40歳未満にグラフの会の年齢制限をつけたのは理由がある。10年ほど前、猫塾という相場塾をWEB上で始めて結果的に500名ほどの塾生が集まったことがあった。もともと教師に向いた性格ではないし、教師のノウハウがあるわけでもない。まあ小さな40名ほどの会社のボスを何社かしたことがあるから「群れ」の扱いには少しは慣れがあったのだろうが、会社を転がすことと人にものを教えることは全く仕事の質が異なる。
第一、動機が不純で「相場師の出会い系サイト」という名前でやったのは「もしかして絶世の若い美女が来たらラッキーじゃない?」というスケベ男の趣味的幻想なのである。でも考えて見ると相場をするにはお金がいる。つまり貯金をコツコツ最初は溜めるという地味な仕事の前提の上に成り立つことが大半だろう。中には遺産が入ってガッポリラッキーみたいな人もいるかもしれないが、そういう人はオネーチャンというよりはオバアに近い。「そうかあ?相場をするような女子は年を喰ってるんだ!」と入会履歴を見て僕は愕然としたのだ。それぐらい常に僕は「世間知らず」なのである。自分が18歳で始めたのだから、現代のオネーチャンも同じだろうというぐらいの的外れな想像力しかない。「自分は特殊」という自意識が全く無い人のよくやる思い違いということなのだ。フェリックスガタリは精神科医である。(いきなり飛んで御免)彼はドルーズと「資本主義と分裂症」について歴史に残る著作を書いた。あの「ミルプラトー(1000の高原)」と「アンチオイディプス」である。この2冊は僕が会社経営を40歳で辞めて、本格的に月足グラフ素描を開始した時、同時に250銘柄の場帳を毎日書き始めた時に、万年筆を神田の専門店で買った時に同時に買った古本である。ペンはペリカンスーベレーンEFだった。さすがに腰が抜けて10年で買い替えになったが良いペンだった。億以上稼いだペンである。と同時に僕を支えたテキストがこの2冊だったということもある。
何一つ相場のことは書いていない。一行も書いていないのだが、僕にとっての「資本主義のイメージ=僕たちの生きている現実社会のイメージと諸問題」の全ての答のヒントがここにあったと思っている。「相場文学」ってアリか?獅子文六の「大番」以来、優れた相場文学があまりない。アメリカで数冊あるが、なんかアメリカンでピンと来ない。東京を舞台になんかオモロい相場の世界で個人が生きるドタバタ文学というのはあってもいいなと思うのだが、ブログを始めてみたのはそんな気持ちもあったからだろう。「日記文学」というジャンルがあるのだから(アメリカのサートンとか)ブログ相場文学というのもあるかもしれない。文学史的な評価なんてどういでも良いから、なんか書きたい。書くにはネタもいるし、程度アクセスがないと反応がないので手応えに薄い。1日1000ぐらい集まればなんとかなるか?という数値的なぼんやり目標があった。かといって無関係を呼び込むと、アマチュアが入って相場をやるとすぐにオケラが99%の世界だから人迷惑になる。知らない人なら知らないですむが、会ってもいない人でも教えた人が潰れると寝覚めは悪い。もうこの年になるとお金はそんなに必要ないからどうでも良いのだ。豪邸建ててロールスゴースト乗っても伊豆なら2−3億だ。別にやりたければやれば良いだけの事。好んで国税の餌食になることもない。黙って死んでいくことにやぶさかではない。親父の死んだ年まであと2年。遺伝子から考えてそう大きく変わるとも思えないからだ。
僕の生徒や弟子は大半が相場戦略研究所と林さんの所からきた人である。100%とは言わんが95%ぐらいはそうだ。僕からリンクを張ったことは一度もないし、第一リンクの張り方を知らない。全部部下に「やっとけ」仕事しか出来ないからだ。生徒や弟子は道具も言葉も彼の本を一応は10冊程度は読んでいる前提がないと言葉の意味が理解できないし、そういう世界があること自体が理解できない。林さんが80過ぎで僕が50だったから親子ほどの差がある。2チャンのスレッドも同じように建ったし、あることないこと書かれては良い宣伝にはなったが、客の質がどうしても落ちる。金には多少はなったんだろうが、目的、手段、結果の因果にあまり良いとも思えなかった。
