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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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「今の日本の飲食店は、構造的に法を犯さないとやっていけない」「昔、月400時間働いていて年2回しか休みがなかった。ブラック企業のさらに上の企業なんて他にいっぱいある」と“氷山の一角”にすぎないとする指摘や、「高校野球での連投」や「『島耕作』(弘兼憲史さんの漫画)のような働き方」が称賛される日本社会の根底にある「猛烈な働き方を美徳とする土壌を、一部の人間に悪用されない仕組み作りが必要だ」という主張も。
 このほか、あるツイッターユーザーは吉野家の「牛すき鍋膳」が成功した一方で、すき家が今春「牛すき鍋定食」を始めた結果、アルバイトの離職や店舗閉店が相次いだと分析。「社内で議論を重ね、什器(じゅうき)の専門化やキッチンの対応強化など万全の体制で挑んだ」吉野家と、「やればできる」という上層部の成功体験から「できないことに挑んでしまった」すき家とを、経営姿勢の観点から比較、分析している。
 ゼンショーは深夜の1人勤務の解消など、問題の改善に動いている。「牛丼がこんなに安く食べられるのは、裏で店員さんの犠牲があるからだ」。あるネットユーザーの書き込みは真理を突いているが、その常態化は許されないだろう。
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今年のブラック企業大賞というのが毎年あるらしい。一昨年は東京電力が金賞だったとか。まあヒドイんだからしかたがないが、今年は牛丼屋が取るらしい。月に400−500時間ってどういう世界だろうか想像もつかないが、よほど剛健な人でも続ければ健康を害する時間だろう。全部立ち仕事、水仕事、火の仕事だから辛いにきまってる。僕も台所で牛丼作ることもあるが、1−2食作るのに多分10分か15分(ゴハンを炊くのは別だ)かかる。ゴボウ、タマネギ、ネギと茸を切って、酒、みりんと出汁で1分煮てから牛肉を入れて2−3分、それに卵を落として蒸らせば終わりだから簡単だ。でも肉は愛鷹牛の肩ロースだから100グラム580円ぐらいだ。200グラムで1200円。ゴハンと卵と野菜で150円ぐらい。食材の製造原価は1350円ぐらいだと思う。きっと高島屋の地下の今半で食べるすき焼き定食1980円よりも良い肉と量があるから、お吸い物でも付けて小鉢を加えて美しいお重で売れば3000円か4000円だろうと思う。5星ホテルの昼のメニューは大体そんなものである。一方でオーストリアかアメリカの安い肉なら300円で外食できる。1/10の単価である。庶民が何を喰っているのか、どういう顔をして喰っているかを見るのに、5年に1回ぐらいは吉野家に調査に行くことがあるが、正直「悲しい気持ち」になってしまう。便利で安いというサービスに文句をつけるつもりはないが、味は正直褒められない。第一なんで「甘い」んだろう?肉の味がわからないだろう?と思うので美味しいと感じた事が無いのだ。食事は「楽しみ」だから、栄養だけ取れれば良いというものでもないだろう。第一働いている人が苦しい状態だと動作は粗雑でムードは暗くて辛いなら、それが商品、サービス、店の雰囲気に現れる。外食は「ハレの楽しみ」である僕にとっては論外ということになる。それなら家で自分で作ったほうがマシであると思うのだ。でもそれしか選択肢のない人たちはきっと沢山いるのだろう。「日本ってホントに先進国なの?」(笑)
