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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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 6973 325 1−  朝なり1枚しかなかった。せこく13.5万儲かった。昨日はストップだった。ショボイ。
枝豆とトウモロコシの季節が来た。スーパや産直野菜の店に行くと、トウモロコシは98円、枝豆は258円とかいう表示で安売りしている。まだ皮がついているのを2−3本買って、塩ゆでにして面倒だと朝はそれを食べておしまいなんてズルをする。枝豆もネベ一杯に作って冷蔵庫に入れて2日は持つからそれでお昼は終わりとか、一人暮らしはいいかげんが出来るから楽だ。それでも昨夜はお好み焼きを作った。日清製粉のお好み焼きの粉と卵、エビと烏賊、豚肉の定番である。胡麻油で焼くと香ばしい。手抜きの食事だが結構いける。
 もともとグルメでも何でも無いが、仕事でそういう場所に行ったり、付き合いやデートでそういう場所にはかなり行ったほうだろう。
そういう場所でお金を使うと相手が大抵喜ぶからである。接待というものは下心によって成立する行為だ。どんな美辞麗句を並べてみてもするほうは何かの目的で相手を饗応する。具体性があるかどうかはどうでも宜しい。それを相手に意識させるのが目的だから、派手な方が効果的であるという単純な理由だ。交際費に上限なしなんて期間が長かったから高い店でも何でも一応は行ったが、別に高い店が特別好きなわけでない。ただ味に失望することは少ないからいつの間にか舌は肥えてしまうのはしかたない。誰だって出来ればマズいものは喰いたくないだろう。贅沢病ということかもしれないが、ファーストフードは苦手である。貧乏も悪くないと思うが贅沢の方がネーチャンやマダムには受けるからそうなったのだ。金で済むんだから稼げば良いだけの事。人の5−10倍稼げばどうと言う事は無い。そうやって生きて来たが、別にもうどうでも良くなって久しい。田舎は味が音痴な店ばかりである。95%の店が正直なお話「とてもマズい」のだ。静岡近辺で金を払って飯を食いたいと思うような店は10軒も浮かばない。それぐらいレベルが低い地域だが、あまり欲が強くもないのだろう喰わなければ良いだけの事だと諦めている。かといってゴチソウがたんまりある東京や京都に住むかとは今の所考えもしない。たまに旅行で行けば良いやで済む。具体的な欲望というのもがドンドン無くなって行く。欲しいモノがない、したい事もほとんどない。第一酒が飲めないのだから使う金なんてたかが知れている。飯なんて何十万も一人では喰えないし、ずっと喰ったら病気になるだろう。きっと寺に修行でも行った、絶食をしばらくすれば良いのかもしれない。そうしたらかけそば一枚でも凄いごちそうだろうと思う。ファーストフードで唯一許せるのは佐世保バーガーとモスバーガーの一部メニューだが、ここしばらく入った事が無い。コンビニもお握りを登山の時に買うだけで弁当はもう30年ぐらい食べていないと思う。デパ地下の1000円弁当もダメだ。マズい!50歳前後からマダムがご飯を作る時間が無くなった。それで料理本を買って自分で作るようになった。そうしたらマダムが鍋とか道具をたくさん買ってくれたので高級な外国製の調理器具や食器が増えた。花屋を始めると忙しいので料理は無理なのだ。まあ、最初は不満だったが娘と一緒に押し切られた。僕の生活はいつもこうやって押し切られてしまう事が大半だった。唯一、自分の意志で続いているのが相場だろうが、それもいつまでやるのかわからない。別にお金の目標なんてモノは無いし、生活出来ればそれで良しと思う。特別贅沢な暮らしがしたいというのではないが、きっと他人様からみたら贅沢をしているということ何だろう。変人だし、一匹狼の仕事がずっと長い暮らしだったから比較するという事が意識の中にほとんど無いのだろう。非常識と言われることも多かったように思うが、それは非常識というよりは非平均のほうがきっと正確な言い方だろうと思う。標準とか平均とか一般的とかそこそことかを僕はいつだって激しく嫌うし馬鹿にしている。だって平均的な事というのは一番つまらないからだ。特徴の無いものは嫌いだ。ブッチギリとか特別というのが好きなのだ。だってどうせなら印象的なほうが価値がある気がするからだ。プラスでもマイナスでも良い。リーマンするならホームレスのほうが絶対に楽しいと思う。きっと生きるか死ぬかで温くない生き方だからだろう。
