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猫次郎のなんたらかんたら書き放題
お山の上から鴨を食うノマドライフは極楽ね

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大バカたちの美学

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役割の演じかたというのをこの年になって少しは考えるようになったのは人様のブログを拝見する機会が増えたせいだろう。ブログ友達のベトナムさんとかハルトモさん、ひよこちゃんとかアメーバ君とか乳酸菌君とかいろいろ知り合いになって実に刺激になるから、「痴呆」になっている暇がない.(笑)自分の子供のような年齢の後輩たちの株に関する疑問、質問にはなるべく誠実に答えないように(答えなど自分で見つけるものだから)している。それが彼らの上達に一番良いと思うから。僕はすぐに筆が滑るので昔から有名だ。余計な一言が多いのだ。こんな僕は実は若い頃はジャックケルヤックのような小説家になりたいなあと思っていたのだが、親父が「文学部はいかん、それ以外の学部でないと学費は出さん」といったのでしかたなく商学部という所に言った。どこに行こうと本人が本気でなるつもりなら関係ないと思うが、それは大人になってやっとわかることであって、若造の頃にはやはりわからないものだ。それでも本が好きで、しかも純文学が好きで、海外の小説の翻訳本を中心にたくさんの本を読んで来た。本屋の息子という環境が作用したのかもしれないし、両親が短歌の同人雑誌を発刊していたせいかもしれない。「歌詠み」は貴族趣味だから、貧乏な我が家のような家には本来不釣り合いな趣味なのだが、それでも忙しい仕事の合間に、母は新聞の広告チラシの裏に結構ステキな短歌をいくつも書いていた記憶が有る。僕は母に溺愛された典型的なマザコン男で、いつも女の人にすぐに甘える悪い体質があると自覚はしているが直らない。刷り込みというのは恐ろしいものではあるね。母のための勉強とか母のための成功とか、、。母が妻に変わっただけのことで今もそういう依存体質で欲望を誰かに委譲しないと自分が自分からは動かない他動的な愚図になっちゃったのね。
小売店は忙しい。僕は実はもっと優雅な金持ちのほうが良かった、仕事もしないで毎日遊んで暮らすキリギリスのような暮らしが良いなあ。たまに本を書いて、その印税で生きて、様々な国に旅をしてあの「パタゴニア」を書いて死んだブルース チャトウィンのような人生がステキだと思った。あるいはフィツジェラルドも有りかな?とも思った。フィツジェラルドのほうがまだ可能性があるかと思ったのは「相場」が頭にあったからだ。文学で食うのは「大衆に当てる」という部分が肝だが、相場はそうではない。大衆と逆にやればきっと当たる、相場師の偉人伝なんか読むとなんとなくそう思ったからだ。少年の空想はかわいいね。
 近藤紡という証券史に残るような超大物相場師がかっていた。死んだ時には2000億の資産を残したといわれる大物で、政府や経済界の重鎮が葬儀に並んだような関西の売り方の仕手だ。牛ちゃんで有名な獅子文六の『大番」の主人公のモデル、佐藤和三郎は合同証券社長を辞めてから観光業に進出して箱根の「強羅歓談」を宮家から買って改築し、日本一といわれる和風庭園の旅館をやっている。(今はご子息の経営だと思う)つい昨年そこで昼飯を食って来たが、良い建物と庭ではある。負け惜しみなんだろうが、このような巨大な資産を相場師の大物たちは残すのだが、それらを僕は見て「欲しい!」とは正直な気持ち「露ほども思わない自分」がいるのだ。たぶんそういう欲望の現実的な形がきっと「文学的でない=ナラティブでない」という情緒的な理由からなんだろうと思う。無論彼らのような実力も資金も僕にはないのだが、仮にそれがあったにしろ、「俺ならこんなつまらんこんなことやらんね」と思う。それよりも人里離れた山の上で「ヒラヒラ自分勝手に好きな事をして野垂死にするような自分のほうが数段高級な気がする」という強い思いがあるのはなぜだろう?きっと価値観の軸が異なるからだろう。逃走線=ジルドルーズではないか、資本主義という避けられない環境にあって、積分的な生き方への反発ということかもしれない。かってアルチュールランボーがマラルメの恋人として彗星のごとくフランス文壇に登場して世界を変えたように、そして数年後突如蒸発してアフリカで商人を始めてその後 一切の詩を書くのを辞めて野垂死にしたような生き方がカッコイイ!と青年時代に思ったからだろうか?
 ハルトモさんが「美学」ということをよく書かれる。彼は僕のテキストでいう所の職業的相場師というのとは少し異なる「勝負師」というのにきっと近いだろう。数年に一度のチャンスにしっかりと出動してちゃっかりと利食い、あとは休んでいる。まさに「達人」のやり方で、業界用語では「リターンリバーサル」を暴落時のみ行うイベントドリブンの定番手法だが、ご本人はそんな言葉もあまり興味が無いからご存知ないのだろうと思う。彼の美学とは、ゆとりの出た自分の人生の中で、自分と同じような偶然から恵まれない境遇に追い込まれてしまったかっての自分と同じような子供たちを少しでも助けたいという愛が動機である。「愛は地球を救う」だ。
一見強面で偉そうな言葉尻で「手は腰」の偉いサンみたいな格好をつけるのはきっと彼なりの照れ隠しなんだろうなあと茶化すのが僕の趣味となった。(御免なさい、不真面目な性格で)こういう自分の役割を自分できちんと決めてそれを演じるというような人生が、具体的な人生のレイトスタイルであると言う事を大江健三郎がかって書いていたが、自分の行動や言語などを通じて自分が過去の人類の得てきた知性なり知恵也を後の人たちに伝えることでそれがいくらかのアレンジメントを個人の中で変成され、新しい時代の新しい知性や知恵となって継承されていくという壮大なナレッジの渦となっていく。いくらたくさんお金儲けを成功させてみたことろで、僕たちは棺桶に入る時には「良かったね、俺の人生」という満足感以外は持ち込めないのだから、そのために自分の気持ちに正直に生きるというただそれだけの事をすれば「自分也の幸福な生き方」が出来るんだろうと僕は個人的には今思うのね。だから「美しい」ということに結構拘るのは、そういう種類の人間だろうと思う。ベトナムさんの面食いなんて典型ですね、そのためならカブトムシだのサソリだのを食うし、ゲロはいても空を飛ぶとか大バ○の類いですが、「そんなの関係ない!俺の美学なんだ」ということなんですきっと。だから僕も自分なりに背伸びなんかしないで毎日、お山の上で年寄りの猫と一緒に、便所掃除とかマダムのパンツの洗濯とかアイロン掛けとかカレー作りとか、今まで坊ちゃんで一度もした事もなかったような「家事」をすることで結構楽しい暮らしなんです。お金なんてホント必要ありません。だって何も売ってないんです欲しいもの。だって何も無いんです欲しいもの自体がもう。それでもベトナムさんと同じでね、歯磨きと洗顔と同じ習慣としての「グラフと場帳」は書きますよ。しないと「気持ちが悪い」のね。そんなもんです僕らの暮らしの美学は、、、。