 きっと資本主義という仕組みの一部分が既に大きく狂ってるか壊れているという事だと僕は思う。こんなにまでして働いて毎月一体いくら給料をくれるのか?50万も100万もくれるならまだわからないでもないが、多分アルバイトにそんなお金は上げないんじゃないかと思うのだが。働くほうも異常だが、実は喰う客も異常なのだ。ちゃんと600円でも1000円でも支払えばきっとこういう事にはならないだろう。昔僕がリーマン時代、あるいは会社をしていた時、高田馬場でランチは外食が結構あったが、その時は単価1000円前後だったと思う。炊いたサバに野菜の煮付けの小鉢、小さな冷や奴、梅干しにみそ汁。ゴハンはお変わり自由で950円なんてのを美味しく食べていた。70歳を過ぎた婆ちゃん二人がやっている定食屋さんだった。ほうじ茶がついていた。これなら近所にあれば今だって行きたい。別にすごく高級な刺身や肉が出ないでも良い。サバでもシャケでもイワシの煮付けでも豚の角煮でも宜しい。ちゃんとした食材をきちんと美味しい料理に仕立てるのが外食のお仕事だろうと思うのだが。
それが半分以下、ワンコインにいつからなったのか?は1997年ぐらいからだろう。ここから国民所得が下がり始めデフレになったのだ。あの山一の倒産の後からである。リーマンの平均年収が380万まで落ちたからだ。それからもう17年が過ぎた。コンビニ弁当は300円を切っている。どんな国でどんな食材を使えばこの値段になるのか?という事を考える人はいないのだろうか?「安すぎてあまりに危険」と感じる僕は絶対に食べない、デパ地下の1000円弁当も怪しいと思うから食べない。だって偽装ばかりしている業界なのである。ホットモットという弁当屋で友達が買って来た唐揚げ弁当というのを一度喰って胸焼けしてヒドイ思いをしたことがある。きっと油がヒドイ状態なのか、あるいは鶏肉がヒドイのか、人間が喰える飯ではないと感じた。「安さ」だけを訴求するような商品にロクな物が無いのは当然だと言えばそうなんだが、それでも許される範囲というものがあるだろう。それを越えているというのは罪悪に近い。回転鮨の穴子はウミヘビだそうだ。ちゃんとした値段を取らないからそうなるんだろう。どこか店も客もおかしいんじゃないかと思わない感覚が異常である。これでは先進国では多分ないだろうと思う。未開の黄泉の国.(爆)何が出てきても不思議でない国か?
 6月に新宿の麺どころ「武蔵」で4年ぶりにラーメンを食べた。全部のせで1000円ぐらいだったと思う。ちゃんとして美味しかった。これは自分では作れないレベルのスープと麺だ。プロの仕事である。1000円を高いとは感じない。2000円でも支払う値打ちがある。客がその店に何を本当に要求してるのか?をわかっている店が多くないというのが問題点である。それは店の責任であると同時に、ダメな客の責任でもある。政治家と国民の有り様と全く同じ事がこの国で起きているという証拠だろう。きっともう水野和夫の指摘するように資本主義と民主制の賞味期限が切れかけているのだろう。