 お金は交換の記号だから交換する時に対価としてあればそれで事は済む。無くなればまた稼げば良いし、そうしてきたしそれで足りて来たから、今後もきっとそうなんだろうというような無計画なタイプだと思う。個人で金を借りた事が一度もないから困った事は個人では一度もない。会社は別だが、個人のポケットはそんなものだが、使い切れないから金が余って株になっただけの事だろう。金儲けは、「相手の欲望」に応じるという仕事の対価だ。そういう市場を探せば年齢は無関係だと思う。自分で仕事を作れば良いのだ。人に雇われるのは費用対効果が悪いと僕は思う。
邱永漢も昔そんな事を書いていた。せっかく大学まで出して苦労して育てた子どもを大企業の安月給で働かせるなんて日本人は馬鹿だ。もっと頭を使って自分で仕事を作って稼げば数倍にはすぐになるのにと書いていた。僕もその意見は賛成だ。きっと母親が馬鹿が多いからだろうと思う。仕事で成功している大人の姿を子どもが知らないのがそもそも不幸なんだろう。親がロールスロイスやメルセデスの大きな車に乗っていたら子どもはリーマンでそれに乗れるにはどれぐらい長い時間と忍耐が必要かはきっと想像がつくだろう。クラスメートを見れば子どもでもわかるだろう。親の仕事を継ぐかどうかば別としてリーマンでは無理だと思えば自分の仕事を作ろうとするだろう。そういう比率が日本は低すぎるのだろう。記号性が逆転してしまうような世界が個人の仕事の領域には適している。大きな市場は面倒なのだから、好きな事を仕事にしたほうが楽しいと思う。変なカレー屋をやっても良いかなと思うことがある。カレーを300円ぐらいで売る。でも全部自家製の特別レシピにすれば誰でも食べられる安くて辛くて旨い300円の野菜カレー。後は特別な食材は別で、愛鷹牛カレー2000円、伊勢エビカレー10000円、アワビカレー10000円、牡蠣カレー1000円で予約制。コーヒーは全部100円でちゃんと1杯ずつ引いて落とす。店内には相場のグラフがたくさんあって見放題。ワイファイを入れてパソコン使い放題。毎日推奨銘柄を無料で教える。まあ相場好きが来て、カレーを喰ってコーヒー飲んでグラフを見て馬鹿話をして帰るのにワンコインだ。きっと赤字だろうが身体を使って働くならスポーツジムに通うより洒落ている。ベトナムさんみたいな大口客が来たら全部1品10万円。コーヒーとカレーで20万でボッタクりだ。きっとすぐに来なくなる。(爆)ドがつくアマチュアばかりが来て、下らないポジショントークを聞いているのが楽しい。彼らの逆をやれば店の赤字はすぐに消えるだろうと思う。頭は使いようだろう。カレーで儲からんでもきっとネタの向かいで喰える。アホが飛びつく銘柄を無条件に空売りだ。95%の確率で勝てるねきっと。
 62歳からの年金が22万だかくれるそうだ。まあその10倍や20倍はならせば常に相場で取るのだから、誤差の範囲で年金なんてどうでも良いという感じの金銭感覚がずっと続いているのだから、考えても仕方が無い。良いときは数倍取れるし、ダメならゼロが足が出ることもあるがならせばそんもんだろう。16万健康保険を毎月支払って、固定資産税と自動車税を年間40万払うのだからチャラである。所得税分だけ誰かの役にたってはいるんだろう。別に文句は無い。警察や消防や学校にお世話になっているのだし、孫の学校の費用の負担をしているということだ。欲しいものはあまり値札を見ないし、触ると大抵買うからモノが増える。だからどんどん棄てる。労働らしい労働はしていないが資本主義的人間の典型的なライフスタイルなのだろうと自分では思う。時間効率が高いという事だ。一日2時間働いて22時間が自由な暮らし。本屋に行くと何時間でもそこにいる。紀伊国屋とジュンク堂だと一日いても飽きない。10日いても飽きない。図書館なら1ヶ月いてもきっと飽きない。それぐらい本をいろいろ読んでいるのが好きで、出来ればそれ以外の事は一切したくないのだと思う。

