とか論理矛盾や言語矛盾を内包する価値観である。
20世の哲学はブルジョワ階級の趣味の頭の使い途の好例だと学生時代から感じていたので、まずおフランスの現代思想のお勉強をすることが僕の趣味になったのだろうと思う。だから普通の相場師(そんな人がいるのかどうかは知らんが)と僕とは格調が高い文体という格差を持って平等とするという反語的な意味合いのテキストを志す。するとおへその曲がったインテリたちが格好ひっかかるものがきっとあるんだろう毎日400以上のアクセス、時には暴落時は500を越える事が多いので、「ああ明日は買だね。」と素直にドバーっと拾って2週ぐらい経ったら戻りを売る。昨日とか今日とかは月初の突っ込みから休み2つだからちょうど良い戻り売りだ。なんでもかんでも売れば利食いで、「眼を瞑っていても利食いだろ?」と毎回、毎月書いているんだからそれこそ馬鹿でも取れるのだが、そういう操作が出来るようになるには、毎度クドイが基礎を固めろという他ないのである。
2週間に2回だけ−1と買って1−と売る、またはその分割をする。定型的な反復的な動作だが、少し相手に合わせた差異がある。まあ同じ事を500回、1000回やれば飽きることは飽きるのだが、商売とはそういうつまらない事の連続なのは相場師も同じであると思う。
「概念は、与えられるものではなく、創造されるものであり、かつ創造されるべきものである。しかも、概念は、形成されるものではなく、自分を自分自身において定立するもの、つまり自己定立である。創造されるということ、自分で自分を定立すること、というこの二つのきとは、たがいに折り込み(含意)あっている。なぜなら、生物から芸術作品にいたるまでの本当の意味で創造されるものは、創造されるということからして、自己の自己定立を享受するからであり、言い換えるなら、本当の意味で創造されるものが認知されるための自己創造的な(オートポエエティック)特徴を享受すうrからである。」 ドルーズ/ガタリ 『哲学とは何か』より転載
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