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「経済史から何を真実として知るか?」こんな問いの立て方をする人はかなり利口だと思う。
テキストを読む。例えば資本主義経済史。経済学部とか商学部など人文系大学の講義には必ずあるだろう講義カリキュラムだ。試験で勉強する。高校時代は丸暗記することが勉強だと思っているというか、そうしないと得点にならないからみんなそれをする。「一つでも多く暗記するというのが、勉強することだ」といつの間にか思い込んでしまう。本当はそうやって暗記した史実から「歴史」がどういう偶然の結果なり歴史の法則なりを理由に動き、現在に至るのかを自分で考えるということが「本当の歴史の勉強」のはずではないのかと思う。だがそういう事を自分で考えて判断して、それから自分也の教訓や反省を実際の生活に活かすというのが歴史から僕たちが本当に学ぶべきことなんだろうと思う。「知」というものがそうやってはじめて個人の中で起動して実際の役に立つという回路を体験することで、多くの人は利口になっていくものだと思うが、それは新しい知識や情報を量的に早く取り入れることとは別物の「知恵」である。現実社会で成功してる人には、この種の『知恵」がある人が圧倒的に多いのではないかと僕は思う。そこには取り入れた「知」を自己の体験として起動し、ある操作を通じて体感し、その後返礼するという過程を通じて物事の達成を支援するという一連のプロセスを伴うと思われる。
 高校の世界史で習ったかどうかの記憶はないのだが、大学の近代経済学経済史では習った記憶のある「独占禁止法」という法令がある。企業がある製品やサービスを独占的に生産販売することを禁じる法令だ。世界中の先進国資本主義に同様な法がある。寡占状態にある業界で大手が価格カルテルを結んで販売価格をつり上げて不当な利潤を得るのを制限する法令だ。毎年アメリカでも日本でも資本主義国家ではその違反企業がよく新聞種になるから知っているだろう。
 例えばの話、「なんでこういう法律が生まれたのか?」という問いの立て方を出来る人は賢い。それは「資本というものの本来的な性質が、分散から集約、そして寡占、独占という過程で集合する性質をもともと持っているからではないか?」という仮説を彼が持っているから出来る問いなのである。それをメタ言語的な発想というし、仕組みや前提を疑うことそしてそれらを丸ごとひっくり返す方法論を模索する事に繋がる可能性を産む有効な解決法である。AかBか?というような単純な2択の設問のような単純化された現実というのはそんなにあるものではない。だから金融市場の性質というのにこれが当てはまるとどうなるか?と少し考えを広げてみると面白いだろう。資本などど大げさな言い方をしなくても良い。「お金」のほうがピンとくる。現代(高度資本主義社会)は、人々の大半は労働という価値を金銭(お金)という対価で受けるとケースが大半だろう。あの毎月あなたの口座に振り込まれる金額が「あなたの労働の値段」(あなたの市場価値)と言ってもよいだろう。大半の働く人が安いと思っている。だがそんなものでしかないからそんなお値段なのだ。だから人々は必死にその価値をあげようとするのだろうと僕は思う。その企業から社員に分配された価値(お金)は、通常は労働力再生産のために消費され(住居費用、食費、その他の消費)残りの一部が蓄積され「預金」として銀行に預けれられる。
このお金は所有権はあなたのものだが、預金であるかぎり銀行のものでもある。それを集めて銀行は企業に貸し付けたり、国債を買ったり様々な投資をし、それから得られる金利や値鞘から儲けを作り、あなたに金利という利子を支払い、銀行員に給与を支払う。ここでたくさんの預金者の金は銀行という場所に寡占的に集められ、国債を買えば国家という独占に吸収される。お金の流れとはそういう流れである。つまり分散ー集約ー寡占ー独占というマトリックスが本質なのだ。
 証券市場でも同様な流れがある。株を買う人はお金を証券会社に振り込む。そのお金は集約されて寡占化され、その証券会社が取引所を通じて株式を買って保管するという「建前」となっている。でもその「建前」が本当かどうかは疑わしい。
胴(証券会社)が注文を飲んだらどうか?朝ナリで出す注文は一値で決まる。その値で売買報告書を作って送る。胴はどうせこいつはド下手でいつも負ける(コンピュータの過去の取引統計ですぐにわかるはずだ)のだから反対売買をすればよいと思えば、彼の買い注文の無条件に売り注文を出す。2週たって株価が下がる。200円で買った彼の株は180円になる。売った胴は200円で売ったものを180円で買い戻す。20円の利食いだ。まだ下がりそうだから少しも戻った所を
183円で今度は10倍売る。買い手がいないから暴落する。そして2週後に140円になってしまった。大損に青くなった彼は140円で投げる。それを売っていた胴が買い戻す。また胴が大儲けとなる。
これは想像力の問題である。そういう仕組みになっていても何の不思議も無いと思って僕は売買をする。信用取引の買いで
目一杯維持率ギリギリで買ってる人はちょと崩せばすぐに追証になる。全部相手にはわかっているのだ。だから信用手数料は「無料」ですと甘い言葉で誘うのだというふうにヘソの曲がった猫は勘ぐるのである。下手な人の注文は全部飲まれると思えば、いくら買っても上がらない。だって実際は買っていないからだ。こうやってわずかずつでも積み上げられた金が胴の経常利益となるんだろうなあと僕は思うので、胴はほとんどリスク無しに儲けていると思っている。だから唯一の対抗策は、その胴の株価が大きな利益になって上がるだろうと胴の株を買うということでしか対抗できないなと思う。だから上げ相場の時は商いが活発化して市場に資金が新規に流入するから証券会社の株が一番に効率的に上がるということが起きるだろうと思って、それを安い時に適当に買って仕込んで待っていた。結果はその通りになった。
8617 光世証券   
2011.2.22    89    −2
    2.22    82    −5
2,013 4.18    384   2−
    4.26    368   5−