 気持ちよくワガママに暮らすという事だけ気にして生活している。現在特別、頭と口以外で悪い所はあまり見当たらないから、ダラダラ寝て喰って風呂に入っての繰り返し。合間に場帳を書く。テレビは週に1、2回ぐらいニュースをつけるぐらいだ。だから世の中の事をあまり詳しく知らない。グーグルニュースの見出しだけだ。音楽はi-tunesをカケッぱなしだ。なんか音がしている。有線でジャズピアノのつけっぱなしも多い。単身赴任はきっと寂しくて大変だろうと思っていたのだが、結構これは良いもんだと思う。ウルサくない。たまにはマダムも来るし、友達も来るので困ることはほとんどない。ブログはなんたらかんたら書き放題でも500も来るから、炎上しそうなものだが、そうでもないのは不思議だな。暇つぶしと頭の整理には宜しいかと思う。相場の事も少しは意識するし。
 同居の猫は実に素晴らしい相棒だ!俺と同じぐらいワガママだがよく食べる。グラフの上でシッポダンスをして良く爪で穴をあける。せっかく書いた45年グラフも3枚穴が空いたが、裏張りで補強するのには慣れっこだ。常にお尻に何か敷いていないと気が済まない性格なのだ。衣類はだからいつも猫毛で白くなる。コロコロがないとくしゃみが出る。ルンバはいつも猫の毛で一杯になる。「ゴハン」と言うのだ。はっきりと日本語で言う。毎朝7時半ごろになると足を齧って「ゴハン」と言うのだ。こちらの言うことも単純な事は理解しているような目をしている。「お出かけする」というとクロゼットに入ってしまう。風呂の温泉水を毎日飲みに来る。いつも3メイートルから5メートル以内に座っているか寝ている。14時間ぐらいは寝ている。食事も同じ時間に一緒に食べないと気が済まないようだ。だから僕が外食すると機嫌が悪くなる。マッサージチェア好きで必ず膝に乗って一緒に揺れている。猫は人間とほとんど同じだなと思う。僕より真面目にテレビを見る。鳥が好きで動物番組だと画面にパンチをするので、テレビの表面は爪の後で傷だらけになっている。爪研ぎは2つあって、荒研ぎと仕上げようの2つを上手に使い分ける。
 猫は箱が好きだ。ユニクロで朝のシャツがセールだったから色違いでまた4枚買った。1枚1500円だ。どうしてこんなに安いのだろうか?ボッテカやハウエルだと3万はする。1/20。世界の記号性は狂っているのかもしれない。

石炭株

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1969年からの貴重なデータ提供をしていただいたので今日は三井松島を書いている。
多分この30年グラフは3回目であるが、これは1983年からだったから14年分過去の株価を書く事になる。いつも書くたびに思うのだが89年から崩れて突っ込んだ1992年からの戻りの中段が重い。5回も300円以上戻しては戻り天井だったということは300−400円と 700−800円に相当捕まっている玉が大量にあったということだろうし、今でも捕まったまま塩漬けになっている人もいるのかもしれない。ほぼ20年だから当時50−70歳の人は70−90歳だからそろそろ自分で相場が出来ない年齢で、結局そういう玉は遺産相続で売りに出て整理されるということが強制的にこれからの時間でかなり起きてくるだろう。
 この2年ほどの上げ相場でも個人の株式の売り越は圧倒的な量だから、それを外国人が拾っているという構図に変化は無い。株式資産の家計での構成比が昨年少し上がったのは、価格上昇による理由で、個人が株式の買いに出ているわけではなくて、むしろ売り切って退場する個人が多いのだ、「もう、株はこりごり。」という人や
投信を売って(間接的に株を売っている)リスク資産市場から退場している人が多いという統計になっている。
天井で買って底で投げるというのを20年かけてやっているという事である。