そのとき82歳の生徒が来た。Gさんという女性である。リズムの5枚のコロコロがお上手で、ちょうどひよこちゃんみたいに軽やかな操作が上手いのだ。売りも買いも出来る。分割も玉の重ねもできる。平均値の操作(不等分割)もベトナムさんみたいに出来るのだ。稀に見る上手さ!自分の母親のような年の人である。丁寧な手書きの封書を便せん10枚ほど戴いて玉操作の指導をしろというお願いである。「重い!」と正直感じた。お手紙には息子たち(57と53)に相場なんてやるなと言われている。亭主は病気で入退院を何度もしてこの先そんなに長くない。毎日世話と看病では気が滅入る。林さんに教わったが細かいことは言ってくれない。そのうち亭主が死ねば私一人ですることがなくなると困るので「ある程度大きな資金で流れるような玉操作のうねり取りをやって死にたい。」というご要望なのである。したいことのイメージは固まっている。状態は理想的ではあるが、「時間」の問題がある。「あと何年あるか?」教えるほうも教わるほうも嫌でも数えるだろう。僕には自信がなかった。
それでも体調の良い時は毎月 講習会に来て一番前の席で熱心に僕の猫節を聞いてくれた人だった。半年ぐらいしてまたお手紙。「亭主が死んだ。これからは雑事がないので、思い切り相場がしたい。」とある。 「重い!実に重い!」
そう思うぐらいだから「先生」はやめて欲しいのである。先生というのはその責任を全人格で受けとめるお仕事である。そんなものは僕にはないのだ。それ以来、弟子を取るのはやめた。操作や方法は少しなら教えることは出来るが、それ以外は無理である。それなのにまた先週72歳の方からメールがあって、グラフの会に来たいという趣旨だった。
僕があと数年でどうにかなるという年なのに、バトンを渡す相手が年上では意味を失うと正直に思う。だから40歳なのだ。
昔話しに付き合って欲しい。吉田拓郎の古い詩に「イメージの詩」という名曲がある。
「これこそはと信じられるものが この世にあるだろうか?
信じるものがあったとしても 信じないそぶり」
少しひねくれたシニカルな青年の詩だ。赤い総評のハチマキをしてパトカー6台を集めた集会でビールケースの上に立った僕は
『シュプレヒコール!! 我々は資本主義の独善的横暴を許さないぞう!!』
そんなテキストを僕はリフレインで叫んでいたように思う。そんな僕はその後会社をやったり、相場をしたりしている。皮肉なものだ。トロツキーとアルチュセールが好きだったくせに(笑)、、。
さて初心者がとても増えてきたようだ。お時間の無い人も多いようだ。時間はどんな人にとっても人生最大の財産だ、間違いない。あなたのそれを奪う権利は無論僕には無い。だから「これをしろ」という権利も資格も無論僕には無い。それでもなお「間違いがない」ために書いたことを出来れば許すかぎりしてほしいと思う。それはあなたの「イメージの詩」をあなた自信が作るためなのだ。
8088 岩谷産業
8585 Orico この2つをネットのグラフで良いから比較してほしい。
先行するものそれを追うものというイメージだ。
8088 96.6 640 06.1 502 年初来高値更新 745 14.6.27
8585 96.7 1474 05.11 585 年初来高値更新 267 同
たたかい続ける人のこころを
誰もがわかっているなら
たたかい続ける人のこころは
あんなには燃えないだろう
傷つけあうのが 恐かった昔は
遠い過去のこと
人には人を傷つける
力があったんだろう
「イメージの詩」吉田拓郎 詩 より転載 |
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