適当に2分割で買い下がって2年放置していた。上がったので分割で落とした。単純な売買だ。でも資金は4倍になっている。難しいことをしないでもちゃんとグラフを書いて、まあいいかで買って上がるまで待って天井臭いかなと感じたら外す。どんな馬鹿が眼をつぶっていても儲かる方法だと思う。グラフだけたくさん書けば誰でも10年ぐらい基礎をやれば多分日本語が理解できる頭なら出来るはずだ。
個人が勝つと金の流れは分散する。胴から僕に資金が流れるという逆流だから大きく出金させるのをなんとか止めようとする。でも僕は必要は金はたまには千万単位で出す。だって生活費がいるからだ。結局、胴が小口の負けを集めて勝った人に
資金を回すという現象で金は移動する。この過程で小口から大口へと金が流れることが大半である。こういう客の注文は彼らはヤバいから飲まないのである。飲むと損をするからだ。つまり毎年、税務署へ大口で納税する客の注文は飲まない。損を出す客の注文はきっと全部か相当部分を飲んでるかな?と僕は想像する。だってそれが一番儲かるからである。昔の大相場師がすぐに自分で証券会社を経営買収しようとしたのはこんな理由だと思う。ヤマタネとかノムラとかだね、、。(笑)
メタ言語的設問の重要性の例として身近な部分で書いてみた。(一切の証拠はないが、想像力だけはあるのね、、)
ひよこちゃんがママを説得するネタとしてショートの小説を書いてみた。「直木賞」は無理だね(笑)
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故是川銀蔵氏の生き方に同じ匂いを感じた。相場ではなく性格か遺伝子か何かを感じました。
そして不思議な一致が沢山ありまして身震いした。世捨て人になってた2年間、小豆相場やりながら小豆、大豆、コーンのグラフ、株のグラフ、場帳書いてました。
飯は一日一回、納豆、梅干、卵 。食欲ない時は食べないでいた。34日はよく抜いてました。水とお茶で腹ふくらしてました。人間、本気になったらこんなになるのか、って思いました。こんな生活一年もすると全ての欲はなくなる。
でも超うつ病になりました。2年で世間に出たのは危険やからです。一度逝きかけた。不思議が起こったです。もうオカルトの世界。 すいません。本です本。
この本にこんなくだりがあります。
昭和6年 34歳の時 最初に手に入れたのは新東株(平和不動産)だった。
当時、子供四人と家内の六人家族の生活費は百円必要だった。七十円の元手で月百円ずつ家内に渡す生活費を稼ぎながら資本金は増えるばかりだった。
その年の年末には七十円の元手が百倍の七千円に膨れ上がっていた。(当時、千円で土地付一戸建てが買えたらしい)
売買は連戦連勝、百発百中。売っても買っても百発百中。
 
アホな頭で考えた。昭和六年、どんな相場の技術書があったか?アホの結果は酒田やと出ました。(笑)
 
人間には、一生のうち二度や三度のチャンスはある。
それを生かすか殺すかの決断のために、日常の努力と精進、そして真面目といった理論と実践とを通じて日夜思考の訓練を重ねることが成功への確率を増進する。
 
そのために数多くの真剣勝負を経験し、勝負勘を養うことだ。
つまり勘とは、経験の集積から湧き出る真実的総合判断なのである。
 
 シビレました。私は相場で疲れたり、腐った時はいつも読んで気合い入れ直してます。
この本の最後のページ 最後の二行 私の夢です。
 
座右の銘  ワシは絶対に損はせん! 壁に貼ってます。()

2017 あーあ! バカラ  - 2004/07/19 01:47 –
破産したとして、どう考える?
血ヘド吐くほど勉強して技術ある人物が何故破産したか考えてみ。
それ程、クソ恐ろしい世界やと思わんか?
 
ど素人が仕事もって片手間に、欲の皮突っ張って入って最後はどうなるっちゅうねん。アホでもわかるど。
だから姿勢、精神力違うか?
足るを知る、を完全に自分に染み込ませなアカンのとちゃうか?
 
技術もって儲かると有頂天になる。周りがアホに見える。
魔が迫って来てるのが解らん。
9回儲かっても一回の失敗で破産するのが相場ちがうん?
成功するの5%やったかそんなんやろ。
それになろうとして頑張るのやけど、なれると思うか?俺はとても思えん。
だから分をわきまえて欲おさえることする。人間みな本音は強欲やろ。
焦った時、パニックッた時、人間どうなる?
相場する人種はしてない人より確実に強欲やなんやで。紛れもない事実!
誤魔化しようのないおのれ自信をよーくよーくみつめ直してみ。
謙虚になってみ。しょうもない失敗したらアカン!
小さな失敗は何回でもせなアカン。小さな失敗繰り返すと今度は儲かりだす。
アホほど儲かる時がある。
姿勢なってないと ここからもってかれる。
やられる。そして取り戻そうとするやろ。 あとは知らん!
 