株式の配当利回りが2%以上で、長期債の利回りが0.6%で金利上昇なら債券下落、株式上昇が当然の帰結であり、しかもインフレ転換なら現預金はインフレで目減りなのだから株価か不動産の価格上昇以外に手は無いのだしオーソドックスな方法だと僕は思うのだが、大衆は逆をしている。「実に不思議だなあ!」毎回そうつくづく思うのだ。大半の家計資産は「バスに乗り遅れる」という状態である。昨晩のニュースでアメリカの金融市場の話をルポしていたが、自動車メーカーの業績が絶好調で、60回ローンの金利をゼロにしているらしく、新車がバンバン売れているという。職さえあればほぼ無審査でオーケー、審査時間は1時間で頭金無しにディーラーから乗って帰る人が激増中ということだ。10年ぶりに新車購入した65歳のワーカーが嬉しそうにしていた。またNYでは投資用の高級フラットが1000万ドル=約10億円で販売されているそうで、この1年で30%上昇しているそうだ。買った人は投資用だから賃貸にも出さず、無論居住もしないそうで、無人の高級物件が空のまま増加中である。転がして利ざやを稼ぐ人が増えているのだろう。これも連銀の緩和策とモーゲージの買い取りによって不動産価格と株式が2倍以上に値上がりしたせいである。雇用もタイトで元気がよい。元連銀副議長ブラインダーのインタヴューでも「まだバブルというほどではない」とあっけらかんな感じだった。
 さて三井松島、日本コークス、住友石炭、太平洋興発の4社は1990年代からずっと場帳を書いて来たお気に入りの石炭エネルギー企業で、小型低位株の代表のようなもので、僕は常にある程度の根玉を持っている。4つで100枚以下の時はマルにした時以外はあまりない。連休とか正月に丸にしても、またすぐに建てることが多い業種だ。大抵上げ相場なら50−100円ぐらいの値ごろの底練りから離れると300−500円まで伸びるという一旦動き出すとかなりの化けをいつもするから大好きな値動きだ。現在はいずれも全くの無風状態の凪である。すこし気持ちが悪いなあと思うほど動かないのである。
 なんか嵐の前の静けさというような不穏な静けさである。ホルムズ海峡閉鎖とか原発廃棄とか石油危機や戦争とか世の中が危ないムードが出て来ると不思議に動き出すというお騒がせな部分の役割を担っている場合が多い。第一次、第二次石油ショックでそれぞれ安値の10倍(1−2年)バブルで5倍になり、2000年代は戻りで3−5倍という変動だ。現在100円前後で底でへばりついているから、動きが出ればまず300−500円という所だろうと思って、何かを利食いするとコツコツと根玉を足している。500枚位買ったとしても5000万だ。5倍で3億近くにはなるんじゃないのかなと吞気に思う。石炭が無いと発電も鉄も作れない。そのうちまた動きが出るだろう。クラリオンみたいに仕手系のものが新高値を取って来た。出番が年末に向けてあるのかな?と思うのでまた3度目のグラフをコツコツ書いている。

視界50メートル

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ずるずると待たされるなかで、「待つ」は徐々に頑になってくる。待つ自分を、あるいは待っているという事態を、いやがおうにも強く意識するようになるからだ。待つなかで動揺しないということ、そのことを意識しようとして、つまり「待ちきる」ことを心に決めて、ひたすら待ち続けようとする。が、そう意識したとたん、相手の術数にかかる。揺さぶられまいという思いが意識を枠どりだすからである。柴田錬三郎は、小次郎のそうした思いをこんなふうに表現していた。
「わざと約束の刻限をおくらせて、敵の心気を乱そうとする小ざかしい策は、余人は知らず、この佐々木小次郎には、通用せぬぞ!」、と。
 こうして待つなかで、待つ事自体への意識が、意識の全面を覆うようになる。いいかえると、意識が「待つ」というただ一点に収斂し、それにがんじがらめになってしまう。「待つ」が「待つ」こととして純化してゆき、「待つ」こと以外考えられなくなる。これがおそらく、「待つ」が頑になるということなのだろう。