来週から秋相場?

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長っパリの相場師に役に立つ習慣というのがある。とにかくまずは30年以上の長期間の月足グラフを沢山書く事だが、その書いた後のお話だ。300ぐらい書いたら(これぐらいは職業的に相場をするなるのなら最低の最低の最低の量だと思うが)そこからのお話。これ以下だと選びようが無いと思う。
僕は1200枚ほど書いているが、重複するものが2割以上ある。その重複するものというのは分かっていて2度3度と書く。それは「これがまた書きたい」と自然に感じる時が数年に一度ぐらいあって、そんな時に最初から書く。だから同じ物が3枚ある銘柄が多分80ぐらいはあると思う。2枚だとこれも100ぐらいある。不思議なもので複数回書いたものというのは、大抵いつも買い玉がある事が多い。一方売り玉(純空)は1枚しか書いていないものが大半である。それは値がさ(1000円以上の時価)を売ることが多いからで、これは天でドテンなんて難しいことはしないで、2番天井を狙って売るという簡単な売り方で天井したかなと感じたらゆっくりと売る。だから張り方に応じたグラフということになるんだろう。複数回書く事で「慣れ」の感じ、「違和感」の感じが強く受け止めるようになると理屈上は説明できようが、してみないとわからんと思う。

 さて1200枚の中で気に入ったものを一枚選んで、壁に貼る。それはいつも視界のどこかに入っている。現在は床の間にTOPIXの1990年からの月足を貼っている。毎月壁に貼ったまま更新する。5メートル離れているから細かい部分はテーブルからは見えない。遠目では大体の大きな流れしか眼に入らないから底から立ち上がってきて2度目の揉み場だというぐらいがわかるだけだ。ナバッパリなんだから、まだ小さな下げの波をつなぎで取るような小賢しいことは絶対にしようとは思わない。窓が開いたら元も子もないようなリスクは取らない万年強気が目先天井までしばらく続く。それより押したらドンドン増玉して総玉を増やして単価を下げる。いわゆるポツンポツンと拾う。中にはにストップで吹くものは150円ぐらい上げたら一旦外して、単価を半分以下にして異銘柄で増玉だ。この繰り返しだけをしている。簡単な方が儲かるのだ。動作は「押目と突っ込みは買いで吹いたら外し」の単純な逆張りである。これ以外もう2年間同じ動作しかしていない。(もっとも昨年5月は安値を引っ張って買うために買い玉を○にした後、試しの空売り玉を小枚数建てたが)つまり低位株個別をうねり取りをしながらも、全部を一つとして扱っていることになる。重大な点は1回の利食いで現金化したものを次の押目や突っ込みを拾うという動作で「単価を下げて総枚数を増やす」ことを必ず実行することである。仕切りごとに総数が増える。極端な話、途中の利食いなどどうでも良いのだ。総数だけ増やせば正解で利食いで総数が減れば利食いでも「負け」である。低位株物色には循環性があるのは明白だが、その時間軸の予想なんて個別ではまず誰がやっても当たらない。だから散らしてのんびりと待つ。別に腕はいらない。吹くまで待とうホトトギス、節税なら殺してしまえホトトギスを気分で組み合わせて行うだけだが、別に慌てて利食いを入れる必要は無い。機関投資家ではないから、期日の制約なんてないのだ。今日の飯が喰えれば宜しいし、その飯代は数年分以上、別に現金で持っている。だからゆっくり相場だけ見ているということが出来る。そんなこんなでこれまで生きて来たし、これからもボケなければきっと同じだろうと思う。

 さてグラフ1200枚を1000番台ごとに丸めて保管している。その中で今日は6000番台を見るかな?と思ったら、それを広げてゆっくりと見る。100も200も見ていると「これいいなあ!」がいくつか必ず出て来る。玉帳で買い玉を確認して増すかどうか考える。そんなことを2時間ぐらいかけながらつらつら見て時間が経って行く。業種的な事、時間軸の事、アノマリノーの変化、うねりの周期の事、ギャップや星の配置など、当該銘柄の癖から感覚的に「良い時間に来たもの」をざっくりと自然に選んでいるということなんだろう。当て物なんだが結構当たりが出る。そんなのを毎月練習生に参考銘柄として月初に配信している。場帳銘柄が多いが、株式併合とか分割で値の連続性の無くなったものは外す。また外した分だけ新規に採用する。基本は外したものと同業種を中心に選ぶがまあ適当に感覚で選ぶのだ。それを毎月同じように繰り返して一年が過ぎて行く。先月までのグラフでは6000番台では2007年の上場来高値を抜いたもの、その付近にあるものなど先行するものと、未だ底練り中のものが混在して二極化が激しく起きているのがわかる。買い手が昔と比べて外国人が増えているというせいだろう。値動きのバラツキに変化が出ているということだ。

