役割の演じかたというのをこの年になって少しは考えるようになったのは人様のブログを拝見する機会が増えたせいだろう。ブログ友達のベトナムさんとかハルトモさん、ひよこちゃんとかアメーバ君とか乳酸菌君とかいろいろ知り合いになって実に刺激になるから、「痴呆」になっている暇がない.(笑)自分の子供のような年齢の後輩たちの株に関する疑問、質問にはなるべく誠実に答えないように(答えなど自分で見つけるものだから)している。それが彼らの上達に一番良いと思うから。僕はすぐに筆が滑るので昔から有名だ。余計な一言が多いのだ。こんな僕は実は若い頃はジャックケルヤックのような小説家になりたいなあと思っていたのだが、親父が「文学部はいかん、それ以外の学部でないと学費は出さん」といったのでしかたなく商学部という所に言った。どこに行こうと本人が本気でなるつもりなら関係ないと思うが、それは大人になってやっとわかることであって、若造の頃にはやはりわからないものだ。それでも本が好きで、しかも純文学が好きで、海外の小説の翻訳本を中心にたくさんの本を読んで来た。本屋の息子という環境が作用したのかもしれないし、両親が短歌の同人雑誌を発刊していたせいかもしれない。「歌詠み」は貴族趣味だから、貧乏な我が家のような家には本来不釣り合いな趣味なのだが、それでも忙しい仕事の合間に、母は新聞の広告チラシの裏に結構ステキな短歌をいくつも書いていた記憶が有る。僕は母に溺愛された典型的なマザコン男で、いつも女の人にすぐに甘える悪い体質があると自覚はしているが直らない。刷り込みというのは恐ろしいものではあるね。母のための勉強とか母のための成功とか、、。母が妻に変わっただけのことで今もそういう依存体質で欲望を誰かに委譲しないと自分が自分からは動かない他動的な愚図になっちゃったのね。
小売店は忙しい。僕は実はもっと優雅な金持ちのほうが良かった、仕事もしないで毎日遊んで暮らすキリギリスのような暮らしが良いなあ。たまに本を書いて、その印税で生きて、様々な国に旅をしてあの「パタゴニア」を書いて死んだブルース チャトウィンのような人生がステキだと思った。あるいはフィツジェラルドも有りかな?とも思った。フィツジェラルドのほうがまだ可能性があるかと思ったのは「相場」が頭にあったからだ。文学で食うのは「大衆に当てる」という部分が肝だが、相場はそうではない。大衆と逆にやればきっと当たる、相場師の偉人伝なんか読むとなんとなくそう思ったからだ。少年の空想はかわいいね。
近藤紡という証券史に残るような超大物相場師がかっていた。死んだ時には2000億の資産を残したといわれる大物で、政府や経済界の重鎮が葬儀に並んだような関西の売り方の仕手だ。牛ちゃんで有名な獅子文六の『大番」の主人公のモデル、佐藤和三郎は合同証券社長を辞めてから観光業に進出して箱根の「強羅歓談」を宮家から買って改築し、日本一といわれる和風庭園の旅館をやっている。(今はご子息の経営だと思う)つい昨年そこで昼飯を食って来たが、良い建物と庭ではある。負け惜しみなんだろうが、このような巨大な資産を相場師の大物たちは残すのだが、それらを僕は見て「欲しい!」とは正直な気持ち「露ほども思わない自分」がいるのだ。たぶんそういう欲望の現実的な形がきっと「文学的でない=ナラティブでない」という情緒的な理由からなんだろうと思う。無論彼らのような実力も資金も僕にはないのだが、仮にそれがあったにしろ、「俺ならこんなつまらんこんなことやらんね」と思う。それよりも人里離れた山の上で「ヒラヒラ自分勝手に好きな事をして野垂死にするような自分のほうが数段高級な気がする」という強い思いがあるのはなぜだろう?きっと価値観の軸が異なるからだろう。逃走線=ジルドルーズではないか、資本主義という避けられない環境にあって、積分的な生き方への反発ということかもしれない。かってアルチュールランボーがマラルメの恋人として彗星のごとくフランス文壇に登場して世界を変えたように、そして数年後突如蒸発してアフリカで商人を始めてその後 一切の詩を書くのを辞めて野垂死にしたような生き方がカッコイイ!と青年時代に思ったからだろうか?
ハルトモさんが「美学」ということをよく書かれる。彼は僕のテキストでいう所の職業的相場師というのとは少し異なる「勝負師」というのにきっと近いだろう。数年に一度のチャンスにしっかりと出動してちゃっかりと利食い、あとは休んでいる。まさに「達人」のやり方で、業界用語では「リターンリバーサル」を暴落時のみ行うイベントドリブンの定番手法だが、ご本人はそんな言葉もあまり興味が無いからご存知ないのだろうと思う。彼の美学とは、ゆとりの出た自分の人生の中で、自分と同じような偶然から恵まれない境遇に追い込まれてしまったかっての自分と同じような子供たちを少しでも助けたいという愛が動機である。「愛は地球を救う」だ。
一見強面で偉そうな言葉尻で「手は腰」の偉いサンみたいな格好をつけるのはきっと彼なりの照れ隠しなんだろうなあと茶化すのが僕の趣味となった。(御免なさい、不真面目な性格で)こういう自分の役割を自分できちんと決めてそれを演じるというような人生が、具体的な人生のレイトスタイルであると言う事を大江健三郎がかって書いていたが、自分の行動や言語などを通じて自分が過去の人類の得てきた知性なり知恵也を後の人たちに伝えることでそれがいくらかのアレンジメントを個人の中で変成され、新しい時代の新しい知性や知恵となって継承されていくという壮大なナレッジの渦となっていく。いくらたくさんお金儲けを成功させてみたことろで、僕たちは棺桶に入る時には「良かったね、俺の人生」という満足感以外は持ち込めないのだから、そのために自分の気持ちに正直に生きるというただそれだけの事をすれば「自分也の幸福な生き方」が出来るんだろうと僕は個人的には今思うのね。だから「美しい」ということに結構拘るのは、そういう種類の人間だろうと思う。ベトナムさんの面食いなんて典型ですね、そのためならカブトムシだのサソリだのを食うし、ゲロはいても空を飛ぶとか大バ○の類いですが、「そんなの関係ない!俺の美学なんだ」ということなんですきっと。だから僕も自分なりに背伸びなんかしないで毎日、お山の上で年寄りの猫と一緒に、便所掃除とかマダムのパンツの洗濯とかアイロン掛けとかカレー作りとか、今まで坊ちゃんで一度もした事もなかったような「家事」をすることで結構楽しい暮らしなんです。お金なんてホント必要ありません。だって何も売ってないんです欲しいもの。だって何も無いんです欲しいもの自体がもう。それでもベトナムさんと同じでね、歯磨きと洗顔と同じ習慣としての「グラフと場帳」は書きますよ。しないと「気持ちが悪い」のね。そんなもんです僕らの暮らしの美学は、、、。 |
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