危険が多い。ワナが多い。つくずくそう思う。
俺は違う!ってなにもせず頭デッカチになっている半玄人が一番危ない。
 
林大将や立花氏、板垣氏、管理人さん、猫さんがおっしゃってるのってアホほど簡単なことやろ。この簡単なことが実行するのが一番難しいの。なんでや?ようーく考えてみ。
 
数年前のクソ安値の時、どれだけ買えた?
ど素人の人間ほど沢山買ってる。ほんで忘れる。ほっときよる。
数年後は5,6倍や。天才や。雲の上のプロと同じことしたはる。
 
しょうもない失敗したらアカン。分をわきまえて謙虚にならなアカン。
雲の上はいつも晴れてるで。
そうなるまで我を捨てて謙虚になって猿になってがんばれ!
はなはなマロンさんの華道の話。 個を無くして個を生かす。 シビレました。

     相場戦略研究所 過去ログ より無断転載
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 たまに懐かしくなって読み返す過去ログというものがある。相場研のバカラさんの書き込みだ。きっと関西の人で、一人親方だから建設業に関係していた方だろう。ツーと言えばカーと返す。板とメールのやり取りだけだったが1年ほどの間、随分とお世話になったし、現在もたくさんファンがいるプロ相場師だと思う。彼はいつの間にか書かなくなって「伝説の相場師」になっちゃった。ちゃきちゃきの硬派。僕とはまるで逆。こういう怖そうな人には「ヒラヒラの軟派」がきっと扱いにくいんだろうなと思う。バカラさんは「賭博」が大好き。結構危ない賭場に出入りしていたと思う。何億もやられた社長連中がたくさんいるような賭場だから、そういう世界を知っているんだなあ、、あっちの世界の人なのか?と思ったら、している事が実にストイックだからそうでもないみたい。
僕は「オネーチャン」が大好き。好きなものは異なるが、好きなものは怖いものという点では一致する。「この世で美女ほど怖いものはない。だからなんとかしたいのよ、、」というのが軟派だし、「この世で博打ほど怖いものはない、だから頂点を目指すのよ」という硬派の差異だ。
 きっと儲けすぎて金が余って引退したのかもしれない。お金よりも「相場をすること」の中毒のような人だった。相場フェチと言えるだろう。相場の上達のために1年半近くも断食して死にそうになるようなキ印一歩手前の人なのだ。こんな人と相場でまともに対峙するのだから、普通の人がどう逆立ちしても勝てっこないよなと僕なら思う。長い眼でみたら1000回やっても1回も多分僕など勝てない。高度な仕掛けの分割の方法論をやり取りしたことがあるが、結局、僕と同じ結論になったんだと思った時、この人は大勝ちしているなあとその時に思った。
 残念ながらお会いしたことは無いが、ベトナムさんと同じように同じ銘柄のグラフを何回も沢山書いて、プロになって大きな売買で成功された人である。方法もほとんど彼と同じだ。安値にある大型の低位株をしこたま現物買いをする。300枚500枚とゆっくり買う。しばらく放置して、上げ始めると繋ぐ。ここはほとんどデイトレに近い。数円抜きで買い落ちの無限の繰り返し。日々の売買益で毎日の生活費を稼いで根玉は天井まで持って行く。安値で買った玉が3−5年して高値になって3−5倍でドテン売り越すんだろうが、それまでは繋ぎの比率はせいぜい2−3割なんじゃあないのかな。他の低位も年金代りに1000株とか2000株だけ数十銘柄パラパラ買っていた。なんちゃってFAIだと言っていた。黒崎が吹いたときの売りの譜がたしかあったよね。「(売り玉)頼むから死んでくれ、、、』というやつだ。
20メートルの折れ線グラフの話が出た時に真似っこしようと僕も書いた。それが今は28メートルになって重くて巻けない。耳はボロボロだ。たまに広げて見るが100mmのマンションではとても無理!それでしかたなく2年前に切断した。そこがちょうどW底の右側ということになっている。不思議な偶然だと思うが、そういう不思議な事を何度も相場では経験したものだ。

