「猫次郎の生活と意見」という感じでこのブログを書き始めたのが昨年末だ。これは本歌取りでエンジン元編集長の鈴木正文さんの「鈴木さんの生活と意見」とか山口瞳の「『江分利満氏の優雅な生活』からパクったモノである。こんなものは個人の好みの問題であるし、そもそも人の人生は暇つぶし以外にさし当たり大きな意味など所詮あってたまるかと思うので、つらつらと言いたい放題を書いている。だからよほど暇な人でない限りはこんな下らんブログなど読んでも時間の無駄である。
資本主義というものは僕が考えるに「時間とお金」の交換システムであるから、みなさんは大抵自分の時間を会社(社会)に売って、対価に金を貰うというような優雅な暮らしをしているのだろう。異論はないし、好きならどんどんやって欲しいと思う。それできっと社会が豊かになるはずである。良い商品はそうやって大抵でき上がるというのは過去の経験から別段異論は無い。
一方、ここにアマゾンの奥地かアフリカの草原、アジアのどこぞかの不毛の高原かにいるような「時間と社会」を交換しない変な男がいるとしよう。彼は共棲している14歳の♂猫と同じように、大抵一日中、寝ているか風呂に入っているか飯を喰っているか本を読んでいるか、気が向くと場帳やグラフを書いているという変な男だ。仕事らしい仕事はしていない。不思議にお金はあるから時間を売って働かなくなってもう20年が経つ。そもそも40歳から60歳というのは、みなさんの人生にとっては稼ぎ時であることが多く、大半の人はすごく忙しい場合が多いようだ。この男は暇を持て余しているから、つらつらと下らない事ばかりを一日に多いと数回も書いてブログを更新している。前後の文脈には一貫性がないし、そもそも頭の中身にも一貫性がない。演繹的に物事を考える必要性が無いのが多分その理由だろうと思う。
「暇がある時は金がない。金がある時は暇がない。」というような矛盾した状況の中で大半の男は一生を過ごすことが多いことを男は父親の生活を見て思った。それならばその逆はないのか?「暇がある時は金がある。金がある時は暇がある。」というのは言語的に矛盾がない。つまり金も暇もあればそれできっと宜しいという事だろう。「暇が無い時は金もない。金も無い時は暇もない。」というのが一番貧しそうであるから多分避けるべき状態である。きっと望むべき状態と避けるべき状態をハッキリ意識するということからしか変な男の物事はスタートしない。マルセルモースの調査によれば、「ドゴン族」の人たちは「暇がある時は金がある。金がある時は暇がある。」という状態で毎日暮らしている。いや金という疑念がないので、金の代りに物でも宝でも喜びでも宜しい。一方「暇が無い時は金もない。金も無い時は暇もない。」という多くの現代人たちは多分、その種の物事を考えないようにして我慢している。考えると気が狂うか、腹がたってやり切れないからであろうと思う。別に誰かに強制されて彼らが「暇が無い時は金もない。金も無い時は暇もない。」という状態であるというのとは少し違う。彼らは自らが望んでそういう状態にいると言って良い。生活信条や職業選択の自由は保証されているから、望みもしない労働を無理やり強制されるような社会ではないからだ。自分で好きでやっている事だから致し方ないという事になる。それ以外に選択肢が無いと思い込んでいると言った方が正しいだろう。ノマデックな暮らしをする男にはこんな次のような考え方もある。
「われわれはみな、不可知論者だ。神を信じている者もいれば、信じていなかった者もいる。現実性を信じる者もいれば、信じていなかった者もいる。さらに現実性の不可知論者がいる。彼らは、現実性を無条件に拒絶するわけではないが、その信仰については拒絶する。『現実性はかっての神と同様に存在するかもしれないが、私は信じない』というわけだ。そこには矛盾も不条理も無い。それは原則というかたちに物神化された現実性ーーーそれ自体が現実性の記号の罠にかかった現実性だーーーの罠にかかることの明白な拒絶だ。裸の、原初の現実性は存在するだろうか、それを可視化する記号に先立つ現実性は。誰が知ろうか。回顧的に現れる疑念の影が、現実性の明白さの周りに漂っている。どんなものであれ、不可知論者はこの背後世界やこの原初の現実性について何も知ろうとしない。彼は証明不可能な仮説としての現実性、記号としての記号ーーーだがその背後には現実性の不在もじゅうぶんにひそんでいそうな記号だーーーで満足している。
象徴的賭け金の問題はもっとも重要だ。すべては働きかけである。権力が働きかけであれば、意味も働きかけであり、記号はそれぞれが働きかけであって、従属あるいは転覆によるにせよ、信仰あるいは信仰の否定によるにせよ、それに応えないわけにはいかない。だが権力が偶然に左右され、不確実になればなるほど、記号は空虚になり、応答は難しくなる。ところで権力はもはやわれわれに問いかけない。交換される記号も、二者的関係の場ではなく、それゆえ真の応答の場でもない相互作用、コミュニケーションそして情報を除いていは、もはやわれわれに問いかけない。全面的な抽象化と、あらゆる支配の源がそこに、つまり二者的関係の断絶にあるのだ。支配の戦略は、あらゆるコミュニケーション技術、猛烈に拡がり偏在する情報を通じて、応答をもはや不可能にしてしまうことにある。これは意味を空虚にされた記号による支配だ。だが一方、これはまた空虚による無関心と抵抗でもある。
こうして、循環が加速されているが記号の価値は弱い社会性においては、また問いも応答もない相互作用の戯れにおいては、権力と諸個人とが互いに捉えあうことがなく、一方の他方に対する政治的関係もない。これがヴァーチャル性の抽象化のために支払う代価である。だがこれは損失なのだろうか?
今日、それは集団的選択であるように思われる。多分、われわれは人間よりも機械に支配されることを好むのだ。多分、われわれは非人格的で自動的な支配、計算による支配を、人間的意思の支配より好むのだ。もはや異質な意思ではなく、われわれを飲みこみ、われわれから個人的な責任をすべて取り除くインテグラルな計算にしたがうこと。多分、それが自由の最小の定義なのだ。それは絆や感情を断つこと、幻想なき無関心、機械の経済に近い心的経済のほうに似ているものなのだ。機械もまた完全に無責任であるが、われわれは次第にそれに近づきつつある。」 ジャン ボードリヤール『悪の知性』より転載
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