 意識を引きつらせる。これが誘導と誘惑のもっとも効果的な手段である。そして意識を引きつらせるには、恐いもの、おぞましいもの、禁じられたもの、つまり、見てはいけないものを見ることの可能性だけを見せるのが、もっとも効果的な方法だ。いわば意識に過重に負荷をかけるわけで、このことで錯乱している意識の方向が一点に集中しだす。すると、まわりのありとあらゆるものが、じぶんが待つものの徴候か記号のように思われてきて小さな物音にもびくついてしまう。反応が過剰になって、心が乱れるのである。
 結局は同じ事であるが、意識がこのように集中しだすと、外界からの様々の感覚入力に対して意識的にそれを感知する部分も、ごく限られてくる。捕獲の網がそれだけ狭まっているからである。外界からの感覚入力に対して、それを意識的に感知するかそれとは意識せずに感知するかの境界、いってみれば意識の閾(しきみ)というのは、私たちが普通考えているよりはるかに流動的なものだ。そして意識が緊張を高めるにつれて、「意識レベルで知覚は著しく減少し、サブリミナルな刺激については一層敏感な状態になっていく」。つまり、意識が緊張すればするだけ、ひとはサブリミナルな刺激に対して無防備になるということだ。だから、周囲の微細な変化に、それと意識することなくディープな影響を受けてしまう。それとは気づかない空気の微細な変化に、知らぬ間に不安や恐怖をかきたてられるということも起きる。「待つ」ということに意識を収斂させてゆくなかで、ひとがどんどん不安になってゆくのは、そういうわけである。
 こうして、待つひとの存在は大きくぶれだす。ただただ待ちつづけるなかで、待つ人の心がぐらぐら空転しはじめる。相手の心のこの自転運動を、待たせる者は狙っている。とすれば、「待ちきる」ためにはひとます、「待つ」という心の構えを解かねばならないことになる。「待つ」ということを停止しなければ、「待ち切る」ことはついに出来ないことになる。
              鷲田 清一 「待つということ」自壊より転載

長々と引用したが、別に相場の長っパリの困難さを指摘したテキストではないのだが、人間の心理に関して、この哲学者は実践的な指導体験の中から、誰にでも容易に理解できる説明を平易なテキストをもって描くという意味で優れた学者であろう。ドリーズやガタリのエクリチュールを理解する者は1000人読んでもきっと数名か、数十名だろう。鷲田のテキストならば数百名がそうだろうなあと思うだろう。
「強気相場は心配の壁をよじ登る」というようなNYの相場格言は誰でもとは言わないが大抵相場の本を数冊読んだ人ならば知っている。だから強気相場なら、弱気の材料が出た押目を買えば良いという方法論的結論と普通はなるのだが、こんな簡単な「馬鹿でも出来る事さえ」多くの人が出来ない理由は、鷲田の指摘する「時間」に対する「待つ」という量的な強度に集約されているのだろう。せかせかと忙しい毎日の暮らしが常態化すれば、些細でごく短い時間軸の中で人は待つという行為をせざるを得なくなるということだろう。リーチが異常に短いのだ。嫌でも外界からの刺激に晒されて(ニュースや材料は無視しろと僕が言うのはそのせいなんだ)心が乱れる。自分で乱れる方向に生活習慣を無意識に振っているのだから馬鹿丸出しなのだが、それに自覚がないのである。「馬鹿」に「馬鹿」と言うと必ず怒るのは「馬鹿」は無意識に自分の「馬鹿さかげんと現実の折り合い」を潜在的に意識しており、それを他人から指摘されるのを恐れるからである。誰から見てもそうなのに自分だけはそれを隠し切れていると思っているのだ。まるでマンガだ。「頭隠して尻隠さず」という格言がある。相場に関して彼らが綴るテキストの全部にそれが現れているのに気がつかないのだ。養老さんが同じ事を書いて、ベストセラーになっていた。(笑)「馬鹿の壁」である。
乗れていない人は一度相場を休んでゆっくりと考えてみたら良いだろう。玉を落として丸にする。
自分の感覚と動作が波に合っていたのか?合っていたなら利食いだろう。そうでないなら、合っていない自分のどこが理由で合わないのか?それが何故起きるのか?それを修正しない限り、問題は次々に起こって不幸が増すことになる。