主力が重工、大成建設とまさにど真ん中でこれもプロ好み。練習生への教えも「ごちゃごちゃ言わないで月足グラフ、折れ線、場帳をたくさん書け!」とこれもまた僕と同じことを言う。
 ほとんど林系列でプロになった人、プロ的な売買で成功する人は全員月足グラフを大量に書いているという事実が有る。人によって様々な期間とか枚数があろうが、1000枚以下の専業なんて僕は聞いた事が無い。重複して何度も書くというのが良いようだ。時間の無い人ほど、重複なんて2重のことをして意味が無いというオツムが軽いことを言うんだが、それは「反復と差異」というより高等な感覚と技術のことを知らないだけの、アホのやりたくない事のいいわけだから、専業たちは鼻で笑っている。「きっとこいつはそのうち破産だな、確実に。」そう思っているのだ。「シメシメ、姿勢がダメならアッという間に投げか踏みね」と常に思っているし、事実99%そうなってきた。生き残ったのはみんなたくさんグラフが書けている人だけだ。塾で400人いて、ちゃんと相場をするだけの資金がきちんと残っているのは10名もいないだろう。2%だ。生き残る歩留まり。大きなうねりの10年程度の期間でも暴落が数回あるとそんな率しか残れない。だから書けといっているのだが、手抜きをして後回しで玉が膨れたところでガラが来る。ガラが来て投げらるかどうか?投げた後に戻りをひきつけてゆっくりドテンで売れるのか?すべて「反復と差異」の認識を月足が語っているのだが、その動作がきちんと出来るかどうかが生存の鍵だ。その鍵がないのなら死ぬ以外に結論がない、「つまり出来ない人は全員が死ぬ」のである。相場というのはそういうものなのである。天底なんて後になって初めてわかるもの。『天井売らず、底買わず」というテキストの意味を考える人はほとんどいない。みんな逆をしようとする。「底を買って天井を売りたい」猿やアメーバのくせに自分が神だと思っている。まるで一昔前の少女マンガだ。(爆)
1000万の資金が2000か3000になるとほとんどの猿は億がすぐ見えると錯覚する。そして資金を増したり借りたり、信用買いに手を出して資金管理がグズグズになる。その膨らんだ時に一気に崩れるのが不思議に相場というものなのだ。「天国の気分で儲かる」という天でスウーっとすきま風が吹くその一手の有る無し。それができるのに最低でも10年や20年がかかるということが猿には全く分からないのである。一人の天才とその他万人単位の猿。そういう構成でこの世界は成り立つ。それがわかっている謙虚な人は自分がそのたった一人の天才でないという自覚があるからこそ、死ぬほどグラフを書いているというのが現実だろう、そう僕は思うのだ。「テメー一人で相場張ってんじゃないんだぜ!」そう言われても意味がわからない。それがわかればとっくにグラフぐらいは書いていると思うのだ。スタートラインの100キロ(100メートルじゃあないよ)手前でごちゃごちゃ言っている「負け犬の傷の舐め合い」の数量が多いからこそ、その反対側にたんまり儲かるやつがいる、事実はそういうものだ。税務署が一番それを知っている。「国税が来たことも無い人になんで金儲けがわかるのかと思わないのかな?」というのがバカラ氏とのメールでの笑い話のオチである。
 12日に東京に行ったので不足する文房具を世界堂で買った。グラフ修正用の白い修正ペン5本と場帳修正用の修正テープ、ボトルインク3個。10年以上前に買ったペリカンがそろそろ腰が抜けてきたから寿命かな?軽くて良いペンだからまた作るかなと思う。道具は高級品が良いですよ。「タイアは命を載せている」というコピーがあるけれど、ペン先には人生のかなりが乗っているはずだから、、。
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そろそろ結論に移りたいと思います。
世界が識字化によって統一されつつある中で、一つのパラドックスが生じています。旧来の先進国と新興国は、異なる歴史的な時間を生きている。この二つのグループの相互作用から、奇妙で、コントロール不可能な状況が生まれている。
 私は未来に関して、自分が死ぬ前に、ぜひ知りたいと思っていることが二つあります。私は、長期的に10年、20年、30年を考える歴史家です。そして例えば、ソ連の崩壊を予想した時には、私はまだ若かったですから、その予想の実現を必ず見られるという確信がありました。今はもう若くありませんので、結果を見ることができるか分かりませんが、二つ見ておきたいことがあります。それは、むしろ疑問型になりますが、第一に、「民主主義がヨーロッパで死滅するかどうか?」です。民主主義は、ヨーロッパで死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。第二に、「民主主義が中国に生まれるかどうか」です。生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない。言い換えれば、今後、発展途上国において民主主義は出現するかどうか、そして先進国において民主主義は消滅するのかどうか、ということです。これらはむしろ疑問の提起であって、答えにはなっていません。
 『自由貿易は民主主義を滅ぼす』 エマニュエル トッド  藤原書店より転載

 政治や歴史を書くとまた右から火に油ということになるのが嫌なんだが、レフトとしての似非グローバリストとしてはトッドの疑問の定義は深い。彼は1951年生まれで僕より4歳上の同世代だ。彼が弱冠25歳でソ連崩壊を予言し見事にその通りになったのは世界中のインテリの誰もが知っている。仮にそれを知らなかったらそいつは無能か単なるインテリぶった阿呆だろう。実に聡明な歴史的才能である。その彼が「サルコジ局面」が起きたことで、フランスの政治思想と大衆の愚劣化によって民主主義の崩壊過程を実際に極めて現実的に危惧していることが伺われる。対策は「秩序ある保護主義貿易」と簡明な結論だが、現実政治の中でそれは空しい響きのようにも見える。僕たちの世代は少なくともトッドの疑問の定義を頭の中のどこかに常に置いておく必要があるのだろう。アナール派というのは政治経済思想ではどちらかと言えば周縁に位置するノマドたちなのだが、水野和夫やウォーラスティンの「アフターリベラリズム」など金融経済発展は幻想であるという仮説(僕と同じだ)は新しい地平への展望と思われる歴史批判であろうか。テキストの重要性を何度も僕が書くのは、結局思考の柔軟性とその準拠枠がなくしてはいかなることも認識しえないという歴史哲学の結論に達するからでもあろう。テキストを支配するのは言語であるのは言うまでもない。「日本人とは何か?」という問いを立て、それに明確に回答する人をあまり知らない。日本国籍を持つ人でもないし、日本に住む人でもない、ましてや君が代斉唱を卒業式で強制する人では決して無い。それは「日本語を母語としてそれによって生活し思考する人たち」を差して「日本人」という定義を僕は行う。だからこそ僕の書くテキストに激しく同意したり激しく反発する人たちは間違いなく「日本人」であると思われる。危惧するのは僕の発する日本語を日本語として理解しない人たち(かつてのアメーバとか乳酸菌とかilo*eni**nsin*e200* とか様々だが、、)が無限に増殖つつあることだ。つまり日本人の崩壊現象=アメーバ局面とドッドなら言うのかもしれない。テキストをテキストとして正面から素直に受け止められない人たちの事である。

