先日横浜に行った。中華街で食事をして何かお土産でも買うかなと思ったが時間が押している。娘の亭主がジモティーなんで「肉まん」の美味しい所はどこ?と聞いてみると、江戸青が僕は上手いと思いますというお答えだったので一緒に買いに行った。およそ10種以上の様々な具の饅頭を冷凍して土産用に売っている。一番スタンダードな肉まんを買った。500円を5個。彼にも奢った。僕はいつも華正楼か聘珍楼の安全パイばかりだから若者の言う事をたまには聞いてみようかと思ったのだ。こういう所は結構柔軟なんだ。というのも欲しいのは肉まんではなくて「新鮮な体験」が実は欲望の本質ということを年を取ると嫌でも知っているからだ。ケツの青いガキとその点は全く僕は変らない。肉まんなんて1個5000円でも1万円でも正直どうでも宜しい。スゲーと思うならいくらでも良いが、「肉まん」というジャンルでそんなにすごいものを見た事が無い。最後に肉まんで感動したのはたしか24歳の頃、今から35年も前に、飯田橋の十番の肉まんを食べたのが最後だったような気がする。それ以降、肉まんでスゲーと感動したことは一度もなかった。「まあまあね」ぐらいは何度もあるが「スゲー、最高!」と思うようなものは上海でも香港でも台湾でも横浜でも長崎でも一度もなかった。今回も「まあこんなもんかー」という程度だったのは言うまでもない。贅沢に慣れるとすぐに何でも飽きる。
思い出してみれば35年前のあの十番の肉まんがなんであんなに上手かったのだろう?それは僕が若く食欲が今よりも強くて寒い夕方で腹が空いていたという状況に起因する。肉まんそのものの理由よりもこちらの状況の理由がきっと9割以上なんだろう。つまり感覚というのは相手の状況を受け止めるこちらの状況との相関で強くも弱くも感じるという事に他ならない。だから強い飢えはある意味で常に極上のごちそうなのは言うまでもない。
反語的だが、人が強い幸福感を得たいと思うなら、どん底の不幸の真ん中にいるというのが絶対条件だと断言出来る。だから現在はどん底の不幸の真ん中にいない僕がそうならない限りにおいて、強い幸福感を得るということは不可能だろうと思う。かといって強い幸福感をすごく欲しいとも今更強くも感じないから、平凡で裕福で暇な毎日でなんとかそれを淡々と繰り返して行く以外に現実的な手段のない残りの人生なんだろう。つまんないと言えばこれほどつまんない事も無いんだが、怠け者だから深い感動を得るためにわざわざ苦しい努力までしたいというほど強い欲求はいつの間にか無くなってくるものだ。それが年を取るということの本質かもしれない。若い時はたくさんのお金があれば幸せが買えると思っていたものだが、いざ少しお金が出来て世の中の大抵の物が買えるぐらいのゆとりが出来れば、ほとんどの人はそれを実際には買わないで満足してしまうものだろうと思う.欲しかったのはその当該の物ではなくて、そういう当該の物をいつでも好きな時に自由に好きなだけ買う事が出来る自分という存在だったということに後で気がつくのかもしれない。
そしてきっと彼は昔好きだった大きな肉まんを買ってたぶん少しがっかりするのだろう。 |
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