大半は時間と自分が合ってないという理由、資金管理を怠っているという理由に集約される。何百も教えたのだからそれ以外にないのは分かり切っているのだ。「自分がどうしたいか」などどうでも良いことだ。「相手がどうしたいのか」に合わせる以外に正しい方向は無いのだ。それには道具をきちんと整備すれば誰にでもわかるはずである。そこには相手の動きが現れているからだ。

 5時半に眼が醒めて朝風呂に入った。外気温は21度。ダイヤランドの山頂は朝は涼しい。今日も霧だ。無音の世界で鳥も今日は鳴いていない。さあ新しい一日が始まる。
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すでに知っている事を、もう一度「知らない振り」をして繰り返す。そこには当然ながら「既視感」と、「わたしはこれから起こることも全部知っているのだ(みんなは知らないけどさ)」という「全能感」が発生する。
 この何とも言えない「既視感」と「全能感」こそ、読書が私たちに与える愉悦の本質ではのないだろうか。というのも、「既視感」はつねづね申し上げているとおり「宿命性」の印だからである。私たちが宿命的に恋に落ちるのは、「私はかつてこの人のかたわらで長く親密な時間を過ごしたことがある」という「既視感」にとらえられたからである。その消息は村上春樹の『4月のある晴れた朝に100%の女の子と出会うことについて』に詳しいから、興味がある方はそちらを徴されよ。
 恋と同じように、既視感をもって本を読むとき、私たちは、「私はまさにいまこのときに、この本を読むことを遠い昔から宿命づけられていた」という感覚にとらえられる。それこそは至福の読書体験である。おそらく「文字を読む」というのは「そういうこと」なのである。だから、いつか幸福な読書を体験するためには、どうしたって「海苔の佃煮の瓶のラベル」を舐めるように読むような「読字」の時間が必要なのである。読字を積み重ねることによって、まず文字を図像として脳に入力する訓練が必要なのである。
 だから、「朝の読書」運動の成功がもたらしたもっとも重要な知見は、「佃煮のラベル」でも「風邪の効能書き」でも、何でもいいから、とにかく子どもには文字を毎日一定時間見せておけばいいということなのである。
   内田 樹  「邪悪なものの鎮め方」 より転載


 内田さんは、最近怒りっぽい。つねづね「いらち」=せっかちという自覚があるのか、阿部ちゃんの改憲、靖国参拝、原発再稼働、秘密保護法成立といらちの種が政治的に絶えないし、左翼雑誌の販売不振で渋谷陽一の『SIGHT』は不定期刊になっちゃうし、もうすごく頭に来ている。何に対して頭に来ているかというとグローバリズムの世界的な席巻に対しての深い危惧である。「沈む日本を愛せますか?」なんて聞いている。
 さて読書と認識、文字と認識についての彼の所見は僕も賛成である。これは文字を読む事の認識であるが、文字だけではない、図形認識、記号認識も同様で、更に認識を深く普遍化して「既視感」と「全能感」に変えるのには「書く」「描く」ことを限りなく「反復する」ということが必要である。文字には表意があるが、図形には組合せによる変化の形態の表意が同様にあるのだ。それは無数の順列組合せであるが、ある種のパターンや類型=つまり僕がくどく唱える相似と類似が頻発するのである。

これが行為の当然の帰結であるのは、市場に出入りするお金の量の表すカタチのことである。つまりそれが海で起きる波と同じような、様々な大小の強度、加速度、速度を持って変化するその様態の図形的集合の視覚的認識に他ならない。「欲望と恐怖」で価格変動が一時的に起きても、「既視感と全能感」がある張り手にはそんなものはかけらもないのだがら、どんな状況になっても淡々と既視感、全能感を図形と数値の確認によってドライにさばくというだけの差が生まれる。この差こそ資本主義の本質的な存在意義「反復と差異」に他ならない。(詳しくはドルーズ/ガタリ「資本主義と分裂症」を読め)
 音楽が時間芸術といわれるように、相場は時間ビジネスである。音が残響があり、音が次を予感するというのは和音の形式を聴覚が反復学習によって予定調和するからであり、表現形式の多くの部分で繰り返しながら変化する(リフレイン)が形式の主体であるからだ。同様に相場の値動きも同様なリフレインの時間軸の認識に深く結びついている。