 ジャン ラクチュールは、彼がデュメジル、カンギレーム、ジャンイポリトの3人の師に捧げたコレージュドフランスの堂々たる就任講義について報告している。「すでに通じ合っていてあらかじめ魅了されている聴衆、あるいはすでに言う事を聞かずいつでも反抗しようとしている聴衆を前に、象牙のような膚をしたひげのない頽頭の人物が仏教徒風の物腰で、メフィストフォレスのような眼光をたたえて進み出る。そしてこの瞬間の荘厳さも彼の眼に浮かぶ抗いがたいアイロニーを鈍らせることはない。彼は異端の時代の助祭のようにやすやすとコレージュドフランスの儀式に身を伏した」。今年もなお、彼は多くの準備作業を必要とするコレージュドフランスの講義を果たした。学生たちは、エコール街のすぐ近くにある中華レストレランで昼食をとる彼をときおり見かけたものだ。(中略)
 神経をピリピリさせて彼は孤独に閉じこもった。彼が再びマスメディアに現れるのはポーランドの時81年12月13日の戒厳令以降だ。彼は限られた仲間たちに会っていた。もう少し広いしかし内輪の「アカデミータルニエ」の仲間たちはメドゥサンドモンド。彼はマーラーを聴き、ブランショ、サヴィツカヤ、プルーストそしてドルーズを読む。講義のためにバークレーに通ったが、そこでは彼はロックスターのように迎えられる。彼は多いに笑い続けた。床に転がり落ちるほど笑った。ラテン語やギリシャ語のテキストを読んだ。彼は新たな学殖の習得を始めていた。「性の歴史」によって、まだ本当に手にされているとはいえないひとつの歴史の全体に取り組みながら、彼が古代史学者たちに投げかけたのは、正真正銘の挑戦である。
 実際孤独のうちでまた研究のうちで、彼はヴァカンスに立つときのように距離をとっていた。アメリカや日本に思いを馳せていた。彼は運命によってバークレーに召喚され、メドゥサンドモンドの船上に呼ばれるのだと思っていた。たぶん彼は人生が選ぶがままにしていたのだ。癌が、先週の月曜日、13時15分に彼に違った決定を下した。彼は誰か他のひとでありたい、他所にいたいと願っていた。彼は最後まで、大胆で無法で不穏な哲学者、決して威信を失うことのないあざとさを宿した、比類なく巧妙な、母にとってのそして歴史家たちによっての「たちの悪いあひるの子」だった。彼の友人たちはいつまでも彼をフックスと呼ぶだろう。     「フーコーの生涯 」 ダニエルロンドー  現代思想より転載

 世の中の豊かな人々とおつきあいを少々しても僕はいつも寂しい気分になることの方が実は多い。それは「話が噛み合ない」ことがほとんどだから。彼らは自分の努力才能かあるいは環境の好運かそのいずれかによって一般人よりも経済的に豊かである。それはそれでご立派なことで好運でよかったねと思うのだが、その豊かさを彼らに与えたもの、医師という職業とか投機という仕事とか大企業の役員という組織とか経済的効果を賛美してそれに同化するという行為を通じて人生の大半を過ごす。まあ僕に言わせると「順張りね」ということになる。流れに逆らわないで「乗る」とか「乗せる」という方法とタイミングだから効果はきっと抜群なんだろう。どんどんそれを加速させて自分が記号としての大きさを拡大していく。そのうち拡大された記号がそのうち本当の自分かどうかさえわからなくなる。快適な生活。美しい妻、広い家、毎日のごちそう、豪華なヴァカンス、ステキな車と洋服、社会的な名声や地位。彼らが常に考えることの対象は「記号的拡大」についての方法論の具体化だ。だからその方法を実現することにいつも忙しい。いつも走っている、寝る暇も惜しんで。早口に喋り、早足で歩く。「時間が欲しい」と彼らは言う。
そんな人の側にいるとぼんやりしている僕のような男は「忙しく」しないといけないような変な罪悪感に圧迫されるからホトホト疲れてしまう。だが実は40歳までの僕はそんな彼らの典型的な一人だったという自覚はあるから、まあそのうちどこかでかわるだろうなと思う事にしている。早いか遅いかの差だろうと、、。死ぬまでそのままという人も中にはいるんだろうが。
「フーコーの生涯 」が載った現代思想を僕が買ったのは1984年、僕が29歳の時だ。あるアパレル企業で(今で言うブラックというやつ?月に何十時間も残業しても一円も残業代を支払わない会社)腹が立って労働組合を作って、組織率を非管理職の97%に高めて20歳年上の財務担当役員が廊下ですれ違う時に黙礼したほどの「政治権力」がこの若造の僕にはあった。(思い出すと吹き出すほど楽しい思い出だ。)こっちは子持ちの(2歳の長男と妻のお腹の中に長女がいた)貧乏な結婚後間もないバイヤーという仕事をしていた。ただし毎日の生活は貧乏だったが仕事をするための金は作っていた。へそくりで3000万以上あったと思うから、アルバイトの企画仕事と相場の好運(当て屋の典型)で千万円という金の単位はいつの間にか僕の中では「記号化」が完了していたのだろうと思う。ストライキの時は男子組合員が倉庫に徹夜で24時間立てこもる。灯油缶を10本持ち込んで「何かあれば在庫を全部燃やしてしまえ!」と言うような危ない司令官だった。節約のためにマダムは朝早く起きて毎日僕に「お弁当」を作ってくれた。少ない家計費から苦労してなんとか毎日飽きないような工夫をしてくれた。この時僕たちは230Eという縦目のメルセデスの12年落ちのレモンイエローの美しい車に乗っていた。買う時に妻に聞いたのだ。「新車の黒いスカイラインと黄色の中古のメルセデスとどっちが乗りたい?」「黄色いほう。」と答えるのにマダムは1秒もかからない。それ以来なぜかメルセデスとジャガーには縁がある。アンバランスな生活といえばそうなんだろうが、快適な生活という意味では「工夫して我慢しない」というようなスタイルが僕たち若夫婦のその後のスタイルになったのだろう。稼げば使えるからどんどん拡大する仕事に順バリで乗せて、3年で僕のギャラはリーマン自体の10倍ぐらいになった。こうなるとギャラなんて増やしても税金が増えるだけだから「経費使い放題」の社用族と同じ運命になるように日本の税制はなっている。ストの時に買い込んだフーコーの雑誌はパラパラと眼を通しただけで僕を素通りしていた。その後10年して身体を壊して(働き過ぎという凡人の失敗の典型だ)会社を売って辞めた。その時に読んだのが上記のテキストだった。「相場師になるか」そう僕は何の展望もないままにグラフを書き始めていた頃のことだ。「脱アマ相場師列伝」とか「商品相場必勝ノート」「株式上達セミナー」なんかを数十回読んでいたアメーバ以前、アミノ酸状態の頃の僕である。10年の仕事の成功と失敗について、「ゆっくりと考える時間」が初めて僕には生まれた。大抵の贅沢は金で買えるし、その大半を多分普通の人より20年か30年早く経験したことは無駄にはなってないかと今は思う。そんな中で林さんの本は「やり方」について書いている良い本だと思ったのだ。これに気がついたというのが「才能」だろうし、「運」である。身体を壊しても「運」は落ちてない。だから先生にお会いして言われたことが「重要なこと」であるという自覚はその後僕の売買に決定的な影響を及ぼす。「ゆっくりと建てろ、ゆっくりと外せ。休みを入れて売りを挟め」すべてがこの一言で言い尽くされる。それが上手に出来るようになることが相場師であるという明白な目標として措定される、つまり物事の準拠枠の設定という事である。この枠組みには「欲望」は存在しない。
練習生は相場で飯が食いたいと思うのなら、今日のここをプリントして額に入れて常に毎日読んでおけと言いたい。あの松下電機の朝礼の時の社訓のような物だ。(笑)「信じるものは救われる」そう神は言った。
仕事や金儲けというのはある意味で戦いの要素を排除できない。相場でも同じだが、その戦いには具体的な敵はいない。敵を作らないというのが賢い人のやり方である。敵がいるとすればそれは自分の中にいるのだろう。自分が相場と対峙するような張り方はいずれ躓く。そうではなくて自分が波そのものになるような自然な流れに乗るということだけを感覚的に感じ取れということだ。どんな波がきても浮いているためには自分自身が波になる。「ちょうど自分が賭け自身になる」というようなポールオースターの小説「偶然の音楽」でポーカー賭博師ジャックが語るようにだ。
 そんな時に僕は、ミッシェル フーコー この20世紀が生んだ巨人の学び方のスタイルを思い出し、彼の死に方を思い出す。「たちの悪いアヒルの子」として、同性愛者の哲学の巨人として、ラディカルな政治思想の旗手として常にリベラルであった彼を想う。フーコーの遺沢を継ぐようなテキスト、そんな一行を書けたなら贅沢な暮らしをするよりもどんなに僕は嬉しいだろう。
最後に長いが僕の今を代弁する巧妙で知的なテキストを贈ろう。インテリにはきっと受けると思う。いつもの「不可能な交換」である。グラフを書く効用を疑う人には良い薬となるのかもしれない。