 月足グラフを書いたことの無い人は、作業が大変だから最初は文句ばかりを言う。した事も無いくせにその効果をどうしたこうしたと余計な文句を言うのだ。全てしたくないための言い訳である。実行力が無いくせに文句ばかりを言うのは、無能なリーマンの特技でそういうのに限って給料泥棒の役立たずの貧乏人なのだが相場で生きている相場師のアドバイスを聞かない。仕事としての自覚が最初から無いのである。「俺に文句を言うのなら何億か耳を揃えて取って来てから言え!」と言いたい。下らん質問も同じ事だ。そんなことが理屈で理解できても動作と道具がダメならいずれ破産するに決まっている。嫌というほどそういう類いのアホばかり見てこちとらウンザリなのである。

考えとやり方が温くて徹底しないから結果がダメなのだ。それを改めれば即座に良い方向に変わるぜというのがアドバイスなのだが、何を言っても当人が実行しない限りわからないし変らない。つまり全部が全部アマチュアの砂場遊びである。
マネーゲームがスコア勝負なら、ハイスコアを出すにはまず道具の性能が悪ければハイスコアが期待できないぐらいどんな馬鹿でも想像がつかないんだろうか?ゴルフだって全部5番アイアンで打てば勝てるはずがないと思わない頭って痴呆だろう?
「プリンを食ったことの無い奴にプリンの味をわからせることは不可能である。」という結論になる。自分で喰ってみる以外に対処法は無い。それが経験とか体験の意味である。
そうやって100枚書く気があるなら俺は会ってやるぜと言って来た7名はちゃんとグラフを書き始めた。まだ枚数は少ないが、もう文句を言う奴は一人もいない。みんな少ない時間をなんとか作ってグラフを増やそうと必死である。
いちいちこんなことを書かんでも、いくらでも同じ事が本に書いてあるのだ。それをみんな一度は読んではいるのだ。なのに実行しないってどういう事?って思う。それ以外感覚を作る方法があるのか?数値を受け止めるという手段に手間と暇をかけるという事がこの仕事の本質だろう?それだけ永遠にやっていれば良いのである。後は分割なんてしていれば馬鹿でもそのうち覚える。自転車や車に乗るのと同じだ。ゴツンとぶつけたり、派手に転んで擦りむいたり、たまに骨折ぐらいはするだろうが、しているうちに身体で覚えることだ。死ななければそのうちマシになる。死なないためには資金管理と投げと踏みを覚えるということだが、それもやっていれば出来るようになる。それに10年は必要だということだ。ジュグラーサイクルの大きな上げと下げ底練りの1クールインターバルが10年だというのはグラフを見れば誰でもわかることである。

さて1306の折れ線が面白い形になってきた。安値を切り上げる強い三角形の煮詰まりかたをしてきた。押しの値幅が縮まり5週の周期の繰り返しで高値付近で揉みに入った。今月後半にまた高値トライになるかもしれない。抜けると青天井になるがさてどうか?押しは最大9手が15ヶ月間の統計値。平均6−7手という所だ。今回はここまで6手だ。SQ通過で動きが出れば早めの秋相場ということになるのかもしれない。