ベトナムさんや僕が数千枚のグラフを長期間に渡って素描するという認識の反復行為を繰り返すことによって巨額のマネーを物にしたのはだから当然の予定調和なのである。それを始める前はそうなるかどうかわからないことでも、実際にしてみた二人が同じような良い結果が出ているのだから、当然のことが起きただけの事である。もうこの先一生お金で困ることはない。何でも買えるし、幾らでも稼げるという事が10年位で出来てしまう。
 もう金で買えるもので欲しいと本気で思うようなものがほとんど無いというのは、ある意味では不幸である。相場でお金が出来ると大抵そうなるんだろうと思う。友達はロールスロイスのゴーストかレイスを買えという。人ごとだから400坪の建坪の豪華な別荘が2億で売っているからそれも買えと言う。猫とそんな広い場所に一人で住んでも何が楽しいのだろうか?掃除が大変なだけだろう。「いらないよ、そんな過剰さは」という気持ちのほうが強いのだ。貧乏人の息子だからそんな気持ちにはちっともならないのである。

だからあまり相場に気合いなんて入らない。電気代やガス代と食費ぐらいなら配当で毎期のそれで払える。それでも社会の決まり事であと2年で僕も年金爺になるらしい。通知からは毎月20万以上はくれるらしい。孫の塾代にきっとなるんだろうなあ。あと5億でも50億でも同じなら、そしてそれがゼロサムの世界からのお金ならきっと知らない所で不幸が増えるという事だろうなと思う。今年は医者には僕は一度もかからなかったが健康保険を二人で毎月16万円払っている。誰かのためにはきっとなるんだろう。いつも上限なのだ。それでもマダムが入院するようなことがあったので保険は重要なんだろう。
今週お金を使ったのは孫に巨大なスイカを買って送った。平井のスイカは1個3000円だが甘くて美味しい。2カ所に送って1万円でおつりがくる。ダイジェットの利食いで300個以上は買えるがそんなにたくさん子も孫もいないのだ。過剰と不足が資本主義の常態であるのは承知しているが、それを更に加速させる方向に世界の市場のルールが変更されていく。それは「誰の責任だろうか?」間違いなく
我々有権者の責任なのである。

休日仕事

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 3401の45年を書いた。曲がっている人はたまにはこうやって超長期のグラフを数枚でも書いてみればきっと感覚の修正が起きて、成果に直結するんじゃないのかなあ?と思うが実行する人はほとんどいない。みんな忙しいからきっとグラフなんて書いている暇がないんだろうなあと思う。45年でも6時間ぐらいで書けるのにね。休日の発想転換にはちょうど良い時間だろう。1ヶ月に5枚書くと1年で60枚だ。それで随分と売買の成果はマシになるだろう。ゴルフなんかやるよりお金になるから後から家族に喜ばれると思うけどなあ。まあ最低でも1−3年後のお話ではあるが、、。どんな仕事でもお金を作るには時間がかかる。相場だけ例外のはずが無いのだが、相場を博打だと思うから変な夢を見るんだろう。相場が仕事だと思えば腕なりにしか金にはならないと何故考えたりしないのか?とても不思議だ。仕事が忙しい人なら相場なんて余計な事をしないで、自分の仕事をしっかりやってそれでお金儲けをすれば良いだけの事なのにと思うが、リーマンはやってもやらんでも大差がないから、なんとか追加で遊ぶ金が欲しいのだろう。でも大抵の人はヘタクソばかりだから、儲かるはずが大損して住宅ローンも払えないで家族を困らせたりする。サラ金のお世話になったり、商業ローンなんかの高利の金に手をつけたりするともう地獄の入り口はすぐそこで、あっという間に転落して、電車に飛び込むとか犯罪をやって会社の金に手を出して捕まるという新聞記事が後をたたない。僕がサラ金株を売買するのはそういう人が今後も構造的に増えるだろうから大儲けになるから株は上がると考えているのだ。消費税アップでまた人口の1割は貧窮層に叩き落とされるだろう。その人たちの需要を見越しているということである。金利は上がり、値鞘が増え、貸し出しが自然増なら劇的にサラ金はまた儲かるなあと思うのだ。政権交替で一番得をした業種だね、金融と不動産は。インフレで最も儲かる業種なのだ。資本主義そのものと言って良い業種だ。