 だが、ボルヘスの「バビロンの籤」やラインハートの「ダイスマン」のような、偶然に支配される社会という着想は、いわば絶対的デモクラシーの発想である。というのも、デモクラシーはたしかに法の前の平等の観念を根拠としているからだ。けれども、この平等はゲームの規則の前の平等ほどラディカルではあり得ない。そして、すべてのゲームの参加者の想像力につきまとっているのは、このラディカルなデモクラシーという夢なのである。この種の夢想が、いつの時代も、あらゆる形態のゲームに途方も無い魅惑をもたらしてきたし、とりわけ中流階級や庶民にとっては、「社会的」デモクラシーの気の滅入る要請からの隠れ家となっていたのだった。
 ゲームは「幸運」の場所であり、善と悪がおなじやり方で分配されない唯一の非=場所でもある。たとえもっとも貧しい形態のゲームであっても唯一の豪奢な活動であり、それが実行される物質的条件を無視した、至上の自由の実践となる。「自然的」自由とは無関係な超自然的自由の場所と言っても良い。世界との直接的な共犯と共謀の関係がますます可能となる場所だ。
 あらゆる快楽はここからやって来る。ゲームはわれわれを束縛や強制から自由にするわけではない。ゲームはわれわれを自由から解放する。自由はもはや現実としてしか体験できないなら、われわれは自由を失うだろう。ゲームの奇跡、それは自由を現実としてではなくて幻想として、われわれに体験させることだーーー現実より上位の幻想、現実への貴族的な挑戦。現実は民主的だが、幻想は貴族的なのだから。
              ダイスマン 「不可能な交換」 
        ジャンボードリヤール  紀伊国屋書店より転載

ノマドライフ

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 手の怪我は治ったかい?花に見とれて転ぶなんて、
        やっぱりきみらしい。笑っちゃた。         
今ぼくがいる村はみんなが宝探しに夢中になってい
る。宝物が埋まっている場所というのが高い崖の途中だ
から、誰でも行って掘れるわけじゃない。村役場の委嘱
で専門の人たちが来てやっている。村の人はみんな崖下
に行って発掘作業を見ている。今日は出るか、明日はみ
つかるかって、誰もその話ばかり。
 首都の大学の考古学者がここの崖にあると言い出した
のが騒ぎのはじまりだった。金貨とか宝石とか、そうい
う宝じゃないんだ。昔々の預言者の呪文を書いた文書で、
その言葉をとなえると誰でもすぐに幸福になれるってい
うんだけど、信じられるかい?
 もしみつかったら、その文句を」きみに手紙で教えて
あげるよ。日本語に訳しても効き目があるといいけど。
ただ、ぼくは、幸福って人ごとに違うものだと思うし、
どうも呪文なんて信用できない。
 きみのもとへ帰れれば、ぼくは幸福なんだけど。
 またね。花にご用心。
             バイバイ