自分の壁

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「自分の壁」という養老先生の新書を読んだ。例のごとく異説爆発でこういう変な爺さんが僕は大好きだ。普段は虫ばかり追いかけている解剖学者だが、東大教授の時は汚れ仕事を積極的にやった苦労人である。医者になったくせに
患者を見たくない理由が「何人も殺すのが忍びない」という理由で研究医になった。臨床医の母親が言うには「医者は10人20人殺して初めて一人前の医者になるのだ。」という言葉でめげたそうである。何でも上手になるのには失敗しながら上手くなるのは同じこと。だから医者選びはこのように重大だということだろう。そのくせ愛煙家だから、受動喫煙が癌になるという学説は「馬鹿げている。喫煙と肺がんの因果性など証明できない。多分自動車の排気ガスのほうが100倍悪いに違いない。」とズバッと言って、自動車産業をコケにする。天衣無縫というか歯切れが宜しい。
 さて今回の「自分の壁」は自己とか自意識とか個人とか個性とか、西欧的な「個人」に対する日本人の居心地の悪さについて書いている。西欧的な合理主義を醒めた眼で凝視しながら、あるべき日本人と文化についての、明治維新以降の文明開花の失敗を指摘するという内容になっている。「へそまがり」だが科学者だから、科学のいい加減さを良くご存知であるし、科学の限界が大した事が無いという点を強調して「経験知」の重要性を説くという点で正当な保守性に満ちている。
 他の本でも書いているのだが、どんずまりの閉塞的な社会状況を革命的に変える方法論として「参勤交代」の復活を上げている。イデオロギーなんかじゃ社会は変らない。頭の中を変えるには、身体行動の習慣性を変えないとダメであるという具体論に踏み込む。僕は「身体論」がそもそも好きだから(といって何かすごいことをしているわけではないが、頭で考えても上手くいかない事が多いので、身体的反射が重要だと思うから)養老さんとか内田樹さんとかの身体論に激しく同意するのだ。
社会がダメなのは、同じ場所で同じ事をするから閉塞するのであり、虫は居場所を買えて変異するという観察から、人間も同様だから、一年のうちに1−2ヶ月、都会と田舎の人間を交換すると劇的に閉塞感が解消して社会が全く異なった方向に進みだすだろうという仮説を主張する。定期的に2ヶ月、田舎で農作業を官僚や管理職に強制すれば、発想は嫌でも変らざるを得ない。それぐらい自然というのものは頭でどうしようもない部分があるのだから、意識が作り出す集団的な「閉塞感」は劇的に変化して、社会のムードは激変し生産性は向上し、日本人の悲観主義は一掃されるだろうと説くのだ。子供たちにも勉強と塾は半年だけにして、あとは田舎で虫でも魚でもカエルでも取らせておくほうがよほどまともな日本人が出来るにきまっていると断言するのである。一日10分で良いから自然に触れる生活をするだけで人間は変るというのは、経験的にそうだなあと僕も思うのだ
 雲や空や遠くの山や海を見る。虫や鳥の声が聞こえる。涼しい風に吹かれるというだけのたったそれだけで、「株価がどうのこうの、、」など僕は全部忘れてしまうのである。これで温泉に入って、酒でも飲めば極楽で誰も自殺なんてしようとは思わなくなるだろう。切羽詰まっている自意識が「馬鹿らしい」と思える体験を日常化するだけで、人間も社会もきっと劇的に変化するのではないかという仮説は実践する意味が大きいと思う。
 都市というのは人間の頭脳をそのまま形にした空間であるが、自然はそうではない。だから自意識の在り方は当然対処法が異なる.同じ事ばかりをしてると閉塞的になるが、異なることをすれば自意識は対象に対応するために活発に運動するということをせざるを得ない。そういう肉体が本来的にある事を人はいつの間にか行動の習慣から除外してしまうのだろう。文明の弊害と言えるだろう。
 ということで今日も南アルプス方面の沈む太陽の映像と富士山の遠景をお届けする。こういう絵を見て暮らすのは幸運だと思う。外気温23度。半袖ではチト寒いぐらいだ。東京は32度。それだけでも生きているのがきっと大半だろうと思う。だから仕事に区切りを付けて、夏休みは涼しいお山においでよ。空と雲と海と山が綺麗だよ!!

