快適に人生の後半戦を生きるにはいくつかの不可欠な基本要素があるんだろうと思う。
まず動物が生きるというのは「物理的に、食べて運動して排泄して眠るという行為の連続性」にある。
これに生殖とか娯楽とか個体の生存とは直接的には無関係だが、付加価値的な楽しみが加わる。でも基本の動作がダメなら土台がダメだから結局は全部がダメになるなんだろうと僕が気がついたのは独り暮らしをやってみてわかった事だった。高齢者の1/3が独居らしいがますますそういう傾向は強まるだろう。善し悪しでなくそういう現実があるということです。定年離婚なんてザラにあるし、どちらかが先に死ぬからいやでも高齢者はいずれそうなる。そういう基本的な生活力が男は特に低いのだが、馬鹿だから会社に行って安月給を取れば役割を果たしていると勝手に思い込んでいるダメ男が実に多い。金なんて所詮使ってナンボの価値しかないから、安月給なんていくら取っても快適な生活が自立して出来るわけではないのに気がつかないのである。快適な生活を自立して自由に行うというのが上等な生活だろうと思う。他者に依存しないで健康で自分独自の力でそれが出来るのか?という問いを自問して、妻が死んだらアッというも無くお陀仏という男が実に多いのだ。
最低限の料理、洗濯、掃除ぐらいは出来ないとコンビニ弁当とゴミ屋敷の乞食と同じ暮らしに直行してしまう。
そういう僕も50歳まで台所なんて入ったこともなかったから、コーヒーを落とすぐらいしかしたことが無かったが、イヤイヤでもやっているうちになんとか出来るようになったから(すごくたくさん失敗したが)、文字が読めて普通の味覚があって旨いものを食べた経験がある程度あって手足が健康なら自分や家族の食事ぐらいは出来るようになると思う。洗濯だって、金されあれば安い洗濯機を買って、洗剤を入れて干して必要ならアイロンぐらいかけられればなんとかなる。難しいものはクリーニング屋に出せば良い。掃除はロボットもあるし、掃除機や激落ち君とかクイックルワイパーなんて日本独自の便利な道具と拭き掃除が出来れば良いだけだ。つまり全部慣れれば馬鹿でも出来る事だが、継続性、反復性がないとあまり効果がない事である。
最初はみそ汁を作るのも苦労するが、慣れれば「鯖寿司」だって「ブイヤベース」だって作れるようになる。一体60代の定年男で鯖を丸ごと1尾買ってきて、開いてそれを鮨にまで出来る男の比率はどれぐらいいるんだろうか?プロの料理人以外では多分1%以下だろうと思う。まず3枚に下ろせないだろうし、シメ鯖を次に作れない。薄皮をどう剥いて良いか、小骨をどう取るのか?細かい事は自分で失敗しながら覚えるしかないのだ。結局「買ったほうが安くて美味しい」という他者依存の状態を一向に抜け出せないのである。「買ったほうが安くて旨い」のはギャラとの関係で当然しかたがないが、「せめてデパ地下やスーパーの総菜を買うより旨い」状態にしないと意味が無いと思う。時給10万とか5万の男が3時間かけて鯖鮨を作れば、一切れ3万になるから数寄屋橋次郎よりも高価な鮨になるのは当然だからだ。ここで時間効率なんて言えば、何をしても非効率になるが、効率とは他者との比較感の尺度でしかないのだから、自立した自由に取ってはどうでも良い事である。他者との比較で意味を持つのは通貨と財、サービスの交換比率だけの事である。他人の1年を自分の1ケ月で交換できればそれで済むというだけ事である。だから時間を売るのは馬鹿のすることという結論に最初から資本制の社会では決まっている。分業とはそういう仕組みを前提にしているからだ。
結局は人生の最終版の快適な生き方とは、「資本主義」からの逃走線を独自に引けるのかどうかにかかっている。市場を使うのは資金や部材の調達機能を盗み取るという部分に特化していくことだろう。それには自分で出来る事を可能な限り増やすということ、他人のサービスをなるべく買わないという事だろう。なんでも自前で出来るなら、「通貨」の使用価値も交換価値も減価する。分業を選ぶという次元で、人間は「資本の奴隷」にならざるを得ない仕組みこそまさに資本の論理と構造なのだ。そして効率を追求した極限でまさに「分裂症」が待っている。
自分の身体そのものをまるで貨幣のように交換して市場で使用すること=まさにピエールクロソウスキーの呼ぶ「生きた貨幣」である。相場師とはまさに資本に対峙しうる、そういう唯一の身体性の象徴秩序の見本なのだと思う。 |
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