  宝を探す人々    
池沢夏樹「「きみが住む星」より転載


 6/12のアクセスは590オーバーだった。多分レコードだろうと思う。様々な読者がいる猫のブログだが、一番熱心にこれを読んでいる読者がいる。きっとそれは僕のマダムだ。今頃は病院のベッドでi phoneの画面で見ているんだろうと思う。池沢の詩はすべて彼女の蔵書からの引用で、中にはサイン本が数冊あるぐらいの熱烈なファンだ。彼女は普段はあまり読書をしない人だが、池沢と辻邦生は別格のようで、文学というジャンルの中にあってこの二人がマダムの感性に与えた影響はすこぶる大きいものがあったのだろうと想像する。
 いつもは「カイロプラクティック」とか「足の壷」とか「呼吸法」「瞑想法」「断捨離」とかいわゆる実用本みたいなものをよく買っているようだが、読むには読むがあまり実行しているようには傍目には見えない。あとは仕事に関する「花」の本、美しい洋書の花の写真集とかが多い。仕事が忙しく本をゆっくりと読むような時間がほとんどないという暮らしだろうから致し方ないのだろう。それでも50歳を過ぎて子育ても終わって孫がたくさん生まれる時間になっても自分の好きなジャンルで好きな仕事を自分のやりたいやり方で実行する事でシアワセを手にしているのはステキな生き方だ。ある意味でも全ての意味でもきっと僕よりも贅沢な生き方!
 マダムと最初に会ったのは、僕の浦和の僕の実家だった。マダムは妹のクラスメートだったのだ。友達のお兄ちゃんと結婚した彼女はまるで少女マンガの主人公のようだ。マダムは南方系の血筋で先祖は奄美大島の御姫様の家系である。眼が吸い込まれるように大きい南方美人で痩身の長身。顔や頭が小さくて手足が長い。髪は乳房が隠れる以上に長い。いつもシニョンに結って仕事の時はベレー帽の中に隠している。髪を下ろすのはベッドの中だ。彼女はたくさんのお帽子を持っている。なにか良い事があるとすぐに帽子を買う。僕にもたくさんプレゼントをしてくれた。ボルサリーノとかクリスティーズとか安物スーツぐらいは買える高級品だ。どこからこんなお金が出るんだろう?Ahena New Yok,JACQUES LE CORRE PARISなんてブランドのお帽子を君は知っているか?金色と黒のストローハットだが、こんなお帽子を被った長身の美女がクラウンやプリウスから降り立ったらそれは場違いな違和感の塊だろうと僕は思う。美しさの全てがブチコワシになる。だからジャガーとかメルセデスとかエレガントな馬しか僕には選択肢がないのだ。だってお姫様の馬車なんだからしかたがない。日本人の標準体型でないために日本で買える服がほとんどない。Lではブカブカ、Mではつんつるてん。従ってヨーロッパもの以外には似合わないということにある。伊勢丹やバーニースにしか好きな服は売っていない。しかもシックなお洋服が好きだから結果的にはとてもお高い。女優が着るような服だからゼロが一つ二つ多いのだ。だから都会の生活がなくなるときっと困るんだろうと思う。時々ユークスというサイトで海外ものを「お取り寄せ」して間に合わせてるようだ。3−4日で届くなら、どこに住んでいても便利だから、僕も年に数回使うのだが、ネット社会の発達はライフスタイルを劇的に実際変えている。箱根の山頂でこんな便利な暮らしが出来るのなんて今はなんて幸せな時代だろう。こんなに良い時代に偶然生まれたのだから、ちゃっかりとその恩恵だけ受けて、悪い部分は排除して生活したらステキじゃない?というのが僕の毎日の生活だ。だから朝、猫の足齧りの目覚ましで起きると風呂の追い炊きボタンをまず押すことから僕の毎日が始まる。電磁ポットで湯を沸かし、ミルクをチンで加熱してとっておきののカフェオレで始まる毎日だ。コーヒーはcup of exellenceの最上級の豆ばかりのブレンドだ。これも北海道の早川コーヒーからのお取り寄せである。「ゲイシャ種の豆」を飲んだ事がある人は少ないだろう。銀座なら1杯3000円のコーヒー豆だが、僕は毎日4杯は大抵飲んでいる。多分自分で落とせばきっと300円ぐらいしかしないと思うが。今朝はdominique saibron のパンオショコラとクロワッサンを暖めて食べた。昨日新宿で買ったものだ。粉がやはりフランスものは良い。風呂場からは駿河湾の背景にメタセコイアの緑が若々しい。午前中に入る温泉は寝ぼけた身体をさらにゆるりと解して、「どうでも良い一日」の始まりを告げる儀式だから、すべての動作がゆっくりとなる。「何もしない一日」がまた1ページ増えるという繰り返し。ブログはその日記のようなものなんだろう。それを憧れる人たちが増えているのがきっと今の時代なのだろう。凡人たちのすべての夢がここにはある。「自由で豊かな暮らし。」
 だからマダムも僕も「好きな事」しかしないし、彼女はバナナがいつもなっているような環境に住んでいた遺伝子が強く残っている。未来を無条件に楽天的に肯定する強い希望がそこにはあるのだ。一方の僕はきっと大陸の血筋だ。「狩り」をして獲物を仕留めることに無上の喜びを感じる騎馬民族。きっと匈奴の血だろう。住居なんていつでもたたんで移動するテントで十分な簡素な暮らし。ノマドライフ!豪邸とかお城とか都市の城壁とか「農耕文化」としての蓄積の集合体を見ると、どうやって火をつけてあぶり出し強奪し殺戮し圧倒するかばかりを考えているそんな物騒な思考の男である。だから移動すること自体が思考そのものであり、現実には記号の移動(相場)が生き方を表象する世界に住んでいる。汗血馬と狩りの暮らし。大振りなメルセデスやジャガーはそんな僕の馬なのだ。
 6/12は実は僕の59歳の誕生日だった。マダムはよほど僕に会いたかったのだろうと思う。仕事の後、お店の前の板張りの床が雨で濡れて滑ってコンクリート壁に頭を打って出血失神した。たまたま通りかかってくれた人が救急車を呼んでくれて脳外科に運び込んだ。そんなわけで僕のブログは12日に穴が空いたというわけだ。彼女の欲望はこんなに強いのだから、そんな時には汗血馬は力の限り走る。風雨で50メートルの視界しかない深夜の東名は大型トラックが90キロでダラダラ走るが、メルセデスは140キロで彼らをぶち抜いて突進する。雨の路面をしっかりと噛むタイアは流れない。良い馬は役にたつ。良い道具と同じ事だ。意思を力に変えるために必要なもの。そんな僕のノマドライフだ。
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