 相場が上げだろうと下げだろうとそんな記事が絶えないという事実はどんな時でも負けている人が多いという事だ。構造的にそういう人たちがいるのである。上げだって売れば損だし、下げだって買えば損だ。構造的に曲がる人がいるからその逆にいつも勝つ人がいるわけだ。欲に眼がくらんで人生を棒に振るような事がすぐに起きてしまうのだ。借りた金で相場をするなというのは自分と家族への最低限の責任だと僕は思うから、そういう貧相な発想の奴らとは話をしたくない。相場や商売の考え方が誤っているからだ。
グラフの素描期間は5年や10年では全く無意味である。最低でも1983年からの31年、出来れば50年ぐらいのが好ましい。だってコンドラチェフスーパーグランドサイクルの中の現在という時間軸の捉え方が必要だからだ。書いたら3401の現在の「小動き」が上げのトンネルの中の往来という当たり前の動きなのがすぐに分かるし、多分そんなに簡単には暴騰しないだろうなあ?ぐらいの想像はつくんじゃないのかなあ、、。大型低位株はこのところみんな同様な動きである。1332、5301,5401なども同じ。9101、9104も似た動きだ。資本金と発行株式が大きな巨大企業はまだ大きくは買われていないという傾向と一致する。うねりは小さく底を固めてジリ高だが跳ねない。まあエネルギー不足なんだから、相場全体が活気に満ちてこないと大きくは伸びないということだが、かといって売られもしない往来の上げトンネルの中にある。前回の上げ、80年代の上げもそういう動きの数年後に、大きく買われる期間(2年程度)があって天井した。最王手企業は、結局法人のディーリングの対象に入らないと大きくは動きにくいという特徴があるんだろう。
 最近の傾向は、まず最初に振興市場がどんどんと上げて数倍に化けて天井する。喰い散らかすともうそこには何も旨味はないから暴落が待っている。次に小型の2部、1部の品薄が理由なく動き出す。現在はそういう時間帯であるから、それらが大きく買われて中段を形成するまで大型の動きは鈍いことが多いのが、たくさんのグラフの時間軸を比較すれば誰にでもわかるが、する人は少ないのだ。みんな縦の個別がどうなるかだけを見るためにグラフを使うからそんな単純なことさせ見落とすという事が起きているんだろう。見ているようで全然見えていない人ばかりなんだなあと思うが、わざわざ指摘しても見えない人には幾ら言っても見えないのだ。感覚とは所詮そんなものであると思う。
 場帳で売買をすれば、突如出来高が10−30倍に増える時がある。多分そういう時は法人が買いに入ったという事だろう。そこから株価の変化が大きくうねり始めるのだが、そういう変化を見るために場帳を書いてる人が多くはいないということなのか、書いていても気がつかないのか、書いていないのかのどちらかだろう。プリントアウトした資料を見てもピンと来ない、というのは感覚がないか、ほとんどないということで、感覚的な認識が浅い、薄い、から見落とすという事なんだろう。意味が無いことを形式的にしても効果が無いのは当然だ。
 相場師というのは職人と同じだ。細かい作業の上に品物は成立している。回転寿しを僕は鮨とは言わないし、あんなものは小さなお握りに魚が乗ったもので上手くもなんともない。そんな物はマズくて喰えない。本物の鮨(銀座の久兵衛や次郎や世田谷の荒木の鮨)を喰ったらまるで惑星が違うぐらい世界が異なるのだが、喰った事の無い人が大半である。自分が何をやっているのかさえ自覚していない人が大半なんだから相場で喰えるはずが無いと思うのだ。
 「貧すれば鈍す」と言うが、品物の味がわからないのでは所詮感覚なんて出来ようが無いではないか。一流を知らないと一流にはなれんだろうと思わないその発想を変えないと入り口から話にならないのである。
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