秋一番

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 「秋一番」というような風が今夜は吹いている。窓をあけると一気に涼風が部屋を3つ分駈けぬける。外ではピュンピュンと風の音がする。ベランダのオリーブの葉が右から左に流れるのは風のせいだ。半袖のポロシャツ1枚だと5分でくしゃみが出るのは、外気温23度でも風が強いせいだ。体感気温はもっと5度ぐらい低い感じである。室温はクーラーなしで25度でちょうど半袖ポロシャツに短パンで具合が良い。
都会の人には申しわけないが、山の避暑地にはもう「秋」の風と虫の鳴き声だ。こうやってあっという間に季節が変っていくのだ。時間が経つのが速いのは老齢になった証拠であるから、一日一日をケチケチと慈しむように大事に過ごしたいと思う。と言っても、日中は山頂もすごく暑いのである。日射がハンパ無いぐらいに強いので、遮光カーテン、断熱カーテンが無いとたちまち黄金色になる。たまに東京に行くと「海に行ったのか?」と言われるほど冬でも色が黒くなっている。田舎焼けで下着部分以外はいつの間にか真っ黒になっているのだ。日焼けサロンなんて全く必要なし。リビングの窓側に4時間もいればそれで3日で黒くなる。だからマダムは日焼け止めを家の中でも欠かせない。寝室とリビングの窓際だと室温が4度も変る。だから昼間は昼寝をすることにしている。2時から4時まで昼風呂に入ってから2時間はお昼寝タイム。本を読みながらつらつらと寝る。極楽である!!!
 最近は豪雨が日本中で起きている。多分、地球の温暖化で、熱帯のスコールみたいな雨が降る。1時間に100ミリも振れば、排水機能が麻痺して都市部では床上浸水や道路の冠水がすぐに起きてしまう。都市設計の想定外のことがこうやって頻繁に起きるようになってきた。資本主義の賞味期限が切れかけてるというのは感覚的にそうだろうと思うが、果物も肉も腐る直前が一番美味しい。だからこそ相場師が付け入る余地があると思うのだ。ヤバイ仕事ではあるがそれが面白くてやっているのだからどういう風に腐って行くのかを見届けるというのも仕事のうちなんだろう。限界に到達してもなお、次の仕組みが見えない時間は相当期間継続する。日本と中国の労働コストが均等化するのにあと20年と水野は試算する。これが価格革命の賞味期限ということになろうかと僕は考える。
その間に出来る事は、結局は麻酔の連続になる。痛みを消すには「金融大緩和」以外の処方がないのが政策という事で、それを見越して価格変動が起きるのだろうと思う。
 昨日から水野和夫を読んでいるのだが、アナール派の系統の左派リベラルでも、次がどうなるか、どうするかの理論構成は描けていない。金融空間の無限拡張と国家資本主義の侵攻による民主制の破壊現象の進展。それが世界のトレンドだ。バブルは3年ごとに起きるという現象も当たり前になってきたようだ。
さて次はどこに起きるのか?資源価格急騰の次は食料も大きく変化しそうなセクターとなるだろう。工業製品の価格低下が世界規模で進み、一方で原材料とエネルギー価格の上昇が世界規模で進む。結論はグロース売りのバリュー買いということにどうしてもなるんだろうと思われる。
 昔の名前で出ていますというような古い古い若い人が知らないような名前の企業の価格に革命的な上昇がやがてやって来るのではないか?理由がわからないことが起きる時に、世界は劇的に変る。日本も例外ではないと思う。
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猫次郎マフィンサンド

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特製カツ丼

フルーツトマト  30円
レタス       5円
マフィン    140円
ベーコン     30円
卵        30円
マヨネーズ     タダ
光熱費       5円         総計240円 1個 120円

上記は「猫次郎朝マフィン」の製造原価である。マフィンはフランス製の粉とバターのなかなか高級品であり、トマトは糖度の高い甘いやつ。ベーコンはドイツ製岩塩を使用した輸入品で卵は朝霧高原卵で黄身の味が濃い。
つまり市販のモスバーガーレベルを軽く越える高品質であるが、製造原価は120円である。輸送費と手間は入れていない。そんなものは僕の人件費であるから入れたらどんな贅沢な外食をしてもそれより安くなることはあり得ないからである。120円のバーガー二つでお腹一杯で夜まできっと何も欲しくない。
 今夜のメニューはもう決定済み。「カツ丼」を作ることにしている。ケンタロウ君のレシピで西友で昨日買ったハーブ豚厚切りローストンカツ(350円)にゴハンだから原価大体500円弱というところである。肉の厚みは15ミリあるからガッツリした感じのヴォリューム感溢れるカツ丼だが、和風出汁を薄めに使うのが上品なコツであり、ケンタロウ君はそこが洗練されている。交通事故の後、消息を聞かないが復活してくれる事を期待したい。男は真面目に料理をするべきだと思う。そうしたらもう少しネーチャンの気持ちも理解できるようになるんだろう。体験することでしか分からない事が大半なのだ。避けているのは人生の浪費であると思う。
従って今日の食費は700円だ。30日で20000円か?純粋な食事用の食材費とはこんな程度で、マダムの分を入れても5万もしないだろうと思う.高いのは酒とか趣向品である。特殊なもんを買わない月ならそれでもせいぜい10万ぐらいだろうと思うが。
 このように「豊かな暮らし」というのは決して多くのお金が必要な暮らしではない。たっぷりとした自由な時間があって、ゆっくりと自分で料理とか身の回りの事を大事に暮らすゆとりの時間があって、仕事はその合間に一日2時間ぐらいで十分な世界。読書や趣味などに時間を十分に使って豊かに暮らすことだ。通勤なんて下らん意味の無い時間は止めるに越した事は無い。何も有効な事を生まないのは人生の無駄そのものだ。
 普通に日本で暮らす限りにおいては、コストという意味でのお金はそんなにたくさん必要は無いのは明白だ。だから大衆消費が飽和すると「記号消費」を喚起して、消費を流行化させて単価を上げて経済全体が拡大していかないと雇用所得が増えないからみんなが豊かになれない。資本主義とはエネルギー消費の無限拡大過程のことを言うのだから、先進国ほど多くのエネルギーを使うことになる。現在の日本は中国の2倍一人当たり使用している。アメリカは日本のまた2倍である。
相場師は省エネのプリウスなんか絶対乗るなと言いたい、金が欲しい奴は燃費の悪いドイツ車、アメ車に乗れ。5−6リッターのターボ付きなら踏んだら3−4キロが良い所だ。そうしないと経済成長するはずがないのである。他人の5倍は税金を支払え。一台自動車税は98000円だ。それで貧しい人が少しは助かるのだ。世の中は持ちつ持たれつである。軽自動車は、所得200万未満の非正規以外の所有差の税金を上げるのが正しい。みんま5万ぐらいは払え。そうしないと道ができない。
 人間は二つの矛盾することを両方同時に達成できるほど器用ではないと僕は思う。プリウスでガソリンをケチってコストを落としても、車体価格の割高分を落とした燃費で割るとトータルではコストの方がきっと高い人ばかりである。企業の製品イメージに引きずれているだけに事だ。それより燃費が多少悪い車でも10−15年乗れば消却はゼロになるし、不要なゴミも廃棄物も減る。トータルコストは社会的に見て減少する。だが需要も減るのだ。だから拡大したいという欲望なのか、そうでないのかという目的に応じた選択をするべきだ。プリウスは渋滞時の燃費が良いだけで高速走行では伸びないからドイツではハイブリッドは売れない。走行が長い使い方をするからだ。そもそも都心部では車の所有は無意味で、全部タクシーのほうがコストは格段に安いのである。

相場師は自分に言い訳が効かない選択を常にすることが重要である。なぜなら相場は言い訳が絶対に効かない世界である。「現金以外に何も通用しない」世界。だから相場の世界で生きて行くには、そういう言い訳を絶対にしない、出来ないスタイルの意思決定と生活スタイルを貫かないとブレまくるという事が起きてしまう。そしてブレた途端にお釈迦になるのである。
すると周囲から当然「浮く」。浮かないと勝てるはずがない。だって成功する人は数千、数万に1なんだ。あとは全員がいずれ失敗でオケラある。他者と異なるということがない限り勝ちはあり得ない世界である。だから当然「浮く」に決まっているし、大衆と意見が合う事など永久にあり得ない商売なのである。
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